
コロナ禍と堕落の衝撃的醜さ、そして天寶家庭

2021年3月1日現在、世界におけるコロナ感染者は1億1406万人、死者は253万人となっています。現代における稀にみる災禍です。
「これは人類が一丸となって立ち向かい解決すべき危急の課題です。また、このパンデミックにより医療崩壊寸前まできており、医療従事者が過労死してもおかしくないような状態です。」という主張があちこちで見られます。確かに一般的には正論と言えます。しかし、天的な観点での正解からは相当にずれていると言わざるを得ません。
お母様はコロナ禍について、「神様がもう待てない」ので起きたと言われました。
このお母様の観点で世界的なコロナの蔓延の真の原因について知る必要があります。そのためには現在が復帰摂理歴史から見てどの時点にあるのかを眺めてみましょう。
① 神様の心情のみに絞った観点から見た天地創造と堕落
神様は愛を見るために創造されました。神様にとって愛はご自身の命よりも大切なものです。愛を見るためには対象の存在が不可欠です。そして愛を出現させる最高の愛の対象が人間です。精誠の限りを尽くし無限の時間を投入して造られた人間を見られた時の神様の心情を一言で表すとすれば次の言葉です。
「人間が好きだ!」
ところが人間は神様の戒めを守ることができず堕落しました。
これがどれほど破壊的なことなのか、真の父母様が現れるまでは誰も分かりませんでした。神様は人間を永遠に滅ぼしたいと思われたのです。
堕落したアダムとエバを無にしてしまいたい心は切実でしたが、彼らを無にすれば、六日間でつくられた全被造世界の原則を無にすると同時に、永遠の基準まで無にしなければならない立場になり、永遠の主体であられる神様の実存まで侵害されざるを得ない立場になるので、これを知っていらっしゃる神様は、アダムとエバをもう一度救援する摂理を始められたのです。「天一国主人の生活」第一章 三 神様の愛の絶対対象は人類の先祖アダムとエバ
六千年の間、心情に飢えた大主宰であり、大王として今まで苦しんでこられた神様であられることを、はっきりと知らなければなりません。その神様を慰労してさしあげなければなりません。
その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが、御自身の目的があり、御自身の願いと希望がこの地上にあるので、それを見つめて耐えに耐え、さらに耐えてこられたことを知らなければなりません。第一篇 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第一節 心情の神様20 1960.4.10
堕落において神様が抱かれた心情を表わすのは次の言葉です。
「人間も被造世界も無にしたい!」
これは神様の絶望の叫びです。
アダムとエバの命を奪い霊界に送ってやりたいというのとは次元が違います。肉身の命はもちろん、霊人体をも消滅させたいと思われたのです。
堕落から本然への復帰には心情的にあまりにも距離があります。
人間を滅ぼし消滅させたい! ⇒⇒⇒⇒⇒ 人間が好きだ!
いくら全知全能の神様でもご自分の情を自分で転換させることはできません。神様の愛(情)においては全能ではないのです。
神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。 「真の神様」 第一章 五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である

②神様の復帰摂理の難しさは、愛の絶対性を死守するという苦痛の中で行わなければならないこと
天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。マタイ5章45節
これは神様の愛の絶対性を表わしているよく知られている聖句です。
しかし、キリスト教徒でさえも、当たり前のように人間に注がれる神様の愛の深刻さを知りません。正しい者と言っても本然からすれば存在自体があまりに悪なのです。人間は神様の子女ではありません。姦夫の子であるという深刻な立場なのです。
神様の心情を知るにおいてこのことは避けて通れません。
神様のこの心情を分からずして神様を語ることはできません。
自分が明日結婚しようと思っていた人が強姦されて子供を産まされて、神様は孤独単身、独身生活をしているのです。ところがその女性が昔の因縁をたどって産んだ息子、娘を連れて来たというときに、姦夫になってしまった人はなんとかそのまま残しておくとしても、姦夫から生まれた息子、娘は音の出ない銃でもあったらパーンとするでしょうか、どうでしょうか?よく来たと接待することができるでしょうか? 1995年11月3日
神様にとって堕落人間は銃で撃ち殺したい対象です。何度殺しても飽き足らない人間を本然の人間のように接しなければ神様の愛の絶対性は崩れ去るのです。サタンに対しても堕落人間に対しても怨讐として接するなら愛は絶対ではなくなるのです。愛の天国は永遠に消滅します。
③どうして私たちは真の父母様と同じように人生を生き、食事を味わったり、奇麗な景色を眺めたり、家庭の愛の幸せといった基本的人権が許されているのでしょうか?
私たちが生命を得てこの世に生まれ寿命まで地上で生きることができるのはどうしてなのでしょうか? 多くの人がそんなことは当たり前のことだと考えるでしょう。食事を味わい、旅行して奇麗な景色を眺め、自然の音や音楽に浸り、花の香りを楽しみ、様々な感触を感じる生活、配偶者や子女を得て家庭の幸せを享受する。多くの人は、それらは基本的人権であり、人間がやっとたどり着いた自由と民主主義の世界だという人もいることでしょう。
思想の自由、宗教の自由、言論の自由、集会・結社の自由、居住・移転の自由、住居、財産権の不可侵などは、基本的人権の中核の成す要素で多くの血の犠牲の上で獲得されたものです。人類歴史の終末論のなかの第一祝福復帰の現象にも記されています。
しかし、このことによって私たち食口、祝福家庭にも基本的人権が天から賦与されていると考えるのには問題があります。
(三大祝福復帰の現象はメシヤを迎えるための環境整備が中心的な目的です。)
真の父母様も感じておられるこのような自由や幸福は、神様の血統である父母様が享受されるのは至極もっともなことです。しかし、堕落人間にとっても当然なのでしょうか?
信仰を持っている人は、神様は愛だからこのような権利を無償で与えられると考えるかもしれません。
確かに神様は父母なる愛のお方だというみ言もあります。
神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、お前たちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしがっています。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたがる神様です。そのような神様なので、考えるほどいいのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってこい」と言う神様ならば必要ないのです。「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる 1 神様と人間は父子の関係
人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。
「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様 2 神様の歴史的に悲惨な姿
このみ言は神様の心情の一端です。しかし、これが神様の心情世界のすべてをカバーしているわけではありません。このみ言には神様の心情の別の側面については述べられていません。真の父母様は神様の直系の実子です。一般的に考えれば神様にとって目に入れても痛くない、愛したいだけの対象となります。神様の愛を満身に受けて、誰よりも幸せな人生を過ごされたのでしょうか。私たちはそうではなかったことをよく知っています。
神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。
「真の神様」六 神様の解怨と孝子の道1.真のお父様が歩み来られた復帰の道
天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。「真の神様」六 神様の解怨と孝子の道1.真のお父様が歩み来られた復帰の道
神様が先生をどれほど訓練されたか分かりません。先生には、神様が愛の神様ではありませんでした。考えるだけでも残酷です。世の中の商売人のような心をもったなら、もう既に逃げ出していたでしょう。み旨のことは考えもせず、神様がまた来るかもしれないと思って、はるか遠くに逃げていたでしょう。
神様は、先生が監獄に入っていって苦労する時、最も多く愛してくださったのです。そのような場に行ってみると、「ああ、神様は、私を愛していらっしゃるのだなあ!」と知ることができます。ですから、監獄に入ったとしても、それが嫌ではありませんでした。ですから、統一教会の教会員は苦労しなければなりません。監獄や拘置所に入っていってでも苦労しなさいというのです。神様に出会うことができる場所とはどこでしょうか。最も深刻でつらい場所で神様に出会うことができるのです。
第三篇 真の愛 第三章 真の愛の実践 第三節 真の父母の真の愛29 1991.6.2
真の父母様に現れた神様は愛の神様ではありませんでした。間断なく残酷な仕打ちをされる神様でした。愛の神様には監獄や留置場などの悲惨な場所でしか出会えなかったのです。
本然の父母としての心情だけを抱いて人類の前に現れたいと誰よりも切実に願っておられたのは神様自身です。しかし、その本然の心情が自然に流れ出ないのです。
愛がふさがってしまうのです。愛を中心に創造され、愛の世界を実現したい神様にとってこれ以上苦しいことはありません。本来、愛の神様なのに愛が流れないのです。人間を見て、好きだ!と思って接したくても愛の情が現れないのです。
この愛の流れを邪魔しているのは、うず高く固まり、しこりとなった恨です。
こうしてみると人間が肉親の父母から生まれ、生命を持った存在として生き、五感の喜びを感じ、好きな人に出会って結婚して夫婦の愛の喜びを味わい、子女を得て家庭を築き、社会生活を営み自由を謳歌するといった基本的人権に基づく行動は、神様にとって少しも喜びとは感じられないのです。俗世で行われているすべてが苦痛でしかありません。人間によって展開されている社会や世界は、神様のすさまじい忍耐の上に成り立っていることが分かります。無知とは恐ろしいものです。神様を踏みつけ痛めつけた上に、自己を誇っている恥知らずの人類です。
今日の人類は、サタンの血統を受けています。ですから悔い改めなければなりません。天地の大主人の前に顔を上げることのできないほど、恥ずべき内容があるのです。
しりまで隠して岩の後ろに隠れて、神様と呼ぶことのできない恥ずかしい子であることを知らなければなりません。愛の怨讐の血を受けたのです。ですから、涙と鼻水を流してはいつくばり、命を失ったとしても「罰を受けて当たり前だ」と言うことができなければなりません。死んで埋葬された自分であるということを知らずに生きる、かわいそうな人たちなのです。「祝福家庭」 第四章 四 入籍時代と私たちの責任 1入籍と真の御父母様の恵み
人間は神様にとって姦夫の子孫です。自然に流れる愛は全くありません。神様から人間に自然に流れる情は、見るのも嫌だ、滅ぼしたい、消滅させたいという情です。それを愛の絶対性を死守するために無理に無理を重ね、忍耐に忍耐を重ねて愛して下さっています。
詳しくは「神様の精誠Ⅰ」をご覧いただきたいのですが、一人の人間が生まれるためには愛し合う夫婦が必要です。夫婦の愛の根源は神様です。天の父と天の母の間に流れる性相的な夫婦の愛がその根源です。それは本来、本然の夫婦にのみ流すべき愛です。しかし神様はこの宝ともいうべき性相的な夫婦の愛を堕落人間の男女が愛しあう愛にも流されます。これは姦夫と堕落エバの淫行関係の再現を祝福されることを意味します。
それによって姦夫の子孫が繁殖します。神様の苦痛がまた増えますが、愛の絶対性を死守するために忍耐してその繁殖を助けられます。
神様は人間に三大祝福という愛を与えられたので、堕落した人間には与えないとなれば神様の愛は条件付きということになり、愛の絶対性は失われます。
生命活動の根源は神様です。精子と卵子が生命を持ち、一体となって一つの細胞を形成するようになるのは神様の働きかけがあってのことです。神様の意識が精子や卵子、細胞に浸透して新しい生命が生まれます。細胞内にあるDNAが人間の設計図だというあまりにも短絡的な見解を多くの人が信じていますが、DNA情報が担う部分は生命体全体の5%にも満たないと思われます。生命体はその程度の情報から形成できるほど簡単な構造をしていません。なにより、神様の意識が浸透していかなければ生命や生命活動は生じません。
一つの細胞を分裂増殖させ各種の臓器や骨、神経を作り上げ一人の人間にまで仕上げているのは神様です。しかし、そこまでして育て成長させた人間は姦夫の子なのです。神様はどれほど切ないでしょうか。どれほど虚しいでしょうか。
私たちは知らず知らずのうちに自由や民主主義や基本的人権などのこの世の価値観に強く影響を受けています。しかし、神様から見た場合、堕落人間には基本的人権をはじめとしたこの世の憲法や憲章、法律で保障されているあらゆる権利はありません。サタンの血筋であるので権利を主張できる立場ではありません。人生において様々な選択肢や自由があるわけではないのです。事実は、復帰と重生への一本道以外には選択できない立場です。サタンの血を受け継いだということは極めて深刻な事実です。この深刻さをどれほどまでに切実に感じるかによって将来が決まると言っても過言ではありません。
④神様は怨讐を愛する決意をどのように固められたのでしょうか?
イエス様や御父母様は怨讐を愛する道を行かれました。ですから神様ならば当然、怨讐を愛せると思われるかもしれません。イエス様や御父母様には命までも捧げたいというレベルの神様との愛の基盤がありました。しかし、神様の愛の基盤は人類始祖の堕落により完全に消滅しました。そんな中で、神様が滅ぼしたいと思われたサタンと堕落人間という怨讐を愛することができたのはどうしてなのでしょうか。
対象に心情を投入すればするほど愛が流れるという原理があります。心情投入した対象には好きだという情が流れます。投入すればするほど、どんどん好きになります。また投入した対象が良いものだという気持ちが高まります。
神様はサタンと堕落人間に徹底的に心情投入されることで、流れない愛を流れるようにされたのではないかという気がします。本来まったく愛が流れない怨讐であるものに心情を投入し、徹底的に為に生きることで愛が流れるようにする道を行くしかなかったのだと思います。
神様は堕落人間であろうともその人の細胞の一つ一つの状態を知り、臓器の状態や健康状態、心の状態をすべてご存じです。いわゆる全知です。
これは神様が人間の一つ一つの細胞、臓器、心に意識を浸透するという精誠を尽くしておられることの結果です。この精誠の投入が姦夫の子である堕落人間さえも愛することができた原動力ではないかと思います。
神様が復帰摂理を本気で取り組まれたのは4千年前だというみ言あります。堕落人間、堕落世界があまりにも怨讐なので、それ以前は怨讐を愛そうという決意ができなかった神様でした。
アダムとエバが堕落することによって何を失ったのでしょうか?神様を失いました。愛をいっしょくたに失いました。億千万金を払っても買うことのできない愛を失ったというのです。それは何かというと、人間の根本的な価値が壊れたというのです。 ・・・・・堕落をすることによって愛を失ったというのです。それが天地をめちゃくちゃにし、神様を軟禁状態にし、人類の理想を完全に破綻させ、神様の理想的な家庭を絶えさせてしまったのです。理想的な宗族、理想的な国家、理想的な世界、地上と天上天国を完全に爆破させたのです。・・・・・
堕落によって血統が違ってしまいました。サタンは神様の姦夫です。愛の恩讐の種で生まれた恩讐の子供をどうやって直系の子供よりももっと愛するのかというのです。これが神様の救援摂理の着地です。今から4千年前に成されました。何千万年の歴史なのにどうして神様が人間を救おうとこの地に着地したのが4千年前なのでしょうか?今になって明らかにされるのです。恩讐の子供を自分の子供以上に愛さずには成すことができないのです。1995年11月3日
神様は本格的に復帰摂理に着手しようと決意されたのが今から4千年前であるなら、それ以前の数万年、数十万年あるいは数千万年、神様はどうしておられたのでしょうか?
実際に怨讐に真の愛で対応する次元にまでご自身の決意を固めるには、その恨の谷があまりに深かったのです。その谷を埋めなければ実践までの気持ちには至れないのです。
神様は祈りを通して怨讐に投入しておられたのだと感じます。
何万年、何十万年、数千万年にわたる祈りによる心情投入です。
祈りによる怨讐への愛の投入です。気の遠くなるような世界です。これにより実際にサタンや堕落人間に愛を投入しようというお気持ちに至られたのだと思います。
このあまりに長期の、あまりに深いお祈りが必要だったのは、神様にとってサタンと堕落人間が想像を遥かに超える怨讐であるためです。堕落人間、堕落世界に対する怨讐感があまりにも深いことを認識することが、神様の心情を体恤する基礎であると感じます。
神様の祈りの精誠の伝統が、御父母様の毎日の10時間超えは当たり前だった祈祷生活として受け継がれたのだと思います。
まとめますと、神様には人間の堕落において二つの選択肢があったと考えられます。一つは跡形もなく滅ぼし消し去ること。これだとその場の苦痛は和らぎますが、愛の絶対性は失われ、神様の目指した愛の王国ははかない夢と終ります。もう一つは神様の精誠を総投入することで、滅ぼしたい存在を、愛が流れる存在と感じることができるようにされることでした。
堕落世界と堕落人間はこの神様の精誠の上に立っています。
神様が真の父母様を愛される愛と同じ愛を堕落人間が受けているのは、あまりにも特別なことです。私達食口、祝福家庭は、祝福によりすべての罪が清算されているので堕落人間の範疇ではありませんが、本然の人間ではありません。やはり神様の精誠があって初めて現れる愛の上に立っているのです。
それを忘れてはならないのです。

⑤真の父母様による神様の恨の95%の解怨と、子女による5%の解怨
前節においては神様の精誠の投入によって対象に対する愛を増大していかれたことを紹介しました。愛の心情が全く湧かない怨讐に対して愛の心情を持つ道はこれしかなかったのです。
しかし、神様の恨は神様と人間の関係性から生じたものなので、最終的に神様の恨を完全に解怨するには、神様の恨を解放しようとする人間の存在が不可欠です。
この課題に取り組まれ人類史上初めて解怨を成し遂げられたのは真の父母様でした。
神様の恨は、神様自身の体として創造されたアダムを失い、神様の妻として創造されたエバを奪われ、ご自身は独身生活と獄中生活の道を行かれたことです。更にその上に、この恨を生じさせたサタンと堕落人間を祝福し、僕のように侍る道を行くことを余儀なくされたことです。
真の父母様は、2013年の基元節において神様が真の父母様という体を着て聖婚されることで、この恨のほとんどすべてを解怨されました。
そのことをもっとも端的に表す言葉が「天の父母様」であり「天の父母様聖会」です。
私たちは神様のことを天の父母様と呼びます。過去においては天の父あるいは天のお父様でした。これは神様の並ぶ者のない尊厳性を表わしていると考えられていましたが、実は母という相対がいない独身という立場であるという余りにも切ない意味を内包していたのです。
これまでに数多くの宗教があり、天の父を信じる宗教にはなりましたが、母がいない宗教を信じてきたのだというこの恥ずかしい事実を、この時間爆発させてしまわなければいけません。2012年陽暦7月16日韓国・清平の清心平和ワールドセンター
神様も寡夫だし!昼の神様 夜の神様も寡夫達なのです!寡夫はいなくなります。先生のせいで、先生のせいでなくなることができません!…そうでしょう?…先生が必要だからその日を待っているからそれを…先生が知っている人が思い通りにできません。あなたたちははっきりと知りなさい。父母様の聖婚式、その日を同じ時間に祝福してあげるならばそれ以上の福はないでしょう。
天地共鳴圏と真の御父母様の聖婚 2011年天暦8月4日~7日 天正宮
2013年の基元節のご聖婚によって神様の積年の恨は95%まで解怨されました。しかし、堕落人間が存在し、堕落世界が存在する限り神様の恨は完全に払拭されません。
堕落人間がこの世界から一掃されない限り神様の恨の完全解怨は成し遂げられません。このためには私たちの子女の立場での5%が必要です。
⑥復帰摂理の基本法則である内的刷新と外的粛清
原理講論の後編 第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と復帰摂理延長時代 第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代、において内的刷新と外的粛清という概念が出てきます。
南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つたびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされたのであった。
この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。
統一王国時代、キリスト王国時代の失敗を収集するために、神様はみ言による内的刷新の摂理をなされます。それでも悔い改めて刷新できない場合は外的な存在を登場させて命を奪うという外的粛清を行うことで、悔い改めへのより強い役事をされます。
この内的刷新と外的粛清というのは復帰原理に基づいてなされるものです。復帰原理は創造原理から出てくるものなので、一見、残忍に見える外的粛清という概念は、人間を復帰するために致し方なく行わざるを得ない御業であることが分かります。
