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天心苑にある究極の恩恵 心情の質的変化

今回の内容はお読みになった半分くらいの方には、かつてないような劇的な心情の変化のきっかけとなると思います。一方、あとの半分の方にはかなり抵抗があると思います。抵抗のある方は無理して合わせる必要はありません。人にはそれぞれ時があります。

(この内容は一世に対して発信しています。二世、三世については何が正解なのかまだ良く分かりません。)

この文章を書きながら与えられた内容の根源性と効果に驚いています。自分でも試して定着したのでお伝えいたします。なお、この章をお読みになる前に必ず前章である「天心苑にある究極の恩恵」をお読みください。

 

さて、今は教会や摂理機関が天心苑の元にあるというかつてなかった時代に突入しています。これは既存の思考や活動方針ではなく全く新しい物差しの時代になっているということです。既成概念を捨て大転換しなければならないことを意味しています。

苑長も、食口の中にもいまだに旧約時代、新約時代、成約時代に生きている人がいる、今は天一国時代、天心苑時代なのでそれに従って生きなければならないと何度も言われています。

 

また、お父様の時代と今のお母様の時代とは余りにも違うと言ってお母様のやり方を批判する人もいます。それはご父母様のことを良く分かっていないからです。

お父様は晩年泣きながらもう一度やり直したいと繰り返し言われました。神様がルーシェルを信じすぎたように私も弟子たちを信じすぎたと何度も泣かれたのです。

これは真の愛の基本となる絶対信仰を貫かれたからです。お父様に従った人の中には堕落性が強かったり、公金横領などの悪なる行為をしたりした人もいました。ご父母様はこれらの人々の所業をすべてご存じでしたが悪人をも包み込む真の愛を貫かれたのです。しかし副作用もあったのです。それで摂理の完成を見ないまま霊界に行かれました。

この無念さを一番知っているのは誰なのでしょうか?

そうです、お母様です。

完成した夫婦というのは完全に一心同体です。お父様がやり直したいと思われた人生をやり直して差し上げているのはお母様なのです。お父様がやり直したいというやり方に従ってお母様は動いておられます。表面上にみればお父様の時代とお母様の時代が違って見えるのですが、深く祈れば同じだということが分かります。

 

さて、私たちは聖和勇士の歌にある「進め勇士 力強く」というフレーズにあるように、天の勇士、烈女、選ばれし者という心意気でみ旨をなしてきました。この時代の歩みはとても貴重です。ご父母様はどれだけ慰められたことでしょうか。

しかし、今は天心苑における重生の時代です。天心苑はお母様の腹中なのです。お母様の腹中に入れるのは天の勇士ではなく幼子なのです。余りに大きな違いがあります。それに気付かなくて天心苑祈祷会についてこられない人もいます。天の勇士の姿だけでは天国には行けないのです。天の勇士、烈女が幼子の心情世界を加えないと天心苑で用意されている最大の恩恵である重生に与ることができません。

 

聖書を見ると、幼子のようでなければ天国に入れないという言葉があるでしょう? それはどういう言葉か? 幼子たちには、お母さん、お父さんしかいません。ご飯を食べてもお母さん、お父さん、寝てもお母さん、お父さん、ただお母さん、お父さん、お母さん、お父さん!(笑い) そのように育って、分別がついて、いくら嫁に行き、妻をめとっても、そのお父さん、お母さんというのは忘れられないのです。その言葉を取ることができないのです。「真の父母」 第五章 天国と真の父母 二 地で真の父母に侍るべき理由

 

そしてさらに驚くべきみ言を見つけました。こんなみ言があることが驚異的です。

 

老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、その様に皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子の様に、かわいがられる事が出来なければなりません。それで、イエス様はニコデモに、「新しく生まれなければならない」(ヨハネ三・七)と言いました。生まれ変わらなければ、すなわち「重生しなければいけない」と言われたのです。それで、神様は最高の収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようと言うのです。どれほどすごい事でしょうか。(二〇―九五) 「地上生活と霊界」 第四章 天国  三 天国に行く事が出来る要素と条件 二 天国に行く事が出来る生活 2 天国に行けない場合

 

私たちは老年時代から壮年時代、青年時代、少年時代にさかのぼり、ついには幼年時代に行く必要があるというみ言です。今の時代の到来を述べておられるみ言です。

「皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子の様に、かわいがられる事が出来なければなりません」というのです。どんどん時間を戻して幼くなってご父母様に可愛がられる世界に行く必要があるのです。その先で実質的にお母様の腹中に入って重生が達成されると考えられます。

 

天心苑には勇士、烈女がたくさん集まっておられます。そして勇士、烈女としてみ旨実現のために真剣な祈りを捧げておられると思います。それはとても重要なことです。しかしその先には重生の世界があるのです。使命完遂のみに専心して重生の役事に与れなければ空しいのです。

どんどん幼くなってご父母様に可愛がられる世界に行くカギになるのは、ご父母様を慕うという心情世界です。

 

皆さんは実体の神様の立場に立っている「真の父母」が慕わしくて泣かなければなりません。いつも会いたい気持ちがなければなりません。御飯でも一杯炊いて、水でも一杯ついで侍りたがらなければなりません。そのような切実な心をもたなければなりません。「礼節と儀式」第二章 真の御父母様に対して侍る礼法 一 真の御父母様は祝福家庭の中心  1.真の御父母様の息子、娘になるには

 

皆さんは、死ぬときまで、父母を慕いながら涙を流さなければなりません。生まれるときも泣きながら生まれ、生きるのも泣きながら生き、父母のために会うたびにうれしくて涙する生活をして、逝かなければならないというのです。そうしてこそ、死んで天国に行きます。それが原則です

第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ 第一章 家庭教会 第一節 家庭教会の摂理的意義10 1983.1.16

 

父母を愛し、慕いながら涙を流すのが礼拝の中の礼拝であり、すべてのみ旨の完成です。第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ 第二章 氏族的メシヤ 第四節 還故郷と氏族的メシヤ14 1992.1.26

 

真の父母様への慕わしい思いが強くなるにはどうすれば良いのでしょうか?

これは私たちにとって最重要のテーマではないでしょうか?

私たちと父母様との出会いは大人になってからです。

しかし真の息子である孝進様や興進様はそうではありません。

孝進様や興進様はご自分の両親が偉大な方だということをご存じない幼い時があったのです。ある程度大きくならないとそれは分かりません。

一方、私たちは主の路程や自叙伝を通して父母様を知りました。

その偉大さを一番初めに知ったのです。

私たちは孝進様や興進様のように物心がつかない幼年時代の父母様との情的関係がありません。決定的に欠如していると言っても良いと思います。

父母を慕う気持ちは幼子の時に生じ、その心情を一生持ち続けます。

私たちが目指す姿は孝進様、興進様です。お二人は幼い時に父母を慕う心情が生まれ、その基台の上で誰よりも天の勇士となられたのです。本当はこの順番でなければ不自然なのです。私たちは心情の回路が正常につながっていないので、真の父母を慕う心情を絞り出しても出てこないのです。

 

さて、父母にとって、子供が大きくなっても子供が幼かった時の情的記憶は消えることはありません。父母にとってとても重要な記憶であり情感です。80歳の父母が60歳の子供を見てもその情感が湧くのです。それで十分すぎるほど大人になっている60歳の子供に対して「車に気を付けなさい」と言うのです。

 

子供にとっても父母にとっても子供が幼かった時代は余りに貴重なのです。

ご父母様は私たちの幼い時代を共にしておられませんが、天の父母様は余りによくご存じです。そして父母様は天の父母様と完全に一体なので、父母様が私たちをご覧になる時、私達の幼い時のことが鮮明に浮かび上がるのです。つまり父母様は私達の幼い時代を知っておられるということです。そうでなければ全人類一人一人の完全な父母になることはできないのです。

 

一方私たちは幼い時に父母様を父母として慕ったことがありません。私の幼き時代の記憶に父母様がいないのです。真の父母様を慕う心情の基礎となる部分が完全に欠落しています。

更に言語の壁が立ちはだかっています。

天心苑で祈祷する時にアボジ!オモニ!と叫びますが、韓国の食口が叫ぶのと私たちが叫ぶのとは大きく違います。韓国の食口にとってはアボジ、オモニという言葉は親子の間であまりにも普通に使う言葉ですが、日本人で親のことをアボジ、オモニと呼んで育った人はいません。

日本語にするとお父さん!お母さん!です。韓国の食口は天心苑でお父さん!お母さん!と叫んでいるのですが、私たちが叫ぶのはアボジ、オモニなので生じる情感が余りに違うのです。

 

言葉は情感を伴いますが、父母を呼ぶ言葉は特に強い情感を伴います。このため言語の違いは大きな障害になります。

皆さんは幼い時、父親と母親のことを何と呼んでいましたか?

韓国語では丁寧な呼び方がアボニム、オモニム、普通の言い方がアボジ、オモニ、幼い子供が親を呼ぶときはアッパ、オンマです。

次のyoutubeのお母様の動画をごらんください。

 

お母様によるワンオンマの話(長さ2分52秒)

https://www.youtube.com/watch?v=gYeKv7rsvRM

 

お母様も恥ずかしそうに私をワンオンマと呼びなさいと言っておられます。オモニもオンマも日本語にするとお母さんですが、言葉の持つ情感が違います。ワンオンマを原語に近い日本語に直すと王様お母ちゃん、お母ちゃんの王様、あるいは一番のお母ちゃん、唯一のお母ちゃんでしょうか。

お母様がなぜ恥ずかしそうに言われたのかといえば、オンマと言うのは幼い子供が母親に甘える気持ちを持って言う言葉だからです。つまりお母様は、幼子になって私に甘えてなさいと言っておられるのです。だから恥ずかしそうに言われたのです。子供は母親と父親に甘えることで慕う気持ちが育つのです。

この呼び方が重要なのです。お母様と幼い自分との関係が形成されるのです。韓国の食口は普段からお母様をオンマ(お母ちゃん)と呼んでいるのでお母様との心情の近さが違います。

 

さて結論ですが、お父様、お母様と言う呼び方は公的な呼び方です。それは心情的には距離のある呼び方です。韓国では大きくなっても母親をオンマと呼ぶ人が多いようです。特に女性はそうだと言います。子供の時の甘えを含んだ慕う気持ちが忘れられないのです。オンマという言葉には、「お母ちゃん大好き」という心情が含まれています。しかし、日本人がオンマという言葉を使ってもその心情は抜け落ちます。

オンマを原語に近い日本語で言えばお母ちゃん、母ちゃん、ママ、おかんなどでしょうか。

父親のことは、お父ちゃん、父ちゃん、パパ、おとんなどでしょうか。

これらの言葉には幼き時に母親、父親しか目に入らないような時代の心情が含まれます。

「お母ちゃん大好き」、「お父ちゃん大好き」という心情です。

私たちはこの言葉を産んでくれた母と父に対して使っていたのですが、真の肉親である真の父母様にこの言葉で呼びかけることで幼年時代をやり直す必要があるのです。別の言い方をすれば、私たちは自分の子供時代の核心部分をご父母様に捧げていないのです。

 

真の父母様と自分の幼年時代をやり直す必要があります。甘えても良いのです。父母に甘える心情がないとできません。

自分の幼年時代を真の父母様に連結しないとご父母様と関係のない子供時代になります。

私たちの人生は復帰されてからは、父母は真の父母様です。しかしそれ以前の父母は真の父母様ではありません。「私」の全存在が真の父母様に連結されていません。

端的に言えば幼年時代の両親を真の父母様に変える必要があるのです。私たち日本人は信仰においては世界屈指だと思います。しかしこの部分がないのでご父母様との心情関係が遠いのです。真の父母様は「私」の実の父母なのですから何の遠慮もいりません。

これができるかどうか、ここに飛び込めるかどうかが重生のカギとなります。

勇士、烈女として立派にふるまうだけでは本当の親子にはなれません。慕う心情が生まれません。

 

韓国の食口は、お父様のことは分かりませんが、お母様をオンマ(お母ちゃん)と呼んでいます。孝進様、興進様のことはヒョン、オッパ(お兄ちゃん)と普通に呼んでいます。ちゃんを付けて呼ぶのは普通のことなのです。日本人は真のご家庭を尊く思うあまり、結果として遠くに追いやっている気がします。ちゃんを付けるなど恐れ多い、不敬だという思いがあるのだと思います。これは甘えたいのに甘えられない我慢している子供です。父母から見ると可愛い子という思いが削がれてしまいます。皆さんもご自分の子供のことを考えてみてください。素直に甘えてくる子と、いい子ちゃんになって我慢しているの子とどちらが可愛いですか?いい子ちゃんに対して生じる情は可愛いではなく、心配です。

子女の不自然な情は、父母の自然な情の発現を妨げてしまいます。

 

さて、私は幼い時、両親のことをお父ちゃん、お母ちゃんと呼んでいました。

それでお母様のお写真を見たり思い浮かべたりしながら、お母ちゃん!お母ちゃん!お母ちゃん!と甘えた声で何度も叫んでみました。お父様のお写真を見たり思い浮かべたりしながら、お父ちゃん!お父ちゃん!お父ちゃん!と甘えた声で何度も叫んでみました。気恥ずかしさを越えてください。幼子には気恥ずかしさはありません。幼子にとって母と父が命なのです。お母ちゃん、お父ちゃんに甘える呼名祈祷と言えると思います。これが自分の幼年時代をご父母様に連結してくれます。ご父母様に甘える自分、ご父母様に可愛がられる自分になります。

 

この呼名は私的な空間で私的な時間に行ってください。自分の幼年時代をご父母様に連結するのですから幼年時代に父母を呼んでいた言葉ですることが重要です。ママ、パパと呼んでいた人はご父母様をそう呼んでください。オカン、オトンと呼んでいた人はそう呼んでください。

孝進様、興進様を呼ぶのも孝進お兄ちゃん、興進お兄ちゃん、あるいは単にお兄ちゃんと呼んでみてください。大母様を大母おばあちゃん、あるいは単におばあちゃんと呼んでみてください。慕わしさが別次元です。(これも自分が幼い時に呼んでいた呼び方で呼んでください。)

家族に様を付けて呼ぶ人はいません。公的な時は公的に呼びかけますが、私的な時は私的に呼びかけるのが正解です。何かを願う時もお父ちゃん、お母ちゃん、お兄ちゃん、お婆ちゃんと呼び掛けてお願いすれば家族の心情で聞いてくださいます。

 

やってみると涙と共に今まで感じたことのない慕わしさが生まれました。今までの真の父母様と自分の関係は何だったのかと思いました。それほど別世界です。そしてとても幸せが満ちている世界にはいりました。それが心の底に着陸しました。一度定着するとお母様ではありますがお母ちゃんです。お父様ではありますがお父ちゃんです。

お兄ちゃんもお婆ちゃんもいます。

家族ができたのです。

家に帰ってきたのです。

この慕わしさはお祈りよりも貴重であり重要だと思います。乾いた砂漠からオアシスに来たようです。

是非皆さんも恥ずかしがらずに幼子になって呼んでみてください。

自分の全人生がご父母様に連結されるのです。

ご父母様との心情的な距離が一気に縮まります。

重生への前段階として必須の道だと思います。

そして孝進様や興進様がご父母様を慕われ天の勇士として歩まれる姿に近づけます。

これこそ本物の天の勇士、烈女です。

私たちの体は、歴史のあらゆる汚れた古着をたくさんまとっており、私たちの心は、神様が宿ることのできない拙いものに捕らわれていることを、もう一度感じなければならないのでございます。幼子のようでなければ天国に入れないというみ言に従い、私たちは幼子にならなければならないのでございます。幼子が母親の懐を慕い、母親のお乳を慕うのと同様にお父様を慕い、お父様の懐を慕い、お父様の命の水を慕うことのできる本然の子女の位置を、私たちは求めなければならないのでございます

天聖経 真の父母様の祈祷 第三章 真の愛 2.統一の世界を成し遂げるよう、その道を急がせてください

御飯を食べても、水を飲んでも、座っても立っても、誰に接しようと、父母様の前に見せた幼子の心情を見せることができれば、それで満点です。知識が多いことで通じるのではありません。神様のみ前で、「私は何々博士です!」と言って暮らしますか。そのようなものは必要ありません。 第十一篇 礼式と名節 第一章 侍る礼法 第二節 神様に侍る生活20 1975.5.1

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