天心苑と重生の時代
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私が神様との一問一答と神様の指示を頂いて個人として発信しているものです。
天の父母様聖会の会員のみを対象にした内容です。
内容と文章についてはすべて私の責任です。教会で認定された公式見解ではないことを理解したうえでお読みください。
信仰的時代が終わり愛を実感して進撃する時
入宮式以前は神様と真の父母様を信じて従うという信仰者の時代でした。しかし、入宮式後は時代がはっきり転換しました。
信仰で歩む必要がないのです。神様と真の父母様を父母として愛を実感して生きる家庭時代に入りました。家庭で父母を信仰する家庭は不自然な家庭です。
家庭は四大心情を実感して生きる所です。愛の感触をしっかり感じて生きる所です。入宮式後の時代は天の父母様の愛、お父様の愛、お母様の愛を明確に体感できる時代なのです。
今回はそのテーマを中心にお伝えできたらと思います。
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「天の父母様と真の父母様を恋焦がれる生活」
天の父母様は創世前に「私」を死ぬほど好きだという心情に至るまで精誠を投入されました。
このため本然の人間は本然のものに自然に情が流れるようになっています。
これが堕落によって壊れてしまいました。
サタンの愛によって再創造された堕落人間は、サタン世界の人間や文化に自然に情が流れるようになってしまいました。サタン的な美に惹かれるのです。堕落人間はサタン文化世界であるこの世が好きなのです。
これが恋愛の世界になると心中するまでになったりします。これはサタンの愛の頂点です。非原理的な愛でも頂点になると死んでもいいという心にまで至ります。死んでも幸せだというほどまでに恋焦がれるのです。
堕落人間の愛の感性は、原理的なものに対しては、愛ではなく我知らず憎しみが湧いてくるのです。私たちが迫害される大きな理由がここにあると思います。
この愛の感性が堕落性の最たるものです。この堕落性的愛の感性が私たちの中でもくすぶっています。それで天の父母様が好きだ、真のお母様が好きだ、真のお父様が好きだという情が高まりにくいのです。
愛の感性を再創造する必要があります。創造は精誠の投入のよってなされます。このため天の父母様、お父様、お母様に向かって精誠を投入する事が何よりも大事な事なのです。その中心基地が天心苑徹夜精誠祈祷だと思います。
愛の感性が再創造されるに従って、
天の父母様が好きだ!
お母様が好きだ!
お父様が好きだ!
という思いが強くなっていきます。
精誠祈祷を熱心にすればするほど本然の愛に近づきます。
天の父母様が死ぬほど好きな人、真の父母様が死ぬほど好きな人は本然的な人です。一番幸せな人です。
天の父母様、お父様、お母様を恋焦がれる生活が侍義生活の本質だと思います。心が天の父母様と真の父母様に占領される生活です。恋しくて、恋しくて心ここにあらずという状態です。これを目指したくないですか?
このように恋焦がれる心情は、私が思うより先に天の父母様、真の父母様が私に対してなしてくださっています。
天の父母様、真の父母様は私のことに恋焦がれておられます。これが絶対服従の本質だと思います。
天の父母様と真の父母様を恋焦がれる生活を目指しましょう!
その次に相対者を恋焦がれる生活です。永遠に恋愛状態です。
本然の世界は恋焦がれる世界だと思います。空気までも愛の空気になります。
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「お母様への出国禁止命令」
今日の苑長はとても深刻でした。
お母様が裁判所から出国禁止の命令を受けておられることはご存知の方が多いと思います。
以前に問題があって役職を外された幹部が、当時行った大統領夫人への政権幹部を介しての贈り物が、政権への贈賄に当たる可能性があるため、それがお母様の指示ではないかという嫌疑がかかったのです。
そのような権謀術数のような発想はお母様には一切ありません。真の愛の世界は、たくらみやはかりごとは別世界です。司法当局から告発されるような影は一切ないのです。
しかし問題は韓国の司法当局の愚かさではありません。
御旨を進めるためには真の愛による犠牲が必要です。お父様の聖和の時がそうでした。お父様は聖和される少し前のまだ病が深刻でない時に天の父母様と相談されたという事が伝わっています。
この時にお父様は自分の命を捧げるので基元節を実現させてくださいと談判されたと推測されます。それで最後の時、お母様は植物状態になられたお父様の生命維持装置を外してくれるように医者に言われたのです。
今回の司法当局のお母様への対応はこの世でありがちなことのように見えますが、事実はお母様が南北統一を実現するためにご自分を打つようにお父様と天の父母様に談判祈願されたのではないかと推測します。お母様は天の父母様とお父様の願いを実現することにいつも命をかけておられます。
もしそうなら私たちはお父様を支える事ができず死の道を行かせてしまったという苦い思いが再現されてしまうかもしれません。
お父様の時もまさか聖和されるとは誰も思っていなかったのです。
お母様の場合は死の道を行かれることはないと思いたいですが、もし拘置や留置されるようなことになれば私たちにとって永遠の後悔となります。お母様はご自分が獄に入れられて摂理が進むなら、例え獄中死しても構わないと思われる方です。
お母様はお身体が以前よりかなり弱ってきておられます。拘置所や留置所は命にかかわる環境だと思います。
お父様の聖和の原因は私たちの不信仰と足りなさでした。今回も正にそれです。私たちの不信仰と足りなさを背負われたのです。私たちの精誠では南北統一するには余りに足りないのです。
しかしこれは私たちにとって重要な挽回の機会だという面があります。お母様の侍墓路程の時は、食口は誰一人として一緒に侍墓精誠を捧げませんでした。それでお母様が、私一人残りましたと言われたのです。誰も同参する者がいなかったのです。
今回はその不孝、不忠の蕩減ができる絶好の機会かもしれません。
ご自身を犠牲にして生きている間に南北統一を実現しようとなさるお母様。
お母様がこれ以上犠牲の道を行かれなくても良いようにして差し上げるのが私たちの役目です。
私たちのお母様への愛がもっと燃え上がる必要があります。
お母様と共に何としても南北統一を成し遂げる必要があります。
ある人を打つか打たないかはサタンが決めることはできません。必ず神様の決裁が必要です。
入宮式までして差し上げた神人一体のお母様を打つように神様が決裁されるはずもないのです。
するとお母様がお父様と天の父母様に命懸けで「私を打って南北統一をなし遂げてください」と懇願されたこと以外にはあり得ないのです。私たちの今の精誠では南北統一を実現するには不十分だと思われたのです。
子女の足りなさをいつもお母様が代わりに背負われました。3年侍墓精誠、7カ国、7教団、大陸復帰も皆そうです。
その日になるべき事がならないと眠れないお母様です。それほど思いが強烈なお母様です。お父様に対しても天の父母様に対しても一歩も引かれないお方です。
それで断腸の思いで天の父母様が決裁されたのです。
その結果、検察がお母様を打とうとしています。真実が分からない人はこの世的な目で見る事でしょう。
私たちはお父様が聖和に向かわれる時にそんな事が起きるとは思っていなかったので、それを防ぐ道の模索もしませんでした。
今回はお父様が聖和に向かおうと決意された時点と同じ時点をお母様を対象に迎えていると思います。
イエス様がゲッセマネで三弟子が眠ってしまい十字架を決意された時点と同じです。
入宮式が終わったので後は天国に向かうだけだという私の安易な気持ちは打ち砕かれました。
私たちが考える以上に南北統一は決戦地だという事です。
何日か前に苑長がお父様の御言を伝えられました。それは天心苑祈祷会は南北統一のためにあるという内容でした。
38度線は天国実現に向かう道の最後のエリコ城です。
どうするのが良いのか、皆様も祈り求めてくださいますようお願いします。
「この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。」 「宇宙の根本」 第二章 人間創造と愛の理想の完成 五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる
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「お母様と一体化するための王道」
天心苑時代になってその人の信仰基準、心霊基準を測る物差しが変わりました。それは原理の理解度ではなく愛の体験度です。
それに伴い、み言の柱が原理講論から真の父母論に変わりました。
具体的には
天の父母様の愛をどれだけ感じているか?
真のお父様の愛をどれだけ感じているか?
真のお母様の愛をどれだけ感じているか?
これでその人の心霊基準も分かるし、自分の心霊基準も分かります。
愛を感じているかどうかではなく、愛せるかどうかではないかと思われる方もいると思いますが、どんな人でも愛を感じた分しか愛することが出来ないのです。
自分が生まれた家庭においてどれだけ愛を受けたかは重要ですが、その愛の強さは本然には及びません。真の愛の根源である天の父母様と真の父母様の強い愛を受けないと本然の愛には近づけません。
自分がどれだけ神様と真の父母様の愛を感じているかは、次の言葉を叫んでみると分かります。人のいないところで是非やってみてください。
天の父母様に命を捧げます!
お父様に命を捧げます!
お母様に命を捧げます!
天の父母様と真の父母様に対する愛の感触が弱い場合は叫ぶこともできないと思います。これはダメということではなく成長途上だということです。
叫べる人はその心の反応を感じてください。
叫べるけど苦しい人。
叫ぶと何となくよろこびを感じる人。
叫ぶとうれしくて涙が出るほどの人。
お母様と一つになるにはどうすれば良いかは私たち全員の課題です。
お母様と一つになるには自分が残っていてはできません。自分がある分、お母様とは微妙なずれが生じます。それではお母様のお腹には入れません。
母のお腹にいる胎児の姿は絶対服従の姿です。
『絶対服従は、自分という意識がありません。相対としての存在意識だけなのです。』「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従
『生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。』「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天
絶対服従の究極の姿が自分の命を捧げる心情です。それは何が何でも捧げるではだめなのです。喜んで捧げるという心情で初めて天が取りうる供え物になる世界です。
私たちはそれぞれ願いがあり、それを祈願書に書いたり、天心苑で祈ったりします。それは原理的に素晴らしい内容だと思います。ただそこにはまだ自分が残っています。
自分の願いが叶わなくてもかまわない、その願いが叶う喜びよりも、お母様に命を捧げる方が喜びが大きいという世界だと思います。
最終的にはお母様に命を捧げることが自分の願いとなります。
これこそがお母様と一つになる道だと思います。これは孝進様、興進様の心情世界です。
孝進様、興進様はお母様の実子だからできるだろうが、自分たちに難しい、という思いが出てくるかもしれません。
しかしお母様は私たち一人一人を実子として感じ、いつも愛を注いでおられます。
お写真や動画を見たり、み言や自叙伝を訓読したりして祈祷すればその愛を感じることが出来ます。
私もチャレンジ中です。
お母様に喜んで命を捧げるほどにお母様の愛を感じる。
これがポイントだと思います。
神様と父母様の愛を感じることが天心苑時代の勝利者の出発点だと思います。
何度も繰り返しますが、愛を感じないと愛することはできません。
天国では、好きでたまらないので喜んで命を捧げたいというのは特別なことではなく普通のことなのです。
お母様が好きでたまらなくて、命を捧げたい気持ちになるほどにお母様の愛を感じること、これがお母様を一つになる秘訣だと思います。
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「お母様と一体化するための奥義」
祈願書を捧げる時に、祈願書に書いた内容よりも差し迫ったより重要な事がある場合は、そちらを優先して叶うようにされるということは皆様もお聞きになっていると思います。
私たちが捧げる天心苑祈祷会での精誠祈祷も自分の願いを握って捧げておられると思います。
この場合、愛は与えて忘れなさいという精神が必要だと思います。つまり捧げた精誠は忘れてしまうということです。願った内容を実現するために一生懸命に祈ったとしても、その精誠を捧げた後は自分の手を離れるということです。これは自分の願いと捧げた精誠が分離しても良いという精神です。
お父様も孝進様も何度も強調しておられますが、絶対善霊が地上に協助するためには地上人の捧げる精誠がエネルギー源となるのです。
そしてお父様や孝進様、興進様、大母様は今どの摂理が一番大事であり緊急なのかよくご存知です。
つまり自分が捧げた精誠が自分の願いの実現ではなく、より重要な、あるいはより緊急なことに用いられる事があるのです。
ですから精誠を捧げる時に、私は叶えたい願いがありますが、私の捧げる精誠はご自由にお使いくださいという姿勢が大事だと思います。
そんな気持ちを込めて精誠を捧げる人がいるならば、天は必ず記憶されます。そして、時がくれば私の願いは必ず実現してくださいます。
それは自分の命を捧げるような祈りをする場合も同じです。天に命を捧げるという気持ちは巨大な精誠となります。絶対に成し遂げたい願いがある時に、命を捧げますので、なにとぞ願いを叶えてくださいという談判祈祷になると思います。
しかしこの場合も、捧げる精誠は公的です。捧げる精誠を天の御心に叶う方向で用いてくださいという祈祷を加える事が大事だと思います。
そのような祈祷は余りにも崇高です。
天が感動してくださるような歩みをしたいものです。
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「天心に従うのが幸福か、私心に従うのが幸福か」
人類始祖に与えられた御言を守るのか、守らないのかによって二つの方向性が生まれました。
一つは御言を死守しようという方向性と、もう一つはエバが思ったように神のように目が開けたいという自分の思いを優先する方向性です。
この世界はルーシェルとエバのように自分の思いを全面肯定する世界です。自分の願いを最優先する人間同士は当然ぶつかります。このためこの世は対立と戦争が起こる必然性を持っています。
自分の思いを最優先して幸せになろうとしますが、待っているのは不幸です。
多くの人の指針となっている成功哲学や成功者の生涯などは、自分の願いを最優先で生きるべきだという考え方を内包しています。それは結果的に人々の分裂と対立を生み出します。
人類始祖が御言を守ることは自分の思いを否定し、天の思いを全面肯定する世界です。このような考え方は一部の宗教的熱狂の中でのみ見つけることができるものでした。
真の父母様は誰もやったことがないほどに諸分野で活動されました。この世の人々はこれを見て御父母様が自分の思いでなしたと思っています。しかし実際は天の父母様の御心に従われただけなのです。天の御心絶対肯定です。
自分の思いが叶わなければ何処に幸福があるのか、というのがこの世の人々の考え方です。ここから自分の人生を宗教に捧げるような人は変人、奇人、異常者と映るのです。人間は自分が理解できないことは排除しようとします。宗教迫害が起こる一因です。
ほとんどの人間は自分の願いが叶うことが幸せなことであり、それが天国だと考えます。私たちもそのように考える堕落性を持っています。
真の父母様も自分の願いや個人的願いは当然持っておられましたがその扉を全部閉めて御心のみに生きられました。
それで不幸を耐え忍んでこられたのでしょうか?
苦痛だけの人生だったのでしょうか?
違います。この世の誰よりも深くて強い幸福を感じて生きてこられたのが真の父母様なのです。これが真の父母様の真実です。
人間は神様の体として創造されているので神様の御心通りに生きる時に最高の幸福を感じるようにできています。
天の御心が何であるかを教えてくださるのが真の父母様の御言です。そのように生きるのは自分の願いの扉を閉じることになる場合もあります。
しかしそれが一番幸福になる道です。
私たちは堕落性を含んだ自分の願いや思いがいつも湧いてきます。それを叶えたい思いもとても強いのです。それが堕落性だと気付く必要があります。
また、私たちは堕落性のスパイスがかかった自分の願いなのに、これこそ天の願いだと思い込むような巧妙なすり替えが得意です。これがとても厄介です。
天の御心が何であるのかをいつも尋ねる生活が必要だと思います。いつも心を清く保ち天の願いに共鳴できる心の器を用意する必要があると思います。
私たちの心の奥でしつこく燃えている自己中心の堕落性が侵入しないようにするには、いつも命を天に捧げたいという愛の気持ちが最良の処方箋だと思います。
絶対服従の人生こそ一番幸せな人生なのです。神様が愛と幸福の根源だからです。
絶対服従は蕩減を超えるために必要なのではありません。
神様の体として創造された人間が取るべき本然の心情姿勢です。
私たちの信仰生活の指針である絶対服従は訓練期間だけに必要なのではなく天国人の基本なのです。
神様と真の父母様を離れた幸福などないのです。
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「命を捧げると蕩減は一瞬で終わる」
今日の苑長の御言の中で、お母様が「まだ質的な変化が起きないのですか?祈祷が足りません」と言われたと紹介されました。
これは人格が明らかに変わるような変化のことです。
苑長も天心苑祈祷会に何回参加しても、決死の祈祷をしないと質的な変化は起きないと言っておられました。
最初の質的変化は堕落の時に起きました。エバはサタンの愛に溺れて死んでもいいと思って堕落しました。創造本性という神性がサタンの愛によって質的な変化を起こしてサタン性に変わったのです。これが堕落性本性です。
復帰は堕落と逆の経路でなされるので、神様と真の父母様を愛する愛が高まって死んでもいいという心情に至ることが絶対に必要です。
人類の蕩減の道を行かれた真の父母様は生涯を通して神様のために喜んで命を捧げる道を行かれました。蕩減するのに全人生が必要でした。
しかし私たち子女はわずかな条件で短期間で蕩減できるような道が用意されています。これは余りに大きな恩恵なのですが、御父母と同じ道を行く事には変わりありません。
それは、神様と真の父母様を愛するが故に自分の命を捧げるという事です。
この愛の門は必ず通らなければなりません。
イエス様の十字架の時の右側の強盗は死刑になるだけの大罪を犯していました。殺人もしたと思います。
しかし自分が死にゆく中でイエス様を愛したのです。この死を超える愛によって一瞬で蕩減を超えたのです。ここで質的な変化が起こったのです。
右側の強盗はそれまで莫大にあった讒訴条件がなくなっただけではありませんでした。楽園に行くに相応しい人格の変化が起こったのです。
完全ではありませんでしたが、堕落性が消え創造本性が復帰されたのです。それは一瞬のできごとです。命を捧げると蕩減は一瞬で終わります。
私たちも右側の強盗が行った道を必ず行かなくてはなりません。それは実際に死ぬということではなくその心情に達するということです。
神様と真の父母を愛しているので死んでもいいという心情です。
死線を超えて堕落したので、死線を超えないと復帰できないのです。命への執着を必ず超える必要があります。
何によって超えるか?
神様と真の父母様への愛によって超えるのです。
本然の自分がそこで復帰されます。それが質的な変化です。本当に自分に戻るためには死線を超えることが絶対に必要なのです。これは宿命です。
愛が高まれば恐怖は消え去ります。
神様と真の父母様は私たちが人生を捧げても構わないと思うだけの愛を与えてくださいました。私たちが命を捧げやすいように整えてくださいました。
祈りを深め、強めて、神様と真の父母様の愛を確認することで死を超えることができるのです。
ですから、
神様、あなたは私を死ぬほど愛しておられますか?
お父様、私を死ぬほど愛しておられますか?
お母様、私を死ぬほど愛しておられますか?
という真剣な祈祷をして尋ねる必要があります。
それが確認できたなら、自動的に死を超えるのです。
こうなれば質的変化は必然となります。
いつかはしなければいけないのですから、早くやるのに限ります。そして、早く質的変化を体感しましょう!
私の心が変われば体も変わって健康になります。
また家庭が変わり、国が変わり世界が変わります。
これが復帰の正道です。
2025.6.7
「信仰的時代が終わり愛を実感して進撃する時が来ました!」
今日、苑長は「お母様が、この地の主人である天の父母様、今日から思う存分子女たちを抱いて愛して下さいと宣布されたので、その愛がすでに私たちのそばに来ている。心の門を開けば今夜その愛を感じて、これが天の父母様の愛だ、これが本然の喜びだと感じて、夜通し寝なくても嬉しいその愛を感じるようになる」というみ言を語られました。
私たちは今まで、天の父母様、お父様、お母様の「私」対する愛を敢えて確認するようなことはしてこなかったと思います。
天の父母様、お父様、お母様は私を愛してくださっているに違いないという信仰を抱いてきたと思います。
これは素晴らしい信仰姿勢ですが、確信が信仰次元なので実感には至っていません。
今日のイチゴは美味しいに違いないと信じるのと、実際イチゴを食べてみて「美味しい!」という実感とは天地の差があります。
黄金期を迎えている現在、私たちは人生で最大の勝負の時を迎えています。この時に私たちの確信の度合いが、信仰なのか実感なのかによって出てくる結果は天地の差になります。信仰的確信よりも強いのは愛の実感です。
愛の実感がないと、神様と真の父母様のみ旨成就のために命を懸けることが出来ません。
ですから神様と真の父母様が本当に私を愛してくださっているのかを体感する必要があるのです。受動的にみ旨を一生懸命やっていれば、いつかは必ず神様と真の父母様の愛を実感するような役事が起こるだろうでは、役事を待つ間に黄金期が終わってしまいます。
ですから今は待つのではなく自分から積極的に確かめに行く時です。直接聞いてみる時です。天の父母様は私の傍におられるのに直接お聞きするのに何の問題があるでしょうか。
それどころか、天の父母様は聞いてくれるのを待っておられます。
み旨の道を歩んできた自分の道を振り返ると、天に対してあまりにも申し訳なく足りないことが思い浮かびます。祈りの中でそれを悔い改めたうえで天の父母様に直接尋ねるのです。
「それでも私を愛してくださいますか?」
「天の父母様は、ご自分の命よりも私が大事ですか?」
「私のために命を懸けてくださいますか?」
そうすれば必ず応答があるのです。心に情が流れてくるのを感じることが出来ます。真剣であれば真剣であるほど強い情的応答があります。
天の父母様は絶対的な父母なので子女の真剣な問いかけを聞き流すことはできません。
子女が一番核心的な質問をしてくるのです。無視できるはずはないのです。
何度お聞きしても良いのです。毎日問いかけ、毎日答えを欲しても良いのです。
天の父母様から流れてくる情的な答えを確認するたびに天の父母様への愛は強くなります。そして自然に天の父母様のために命を捧げたい心情に至ります。
これを真のお父様に対しても行ってください。
これを真のお母様に対しても行ってください。
お父様とお母様がご自分の命以上に私を愛しておられるのかお聞きするのです。
そうすれば「そうだ!」という情的な答えが返ってきます。
何度お聞きしても良いのです。
毎日問いかけ、毎日答えを欲しても良いのです。
真の父母様から流れてくる情的な答えを確認するたびに真の父母様への愛は強くなります。そして自然に真の父母様のために命を捧げたい心情に至ります。
信仰的な道と比べて実感の道は結果が別次元になります。
これが黄金期において真の勝利者となる道だと確信します。
命を超える愛より強いものはないのです。
死を恐れない軍隊は最強の軍隊です。