お母様が胎児の私を胎中に入れてくださる天心苑
完全な天の父母様の愛、完全な真の父母様の愛が存在するようになりました。本当は何も心配いらないのです。愛においては天国は既に始まっています。それを実感したところから「私」も天国に入ります。
この章の結論は一番最後にあります。自分では、求めていたのはこれだ!という気がしています。不足な私ですが天心苑特別徹夜精誠祈祷参加85日目(2023年12月15日925回)で頂いたものです。いきなり結論に行かれるよりそこの至る過程である前の部分をお読みになってから最後の部分をお読みになることをお勧めします。
すべての人が本当に幸せになれると確信いたします。いよいよ最終的な救いと祝福の時がやってきました。共に分かち合いましょう!
<天の父母様との関係が切れた人類>
神様と人間の関係について根本的な理解が必要です。
人類始祖アダムとエバは天の父母様が直接の父母です。
アダムとエバの子女は天の父母様を縦的父母として、完成したアダムとエバ、すなわち真の父母を横的父母として誕生するというのが創造原理です。
しかし、人類始祖が堕落することで全人類は縦的父母と横的父母との関係が断絶しました。
堕落人間にとって縦的父母は神様という信仰の対象になりました。神様が人間の本当の父母だという考え方は堕落歴史に埋もれてしまい、神様は全知全能なる絶対者、偏在される宇宙の運行者、人間世界に君臨される存在として畏敬を伴う信仰の対象となりました。
これは家族としての関係ではありません。神様と人間が親子であり家族であると実感できるなら宗教は必要ありません。
キリスト教のみが神様を天の父と呼びますが、イエス様が神様を父と呼ばれたのでキリスト教徒も父と呼ぶだけで、実の父親だという心情を伴っていません。
歴史上初めて真の父母様が神様を天の父母様だと証しし宣言されました。真の父母様にとって、天の父母様という呼び方は神学的ではなく情的実感を伴った呼称です。その基台の上で私たちが神様を天の父母様と呼んでいることは歴史上の奇跡です。神様はそう呼んでくれる子女が出現するのをどれほど待ってこられたことでしょうか。
信仰の対象ではなく実の父母として呼んでくれる人間を何万年、何十万年、何百万待ちわびながら耐えに耐えて摂理してこられました。気が遠くなるほど長い歴史を通して余りにも孤独だった神様の切ない心情を感じながら「天の父母様!」と呼んで差し上げることが必要だと思います。深くこの心情を抱きながら「天の父母様!」と呼ぶだけで祈りは完結すると言っても過言ではありません。心の底から天の父母様と呼ぶなら神様は涙を流さざるを得ないのです。
<堕落世界の異常さに気付くこと>
私たちはこの堕落世界の常識の中で生まれ育ったので、この世界の異常さに本当の意味では気付いていません。以前お話ししました貨幣経済はお金という条件付きで与えたり受けたりする体制です。代償としてのお金を払わなければ何も得られない世界です。また、お金をもらわなければ何も与えない世界です。神様の愛である無償の愛のかけらもありません。完成した天国に住む後孫が見るならば、現在の経済社会、経済構造は余りに異常で想像すらもできない世界です。
それよりもっと異常なのが天の父母様を神様と呼ぶことの異常さです。家庭において父母や父を神様や主と呼ぶ子供はいません。ユダヤ教やイスラム教ではヤーウェ、アラーなどの名前で呼びます。キリスト教では天の父母様を神様と呼んだり、父と呼んだりしますが絶対者に対する畏敬の念は強くありますが、親しみは稀薄です。
自分の子供が親である自分を絶対者の神様だと思って対してくるとすれば、親に喜びはあるでしょうか?苦痛でしかありません。
世の中の宗教はすべて異常です。また、無神論においては親がいるのに自分には親はいないと言って自慢しているのですから、天の父母様からすると人間が余りにも可哀そうで、辛くて泣き崩れるほどの苦痛です。
この世界は改善していくことで変わる世界ではありません。全面否定からしか始まらない異常な世界であることを気付くことが重要です。存在するだけで神様の心情を蹂躙し、天の父母様が悲しみの涙を流さざるを得ない世界です。
<真の父母との関係が切れた人類>
横的父母については更に深刻です。人類始祖の堕落により横的父母は消えてしまいました。
天の父母様については人間が父母だということが分からなくても、天の父母様は存在しておられました。しかし、横的父母は消えてなくなったのです。人類は歴史を通して横的父母は絶対に必要だということに対して全くの無知でした。
全ての人間には父母がいます。その父母の父母が祖父母であり、それが先祖圏につながります。しかしそのどこにも横的父母はいません。いかに信仰的な父母や先祖を持とうとも、それは神様の血統とは関係ありません。歴史を通して創造原理に従って生まれた人は誰もいないのです。神様と私たちをつなぐ本然の横的父母を通過しないで私たちはこの世に生まれました。私達の横的父母はサタンと堕落エバです。しかしこれは偽物です。私達は虚しく生まれたのです。不良品どころか存在自体が許されない存在です。
世界の万民は真の母が現れる前に生まれたので、意味もなく生まれたことになります。それでイエス様と接ぎ木した立場でイエス様の腹の中に入っていって、イエス様が夫婦になったとき、聖霊を通じて再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたので、真の愛を通じて再び生まれなければならないということです。キリスト教で愛を強調する理由もそこにあるというのです。「祝福家庭」第一章 真の父母と祝福 二 真の父母と重生と血統転換 2.重生摂理の核心 ②重生しようとすれば
それなのに家柄を誇り、容貌や諸分野の能力、自分の民族や国家を誇っている人がどれほど多いでしょうか?
ましてや堕落人間という基盤の上に構築した学歴、職業、地位、名誉、財産など誇ることはもっと虚しいことです。自分はそんなことには囚われないと断言される方もいるかと思いますが、これは潜在意識にまで入り込んでいて、あるきっかけで表面化します。そんなに生易しくありません。食口の中にも我知らずこのような内容に価値を置いている方がいますが、あまりに悲しいことです。この執着の根は深いのです。深い分だけエジプトに生きる人です。これがいかに恥ずかしいことであることを身に染みて知る必要があります。この世に対する絶対否定からしか最終的な出エジプトは始まりません。
とりわけ、あなたの父母は誰ですかという問いに対して心の底から真の父母様ですと言える食口がどれほどいるでしょうか?孝進様や興進様なら即座に真の父母様ですと答えることができますが、私たちはそうではありません。
孝進様や興進様は肉親の父母が横的父母ですが、私たちは肉親の父母が横的父母ではありません。つまり私たちは横的父母から生まれることができなかったので横的父母がいないのです。私たちは真の父母様から生まれなかっただけでなく、赤ちゃんの時、お母様の母乳を与えられたことはなく、お父様に抱いてもらったこともありません。肉親の父母と経験したような思い出が真の父母様との間にはありません。
これは知的な問題ではなく情的体験の問題なので簡単なことではありません。
<真の父母様と私達の仲保者>
人類始祖アダムとエバが堕落することで、人間は本当の父母を失ってしまいました。
私たちは堕落の血統の肉親の父母から生まれました。誰に聞いても養子として育てられた人以外は自分を産んだ父母が自分の父母だと答えます。
私たちは真の父母様を知っています。み言を通して、真の父母様が自分の本当の父母だと知ったのです。しかし心から自分の本当の父母だと思えるかと言えば、それは簡単なことではありません。食口であれば真の父母様を信仰からではなく、自然の情として自分の本当の父母と思えるようになりたいと切望しています。そう思ったとしても無理やりできることではありません。私たち食口にとってこれは信仰生活の根幹にかかわる問題です。
知的に分かったとしても情的に感じるかは全く別次元の問題です。
天心苑特別徹夜精誠において天心苑はお母様の腹中だということが何度も語られます。知的にそれを理解することがとても重要ですが、その理解は第一歩に過ぎません。本当にお母様の胎中だと感じられるかは情の問題です。更に根本的にはお母様が自分の本当の母であり、実の母として慕う気持ちが自分の中に生まれているかという問題になります。そして母として慕う情が生まれていたとしても、その情が弱いものであれば重生は起こりません。
天心苑祈祷会はお母様を実の母として感じる情を求めて祈っていると言えるかも知れません。
天心苑にはご父母様の尊影の他に、孝進様、興進様、大母様の尊影もあります。それはご父母様の心情に至るには仲保者が必要だからです。
皆さんは、腹中から生まれたカイン的存在として、お母様を愛すると同時に、その赤ん坊を愛する立場に立たなければなりません。
そして、彼らと一致化することによって、双子と同じ班列に同参したという心情的条件を立て、彼らに侍る立場に立たなければなりません。
そうしてこそ、腹中における二つの種の反発を防ぐことができます。反発した堕落の起源を防ぐことができ、ここで復帰されるのです。第二編 真の父母 第三章 第二節23 1970.10.19
私たちはお母様から乳を与えられたりおむつを替えてもらったりしたわけではありません。お父様に抱かれあやされたこともありません。人間は幼児期に受けた愛によって父母に対する情が生まれます。私たちはそれが抜け落ちているので真の父母様への情が観念的になってしまいます。そこを埋めてくださるのが孝進様、興進様、大母様です。孝進様や興進様は直接父母様の愛を受けられた実子です。大母様はみ旨に忙しい父母様の代わりにご子女様に愛を注がれました。更にお母様の実母の立場からお母様を実の母と感じる情を完全に復帰されました。それで孝進様、興進様、大母様を慕うことを通してご父母様を実の父母と感じる情を相続できるのです。天心苑で祈ると孝進様、興進様、大母様が近く感じます。そして孝進様、興進様、大母様を通して真の父母様を実の父母として感じる情を相続できるように用意されているのを感じます。(この基台の上で更に根本的な解決策と思われる内容を最後にお話しします。)
<全知全能なる絶対者から天の父母様の誕生に至る道>
信仰生活とは何か、何が中心なのかは分かっているようで腑に落ちるまでは感じてはいないのではないでしょうか。信仰生活は真の父母様に似たものとなることだというのは間違いないことです。更にイエス様が「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなりなさい。」と言われたように最終的には神様に似ることだと言えます。それでは神様に似るとはどういうことなのでしょうか。
神様がお一人で全知全能で偏在される絶対者であっても大きな喜びにはなりません。それは既にご自分で持っているものです。ご自分だけでは手に入らない最も尊いもの、自分の思い通りにならないがゆえに手に入れた時の喜びはとても大きなものになります。
全知全能なる方が一つだけつくれないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。
「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 3.神様も愛の前には絶対服従である
神様は絶対者なので愛においても絶対なる愛を求められます。愛とは好きだということだというみ言があります。神様が被造物、特に人間を創造される時に、対象に対する愛すなわち好きだという情感が絶対になるにはどうすれば良いのかと考えられたと思います。ただ作っただけでは流れる愛は絶対にはなりません。
レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作とされるモナ・リザは、製作に数年費やし大変な苦労の末1508年ごろ一応完成したと言われていますが、それでもまだ満足できず1519年に亡くなるまで筆を加え続けました。依頼主に渡すことなく肌身離さず持っていました。
モナ・リザはダ・ヴィンチにとってかけがえのない愛の対象であったことが分かります。
さて、神様の創造の目的は人間そのものではなく、人間に流れる愛だというみ言があります。
神様は、真の愛の為に天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。「天一国主人の生活」第一章 創造の原動力は神様の真の愛 一 真の愛は神様のみ旨がとどまる中心
神様の創造について類推してみると、神様の創造理想の中心にあるのは人間ではありません。真の愛です。真の愛と呼べる愛を出現させることです。神様の中に初めから真の愛があったわけではありません。もちろん種はありましたが、まだ真の愛は完成していません。神様が求められたのは愛が絶対性、不変性をもって流れる対象です。
被造物、特に人間に対して絶対、不変な愛が流れるようにするにはどのように創造すれば良いのか?神様は真剣に求められたと思います。
絶対愛とはたとえ自分の命がなくなる状況でも相手のために生きたいという愛だということができると思います。神様の全知全能で偏在する絶対者の立場を失ったとしても人間に流れる絶対的な愛を得たい、そのレベルにある愛です。
その愛は真の愛と呼ばれる愛です。別に表現をすれば、人間を絶対信仰し、絶対愛し、絶対服従したいという心情が自然に流れでるレベルの愛です。神様が人間に絶対服従したいと切望する情が流れて止まらないほどに強い愛です。
人間を創造してみたら真の愛が流れたのではなく、真の愛が流れるレベルにまで創造にレベルを上げられたということです。人類歴史においてこのような創造活動をした人間は一人もいません。このため真の父母様が現れる前には神様の創造の本当の姿に気づいた人は一人もいませんでした。
神様の創造について概観すると、
神様は愛を最大に流れるように創造されました。
愛の初めは自己愛です。神様が自分自身を見て好きだと感じる情が初めにありました。
その自己愛が成長した、あるいは大転換したと言っても良いと思います。
その異次元の愛は創造活動によって生じました。
これは自分の命よりも人間を愛されるレベルの愛です。
そのような愛なので、神様は自分を捨て人間に絶対服従されることを願われます。
創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。神様がみ言によって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらに創造したかのように理解しています。違います。そうではありません。ここには真の生命を完全に投入して、真の愛を完全に投入して、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。
それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 一 神様の二性性相の大展開 3.神様の宇宙創造の動機は愛
真の愛が出現する前と後では神様は別存在だと言っても良いほどに違います。
「創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。」とありますように、愛する対象が自分しかない状態から、人間を愛することが生活の全ての状態に激変したのです。
それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の一二〇パーセント、何百倍を投入して造ったのです。
「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる 1 神様と人間は父子の関係
知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる 1 神様と人間は父子の関係
人間に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従で対したいをいう気持ちが溢れて止まらないようになるまで、投入しまた投入して創造されました。愛を与えては忘れ、愛を与えては忘れするうちに気が付いたら無限の心情が投入され、無限の時間が経過していたのです。神様はこれを一人一人の人間に対して行われました。
これによって神様が私たち一人一人を見る時、愛が止まらないのです。
これは天地創造での話ではありません。天地創造以前の神様世界での創造です。統一思想でロゴスの創造と言われているものです。ロゴスと言っても単なる設計図ではありません。触れるほどに現実感のある構想理想です。これは人間一人一人の種だと言っても良いと思います。このように私達の種を創造されたので、種がサタンの血を受けて醜い姿として実を結んだとしても神様の私たちに対する愛は変わりません。ビクともしないのです。
無限の時間をかけて無限の心情を投入された子女なので堕落したとしても不変の愛の対象なのです。逆に、人間が可哀そうで、可哀そうで何とか元に戻したいと必死に助けようとされる対象なのです。人間に対するこの根源的な愛が復帰の原動力だったのです。
<天の父母様誕生の奇跡>
ここで神様の創造と愛についての前出の内容を再確認してみましょう。
・神様は愛が最大に流れるように創造されました。
・自分で自分を愛する愛よりも人間に対する愛が大きくなるよう創造されました。
・自分の命よりも人間を愛されるレベルにいたるまで愛を投入されました。
・そのような異次元の愛なので、神様は人間に絶対服従されることを願われます。
・一番好きなのが自分だったのが、自分を愛するよりももっと強い愛が流れるような対象を造られたのが創造だったのです。
このような情の絶対投入によって生まれた情こそが、父母の愛です。神様は初めから父母だったわけではありません。人間に無限の心情投入されることで神様から天の父母様になられたのです。父母の情が存在する背後には神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従による創造があったのです。真の父母の愛はこのような神様の無償、無限の愛の投入によって成し遂げられた奇跡なのです。
この心情世界は呼名祈祷することで感じることができます。神様の人間一人一人に対する創造は、私たちが呼名祈祷で一人一人の名前を呼ぶのに似ています。心情込めて一人一人に心情を投入するのですが、神様の場合はこれが無限の時間であり、無限の精誠の投入なのです。これを一人一人に対してなされた結果として私の種が生まれたのです。
私たちは生まれた時には父母がいました。ですから父母という存在は当たり前のように考えているので父母の始めがあったとは考えたりしないと思います。神様がまだ父母ではなく全知全能の絶対者としておられた時代があったわけですが、絶対的な父母という情を持たれた神様の出現こそ本当の神様の誕生だと言っても良いと思います。
子女を持たれた神様は家族を持たれた神様です。家族とともにある神様の情が昼のように明るいのに比べて、神様がお一人だった時代はそれに比べると暗闇だと言えます。
<天の父母様は私たち一人一人の実の父母>
天の父母様は天のお父様と天のお母様が一つになったお方です。この種は天のお父様の精子と天のお母様の卵子が一つになったものです。これは単なる構想理想ではなく、無形の父の愛と無形の母の愛、すなわち天のお父様と天のお母様の愛し合う所から生まれたものです。私たち一人一人は天の父母様夫婦の愛の結実です。ですから天の父母様の息子、娘なのです。
神様は、見えない内的なアダムの位置にいらっしゃり、また見えない内的なエバの位置にいらっしゃいます。アダムは、人類の前において、内的なお父様に侍る実体の父として立とうというのであり、またエバは、内的な母の神様に侍る実体の母として立とうというのです。このようにして縦的な基準から横的基盤へ拡大させようというのです。
「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 三 神人一体と愛の理想完成 2 神人愛理想の根本原理 ③真の血統の根は神様
このように見るとき、私たち一般人たちが普通「天のお父様!」と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に「天のお父様、お母様」という概念が入っているというのです。 「成約人への道」第一章 人生観 三 人間の価値は偉大である1.人間の価値は神様的価値
霊界に行けば、天のお父様だけがいるのではなく、天のお母様がいるのです。父と母がいなくて生命体が出てくることができますか。そのような父母のように、アダムとエバの背後には、分かれて出ていた神様が一つになっています。
第七篇 地上生活と霊界 第二章 霊界とはどのような所か 第二節 霊人の生活22 1977.1.1
<父母の心情を相続する天一国時代>
このように見ていくと天の父母様、真の父母様と言う言葉がいかに重みのある言葉かが分かってきます。
天の父母様が歩まれた神様から父母への道は、それで終わりではなく人類始祖が堕落することで苦難の父母の道が数十万年、数百万年と続きました。しかし人類の父母の心情は全くぶれることなく絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道を貫かれ再創造に道を勝利されました。
お父様とお母様が真の父母として勝利される道は神様が行かれた創造の父母の道と苦難の父母の道を完全に相続することでした。そして神様の父母の心情を完全に相続され勝利されました。真の父母様が勝利されたというのはこのことです。
このように見てみると、復帰において本質的に重要なことは信仰以上に父母の心情の相続であることが分かります。
そういった意味で復帰摂理を概観するとイスラエル民族が異民族と戦争して滅ぼしたり、世界大戦でサタン世界を武力で屈服させたりする道は本質とはかけ離れていることが分かります。
イスラエル民族は異民族に対して父母の心情を持てなかったし、神側のキリスト教国家群はサタン側の国々に対して父母の愛を持てませんでした。武力で相手を屈服するのは本当の天の願いではないのです。父母の愛で愛することできないので仕方なくせざるを得なかった二次摂理なのです。
ヤコブがハランからカナンに戻った時にエサウは400人率いてヤコブを打ち滅ぼそうとしていました。この時ヤコブは戦うこともできました。戦えば勝利したかもしれません。
しかしヤコブはエサウの心情が良く分かっていたのです。ハランで叔父ラバンから10回も騙されることで、カナンでパンとレンズ豆のあつものでエサウから長子権を奪ったことが、エサウにとってヤコブを殺したいほどの恨として残っていることが分かったのです。
エサウは父母であるイサクとリベカから長子に相応しい相続を受けると思っていたのに、すべてをヤコブに奪われた立場に立ったのです。
それが分かったヤコブはエサウが父母からもらうはずだったものをすべて用意してエサウに上げたのです。ハランで復帰した万物や僕たちをエサウに差し出し、妻子とともに地にひれ伏してエサウを長子として侍ったのです。それでエサウはヤコブの姿に父母を感じたのです。エサウにとってはイサクとリベカという父母、そして弟ヤコブが全部戻ってきたように感じたのです。父母を中心に失ったと思っていた家族が戻ってきたのです。
それで「するとエサウは走ってきて迎え、彼を抱き、そのくびをかかえて口づけし、共に泣いた。」(創世記33:4)となったのです。
これが復帰摂理においてヤコブが唯一の勝利者だと言われるゆえんです。これを天宙次元の父母として勝利されたのが真の父母様です。
<天心苑で相続すること>
私たちが勝利するためには孝情を相続する必要があります。子女として備えるべき心情世界です。それで私たちは天心苑特別徹夜精誠でアボジ、オモニと叫び、父母を慕う心情で祈っています。
2023年12月7日の919回の天心苑祈祷会で苑長が孝進様からの啓示を紹介されました。
孝進様は、「父母の心情が最も高い、子女から父母になる必要がある。父母の心情を所有することが重要だ。」と言われました。孝の字を冠する孝進様が目指しておられることだと感じました。
孝情の相続で終わるのではなく、最終的には父母の心情を相続することが天心苑でなすべきことです。そういう意味で天心とは父母の愛のことだと感じます。
天心苑は父母の愛の園だという意味だと思います。
いかなる人に対しても、いかなる氏族、民族、国家、世界に対しても父母の愛で対することが最終的ゴールです。怨讐と感じるのは自分が父母の情に至っていない証拠です。
父母の愛はすべての愛の源泉です。父母の愛から夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛が生じました。父母の愛にはすべての愛が含まれるのです。それですべての人が父母の愛を求めています。
人類すべてを兄弟として愛するのにも兄弟愛の背後に父母の愛がなければなりません。
神様の奇跡の精誠によって生まれた父母の愛を私たちが相続することができるか否かで天国がなせるか否かが決まります。
天の父母様と真の父母様には完全な父母の愛があります。あとは私たちの番です。父母の愛を持った集団が現れれば天国は実現します。父母の愛がある所に人は集まって来ます。
それは天心苑に集う兄弟姉妹から始まります。
<真のお母様の胎中に天国がある>
「私」に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従するまでに至られた天の父母様。そのレベルに至るまで私に対して精誠と愛を投入してくださったという事実があります。
投入された神様を感じること、それを感じることが最も重要なことです。その時が神様を私の本当の父母だと感じる時です。
その神様の愛と全く同じ愛を完全に相続する道を真の父母様の道が歩まれました。
それは私を実の子供だと強く、強く、深く、深く感じておられる真の父母様だということです。
信仰生活は天の父母様と真の父母様が私の本当の父母だと実感するためにある。それが信仰生活のゴールです。
それは既に投入されている愛と精誠に気づき感じることでなされます。
天の父母様と真の父母様は私を産んで下さる方というより既に産んで下さった方だというべきだと思います。つまり天の父母様と真の父母様にとって私の重生は既に終わっているということです。愛の観点から見れば全人類の重生は既に終わっているということなのです。
天の父母様が一切のけがれのない私を産んでくださり、真の父母様が一切のけがれのない私を産んでくださったのです。これは過去完了なのです。既に本然の私は誕生しているのです。愛の観点から見た時にそういう結論になります。私に対する縦的父母の愛、横的父母の愛は完成しているのです。これは父母の立場から見た時に私は既に生まれているということになるのです。
信仰生活は私が天の父母様と真の父母様を実の子女だと感じるためにあるという結論になります。
しかし私には天の父母様と真の父母様が実の父母だという情があまりに不十分だという事実があります。それを埋めてくれるために与えてくださったのが天心苑なのです。
全知全能なる天の父母様ならあり得ることだとしても、真の父母様にとっては見ず知らずの私を子供だと思われるはずはないという愛に対する不信感、不安感があると思います。
真の父母様は天の父母様の完全な共鳴体として完成されました。真の父母様が天の父母様の直接主管圏に入っておられるというのはそういうことです。天地人真の父母という言葉は神様だけを表わす言葉ではなく、また真の父母様だけを表わす言葉ではありません。神人一体となった存在を表わす言葉です。基元節をもってそういう存在が生まれたのです。
私達も完成すればそうなるのです。私であり神様である、神様であり私である存在、それが完成体です。今までの宗教は人間が天国に行くと思ってきたのですが、天国に行くのは神人一体化した存在なのです。神様と私が完全に一つになって行くのが天国なのです。
天地人真の父母、完全な父母の愛が出現しているのです。私が感じることができていないだけで、私の縦的父母と横的父母がすでにおられるのです。つまり天の父母様と真の父母様の実の子である私は既にいるのです。神様と真の父母様にとって私に対する溝はありません。私を子女と感じる生々しい情が既にあるのです。
私には天の父母様と真の父母様に対する情的な溝があります。私が感じている情的な溝、愛の暗闇を埋めてくれるのが天心苑なのです。天心苑は天の父母様と真の父母様の愛を思う存分浴びる場所なのです。
私たちが感じる、天の父母様と真の父母様に対する愛の溝を埋める道を用意してくださったのが天心苑です。
天心苑について様々なみ言がありますが、一番大切なのは天心苑がお母様の胎中だというみ言です。
これはお母様が私たちに対して「早く私の胎中に入って来なさい」と呼び掛けておられるということなのです。
天心苑で祈ってこのお母様の言葉を感じてください。
完全なる真の母が存在するのです。どんなに不信仰でも、罪が多くても。どんなに堕落性に満ちていても、どうしようもない自分でもお母様にとってはそんなことは関係ないのです。私はお母様にとって愛が流れて止まらない子供なのです。胎中に入りなさいと切望される真の母がおられるのです。完全な母の愛が存在するのです。
母の前に遠慮など無用なのです。
幼子よりもっと根源である胎児となってお母様に胎中に入ってください。胎児は母親を愛そうという気持ちはまだありません。ただ愛されるために存在します。それで良いのです。そこからしか始まりません。
そこは人類が求めてきた安息の地です。
そこでゆっくり休んでください。
一切の重荷をおろして休息してください。
お母様が皆さんの今までの苦労をすべて癒してくださいます。
聖霊実体とは賛美するためにある言葉ではありません。本当の癒しがあるのです。完全に癒されるので救われるのです。それで初めて愛が分かるのです。愛が全身に沁みわたるので愛せるようになるのです。
お母様の胎中。
乳と蜜の流れる地、そこは本当のカナンなのです。
そこには真のお父様も天の父母様もおられます。
ついに天国に着いたのです。