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​世界の諸問題の根本にある堕落性

①社会問題や世界的課題に潜む真の原因

 

どんな事でも問題を解決しようとすれば原因を見つける必要があります。問題に対する解答を用意したとしても原因が解消されない場合は解決することはできません。また、原因にたどり着いたと思ってもその先に更に原因がある場合もあります。

 

たとえば、格差社会を例にとって考えてみましょう。

かつて日本社会は平等かつ均質で、一億総中流と言われていた時期がありました。しかし、今や日本における格差の度合いが第一次世界大戦以前のレベルにまで広がっていると指摘する学者もいます。

世界の状況は更に深刻です。貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム」は2017年1月15日、世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだったとする報告書を発表しました。また、トップ10の大企業の収益の合計は、下位180の貧しい国々の収益以上だというのです。

 

この問題を解決するには原因を解明する必要があります。

IMFは格差の主因として「技術革新」と「金融のグローバル化」を指摘しています。また、教育格差、世界的な経済成長の停滞、資本主義体制の限界、高齢化、社会保障制度や税制の不備をあげる著名な学者や知識人もいます。

しかし、これらのことが本当の原因ではないことは、私たちは良く知っています。

 

真の原因を探るために、1776年に「国富論」を著し近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミスを見てみましょう。

経済活動に潜む巧妙な悪

アダム・スミス(1723-1790)の人間観は、人間は基本的に利己的存在であるというものです。このため、彼は、経済活動は人間の利己的な利益の追求を中心としてなされると考えました。

国富論の中で、人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えても、個人の集合体である社会全体としてみれば、市場経済の需給による自動調整機能である「(神の)見えざる手」によって社会全体の利益になるような状況が達成されると述べています。

 

アダム・スミス自身は英国のグラスゴー大学の論理学教授や道徳哲学教授などを歴任し、倫理、道徳、正義を重視する人物で、経済活動においても倫理、道徳、正義の重要性は当然と考えていました。しかし、国富論の中に出てくる、個人が利己的に利益を追求したとしても神の見えざる手によって社会全体の利益が達成されるという考えは、その部分だけがアダム・スミスの権威を伴って独り歩きし、個人や企業が利己的に利益追求したとしても結果的には社会貢献になるという論理として、富を追求する個人や企業に強く支持されてきました。

 

例えば、ある企業がこれは売れると思って新製品を出したとしても、人々が良いと思わなければ売れません。値段を安くすれば売れるかもしれません。逆にある程度売れるだろうと思って出した製品が人々のニーズにフィットしてどんどん売れてしまい、定価で売ったり、あるいは値上げしても売れることもあります。

このように、個人や企業が利己的な利益追求の上で経済活動をしても社会が評価しなければ利益は上がりません。逆に社会が評価すれば利益が上がります。この仕組みがあることで、たとえ動機が利己的でも結果的に社会貢献になりうるという論理が出てきたのです。これは、大きな利益を出した個人や企業は大きな社会貢献をしたことになるという論理に帰結します。

 

一見そういうこともあるかと思わせる内容ですが、実際は利己心の正当化を図るための論理であることが分かります。

良心の呵責の力はとても強いので、利己心を持つと同時に良心の呵責が生まれます。これを鎮め正当化するためには、自分も社会も納得させることができるような論理的な大義名分が必要となります。

 

共産主義理論においてはこの仕組みが顕著に現れています。共産主義の大義名分は労働者の天国の実現です。しかし、その手段である暴力革命を実現するには、殺戮に対する良心の呵責を鎮める必要があります。そこであらゆる詭弁を弄して殺戮を正当化する論理を構築しています。

資本主義においてはそこまでひどくはないのですがやはり巧妙な論理が隠れています。資本主義の大義名分は社会貢献です。社会貢献という御旗を掲げて良心の呵責を鎮め富に対する自己中心的な欲望を正当化しています。

 

これを原理的に見ると、社会全体の事よりも個人や企業の利益を優先するという堕落性に基づく経済活動をしたとしても、結果として社会の利益になるという巧妙な堕落性肯定の論理だということなります。

 

このように、自分のしている経済活動は社会貢献ですと胸を張っても、動機が自己中心という堕落性で始まっているので、このゆがみは利益の分配に現れます。利益の自己中心的独占という形を生み出します。これが格差の直接原因です。

 

更に、個人と個人の衝突から始まって国際紛争や国家間の軋轢にいたるまで、その原因も堕落性にあります。人間の良心は他の人や他の国と仲良くしなさいと叫んでいます。しかし、相手の悪い点を探し良心の呵責を鎮めるような自己正当化の理論を作ることで現状を変えようとはしません。

国家と国家の衝突、軋轢において良心の呵責をだます大義名分の中心となるのは国益です。国民も、政治家の選択を堕落性を通して判断するので、国益を持ち出せば文句は言いません。しかし、良心は国益よりも世界益だと叫んでいます。

このように様々な社会問題、国際問題の真の原因は堕落性です。

アレッポにある国内避難民が身を寄せる避難所の近くの道で座っていた3歳と4歳の男の子。© UNICEF_UN013175_Al-Iss
戦争や紛争の真の原因
フィリピンの貧しい子供.jpg
格差社会の真の原因

②愛とクオリアの観点から見た堕落性と堕落世界の本質

 

堕落性は社会問題や国際問題の真の原因に止まらず、個人や家庭においても不幸を生み出す真の原因です。

犯罪の原因は堕落性です。

離婚の原因は堕落性です。

浮気の原因は堕落性です。

遺産相続問題の原因は堕落性です。

パワハラ、モラハラ、セクハラなどの原因は堕落性です。

 

人間の創造本性は自己中心ではありません。堕落してそうなったのです。ですから、個人から世界に至るまで、あらゆる問題は根本から解決する道があるのであり、解決するカギは堕落性の解決にあります。

 

この堕落性を脱ぐには堕落性が生じた原因にまで遡る必要があります。それはもちろん人類始祖の堕落です。

アダムとエバは、神様を父母として兄と妹の関係でした。

これが堕落することで、神様と人間の親子関係が切れました。

アダムとエバの間にあった本然の兄妹姉妹の関係は失われました。

 これはクオリアという観点で見ると、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛という本然の愛のクオリアを失ったという事になりました。

 

本然の世界では、全く初めて会う人に対しても兄弟姉妹の心情が自然に沸き上がります。あるいは年の離れた目上の人に対しては祖父母や父母のように感じたり、子供に対しては自分の子供のように感じるようになっていました。また、相対者に対してのみ夫婦の情を感じるようになっていました。

家族でない人に対しても同じ血統、同じ血肉を感じるので、自然に家族のような情が湧き上がるのです。本然の世界では、他人に感じる情、他人というクオリアはありません。

 

一方、この世では自分の家族や親せきや親しい人以外は他人として映ります。堕落人間の人間を見る時の基本的構図は身内と他人です。

他人に対する時の情の根底にあるのは基本的に警戒心と不信感です。

それから他人に対して兄弟姉妹の情はありません。異性は異性として感じるようになってしまいました。

これがこの世界の二大問題、カインアベルの闘争問題と、男女問題の根本原因です。

 

堕落世界においても仲の良い実の兄弟姉妹の間では堕落性はあまり見られません。自分よりも優秀な兄弟姉妹がいた場合、自分の誇りとして感じ他の人に自慢したくなったりします。妬みや嫉妬はありません。そこには兄弟姉妹に対する優越感や劣等感はありません。兄弟姉妹の誰かに良いことがあれば兄弟姉妹みんなが喜びます。兄弟姉妹の誰かに問題が生ずれば兄弟姉妹みんなで協力して何とかしようとします。

また、兄弟姉妹はお互いに恋愛感情を感じません。性愛の対象ではありません。

 

こうして見ると、この世界の問題は本然の家族の情、すなわち本然の家族愛のクオリアが失われた事にあることが分かります。本然の家族愛の範囲は家族を超え世界的、天宙的です。

一方、堕落世界の家族愛は、家族の中や身内の中だけにしか存在しません。堕落は本然の愛を分断し狭い範囲に閉じ込めてしまいました。逆に、性愛は一人の相対のみを求める性質を失い放縦状態になりました。

これこそが堕落性の本質です。 

他人社会の異常性
全人類が催眠術にかかっている

クオリア的に見れば、人間と人間との間に感じるべき本然のクオリアではなく、全く逆のクオリアを感じるようになってしまったという事になります。

美味しいものをまずいと感じるようになり、まずいものを美味しいと感じるような感覚に近いかもしれません。催眠術を掛けられた人が、塩をなめているのに甘いと感じたり、砂糖をなめているのに塩辛いと感じるのに似ているかもしれません。

 

堕落によって間違った感覚、間違ったクオリアに騙され続けてきたと言っても良いと思います。

本当は兄弟なのに敵と感じて殺し合いをしたり、兄弟姉妹なのに性愛の対象として感じて淫乱に走ったりしてきたのです。サタンの血統になることによってサタンの偽りの感覚を植え付けられたのです。これが堕落性の正体です。

 

人を身内と他人に分けて感じるのは、この世では普通だと考えられていますが、実は堕落性です。

人を兄弟姉妹や家族として感じないのは当然の事ではなく堕落性です

異性を異性として見たり、憧れを超えて恋愛感情を抱いたり、性愛の対象として感じることは一般的なことで人間の自然な感情のように思われていますが、実際は堕落性です。淫乱の思いは確実に堕落性です。

 

誰でも家族や親せき、親しい人以外は他人と感じています。それが当たり前のことと思っていることが実は本然にはあり得ない異常なことなのです。堕落により、騙しの世界、偽りの世界に生きているのに、それが当たり前のことになってしまったのです。これこそ本当の洗脳ではないでしょうか?

 

恐ろしい洗脳です。戦慄すべきマインドコントロールです。本然の愛の世界をすべて破壊するように洗脳されています。催眠術にかけられているかのようなのです。そしてこの洗脳、マインドコントロール、催眠術の恐ろしい所はその異常さに気付かないばかりでなく、それが人間らしさだと思っていることです

 

他人、他民族、他国だと感じるから相手に対して堕落性が発現します。排斥、差別、殺戮や強奪、侵略が起こってしまう理由がそこにあります。

実の姉や妹に対して性愛の情を感じる兄や弟がいるとすれば気持ち悪く眉をひそめます。他人だと感じるから性愛の対象として感じてしまいます。兄弟姉妹ではなく異性と感じてしまっているのは騙しの世界、偽りの世界に生きているからです。

 

兄弟姉妹関係が初めにあって、次に夫婦になるのです。これはアダムとエバだけの世界ではありません。本然の世界では兄弟姉妹の心情が先にあって、そのうちの一人だけが相対者になります。この世の結婚のように他人と結婚するという事は存在しない世界です。

 

他人クオリアは本当の怨讐です。騙しの世界に生きてきた自分自身を覚醒させ本然の兄弟姉妹クオリアを取り戻さなければなりません。人々を幻惑の世界から引き戻さなければなりません。神様との親子関係が切れて、そこにサタンが侵入して作り上げた偽りのクオリアの迷宮が堕落世界です。迷宮と天国は決して共存できません

③堕落性と堕落世界からの解放の道と家庭連合会員の使命

 

このように見ていくと、堕落性を脱ぐという事は、本然の家族心情を取り戻すことなのです。どんな人に対しても家族のように感じる心情を復帰することなのです。

堕落によって生じてしまった他人クオリアを捨て去り、本然の家族クオリア、家族愛を取り戻すことです。

どんな人に対しても家族と感じることができるようになれば堕落性はなくなっているという事です。堕落性を脱ぐことに焦点を置くのではなく、兄弟姉妹の愛を初めとして家族愛、家族クオリアを復帰することに焦点を置くことが重要です

 

そういう観点で見ると、真の父母様を中心とした教会の食口関係において生ずる兄弟姉妹の心情世界は堕落性を脱がしてくれる特効薬です。私たちはこの価値を本当には分かっていませんでした。

 

真の父母様は本然のクオリアを感じて生活しておられます。この世界の卓越した指導者でも真の父母様に接すると本然的に接してもらえているのが心の底から感じられるのです。相手を感化するためにはどうすれば良いかというような外交交渉で用いられるような戦術的なやり方で人に接したりはされません。真の愛の持つクオリアで心の底から接しておられるので、相手は経験したことのない喜びを感じ真の父母様に感化されていくのです。世界的な指導者たちが真の父母様についていきたいと思うのはこのためなのです。

真の父母様の語られるみ言の内容に共感することも勿論あるのですが、それ以上に真の父母様から流れてくる本然の人間の持つ情感に感化を受けるのです。世界的リーダーが真のお母様に接した時に感じる情感はそれまで知らなかった本然の母の愛、本然の姉の愛の情感なのです。

先生は、食口が慕わしくて泣くときがどれほど多くあるか分かりません。神様が今まで、真の息子、娘を探し出すためにそのように涙を流したのです。人が現れれば、「献金をいくらするだろうか」と言いながらお金のことを考えてはいけません。それはバリサイ人が見る観点です。そのような人は絶対に発展できないというのです。お金よりも、人を愛さなければなりません。人を愛せば、お金は自然についてくるのです。ところが、逆さまに考えているというのです第九篇 家庭教会と氏族メシヤ 第三章 教会長の道 第一節 教会長の使命と責任 8  1974.2.9

私たちが食口を同じ血肉を持った存在として感じることができるというのも神様と父母様から頂いた奇蹟の役事なのです。再創造の御業です。それに私たち一人一人の精誠を加えて更に本然の親子関係、本然の兄妹姉妹関係に近づく必要があります。

神様とアダムとエバの時にあった本然の親子関係、兄弟関係を取り戻す環境が教会です。教会内の兄弟姉妹の関係は、仕事仲間や同志とも全く違います。

神様が実体となられた真の父母様と私たちの親子の愛、食口同士の兄弟姉妹の愛が堕落性から創造本性へと復帰してくれるのです。真の父母様と食口はどれほどありがたい存在でしょうか。真の父母様はメシヤですが、食口もお互いにメシヤです。これによって本然の世界に帰って行けるのです。

兄弟を父母以上に愛するという人は、天国で永遠に生きることのできる人です。兄弟を父母のように愛することのできない人はここから外れるのです。その道理の根本を悟ってみると簡単です。それを知らないから今までできなかったのです。私たち食口同士が一つになったのか、なっていないのかということが問題です。父母の前に親孝行できない立場に立ったなら、父母のために自分が精誠を捧げたものを、自分の父母にあげる代わりに食口にあげなさい。そうすると父母に親孝行した以上のものとして天が受け入れてくれます。そのような人は必ず福を受けます。

「礼節と儀式」 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼式 七 兄弟間の友愛

            

天国に行く道は兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する者は、最高の愛の主体者として相手を選択するのです。「礼節と儀式」 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼式 七 兄弟間の友愛

 

そういった意味からも既にある食口世界は内的氏族です。

これをもっともっと本然に近づけていくことに心情を注ぐべきです。真の父母様に対する愛を中心として兄弟姉妹として愛することがどんな蕩減条件よりも、どんな万物献祭よりも、どんな精誠よりも尊いのです。本当に私を天国に導いてくれるのは真の父母様と食口なのです。

堕落性を本当に脱ぎたいならば、心から父母様と食口を愛することです。

 

その心情圏の範囲を教会内の氏族レベルから天宙にまで拡大してくれるのが神氏族メシア活動です。神氏族メシヤ活動は失われた本然の家族愛、家族クオリアを復帰する総仕上げです。これは数だけ成せばよいものではありません。それから、教会内において本然の心情基盤を作ったという基礎が不可欠です。神氏族メシヤ活動の前に教会内氏族形成を成し遂げた基盤が必須です。

 

天国の展示場は家庭や教会です。新しい人が家庭や教会に来て天国の香りを感じるなら復帰は難しくありません。この世には他人が兄弟姉妹のように感じて集まっている団体はありません。これは私たちの宝であり、同時に私たちの最大の武器です。教会の食口全員でこの展示場を素晴らしくする責任があります。私たちの親子関係や兄弟姉妹の心情世界を見せてあげることで、この世が迷宮であることに気づいてもらう必要があります。

 

教会内の兄弟姉妹の関係を強固にすることは今日からでもできることです。自分や自分の家族以上に他の食口やその家族のことを思いやることが本然の兄妹姉妹です。御父母様はそれを切に願っておられます。それが精誠の中の精誠です。それを実践することで堕落性が確実に減少するのです。是非、実践してその効果の大きさを感じてみてください。

 この素晴らしい本然の心情世界を教会内から神氏族メシヤ圏に拡大していけば確実に世界の諸問題は解決します。これこそが堕落性という原因そのものに対する真にして最終的な解決方法です。

 

神氏族メシヤ活動はみ言を伝えることから始まるのではありません。食口ではない人々を兄弟姉妹と感じようとするところから始まります。そして心から兄弟姉妹として感じることができる勝利圏は基元節の勝利によって確立されています。その気になれば以前の時代よりずっとたやすくできるようになっています。

 

「私」が神氏族メシヤ活動の対象となる人々や一般の人々を兄弟姉妹と感じるならば、その人々はその愛の世界に引き寄せられて集まってきます。兄弟姉妹という感覚が「私」にあればそれは確実に相手に伝わります。その次に相手のために生きて、最後にみ言です

 

個人の問題から家庭問題、社会問題、世界の諸問題を根底から解決できる道を示せるのは私達しかいません。神様が頼りにできるのは食口、祝福家庭しかいないというのは当然の結論となるのです。天国を創れるのは私達だけです。

是非、その先頭に立つ者となって下さい。

真の愛によるお金経済の確実な消滅と天国の趣味経済⇒

人類一家族社会

天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、神様の創造理想である天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します。家庭盟誓四

 

父母を知ったなら父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければならず、また父母を中心としてその国の忠臣にならなければなりません。父母が国を抱え、世界を抱えてきたからです。忠臣になる前に、孝子にならなければならず、孝子になる前に、真なる兄弟を愛せる食口(家族)にならなければなりません。食口とは、兄弟間で褒めたたえ合える圏を立てた者の名前です。そうではありませんか。「真の愛」第二章 愛の実際 六 子女の愛 2.真なる子女の道理は「孝」

 

切ない心情で、会えなければ生きていけず、ために生きなければ生きていけない、という気持ちにならなければなりません。食口たちに会いたいと思わなければならず、食口たちがいる所に行って暮らしたいと思わなければなりません。このような心を再びもたなければ、天の国に行くことができる鍵を失うようになるのです。第八篇 信仰生活と修練 第三章 真の父母の似るための信仰生活 第三節 真の父母を通して生まれ変わる路程 5 1969.2.2

 

父母は、兄弟達が、父母に対するのと同じ様に、互いに接してくれる事を願います。全ての父母がそうです。ですから、兄弟を憎む事はお母さんを憎む事よりも大きな罪です。これが家庭教育において第一条です。今まで、皆さん、兄弟同士争い、仲が悪くなっているなら、行って、宴会をして、満足させてあげ、許してくれといいながら、うちのお母さんとお父さんを愛する様に愛し合おうといわなければなりません。

 兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんの為にしてあげた様に、してあげるなら、それより美しい事がないのです。そこから天国が始まるのです。

「真の家庭」 第二章 家庭を中心とした愛の法度 四 兄弟姉妹が必要な理由

 

家庭の生活において、愛を中心として一つになったモデル的なその形態は、教科書と同じです。これを拡大したのが世界です。世界は、祖父母の年齢、父母の年齢、自分たち夫婦の年齢、息子、娘の年齢に等級が分かれているのです。そのように互いに違う年齢の等級が一つの家庭において訓練され、一つになった形でその公式を通して和合できる者になれば、世界のどこに行っても、天国、天下のどこに行ってもその相続を受けることができ、そこに同参することができ、主人の位置に入ることができるのです。天国は家庭です。そのような愛の経験をもって国境を越え、兄弟姉妹のように愛する世界が地上天国です。そのように生きた人が、永遠の天国に連結されるのです。それは人生最高の成功であり、最高の幸福の道なのです。第四編 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活 14 P449  1991.5.4

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