
真の愛から見た神様の創造目的
神様の創造目的については創造原理第三節創造目的(一)被造世界を創造された目的には次のように記されています。
神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。

要約すれば神様は人間が個性完成、子女繁殖、万物主管を完成して幸福になるのを見て喜び楽しまれるために創造されたということになります。
この観点は私達の神観に大きな影響を与えています。
どうしても神様は天上に居まし給うて人間世界を見下ろされる存在という感じを抱いてしまいます。
新約的な超越的な絶対者の神観です。人間世界とは越えがたい距離を感じさせます。
これは創造目的の部分に止まらず、原理講論全体における視点となっています。
ところが、原理講論以後のお父様のみ言はかなり違っています。
例えば次のようなみ言です。
アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。「真の神様」 第一章 二 1.体をもつためにアダムとエバを創造
神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。
「天国を開く門 真の家庭」 P67、祝福家庭と理想天国Ⅰ P936 1978.1.22
お父様は、人間の創造目的は神様に着られることだと言われるのです。そして、神様にとっても人間という体を着る時が一番の栄光の時だと言われるのです。
人間にとっても神様に着られて神様と一つになることは最高の栄光ですが、神様にとっても人間を着て人間と一つになることは至上の栄光なのです。
これこそが真の愛から見た最終的な神観、人間観です。
神様は性相、人間は形状で一つの存在なのです。
神様は本体、人間は神様を入れる器です。
本来、心と体は、切り離そうにも切り離すことのできない一つのものでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。ところが、人間の堕落により、人間の体を悪魔に差し出したのです。そのときから人間の体は、悪魔の僕になりました。
第四篇 真の人間 第一章 第二節33 1991.8.27
既存の価値観では神様と人間は創造主と被造物として別々の独立存在として捉えてきました。これはアベル型人生観の考え方においても同様です。
それだけ真の父母様の神観、人間観は画期的であり革命的です。
この神観、人間観は具体的には何を言っているのでしょうか?
神様と人間は確かに別々の存在でもあります。人間は神様からの独立性、自由性を持つことによって、神様にとって完全なコントロール下にある存在と比べて、とてつもない刺激を与える存在になることができます。
神様から独立し自由性を持つ存在として創造されたことに神様の全能性を感じます。
と言いますのは、被造物の性相は、神様と関係なく別存在として存在しているものではなく、神様がご自身の意識を浸透させて生じさせておられるものだからです。(統一思想要綱 第二部 第二章 第三節 統一認識論 (五)2原意識と原影像の根源と形成 P300)
ご自身の意識を浸透させてご自身の思い通りに動かすならまだ分かりますが、ご自身の意識を浸透させてご自身とは独立した自主性をもった意識を生じさせるという御業は正に神業です。
神様と人間は最終的に一つになるように計画し創造されたので一つになるために必要な内容は父母から子女への相続と言う形で伝授されます。
三大祝福もそうです。イサクがヤコブを祝福する場面に見られますように祝福とは相続することです。三大祝福は神様の経てこられた幸福な人生の全てを人間に相続させるためのものです。三大祝福には神様が成長し完成された天地創造以前の歴史の全てが含まれています。
下の対比図をご覧ください。
この図の根拠となるのは、神様は父母で人間は子女だということです。
神様は父母なので子女である人間が歩む道を先駆け歩まれることは必然となります。
三大祝福は神様が内的世界で先に達成されたうえで人間に相続されたものです。

神様と人間の関係性は神様の内界における夜の神様と昼の神様の関係と同一です。
上の黄色の図において夜の神様と昼の神様の世界は完結しています。それにもかかわらず、なぜ神様は人間を創造する必要があったのでしょうか?
その理由は前述のみ言に書いてありますように人間という体を着ることでより震動的衝撃を得てより大きな喜びを得る為です。
神様は欲望の多い方だというお父様のみ言があります。
神様はどんなお方でしょうか。神様は欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらないところがない、遍在される神様です。いらっしゃらないところがない神様なので、どれほど欲張りですか。欲張り者とか欲張りと言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。「真の神様」 第一章 六 愛によって遍在される 1.愛だけが境界を出入りする
夜の神様は昼の神様という形状を創造され、体である昼の神様を着られることで天の父母様となられました。しかし、創造はそれでは終わりませんでした。夜の神様の御計画は初めから人間の創造に向かっていたと考えるのが妥当です。夜の神様の子女である昼の神様の意向も全く同様です。
天の父母様の欲望は無限と言っても過言ではありません。そうすると人間の次があるのでしょうか?
そうではありません。
夜の神様、昼の神様、真の父母様までは縦的な創造による発展ですが、真の父母様からは横的に無限に発展します。真の父母様の子女としての人間が無限に増えるという発展です。天の父母様の愛の欲望は無限なので人間は無限に増えていきます。
天の父母様は無限に増える人間(祝福家庭の夫婦)という体を一つ残らず全て着られます。なんという欲の多い方でしょうか、と言うこともできますが、そうであるがゆえに無限に増える人間すべてが完全なる幸福に至ることができるのです。
さて、神様と人間の関係は親子です。しかし、この親子関係を人間世界の親子関係からのみ類推すると認識にずれが生じます。人間は神様の子女であると同時に神様の体でもあるのです。人間世界にはこのような親子関係は存在しません。このような関係性の原因は神様の内界にあります。
親は目に見えない無形の神様であり、子は有形で神様の体であるという関係には原因があります。
夜の神様と昼の神様の関係にその原因があります。
昼の神様にとって夜の神様は無形で目に見えません。昼の神様にとって夜の神様が神様です。
天の父母様の性相は夜の神様で形状は昼の神様です。
創造原理的な観点で見れば、夜の神様と昼の神様は天の父母様の相対的な両面の形といえます。
個性完成とは、神様を中心として心と体が一体化する事ですが、それと同様あるいはそれ以上に重要な観点は、人間が神様の体として完全に機能するようになることです。
私達の信仰生活において最も重要なことは神様の心情体恤です。
どうしてそれが重要かと言えば、神様の心情が分からなければ人間が神様の体として機能できるレベルの一体化ができるはずがないからです。
人間は神様の体として創造されたという観点が原理原相論の世界を推測する重要なカギになります。このカギによって神様の内界に行ってみましょう。