エバは神様の最高傑作であり神様の許嫁(いいなずけ)
原理講論における神様は親なる神様であり人間は神様の子女です。しかしお父様のみ言を読んでいくとそれだけでは理解できない内容が出てきます。
例えばサタンは神様の姦夫だという内容です。これは神様の妻がエバでありそれをサタンが奪ったということです。
原理講論ではエバは神様の娘です。これが全てです。神様の娘が下男であるルーシェルに奪われたのが堕落論です。堕落論に見る神様の恨は子女がサタンに奪われた霊的に死んだということです。しかしお父様は、堕落によって神様の娘が奪われたことと共に、あるいはそれ以上に神様の妻としてのエバが奪われたことが恨だと強調されます。
実はこのことが神様の心情や恨を理解するための最大のポイントなります。アダムは神様の息子であると同時に神様御自身であるというみ言も同様です。
一存在が愛において多重的な側面を持つことは人間世界にも見出せます。例えば私たちは息子、娘として生まれ、成長し夫や妻となり、子女を儲けて父や母となります。この場合、相対基準を結ぶ相手は変わります。例えば息子、娘の時は、相手は父母です。夫と妻の場合はお互いが相対基準を結ぶ相手です。父母になれば子女が相手です。
しかし神様と人間の場合は、神様と人間の二者間ですべて愛が現れます。
成長期間においては、神様は父母であり人間は息子、娘という子女です。私たちはこの父母と子女の関係が神様と人間の関係のすべてだと思ってきましたがそうではありません。子女の段階の次には夫婦の段階があるのです。
この段階について腑に落ちるためには人間が神様の体であることが腑に落ちる必要があります。人間が成長期間を全うして目指すところは子女としての完成ですが、より深い意味としては神様の体として完成するということです。
私たちは、心と体を別々のものとして感じるよりも融合して一つとして感じますが、それと同様に神様の体として創造された人間の目指すところは心である神様と融合することです。いわゆる一心状態です。一心状態は上下関係ではできません。神様と子女という上下関係から一心状態である「私は神様そのものである」という状態が個性完成です。
一心は、一つは上にあり、もう一つは下にあるという状況では成立できません。父親が上にいて、息子、娘が下にいれば、一心になる事はできないのです。お互いが同等な立場で平面的に位置していてこそ一心になるのです。内的外的関係が平面線上の位置に立ってこそ一心になるというのです。「天一国主人の生活」 第四章 五、天一国主人の生活 1.一心、一体、一念、一和
そして男性は神様そのものであるという状態に達し、女性は神様の妻という状態に達します。そして結婚するのですが、これは神様が人間という体を身に着けて結婚されるということです。
このことは、人間が神様の子女であるということも永遠の概念の一つでもありますが、もう一方においては過程的概念でもあることが分かります。子女の愛の先には夫婦の愛があるのです。み言にも神様はご自身が結婚するために人間を創造されたとあります。
結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することによって、すべての根本的な難問題が解決されるのです。「宇宙の根本」第二章 三 2.神人愛理想の根本原理 (1) 神人一体をどのように解明するのか
天の父母様がアダムとエバを創造し養育されたのは親子関係で終わるためではありません。より本質的であり、より圧倒的に強く望まれたのはアダムと完全一体となってエバを妻に迎えることでした。私たちは、アダムとエバの生殖器を創造されたのは人間が夫婦の愛の喜びを得るためと思ってきましたが事実は神様が結婚するためだったのです。神様は無形の生殖器を持っておられますが、体を持ち実体の生殖器を持つことでより震動的で衝撃的な夫婦の愛の喜びを得たいと思われたのです。
人間はその喜びに同参するのです。
アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。「真の神様」 第一章 二 1.体をもつためにアダムとエバを創造
ですから人間の堕落による神様の恨は、子女を失った苦痛以上に妻を奪われご自身の体を失った苦痛なのです。これが神様の恨の中心です。従って、神様の恨の解怨は子女が元の状態に戻ることもそうですが、その上で体を取り戻して実体の妻をめとって結婚することでしか解けないのです。
それゆえ、御父母様の三度に渡るご聖婚が神様の恨の解怨なのです。(三度のご聖婚の詳細は「夜の神様 昼の神様に関するみ言の解明」の章をご覧ください。)
神様の人間創造の目的は、夜の神様が昼の神様という体をまとって通過された内的な三大祝福の世界を、人間という体をまとうことで、実体世界でより震動的、衝撃的に再体験、再達成することです。ですから子女として成長期間を全うし父母との一体化を目指すという第一祝福の世界は第一歩に過ぎないのです。
そして第二祝福の世界は、神様の中身である無形のアダムと無形のエバがそれぞれアダムとエバをいう体をまとって結婚するという側面だけではありません。アダムは神様の体なので完成したアダムは体を持った神様であり、エバは体を持った神様の妻なのです。そしてこの概念の方がより本質的であり中心的なのです。
無形のアダムと無形のエバは一体となられ天の父母様として一存在ですが、創造原理第一節にあるように被造世界に対しては性相的男性格主体です。人間は被造世界の総合実体相なので神様に対して形状的女性格対象となります。このため天の父母様にフィットする体は男性格であるアダムなのです。すなわち天の父母様の形状がアダムなのです。
このため女性格であるエバは神様の妻として創造されたのです。体を着た天の父母様の相対者はエバなのです。エバは生まれた時から神様の妻となることが決まっていたのです。これは一般的な言葉で言えば、許嫁(いいなずけ)だということです。
この点はとても重要です。私たちは、神様の二性性相を実体化したのがアダムとエバと考えてきましたが、もしそうならアダムとエバの結婚は神様の内界を単純に実体化しただけなのでそれほど刺激的ではありません。自分の形状は確かに喜びをもたらしてくれますが、人間の心が体から感じる喜びの世界と同様であり、我を忘れて酔うほどの世界にはなりません。
大きな刺激、大きな喜びを得るためには対象は外部にあることが根本です。天の父母様とアダムは完全な似姿なので心と体のように一存在です。この一存在は男性です。そしてエバは外部に存在する女性なのです。アダムという体を着た天の父母様にとって、エバは我を忘れて酔いしれるほどの外部対象なのです。天の父母様にとってエバは、最高最大最強に「好きだ‼‼」という心情をもたらしてくれる存在になるようにあらん限りの創造力を総動員して造られた最高傑作なのです。
そのために、天の父母様はご自分の生殖器に似せてアダムの生殖器を造られ、天の父母様の生殖器を受け入れる実体の生殖器をエバのものとして創造されたということです。神様の最高傑作の中の最高傑作が女性の生殖器と言えるわけです。
このように見るとエバを眺める神様は、エバを娘として見る以上に許嫁(いいなずけ)として見ておられたことが分かります。
ですから堕落によって奪われたのは神様の娘というよりも神様の許嫁なのです。これが分かって初めて堕落論の全貌が見えてきます。神様の恨の本質が分かってきます。
余談ですが、私たちは人間を見るときに神様の観点と同じ観点で見ることが重要です。神様の目には男性は神様の体そのものです。神様の目から見ると、女性は結婚するまでは神様の許嫁であり結婚してからは神様の妻です。こうして見ると、この世の結婚がいかに恐ろしい行為であるかわかってきます。神様の体を失い天使長の体となった男性が神様の許嫁を横取りし汚すという大罪なのです。いくら教会で神様の前で愛を誓おうが、この世の結婚を神様が祝福されるなどということは絶対にあり得ません。
さて、前述の観点から見ると真のお父様の生殖器は天の父母様の生殖器の実体です。そして真のお母様は神様の妻としてお生まれになったのです。真のお母様は、お生まれになった時から神様の許嫁だったのです。
更に祝福家庭の男性の生殖器は天の父母様の実体生殖器です。その相対者である女性は天の父母様の生殖器を受け入れるべく予定された許嫁であり妻なのです。
このように見てみると、天の父母様は息子であるアダムをご自身の体として創造され、娘であるエバが完成した時に妻として結婚されるのです。また、神様の体はアダム一人ではなく、妻はエバ一人ではありません。
天の父母様と一体となり真の父母となったアダムとエバから生まれてくるすべての男性は天の父母様の体です。すべての女性は天の父母様の妻です。
これは現象だけ見れば、神様は娘を妻にめとる方であり、しかもすべての女性を妻に迎える方であるということになります。
これは言い換えれば天の父母様は、息子として生み育てて完成したアダムという体を着て、娘として生み育てて完成したエバを妻として迎え性愛で生殖器を合わせて愛したい方であるということです。更にアダムとエバの血統から生まれるすべての女の子が成長し完成したなら、相対となるすべての男性の体をまとってすべての女性を妻として迎え性愛で生殖器を合わせて愛したい方だということです。これこそ神様が天地創造をなされた根本的目的です。これこそ御父母様のみ言が示す真の神観です。お父様がこのような神観を露骨に話せなかったのは私たちが幼く相対基準がなかったためです。
神様はどんなお方でしょうか。神様は欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらないところがない、遍在される神様です。いらっしゃらないところがない神様なので、どれほど欲張りですか。欲張り者とか欲張りと言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。「真の神様」 第一章 六 愛によって遍在される 1.愛だけが境界を出入りする
上記のみ言に神様のことを偏在される欲の多い方と表現されていますが、その中心は、すべての息子の体を着てその相対者であるすべての娘と結婚されるということです。
これだけ見ると神様はただの強欲物と映りますが人間の側から見るとどうでしょうか?
すべての男性は神様のようになりたいという欲望があります。すべての女性は神様の妻になりたいという欲望があります。そして人間はこの欲望が満たされたときに初めて完全な幸福を感じるのです。際限ないと思える人間の欲望も、神様が息子である全ての男性の体を着てその相対の女性と結婚されることで完全に充足されるのです。
神様のこのような結婚方式は神様と人間の完全な幸福を実現するものなのです。
もし、神様が真のお父様の体を着て真のお母様と結婚されてそれで終わりなら、その子孫である全人類は神様の愛に対して強い不満を抱くことになります。
愛は平等を求めます。羨ましいものがあってはならないのです。ですから神様は全人類と結婚されるのです。神様は全人類と結婚しても余りある愛を持っておられる方です。それこそがこれから生まれる人間の数が無限に増えても一人残らず幸福になれる根拠なのです。
さて、エバがルーシェルに生殖器を差し出したことで、エバを妻に迎えるという神様の積年の悲願は完全に葬り去られました。神様はエバと生殖器を合わせて結婚するために天地創造の御業達成に血肉を削られたわけですから、エバの堕落は神様が手に入るはずだった幸せを完全に破壊する行為だったのです。
もっと言えば、夜の神様が昼の神様の創造に着手されてから天の父母様となられ、天地創造をなされて人間を創造されるまでの気が遠くなるほどの長い期間の無限の精誠は、天の父母様がエバと結婚するためにあったのです。
このようのエバとの結婚実現のために投入された無限の精誠がそのまま無限の恨に変わったのです。これが神様の恨の真実です。
ですから復帰路程は善の天地長群を意味するメシヤのための基台をつくり、もう一度独り子と独り娘を送り、その再臨のアダムと再臨のエバが神様の恨を解怨するという死の道を完遂したのちに、天の父母様が再臨の真のアダムという体を着て、天の父母様の許嫁である再臨の真のエバと結婚することでしか完全解怨されないのです。(「真の父母様による神様の恨の実体解怨路程」に詳述しています。)
この解怨の道が真の父母様の3度にわたるご聖婚です。
最後のご聖婚が、2013年2月22日の基元節における「天地人真の父母様聖婚式」です。この日は天の父母様の積年の恨が解かれた天宙史に残る金字塔となる日だったのです。