潜在意識にある過去の悔い改めと個性完成への道
キリスト教の一般的な神観は、短く表現するならば「天にいますわれらの父(マタイによる福音書6章9節)」であり、「星の彼方の玉座にいましたもう神(ベートーベン交響曲第九番『合唱付』第4楽章 )」だといえると思います。
神様は何処におられるのかということは、信仰者が共通に求めてきた問題です。
天の玉座におられるというのは確かに一つの正解です。これがキリスト教の主流の神観です。しかし、キリスト教の神観はこれだけに留まりません。
コリント人への第一の手紙 3章16節には「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」とあります。聖書は、神様は信仰者の中に宿られると述べています。
これは「宿る神観」といえます。
「宿る」を辞書で調べてみると、「住みかとする」という意味もありますが、「旅で宿を取る」「宿屋に泊まる」「仮にある場所にとどまる」などの意味もあります。
イエス様なら前者の意味である神様が住みかとされる神の宮というのはぴったり来ますが、キリスト教歴史において、自分の内に一時的に神様を感じた聖徒はいたとしても、自分がイエス様のような不変の神の宮だと心から感じることはできませんでした。いくら篤実な聖徒でも、永遠不変の宮ではなく、一時的な仮の宮でした。
私たちも神様について証詞をする時、特定の場面での一時的な神様の働き、あるいは限定された時間内での役事について述べるのが通常でした。
そして現在、私たちの神観は「天の父母様」です。この神観における神様と人間の距離は歴史的に最も近いといえます。
この神様と私たちの距離はどの位近いのでしょうか?
それは、前章で述べましたようにあまりに近いのです。
森に霧があまねく立ち込めるように、神様が人間の内部にあまねく偏在されるという表現とも違います。
体がない神が体を持ちたくて人間を創造されたのです。
神様は、体はありませんが、性相に形があるように形はあります。それは人間と同じ形です。
神様は人間の肉体に直接入られるのではなく、より無形な意識に入られます。
人間の意識自体が人間の形と同じです。意識の中でも性相であり、一番深部にある潜在意識が神様の宮です。
これは神様が人間と同居するための永久的な座です。
この座は人間に持てるすべてを与え続け、人間に仕えるための神様の座です。
神様は、その座から人間の顕在意識に上ってくるクオリア、知情意の機能、愛する能力などの源泉としての役目を途切れることなくなされます。
これらの人間の意識の重要な働きが円滑に機能するのは、神様という源泉があるからです。その源泉である神様は私の中におられるのに、人間は全くそれに気づくことができませんでした。それらの機能は自分自身の能力だと思い込んでいたのです。
あらゆる学問を修め天才的な業績を残したとしても、自分のうちにおられる神様のことに気づかないとすれば根本的に無知ということになります。
*神様との同居がもたらす喜び
ここで重要なことは、人間の意識の中で神様が住まわれる場所が、構造として決まっているということです。私たち人間は初めから神様の住居付きの存在だということです。これは、それを知っていようが知っていまいが変えようがない現実です。
人間は青写真(ロゴス)の段階から神様の住まいとして構想されました。人間は結果的存在なので、これは変えることはできない宿命です。
人間は神様が永住される神殿として創造されました。器はその中身と同じ価値を持つというみ言にあるように、神様が人間の中に住まわれることで、人間の価値は神様と同じになります。「私」は、私という神殿の中に住まわれる神様の愛を独り占めする独り子、独り娘です。
これ以上の栄光の立場はありません。人間についてのこれ以上高い価値観はありません。
本来、心と体は、切り離そうにも切り離すことのできない一つのものでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。第四篇 真の人間 第一章 神様が創造された真の人間 第二節33 1991.8.27
真の愛は、女性から始まるのではなく、神様を通して、男性を通して来るのです。それ故に、女性に生命の種を植えようと、男性たちが女性を尋ね求めて歩くのです。女性は器です。完全に空の器です。空の器とは、その器に入っていくものと対等な価値をもつのです。
「天一国主人の生活」第一章 二 神様と真の父母と一体を成し遂げるための真の愛
それは紛れもない事実なのです。前述しましたように、神様は潜在意識におられて人間が意識活動をするのに必要なすべてを途切れることなく与えてくださいます。
それにもかかわらず主人としてふるまうことはされません。人間を意識の主人の位置に座らせ、自ら進んで人間の決定、選択、行動に従われます。先に行く「私」の後についてこられます。
万王の王の玉座におられる神様が、「私」に全てを与え、更に神様より素晴らしい存在になることを願いながら僕のように仕えてくださるのです。そして人間の決定や行動を心から信じ、喜びながらそのあとについてこられるのです。愛は流れなので落差が大きいほど流れは強くなります。
万王の王が「私」に僕のように従われる、これは人間にとってこれ以上ない愛の刺激です。
*万王の王、天の父母様の本当の意味
私たちは特に代表祈祷などにおいて、万王の王であられる天の父母様という言葉をよく使います。万王の王というのが権力の頂点を表すだけなら、神様は頂点におられ、人間はその下に属するという意味となり、神様と人間は永遠の上下関係だという感じを抱きかねません。
しかし万王の王の本質は万愛の王なのです。
また、天の父母様の頭に付く天という言葉の意味は何でしょうか?
天宙の中心にある尊き玉座という意味なのでしょうか?
祈祷するほとんどの人がそういう意味で使っていると思います。
もちろんそういう意味もあるのですが、本質はそうではありません。
天は私の中にあるのです。
皆様が神秘的な世界に入って、「神様、何処にいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。
「人間の生と霊魂の世界」第一章 人生の行くべき道 四 天国に入る秘訣 3.心に同化された生活をしなければならない
神様のおられるところが天です。そして神様は人間の中におられるのです。
ですから人間の中が天なのです。「私」の中が天なのです。
天宙の中心玉座も天であり、人間の中も天です。
それではどちらが中心的な天なのでしょうか?
それは人間の中の天です。
天宙の玉座におられて全知全能者として眺め、統べられる神様と、人間の体を着て妻を得、子女をもうけて愛の刺激に満ちた実体的な家庭生活を生きる神様と、どちらが幸せかは比べるべくもないのです。
(詳しくは「玉座の神様と人間としての神様」をご覧ください。)
*神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従の向かう先
神様は、人間が責任分担を成し遂げ、完成した後に初めて人間に仕え侍られるのではありません。
天地創造の当初あるいはそれ以前の構想段階から、将来創造する人間に侍ってこられました。
神様がこの世界を創造するとき、神様は、一輪の花を造るにも将来の美しい愛の相対を想像し、絶対信仰、絶対愛、絶対投入しながらも、それを忘れてしまわれたのです。未練がなかったということです。極めて小さな万物も、愛する息子、娘の血と肉になり、自らの体の血と肉になるからです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、漠然とした言葉ではありません。宇宙創造の前から、砂一粒のようなものさえも、人間にとって将来、愛の実体になれる栄養素として、血と肉になり、骨になり、骨髄になることが分かっていたので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に作ったというのです。
第六篇 真の万物 第一章 万物創造とその意味 第二節 万物創造の意味13 2004.7.9
絶対信仰、絶対愛、絶対服従の起源は神様です。それは神様の人間に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従なのです。そしてその最終目標点は、人間を創造し、実体の人間の中に入られ、愛する息子、娘に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従されることなのです。
神様が人間と同居して、人間を完全に信じ、人間を完全に愛し、人間に完全に服従したいという神様の究極の願いを実現するのが、顕在意識と潜在意識の構造です。
最終的な裁可を下す意識の主人である顕在意識が人間の意識の座であり、顕在意識に働きかけサポートした後は、顕在意識の決定についていく潜在意識が神様の座という構造です。
潜在意識は、神様が人間に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従を完全に実現するための構造なのです。
*祈りの方向
神様との授受作用である祈祷は、天空に向かってなすのではなく、また真の父母様のお写真に向かってなすのでもありません。
神様は私の中の天におられます。
私の中という天におられる私の父母に向かって祈るのです。
天の父母様という言葉の本質がそこにあります。
祈りの方向は、自分の意識の座である顕在意識から神様の意識の座である潜在意識の方向です。潜在意識の底には至聖所があります。
肉体的に見れば、胸のあたりから生殖器に向かって潜在意識の主要部分が広がっています。
顕在意識から潜在意識に向かう先端には神様を探知する部分があります。これは霊的五感だと思われます。
ここから神様のおられる潜在意識の深みに向かって情的に意識を集中します。
万王の王である神様が、まさに愛の王の姿を現して「私」に僕の体で仕えてくださるのです。
祈りの中でそれを感じたなら深い喜びを感じます。
夢のような愛に酔う世界です。
*私の内に天があるという深刻さと私の行くべき道
一方において、その喜びの大きさに従ってその深刻さに気付くのです。
皆様もこの深刻さにお気づきかと思います。
そうです。あまりにも与えられているので負債で心が押しつぶされそうになるのです。
絶対服従される神様は、人間を思い通りに動かすためにそうされるのではなく、心からの真の愛が湧き出てそうされるのです。神様には裏がありません。あまりに純粋なのです。
そうであるがゆえに何もお返しできなければ益々苦しい気持ちになります。
この喜びには同等の深刻さがついてきます。
喜んでばかりはいられない深刻さです。
どうすれば良いのでしょうか?
深刻さの第一は、神様のお住まいであり天であるべき私の意識、特に潜在意識が綺麗ではないということです。神様の住まいというにはあまりに申し訳ないレベルであることです。
汚いゴミだらけの住まいであったとして神様はそこしか住むところがありません。
潜在意識の汚さの一つは過去の記憶です。
罪を犯した過去の記憶は潜在意識にはっきり刻まれ完全に残っています。
どんな罪を犯したか、それは自分自身が一番よく知っています。
この罪の記憶に神様は囲まれて生活しなくてはなりません。
見たくないものを見続けなければならないのです。
罪とは無縁の純粋な神様にとって、これは私たちが想像する以上の苦痛です。
神様の苦痛を和らげる道は徹底した悔い改めしかありません。
私たちは過去のことはすぐに忘れてしまいがちですが、人間の記憶に囲まれている神様にとっては、それは過去ではなく現在です。過去の様々な罪に対する悔い改めは神様を苦痛の沼から解放してくれます。
潜在意識の汚さの二つ目は、潜在意識が堕落性を生み出す構造に再創造されてしまっていることです。前章で述べましたように、潜在意識が堕落性の根源地になっています。
これを神様に再創造していただくことが絶対に必要です。
人間は堕落してサタンの血統を受けました。これにより神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従を完全に裏切り心情を蹂躙しました。これを蕩減することは、真の父母様が神様に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって成してくださいましたが、私自身もそれに同参したという条件が必要です。
万物が神様に、ぶつぶつと不平を言いますか。絶対信仰、絶対服従です。全体を犠牲にしても不平を言わないのです。鉱物は、植物の前に全体がのみ込まれても不平を言わないというのです。植物は動物に、動物は人間に、人間は神様に、そうだというのです。同じです。神様のためには生命を捧げなければなりません。万物全体を神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統で造ったため、自分自身が残っていれば神様に帰ることができないのです。
第六篇 真の万物 第一章 万物創造とその意味 第二節 万物創造の意味16 2004.9.4
それでは神様の再創造が完全に成し遂げられるにはどうすれば良いのでしょうか?
それはサタン屈服の勝利者の道を行くことです。
神様の愛を受けようとすれば、世の中のものをすべて否定し、神様を愛することに生命を捧げなければなりません。まず神様と愛の関係を結ばなければならないのです。神様の愛を受けようとすれば、自分の生命を投入しなければなりません。そのようにすれば、生命力が比例して投入され、入ってくるのです。
このようにして、神様の生命と自分の生命が一体になれば、初めて、堕落する前の息子として、神様が信じることのできる息子として復帰されるのです。こうして信仰基台が立てられます。信仰基台が立てられたというのは、条件的な立場で神様を不信することによって堕落した者が、信じることのできるアダムの位置、すなわち希望的なアダムの位置に再び立ったということです。
このようになったのちには、サタンと闘って実体基台を立てなければなりません。アベルの位置でカインを屈服させなければなりません。サタンと拳で闘うのではなく、愛で闘うのです。愛によって堕落したからです。もしサタンが十の愛で愛するのなら、「私」は十五の愛で愛し、サタンが十五の愛で愛するのなら、「私」は二十の愛で愛さなければならないのです。
第四編 真の人間 第三章 真の人間に復帰する道 第二節 祝福を通した復帰の道1
1971.2.6
真の父母様が何度も何度も神氏族メシヤのことを言われるのはこのためです。
神様と父母様に命を捧げる基準を勝利すること。
サタンを屈服したという基準を勝利すること。
この二つを同時に成し遂げることができる舞台が神氏族メシヤ活動です。
神氏族メシヤ活動は全体目的を成し遂げることだけが目的ではありません。個体目的も同時に勝利できるのです。個体目的とは私の重生です。
ここで勝利することで神様の住まいである、潜在意識が完全に再創造されます。
そして本然の人間に復帰完成することができるのです。
こうなって初めて「私」は、神様に永遠の安息と幸福をもたらす堂々たる神殿になれるのです。
詳しくは、「天寶入籍勝利家庭は重生し天国に入る最初の復活」をご覧ください。
私たちが行く道は二つです。それは、カインと自分のために行く道です。怨讐のための道まで経ていかなければなりません。それは、カインを収拾して行かなければならないということです。
実体基台とは何でしょうか。アベルが自分の道を修めたとしても、カインを完全に屈服させなければ、神様のみ前に行くことができないのです。怨讐を導いていかなければなりません。怨讐と闘いながら行くのではなく、怨讐を導いていかなければならないのです。
第四編 真の人間 第三章 真の人間に復帰する道 第二節 祝福を通した復帰の道5 1970.4.6