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死の創造こそが神様の真の愛

いよいよ真の愛のみ言の解明にチャレンジします。

み言の中心である真の愛について論じることは、今まで以上に真剣にならざるを得ません。

真の愛について語ることは、真の愛がまとっている衣の端に少しでも触れるような経験と感触がなければ到底できないからです。

かつてない程の緊張を感じながら真の愛に向き合う日々です。

神様の天地創造において最も注目すべきことは、ご自身の血肉を削って創造されたという途方もない愛の基準です。

これが神様の愛の基準なので、神様の相対である人間の愛の基準も同じである必要があります。人間は神様から愛されるだけの存在ではなく神様の相対として神様を愛する存在です。このため神様と授受する愛は神様と同じレベルでなければなりません。神様と人間が、真の愛という同じ愛を授受できたらこれ以上の幸せはありません。

 

人間が責任分担を完遂して神様と対等な立場に立とうとするのは、真の愛を授受するために、対等な愛を与えるためであり、同じ愛を授受するためです。互いに同じ立場で中心になり、同じ立場で授受するというのです。それを知らなければなりません。

「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠 二 人間に責任分担がある 1.責任分担を下さった理由

 

天地創造において、ご自身の身を削る時に生じる不安、恐怖、苦痛を超えたのが真の愛です。

創造に伴う不安、恐怖、苦痛 < 真の愛

 

神様の真の愛を体恤するためには神様が天地創造において血肉を削る時に感じられた不安、恐怖、苦痛基準を人間が知る必要があります。それが分からないとそれを超える真の愛のレベルが分かりません。

 

神様が天地創造時において感じられた不安、恐怖、痛みを明確に分かる何かがないといけないことになります。神様はこの基準を人間に知らせるための特別な世界を創造する必要がありました。それが有形実体世界です。有形実体世界の本質を一言で言えば死があるという事です。死があるこの世界は余りに特別な世界なのです。永遠に生きる人間にとってこの世は一瞬の世界です。そんな一瞬の世界がなぜ必要なのでしょうか。死に伴う不安、恐怖、苦痛を用意するためにこの世界があるのです。

 

神様が創造時において感じられた不安、恐怖、痛み ∽ 人間が死に感じる情感 (∽ は相似記号です)

 

この死こそ人間が超えるべき一線なのです。愛によって超える一線です。

死は本然の人間にとっても恐怖を感じる相手です。

 

「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈ったイエス様は、その心に死の恐怖が襲えば襲うほど、望みの日が近づいてくることを、誰よりも感じていたのです。肉身の死が過ぎたのちには、新たな望みの世界が展開することを感じ、その世界を憧憬したというのです。第7篇 地上生活と霊界 第4章 再臨復活と神霊の役事 第一節 末世と再臨復活13  1959.3.22

 

人間が神様と授受する愛のレベルはこの世の愛とは次元が違います。これが真の愛です。真の愛は死を超えた愛です。神様がこの愛の相対として創造されたのが人間です。この観点で見ると、私達が天国はこうだろうと考えている世界と真の愛の天国はかなり違うようです。

 

本然の天国は、神様と人のために喜んで命を捧げる人々が集まっている世界です。

地上天国ができても危険な場面は存在します。例としては卑近ではないかもしれませんが、地球に住む所がなくなって他の惑星に行く先遣部隊の要員が必要になった場合、何年かかるか分からないような使命を成すにはかなりの命の危険が伴います。そんな場面では、是非自分に行かせてほしいという人が殺到するのです。命の危険のある所、犠牲の多い所、苦労の多い道の取り合いです。この世では良いものを得るために抽選がありますが、天国では危険、犠牲、苦労を求めて抽選します。

そんな天国に、自分と自分の家族の命が一番大事だという人が住もうとすれば、人々は大歓迎してくれますが、本人は苦しくそして恥ずかしくて、いたたまれなくなって逃げ出します。

天国はそういう所なので、簡単に行ける所ではありません。

 

あの世で必要なことは、世界よりも、自分よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神様をもっと愛したということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使が可能です。「真の愛」第五章 愛と霊界  一 霊界の空気は愛、愛が生命要素である

 

神様の愛の相対は天使ではありません。人間にのみ肉身があるのは死の基準を与えるためです。死がない天使には真の愛の基準がわかりません。神様が真の愛を相続しようとされたのは人間なので、人間にのみ肉身があり死があります。

 

死とは、人間が愛で超えるべき不安、恐怖、苦痛の基準です

しかし、人間が堕落したため初めから愛で超えることは困難になりました。

 

復帰摂理を見るとあまりにも頻繁に生死の境が登場します。

み言にも死という言葉が余りにも多く登場します。

 

旧約聖書には、アブラハムのイサク献祭やエサウがヤコブを殺そうとしたこと、異民族との決死の戦いなど死ぬか生きるかの話が多くあります。この時代は「死んでも行う」という行義の時代です。行儀の本質は、死んでも行って初めて義とされるという事です。

新約時代はローマ帝国下での使徒の殉教に見られますように「死んでも信じる」という信義の時代です。信儀とは、死んでも信じて初めて義とされるという事です。

そして現在、天一国時代を迎え「死んでも愛する」という本来の愛の姿を復帰する時代が到来しています。侍義の時代です。侍義時代は、死がもたらす不安、恐怖、苦痛よりも神様と父母様そして他の人を愛する愛が勝って初めて義とされる時代です。

神様が義と認定されるのに必要な内容は時代ごとに異なりますが、神様は復帰摂理を通して一貫して人間が死を超える基準を達成することを求めてこられました。

 

旧約時代 死んでも行う  ⇒ 行儀

新約時代 死んでも信じる ⇒ 信義

成約時代 死んでも愛する ⇒ 侍義

 

復帰摂理歴史の成否を概観すれば、神様を取るか自分の命を取るかという事に集約できます。

人間が、

死んでも神様ならば〇

神様よりも自分の命ならば×

 

だということが分かります。

 

成約時代、天一国時代においても死は愛の程度を計る絶対的な物差しです。その愛が死を超えられないレベルか、死を超えるレベルかを計かる絶対的基準です。

 

死のある有形実体世界を創造なさる時に神様はどれほど喜び興奮なさったことでしょうか。死は神様の息子、娘である人間に真の愛を相続できる土台であるからです。

死は神様の愛の中の愛です。人間に与えられた最高の真の愛です。

世の人々は、死を忌み嫌い、考えないようにし、話題に上らないように生活しているのです。

霊界では神様は光として見えるといいますが、ほとんどの人がその光が眩しすぎて近づけず距離をおいた暗い所に行きます。死という神様の愛を避けて暮らす人々の姿はこれに似ています。

 

死を超える愛に達しなければ、愛においては途上であり不合格です。

死は人間が必ず超えなければならない愛の課題です。

この課題は全ての人に等しく与えられていますが、ほとんどの人がそれを最重要の課題だとは思わず、避けるべき不安、恐怖だと思っています。

 

生命と死について見るとき、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。

「地上生活と霊界」第二章 死と霊界 二.死に対する理解 9死の前での姿勢 

 

有形実体世界の存在目的は神様の心情体恤と真の愛の相続です。

神様の心情は真の愛の姿勢を貫いたときに体恤されるものなので、結局、有形実体世界が存在する中心目的は真の愛の相続です。そしてこの真の愛の相続をアシストしてくれるのが死です。

死がもたらす最大級の不安、恐怖、苦痛こそが実は神様の愛の中の愛なのです。この認識はとても重要です。

死と死が持つ特性である不安、恐怖、苦痛を心から神様の愛と感じることができる様になれば、真の愛の体恤にぐっと近づいたことになります

神様から見れば、死の基準を超えて神様と人を愛そうとする者が現れるならば、創造と復帰のご苦労がどれほど癒されることでしょうか。

 

そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限の世界の愛の為に活動する息子として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。何故こんな話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶ事が出来ない為です。

「地上生活と霊界」第二章 二 死に対する理解 6死は三世界を連結する過程

 

全ての人間が愛のために死ぬという試験に通らなければなりません。愛の為なら喜んで死ぬというレベルに達しなければなりません。これは死が存在する有形実体世界にいる間に超えなければならないのです

これは選択の余地のない宿命です。

すべての人の前に死と愛という問題用紙が配られています。

避けて先延ばししても必ず死はやってきます。

その時には否応なしに合格、不合格がはっきりします。

 

死を迎える時までに死を超える愛の基準を立てられるか、深刻の中でもこれほど深刻な問題は他にありません。若い人はまだまだ死には間があると思いがちですが、死は忽然と訪れることを忘れてはなりません。

できるだけ若い時にこの課題に取り組み、できるだけ早く合格者になることが重要です。

 

この世では、成功者にならなくても普通に生きればいいと思っている人は数多くいます。確かにこの世の成功はその程度のものです。しかし、神様が人間に課せられた課題は必ず成し遂げて成功者にならなければならないのです。

 

毎日の生活が死と向き合い、死を意識する生活となります。

自分の命は既に神様の御前に捧げてあって、いつ死んでも良いと思って生活します。

今食べているこの食事がこの世の最後の食事かもしれない、

今相対者や子女と過ごしている時間がこの世で共に過ごす最後の時間かもしれない、

今兄弟と和動している時間がこの世の最後の思い出となるかもしれない、

という気持ちになります。

愛のために死ぬことができるかという真剣勝負の毎日です。

 

死を超える真の愛のレベルに達することが人間の責任分担です。そして、真の愛の実体になるという責任分担を成し遂げた者こそ真の成功者です。

 

天国は、命を懸けなくては絶対に行く事が出来ないところです。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がその様になっているのです。(三七―二五〇) 「地上生活と霊界」第四章 天国 二 天国に行くための準備 2天国に行く基準

 

過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人の為に全てを与えて、人の為に犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出る全ての生命力を引き集めて、人の為に投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。

「地上生活と霊界」第二章 死と霊界 二.死に対する理解10 霊界に入る時 ①死が差し迫った時

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