
真の愛による心と体の統一
心と体の統一の問題は真の愛と密接に関係しています。
堕落する前は、心がプラス、体がマイナスで一体を成していましたが、堕落することによって体がプラスというもう一つの主体となることによって心と体は対立、闘争する関係になり、自分という個体の中が戦争状態になってしまいました。これが、人間が不幸になった最大の要因になりました。
統一の基盤の上においてのみ、平和があり、幸福があり、自由があり、希望があります。皆さんの心と体が一つになっていないのに、そこに自由がありますか。会社に行ったとしても、心と体が世界大戦をしていて定着できていないのに、自由がありますか。自由という言葉自体も嫌うのです。心と体が闘っていて、そこに幸福がありますか。ですから、皆さんも人生問題について悩むのです。これが根本的に大きな問題です。心と体が一つになっていないところに、幸福があり、平和があるのかというのです。第十篇 平和思想 第二章 平和はどのように成されるのか 第二節 心と体の平和21 1992.12.27
心と体の統一についてのみ言は膨大な量に及びます。
その中でポイントとなるみ言があります。
人の心と体を統一する方法は二つしかありません。一番目には、この体を粉々にして占領する方法であり、二番目は体を打たないで統一する方法です。強制で体を主管する方法はよくありません。それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。今まで心は、体と対等に闘ってみることが一度もできずに、いつも負けてきました。それは心の力が弱いためです。
この心に注射を打ち、力を二倍から三倍に増やせばどうなると思いますか。そうすれば体を引っ張っていくことぐらいは問題にならないはずです。つかんで引っ張っていくことができるのです。自動車のタイヤに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも強く力を放り込めば、どのようになるでしょうか。力が強くなります。そのあとに、心と体が闘えばどちらが勝つでしょうか。このように容赦なく体を打って占領する方法と、心に力を加える二つの方法があるのです。・・・・
心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じる爆発的な力を神様に連結さえすれば、それは何倍、何百倍、何千倍も統一できるのであり、世界万民が待ち望んでいた願いを成就できるのであり、永遠に共に暮らすことができると同時に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。愛は、統一に向かって上がるエレベーターであり、統一を成就できる絶対的な秘訣なのです。第八篇 信仰生活と修練 第二章 心と体の修練 第二節 修練の目標16 1967.8.13
いままで心は体と一度も戦ってみることもできずいつも負けていた、という明快な見解です。心が勝利を収めるには心を手助けする強力な力が必要になります。心を神様に連結することでそれが成されるのであり、その秘訣が愛だというみ言です。
ところがここに大きな問題があります。
それは間接主管圏では人間の責任分担があるため心身統一のために神様の愛の力を頼りにはできないという事です。
皆さんは、生命以上に懇切なる立場に立たなければなりません。ですからおなかをすかせた立場でも祈祷しなければなりません。断食をしながらも自分をすべて投入しなければなりません。神様の愛とともに生命力を万国に投入しなければならないのです。その過程では神様は絶対に答えられず、知らないふりをされます。干渉してはいけないのです。その投入が終わるまでは干渉されません。人間の責任分担とは何ですか。自分自ら完成することではないですか。同じように、自分が祈祷していくときは神様が干渉されないのです。かえって反対するのです。本当に不思議です。「罪と蕩減復帰」 第四章 蕩減路程と私たちの生活 四 蕩減条件は自分が立てなければならない 1.他の人が代わりに立てることができない
最終的には責任分担を全うすれば神様の愛が臨んで心と体は完全な統一が実現しますが、そこに至る途上ではどうすれば良いのでしょうか。
これは食口、祝福家庭であれば誰もが模索する内容ではないでしょうか。
この難問を解決するヒントは上記の第八篇 信仰生活と修練のみ言の中にあります。
「心が授け受けして生じる爆発的な力を神様に連結」するという部分は神様からの愛を待つのではなく自分から連結しようとすることを意味しているのではないかと推察することができます。
心を神様に連結するというのは、神様から愛されてその愛に満たされることで連結できるというよりも、自分が主体的に神様を愛することで連結できるということです。
もしその道があるなら、心と体の統一は神様の愛を受動的に待つのではなく、自分で主体的に進めることができることになります。
今日は真の万物の日です。
敬拝式の後に恵みを頂きました。
次のみ言が浮かびました。
神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。
「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる1.神様と人間は父子の関係
愛には不思議な性質があります。気持ちを投入すればする程どんどん愛が流れるという性質です。好きな野球チームやサッカーチームあるいはスポーツ選手などを応援すればするほど、どんどん好きになることなどは誰もが経験することです。
しかし、いくら好きなチームでもしょっちゅう負けていると普通は心が冷めてきます。
一方、ひいきのチームが負けても負けても情が冷めない人もいます。
これはどういう人かと言えばそのチームが死ぬほど好きな状態に到達した人です。
その人にとってはそのチームを応援することは、単なるスポーツ観戦ではなく人生そのものなのです。
御父母様が神様から信じがたい命令を受け死ぬほどの試練を受け見捨てられてもみ旨の道を歩み切れたのは、神様が死ぬほど好きだからです。死ぬほど愛していたからです。
対象に惚れる、対象に夢中になると、眠いとかおなかが空いたなども気が付かない状態になります。
これは心と体が一体となった状態です。
愛してる、好きだという思いが高まってくると体は文句を言わなくなります。
体も愛が一番好きなのです。
御父母様が十数時間にわたって途切れることなく食口にみ言を語るという超人的なことができた秘密は、神様と食口が死ぬほど好きなことにあります。

神様を死ぬほど好きになればこの状態になります。
そのためには、上記のみ言にあるように自分の血と肉を神様に投入することです。
すなわち、いつも一日中、自分の命を捧げる決意で神様に向き合うことです。
それは神様に自分の血と肉を投入することなので、神様のことがどんどん好きになります。
そして、これを毎日積み重ねることで「神様が死ぬほど好きだ!」という心情基準に至るのです。
命を神様に捧げないとその心情には至れません。
命以下ではだめなのです。
命以下の基準ではどれだけ精誠を積んでも届かないのです。
命以下の愛は創造力を持ちません。
環境をそして自分自身を根本的に作り変える力を持ちません。
死を超える必要があります。
喜んで命を捧げる心情を持ち続けることで心は神様が好きでたまらなくなっていきます。
神様に夢中になっている心に体も一緒になって夢中になります。
これこそ神様を信仰する世界ではなく、神様と生活する世界です。
御父母様は死の境地で神様に精誠を尽くす度に、ますます神様が好きだという気持ちが強くなっていかれたことが分かります。
愛は最速であり最強です。
蕩減も一足飛びに超えていきます。
イエス様と十字架を共にした右側の強盗を見てください。
彼は強盗だったのですからユダヤ教徒に求められる信仰生活をしていたとは思えません。
しかし自分の死が迫る中でイエス様を愛することで全ての蕩減を一瞬で成し遂げたのです。
そうでなければイエス様によって重生する恩恵にあずかり楽園に行けるはずがないのです。
蕩減条件をすべて成し遂げる最速の道は神様と父母様を自分の命を超えて愛することです。
死を超える愛は全てを最速で完了する最強の力なのです。
神様に命を捧げて生きる生活は悲壮な世界とは無縁です。
全てが立体的に感じるようになります。
今日にも、次の瞬間にも命が天に召されるかもしれないと思うと、この瞬間がこの世との最後の別れのように感じます。
食事をしてもこれが最後の食事だと感じます。あまりに美味しく感じます。
見る自然もあまりに美しく感じます。
家族と話しても地上での最後の時間と思います。かつてない程に相対者や子女が慕わしく感じます。相対者がかつてない程に魅力的に感じます。
食口や神氏族メシヤ圏の人と話しても何物にも代えがたい貴重な時間として感じます。
まるで別の次元にいるような不思議な感覚です。とても幸せな気持ちに包まれます。
愛の世界である霊界と連結するのだと思います。
有形実体世界にいながら同時に無形実体世界にいるような感覚です。
それから、いつでも命を捧げる決意でいるとその他の不安や心配、恐怖が来ても大したことには感じなくなるのも良い部分です。
心と体を統一はこの過程を経て、直接主管圏に入って神様の直接愛が私に臨み、神様の愛による完全な心身統一が実現します。