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神様の意識の中で生活する人類Ⅱ

私達が当たり前に感じている意識に上って来る様々な質感や情感が、神様の意識に入れてもらっていることで起きる現象だというのは、初めはとても分かりにくいと感じます。

私達の実体験においては、例えば、リンゴをかじった時に感じる甘酸っぱさや噛み心地、噛むときの音、かじった時に鼻に抜ける香りなどすべてがリンゴと一つのなっていて、リンゴとは別のあるとは感じられないのです。

リンゴの持っている色、味、香りなどの性質(性相)があまりにリンゴそのものと一体に感じられるからです。

 

これは下図によって説明するのが分かりやすいと思います。

一見初めから一体であるかのように見える性相と形状ですが、実際は神様の意識に入っている人間が対象と授受する時、分離していた性相と形状が一瞬で一体化することで認識が起こります。

 

下図の上の部分をご覧ください。

見つめる目の先には何もないかのようですが、700nm(1ミリの1万分の7ミリ)程度の電磁波が目に届くと、それは電気信号に変換されて脳に行きます。ここまでが物理化学的現象です。この時点で色彩は生じていません。

 

次に人間は神様の意識の中にいるので、肉身には肉心が生じています。肉心は神様の意識が原因で生じる二次意識です。肉心は神様の意識と肉体に生じている物理化学現象の媒介体です。肉心は脳の到達している電気信号(形状)を瞬時に読み取って、神様の意識の中にある赤色(性相)と一体化させます。こうして700nmの電磁波が電気信号に変わったものが一瞬で赤い色に変わるのです。この仕組みがあまりに見事で目自体が赤色を見ているかのように感じているのです。

霊界にもリンゴはあると思いますが、それは肉心では捉えることができません。その役目をするのは生心です。

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味覚の場合も同じ原理です。例えばレモンをかじった時にはその中の成分であるクエン酸が舌のレセプターを刺激して電気信号に変換されて脳に行きます。ここまでが物理化学的現象です。ここまでは味は一切生じていません。

肉心は舌で生じた電気信号(形状)を瞬時に読み取って、神様の意識の中にある酸っぱさ(性相)と一体化させます。こうしてクエン酸が原因で生じた電気信号が一瞬で酸っぱい味に変わるのです。この仕組みがあまりに見事で、舌自体が酸っぱさを感じているかのように思えるのです。

霊界にもレモンはあると思いますが、それは肉心では捉えることができません。その役目をするのは生心です。

 

下図にある音や香りが生じる仕組みも同じです。このあまりに見事な仕組みのために、耳自体が音を聞き、鼻自体が香りをかいでいるかのように思えるのです。

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私たちは毎日、風景や景色を見ています。何かを食べて味わっています。何かの音を聞かない日はありません。また、何かの香りを嗅ぎ、何かに触れています。これら全てが余りにも奇跡的なことなのです。

毎日あり得ないような体験の連続なのです。

これら全てが神様の意識の中で生活しているという証拠なのです。

下の図をご覧ください。神様の意識の中にいなければ何も見えないし、何も聞こえないし、何の味もしないし、何の香りも感触もないのです。異常な世界だと思われるかもしれませんが、これが通常の世界なのです。下図では黒くなっていますが実際は明暗もありません。これがアンドロイドやAIの住んでいる世界です。この世界に愛や美の入り込む余地はありません。

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上の図は私たちが見ている風景の例です。色彩や輝き、遠近感、透明感、コントラストに満ちています。実は、こちらの方があり得ないほど異常なのです。人間はすべての感性が鈍くなってしまっているので、自然よりも著名な絵画の方が価値があると思っている人がたくさんいます。自然が豊かな所よりも高層マンションから見る夜景を好んだりします。

そういう意味で都会は人間本来の感性を更に鈍らせます。山や川や海に出かけてみてください。驚くほどに質感に満ちています。それによって様々な情感が湧き上がってきます。

目で風景が見えること、それが神様の意識の中にいる証拠です。

耳で音が聞こえること、それが神様の意識の中にいる証拠です。

舌で味を味わえること、それが神様の意識の中にいる証拠です。

鼻で香りを嗅げること、それが神様の意識の中にいる証拠です。

皮膚に感触があること、それが神様の意識の中にいる証拠です。

神様に会いたければ、見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触るをすればよいだけです。神様に会うことは誰でも簡単にできることなのです。

私の申し上げたいことはとても単純です。

人間が神様の意識の中に入れてもらえなければ何も見えないのです。

​何も見ることができなければどれほど苦痛でしょうか?どれほど不自由でしょうか?どれほど不便でしょうか?私たちは見えることが当たり前になっているので気付かないのですが、見えることはどれほど幸せなことでしょうか。他の感覚も同じです。

目で風景が見えること、それは神様からの愛そのものです。

耳で音が聞こえること、それは神様からの愛そのものです。

舌で味を味わえること、それは神様からの愛そのものです。

鼻で香りを嗅げること、それは神様からの愛そのものです。

皮膚に感触があること、それは神様からの愛そのものです。

私たちが五感で感じることをじっくり味わって生活してください。

それこそが神様との生活なのです。

日々当たり前に感じていることは、神様が「私」をご自身の意識の中に入れてくださっている証拠です。

心の中に入れてくださる、これ以上に近い関係があるでしょうか?

これ以上の愛があるでしょうか?

 

これが知的にだけでなく、情的にも分かって来ると、もう祈りは必要なくなります。啓示も一問一答も必要ありません。

五感から感じているものは神様の愛そのものです。見る、聞く、味わう、嗅ぐ、触れるなどによって簡単に神様をダイレクトに感じることができるのです。

それは祈りとは比較にならないほどダイレクトです。

啓示や一問一答のように言葉の媒介は必要ありません。

神様と人間は本来、祈りや啓示や一問一答など必要ないダイレクトに通じる間柄なのです。

媒介なきダイレクトな関係、それは父母の意識の中で生活することで実現します。これはもう信仰生活ではありません。実体的に感じる生活に信仰は必要ありません。家庭において両親に向かって祈る子供がいないのと同じです。人間の親子では言葉で授受しますが、神様と人間の親子においては本来言葉すら必要のない関係です。

これが侍義の本質です。

このように神様の意識の中で生活していることは、まず質感の共有から始まります。つまり神様の感じておられる質感を私も感じるということです。この段階は、自分が神様の意識の中で生活していることを納得していただければ達成したも同然です。

次に情感の共有に移行していきます。神様の感じられる情を私も感じるという段階です。また、私の感じる情を神様も感じられます。

更にその次には神様の愛の情感を私も感じるという段階です。また、私の感じる愛を神様も感じられます。この次元に到達して完成に至ります。

次に人間そのものについて考えてみましょう。

リンゴの例について見ると、神様の作られたリンゴの質感はそれ自体では決まりません。人間と食べたリンゴのとの授受作用によって質感が決まります。同じリンゴを食べても、ある人にはとても美味しく感じられても、別の人は酸っぱすぎると感じるかもしれません。これは人によって異なる味覚の個性ゆえです。視覚、聴覚、臭覚、触覚などにおいても人によって少しずつ違います。人間一人一人に五感の個性があります。

これは質感を感じる側の人間の感性です。この感性はその人の性相です。性相はすべて神様の意識の中にあります。つまり、人間一人一人の感性は人間自体の中にあるのではなく、神様の意識の中にあることになります。

 

五感の個性よりも人によってもっと違うのは知情意の個性です。

知の向かう方向は人によって多種多様です。生物を研究したり、天文学や宇宙物理学に関心を持ったり、経済学が好きだったり、建築、機械、コンピューターの設計に没頭したりする人もいます。数学が得意な人もいれば、人間の研究が得意な人もいます。

 

情は美を求めます。人によって求める美も多種多様です。歌を歌うこと、作詞作曲、演奏、ダンス、舞踊、絵画、演劇、映画製作や監督、映画、テレビでの演技、舞台での演技、文学、

詩作、劇作、生け花、造園など数限りなくあります。

あるいは農業や漁業が大好きな人、子供に教えるのが好きな人、建物や橋などの建設が好きな人、コンピューターやAI、ロボットを作るのが好きな人、車や鉄道の作るのが好きな人、食事を作って人に振舞うのが好きな人、衣服やドレスを作るのが好きな人など人によって好きな分野は無限と言っても良いほどあります。

 

これらのその人独特の性質はその人の性相です。それは霊人体を通して現れますが、霊人体は媒介体です。その人の性相は神様の意識の中にあります。

別の所でも述べていますが性相と形状の割合は95%と5%です。神様と人間の関係は性相と形状なので、人間の95%は神様が原因です。これは責任分担にも表れています。人間自体が持っていると思っていた個性はその人の性相なので神様の意識の中にあることになります。

人間が堕落することで神様の中にあるその人の性相を受け取るための器、つまりその人の霊人体や肉身が悪化したり未成熟だったりすることで、個性が歪んで現れているのです。

 

この関係を分かりやすく示してくれるものがあります。それは生物と生物の核にあるDNAの関係です。多くの人がDNAは生命の設計図だと思っていますが、それは間違っています。生物学者にはそのことを知っている人が多くいます。なぜならDNAが生物の設計図というにしては、その情報量が少なすぎるのです。人間のDNAにあるのは20種類のアミノ酸を直線的に並べてできるタンパク質の設計図です。そのDNAには2万種類ほどのタンパク質の設計図があります。この2万種類のタンパク質は細胞内のゴルジ体で修飾されて10万種類以上になります。とても大きな情報だと思われるかもしれません。

しかし人間の一個の細胞を作るために必要なたんぱく質の数は80億個です(永田和宏著「タンパク質の一生」)。たった一個の細胞を作るにも80億個のタンパク質という部品が必要なのです。

10万種類のタンパク質を使ってタンパク質80億個からなる壮大な細胞を作る必要があります。平均するとタンパク質1種類あたり8万個を使うことになります。その設計図はどこにもないのです。タンパク質80億個を平面に並べるのも大変ですが、細胞は立体構造です。細胞の構造が詳細に解明されても、その立体的な設計図は気の遠くなるほどの情報量になります。細胞の中に入り切るような情報量ではありません。

 

DNAは細胞の設計図の内の5%にも満たないものです。95%は神様の意識の中にあります。つまり本当の設計図は神様の中にあるのです。

 

同様に、人間の本質である個性も人間自体の中にあるのではありません。五感の感じ方は個性差があります。知情意や愛の感性はもっと個性差があります。これから無限に人間が増えても「私」の個性は唯一無二です。

 

愛の相手が自分より優れるのを願い、息子が自分より優れるのを願う、その原則を成すためには、神様もご自分以上投入されなければならないので、投入して忘れなくては、自分以上投入する道がないために、真の愛の道を、与えて忘れる道を行かなければなりません「真の父母」第八章「三大主体思想」と「真の父母」宣布 三 「真の父母宣布」と王権 3 王権復帰

 

このように「私」を創造する時に、より素晴らしく、より素晴らしくと思って投入するうちに無限の時間が経過したのです。「私」には神様の無限の精誠が投入されています。

 

そうして出来上がったのがロゴスです。ロゴスとは理法などと呼ばれていますが、そのような表現ではカバーしきれないと感じます。一番ぴったりする表現は神様にとっての「唯一無二の極上の美」だと思います。その極上の美に魂を吹き込んだのが無形なる天の父と無形なる天の母の夫婦の愛です。これにより生きているかのような「私」の性相ができ上ったのです。

そしてこの性相にぴったりフィットする「私」の形状が地上で生まれた時に、性相と形状を備えた「私」となったのです。

このように「私」の95%を占めている性相は神様の意識の中にあるのです。その性相が肉心や生心を通して「私」に連結されているのです。

「私」の全体が神様の意識の中で生活し始めたのは胎中ないし誕生してからですが、私の性相は遥か遥か昔から神様の中で暮らしているのです。

 

ところで、み言を訓読しながらどうしても整理できないことがありました。それは心と体の戦いです。

 

皆さんの心と体を見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は、神様の代身です。心は、先祖たちを 代表します。心は師を代表し、国王を代表します。しかし、これまでこの心をどれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真の父母、真の師、真の主人の立場にある、真の愛をもった主体としていらっしゃるお方の代身である心が、この地上で、自分一人を収拾するために、どれほど犠牲になってき たでしょうか。そのように犠牲になりながらも、不平を言いません。ひたすら蔑まれ、引きずり回されながらも、死んでしまったと思っていたら、悪い考えを もって明け方にどろぼうしようとすれば、「おい、こいつ」と、再び生き返って忠告します。皆さんはそのような心を、どれほど弄びましたか。心は、父母の代身であり、師の代身であり、主人の代身です

第一編 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第一節 心情の神様31 1990.11.28

 

心と体の戦いと言っても、心自体が良心と邪心で戦っているのではないかと思うとどうしても分からない部分でした。しかし、本来人間の性相(心)は神様であるという観点から考えると、み言にある心とは神様の意識の中にある「私」の性相のことを言っていると見るのが正しいと思います。そう考えるとすべてがすっきり通じます。

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