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神様の本当の恨と無限なる父母の愛

2025.1.19

神様の恨の問題は私たちと神様の間に深い谷として横たわっていて神様に近づくのに妨げる場合があります。この問題を真理的にも神霊的にもクリアしないと神様の核心である真の愛にもたどり着けなくなる可能性があります。私はこの問題の解答に長い間到達できないでいました。

 

さて、イスラエル修道院での金百文牧師とお父様との話が「真の父母様の生涯路程2」にあります。

 

金百文は、先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしましたが、彼はその真の意味が分かりませんでした。そして、先生に一言半句尋ねることもしませんでした。しかし先生は、そのことを自ら進んで言うことができませんでした。彼は、すべてのことを悟るために、先生に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした。・・・

金百文が受け入れようが受け入れまいが、先生としては忠告して清算しなくては、心情的な再出発をすることができませんでした。それで先生は、彼に十八枚の手紙を書いたのですが、彼はそれをみな破いてしまったのです。その後、先生は責任をみな果たした立場で、平壌へ出発しました。この日がなくては、平壌に行くことはできませんでした。

 

この部分は真の父母と信徒の責任分担の関係が良く分かる箇所でもあります。真の父母様は縦的責任を果たされますが、横的責任分担には干渉できないのです。

み言を探求していく時も同じ部分があることを強く感じます。真の父母様はすべてを事細かに説明されることはされません。必ず子女の責任分担で探求する部分が残っているのです。それどころか煙幕のように探るのを妨げるかのような記述があるのです。

それは真の父母様が神のみ言である聖書から原理を探求する時に感じられたことでもあります。

 

イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。「真の神様」第二章 神様と創造の役事 五 神様が万物世界を作られた目的 3自然は愛の理想を教えてくれる教材

 

このように困難を極めるわけではありませんが、私たちにもみ言を追求する時に分からない内容が出てきます。その代表が神様の恨とは何なのかという問題です。

韓国語における恨の定義を調べると、発散できず,内にこもってしこりをなす情緒の状態をさす。怨恨,痛恨,悔恨、悲哀などの意味も含まれる、とあります。

み言を見ると恨という表現とともに怨讐や怨恨という言葉が多く使われています。

怨讐・・・恨んで敵(かたき)とすること。

怨恨・・・うらむこと。また、深いうらみの心。内攻的にうっ積した不満や憎悪は,相手に対する怨恨ないし復讐願望となって意識下に抑圧されている状態、とあります。

実際のみ言を見てみましょう。

 

アダムが堕落したでしょう? 悪魔が人類の真の先祖を殺してしまいました。一代のアダムが堕落することによって、神様の怨讐になってしまったのです。「真の父母」第八章  八大主体思想と「真の父母」宣布 二「真の父母」宣布 5 真の父母宣布は驚くべき事実 

 

人間という怨讐に対して神様が抱かれた心情をより具体的に説明されたみ言もあります。

 

堕落したアダムとエバを無にしてしまいたい心は切実でしたが、彼らを無にすれば、六日間でつくられた全被造世界の原則を無にすると同時に、永遠の基準まで無にしなければならない立場になり、永遠の主体であられる神様の実存まで侵害されざるを得ない立場になるので、これを知っていらっしゃる神様は、アダムとエバをもう一度救援する摂理を始められたのです。「天一国主人の生活」第一章 三 神様の愛の絶対対象は人類の先祖アダムとエバ

 

神様の人間に対する怨恨が、真の父母様さえも死んでも当然と言えるほど深いと思えるようなみ言もあります。

 

天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 六 神様の解怨と孝子の道 1.真のお父様が歩み来られた復帰の道

 

神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 六 神様の解怨と孝子の道 1.真のお父様が歩み来られた復帰の道

 

ここには愛の神様の姿はありません。ノアの時代に全人類を容赦なく水死させ、異民族を幼子に至るまで皆殺しにする恐ろしい殺戮の神様の姿です。

この強烈な怨恨の心情は神様のみならず真の父母様も強烈に持っておられたことを示すみ言もあります。

 

この者達、寄生虫という名前にぴったり合います。偽物を喜ぶこの者達! 統一教会の者はそのようなものが多いです。今粛清しなければなりません。

本当に怨恨をもった文総裁は、統一教会の遊んで食べて教会をむしり取って食べる食口を、ガソリンをかけて私の手で火をつけ様と思います。世の中を審判する前に、この者達を審判しなければならないのです。私が教えてあげた道理に一致しなければ、きれいに整備しなければならないでしょう。

「人間の生と霊魂の世界」 第二章 霊界はどのような所か  六 審判 2 真の御父母様は愛の統治法で審判

 

ここに示された神様と真の父母様の姿には愛の姿は微塵もなく強烈な裁き主の姿です。

これらのみ言の真意を解明できないと愛の神様と裁きの神様が同居する矛盾が生じます。

この疑問を解決するためのヒントの一つになるのが次のみ言です。

 

(アダムとエバは、神様が本当に願う真の人類の先祖、人類の真の父母にならなければならなかったのです。その真の父母の血族によって、私たち人類は生まれなければなりませんでした。歴史の出発から始まらなければならなかった人類の真の父母、その真の父母は、神様の栄光の実体として、人類の前には勝利的な永遠の実体として現れなければならなかったのです。それにもかかわらず、アダムとエバは、勝利的な実体として現れる事ができませんでした。)

これが、今までの悲しい歴史を成してきた怨恨の基台になったという事を、私たちはよく知っています。それによって天の法度を離れ、自らの実体を失ってしまい、神様の心情を蹂躙した私たち人間は、み言によって実体を取り戻し、心情の世界を取り戻す復帰の路程をたどってきているという事を、私たちはよく知っています。

「天一国主人の生活」第三章 神様と真の父母 一 真の父母は神様と人類の希望

 

恨と怨恨に満ちた様々の記述は人間がどれほど大きな苦痛を神様に与えたのかを明確にわからせるためのものだということです。真の父母様は神様と人間の関係が親子だという神様の声を聞いただけで一週間も泣き続けられました。それに比べて私たちは余りに鈍感なのです。それでそれを強く心情に響かせるために敢えて強い怨恨を持つ神様の姿を述べられたのです。それでも私たちはまだまだ鈍感で神様の苦痛が分からないのです。

人間が神様にしたことはこれ以上ないほどに強烈な心情蹂躙です。

ご自身の息子であり体であるアダムを奪われ、娘であり許嫁であるエバを蹂躙された神様でした。神様の三大祝福をサタンに奪われたので神様はサタンを三大祝福の基として祝福しなければなりませんでした。ヤコブを中心として家庭的メシヤのための基台を作ったころにはサタン側はエジプトなどの民族的規模を実現していました。モーセやヨシュアが民族的メシヤのための基台を作ったころにはサタン側はエジプト王国などの国家的規模を実現していました。共生共栄共義主義社会に先立って共産主義社会が出現しました。原理講論にはサタンが神様の摂理を先に知ってサタンの力でなし遂げたように見える記述がありますが、実際は神様がサタンを人間世界の基として長子として祝福された結果でした。愛する息子と娘を奪い人間を不幸のどん底に落としたサタンに仕え祝福するという屈辱的な道を行かれた神様でした。

 

神様は怨讐をたたき殺すのではなく、怨讐を愛したという条件と、怨讐であるサタンを、アダムに代わる立場に立つ人として愛したという条件を立てなければなりません。迫害を受けながら涙と血の汗にすべて打ち勝って、耐えに耐えて自然屈服させて、神様の愛を抱いて戻ってきて初めて祝福を受けることができるのです。そこでサタンは放してくれるのです。「罪と蕩減復帰」第三章 四 長子権勝利と父母権、王権復帰1.長子権復帰

 

人類始祖アダムとエバも堕落人間も神様の心情をこれでもかというほどに蹂躙しました。普通なら恨みの塊になっても当然なのです。全人類を百回、千回、億万回滅ぼしても気が晴れないほどの苦痛を与えた人類なのです。御父母様が私たちに分からせたかったのはそのことです。

悪逆無道なサタンと堕落人間による心情蹂躙に対する実際の神様の反応はどうだったのでしょうか?

 

真なる方は好きな者だけ好むのではなく、自分を殺せと言う怨讐までも好まなければなりません。彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真なる人です。分かりますか? もう真なる人が分かったでしょう?(はい!) 「真の父母」 第一章 「真の父母」とは 二 真の起源 1「真」とは

 

神様は上のみ言のような方です。真の父母様はそれが分かったので歴史を耐えて愛し続けてこられたお姿に涙が止まらなかったのです。

次のみ言が神様の本当の姿です。

 

愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです

「真の神様」第二章 神様と創造の役事  一 神様の創造の動機は愛 1創造の役事は完全投入

 

それでもやはり神様の恨とは何なのかという疑問は残ります。

これに対する答えは天心苑祈祷会で与えられました。

天地創造を為された動機に思いが行きました。

人間をこれ以上できないほどに素晴らしくしてあげたいという動機です。

このため人間一人一人と人間が生きる環境となる万物世界を造るための準備に無限に時間と無限の心情を注がれました。私たちの想像を遥かに超える父母の愛が動機なのです。

 

足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。「真の家庭」第八章 真なる父母の愛 一 何でも与えたいと思う父母の心(二〇-二○九)

 

この世の全ての法をみな変えてしまう事があったとしても、息子を救う事の出来る道が一つでもあるならばどのような冒険でも生命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。自分の体を打ち、自分の体を失ってでも自分を犠牲にしながら子供の為には死んでもかまわないというのが父母の心情です。「真の家庭」第八章 真なる父母の愛 一 何でも与えたいと思う父母の心

 

父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子・王女以上にしてあげたいのですが、それ以上してあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしてもこれだけしかできなくてすまない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。

それで父母の愛を好むのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りない事がないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りず、やりきれない思いこのようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属する事が出来るのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。「真の家庭」第八章 真なる父母の愛 一 何でも与えたいと思う父母の心(六〇-八四)

 

このようなみ言を見ると私たちは父母の愛について本当には良く分かっていないと痛感させられます。

こういった観点を心情に響かせると神様の恨が分かってきます。

神様の心の表面にはサタンや堕落人間に心情蹂躙された苦痛の記憶が残っています。しかし心の奥にあるのは父母として子女である人間を幸せにできていないという思いです。

神様の心の奥に積もっている恨は、子女を幸せにできていないという、やりきれない切ない思いです。

真の父母様の思いも同じです。

お父様が最後に死の道を行かれたのは、食口や人類に何もしてあげていないという父母の切なさです。与えることができる最後のものはご自分の命しかないという父母の愛です。

お母様の心情も同じです。実績をあげられない私たちを責める気持ちは微塵もないのです。すべてご自分の責任だと感じておられます。何とか一日も早く本然の幸せを知る子女にしてあげたいという父母の心情だけです。

このような意味で私たちが幸せにならない限り父母の恨が消えることはないのです。

 

神様は人間の中にお住まいになるために人間を創造されました。人間の側から見るとそうなのですが、神様から見ると神様が子女に与えることのできる最高のものは神様ご自身です。その最高の愛を与える行為が人間に中にお住まいになるということなのです。

こうして人間は単なる被造物から神様になるのです。

 

(神様の中にサタンや堕落人間から受けた心情蹂躙による恨がないとすれば蕩減復帰路程は必要ないのではないかと思われる方がいるかもしれません。神様が、私は被害は受けていないと言われたとしても、人間は神様の心情を蹂躙したことを償わなければ本心が納得しないのです。神様の子女だからです。堂々たる神様の子女となるためには蕩減復帰の道を行かなくては気が済まないのです。事実、真の父母様はその道を行かれ完全な蕩減復帰を成し遂げられました。)

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