神様には怨讐がないという愛の真実
今回の「神様には怨讐がない」という見解は、長年のすっきりしない気持ちがやっと晴れたと思う一方、それは過去の私の記述が間違いであったことでもあります。この間違いによって皆様には多大なご迷惑をお掛けしたことになります。心よりお詫びいたします。
神様の絶対愛を分かっていなかった自分を悔いると共に、神様の永遠、不変、絶対的な愛に対する揺るぎない確信を持つことができました。皆様と分かち合うことができればとても嬉しいです。
<神様にも赦しがたい怨讐が存在するというみ言>
み言を訓読すると人間が神様の怨讐であるというみ言があります。
『アダムが堕落したでしょう? 悪魔が人類の真の先祖を殺してしまいました。一代のアダムが堕落することによって、神様の怨讐になってしまったのです。』「真の父母」第八章 八大主体思想と「真の父母」宣布 二「真の父母」宣布 5 真の父母宣布は驚くべき事実
また、サタンは神様の怨讐であるというみ言も繰り返し何度も出てきます。
『神様においてエバは未来の妻でした。なぜならば、アダムは神様と一体になるので、神様自身です。神様の妻をサタンが犯しました。サタンは神様の怨讐であり、私たちの怨讐です。』 「罪と蕩減復帰 第二章 罪、人間堕落の内的意味 三 サタンは神様の愛の姦夫 1 サタンは堕落した天使長ルーシェル
『本来の主人を追い出し、彼の妻を奪ってその息子、娘までみな死の立場に引っ張っていく魁首の立場がサタン悪魔だというのです。このように見るとき、神様の怨讐であり、人類の怨讐であるサタン悪魔を許す道がありますか。結局サタン悪魔は神様と愛を中心として姦夫の関係になってしまったというのです。ゆえに許すことができますか。そのようなサタンを許せば世の中をみな破綻させてしまうのです。』「罪と蕩減復帰」 第二章 罪、人間堕落の内的意味 三 サタンは神様の愛の姦夫 1 サタンは堕落した天使長ルーシェル
『サタンとは何ですか。神様の愛の姦夫です……その怨讐サタンにエバを抱かせて今まで千回、万回讒訴すれば聞いてあげ、それを愛する立場に立っていたのです。それが神様の立場です。どれほど神様の立場が難しい立場かということを皆さんは知らないでしょう。愛する妻を怨讐に抱かせておいて福を祈ってあげることのできる男の立場、それ以上の立場が神様の立場であることを知らなければなりません。あなた方はそうすることができますか。』
「罪と蕩減復帰 第二章 罪、人間堕落の内的意味 五 堕落の恨、神様の復帰の心情 1 愛の怨讐、堕落の恨
辞書には、怨讐とは怨(うら)んで敵(かたき)とすることだとあります。
これらのみ言をそのまま読めば、サタンや堕落人間は神様の怨みの対象であり、神様の敵(かたき)だということになります。神様にとってサタンや堕落人間は怨みの対象であり、敵(かたき)であるけれども、愛しがたきを愛するという極限状態を貫いてこられたということになります。つまりサタンや堕落人間は愛が流れない怨讐だけれども、無理に無理を重ねて愛してこられということになります。
このため、イエス様や真の父母様は神様と同じ道を歩まれたと捉えてきました。
私自身、み言にそう書いてあるので、長い間この解釈以外にはないと思ってきました。しかし、しっくりしない気持ちも残っていました。この考えを中心に据えるとノアの洪水審判などはどのように考えたら良いのでしょうか?
創世記6章5節からの記述を見ると神様が洪水審判をなされた理由が記されています。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・
時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。』
神様は地を暴虐で満たす人間を見て後悔されたことが洪水審判を実行された原因であると記されています。
神様は、人間が本来願われた善の姿とはかけ離れてしまったので滅ぼされたことになります。この神様は、神様の御心に叶うものは生かされますが、御心に叶わないものは命を奪われるという恐怖すべき審判の神様と映ります。しかし、神様はそのような審判をしたくない方だということは分かります。そうすると堕落人間のあまりにも極悪な姿に遂に堪忍袋の緒が切れたからなのでしょうか?もしそうなら神様は忍耐の限界があり、限界を越えたら命を奪うことのされる可能性があることになります。
このような愛と殺戮が混在する神観はキリスト教の愛と殺戮の歴史とリンクしています。私達食口の中にも神様に対して漠然とした恐れを抱いている人もいます。東日本大震災やコロナ禍などにおいて命をなくした食口がいることもその恐怖を助長しています。
キリスト教徒のみならず食口においても恐怖から教会活動や献金する人は多くみられます。神様や霊界からの裁きとして現れる災害、事故、犯罪に巻き込まれるなどに対する恐怖が無意識的な隠れた信仰の動機になっている場合もあります。
また、神様は復帰摂理を成し遂げるために原理に従ってそのように為さざるを得なかったと考える人もいます。
創世記8:21にある『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。』という記述を見てもそうかもしれないと思ったりします。
しかし、なぜ容赦なく命までも奪われるのか良く分からないというのが本音ではないでしょうか。いずれにしても、そこには真の愛の神様の姿を感じることができません。この部分について明確な見解が必要です。
洪水審判はノア家庭以外の全人類が全滅するような苛烈な御業なので、この時の神様の心情が解明できれば、その後の復帰摂理に現れる人間の命を奪うような審判や裁きと思える内容についても理解できることになります。
私達は神様が人間に似たお方だということを知っています。しかし愛においては、人間のように状況によってころころ変わる方であってほしくないという強い思いがあります。
『神様はいったいどんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どんな神様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、こんな方を願います。』「真の神様」第一章 神様の本体 三 神様は人格的な神 1 神様は知情意をもった人格神
『真なる方は好きな者だけ好むのではなく、自分を殺せと言う怨讐までも好まなければなりません。彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真なる人です。分かりますか? もう真なる人が分かったでしょう?(はい!)』 「真の父母」 第一章 「真の父母」とは 二 真の起源 1「真」とは
<審判や外的粛清をされる神様の本当の心情>
人間の命までの奪う神様の御業を見ると、審判する神様と捉える以外に解釈のしようがないように思えます。審判の神様は自分の中にもそういう要素があるので、ある意味しっくりきます。悪を懲らしめ鉄槌を下す映画やドラマなどを見ると気持ちがすっきりしたりします。
一方、子供から見て親の本当の気持ちを知ることは簡単なようで簡単ではありません。まして、神様や真の父母様の本当の気持ちを知ることはとても難しいことです。
結論から申し上げると、神様の愛は堕落前も堕落後の永遠、不変、絶対です。対象がいかなる状態にあっても神様の愛に変化はないのです。これを真の愛と呼んでいます。
それでは洪水審判などの審判や外的粛清に現れた神様の姿をどう捉えたら良いのでしょうか?また、真の父母様のみ言には神様にとってサタンや堕落人間は怨讐だという内容があるはなぜなのでしょうか?
人間の命までの奪うように見える神様の御業は、神様が永遠、不変、絶対の愛の方である場合にも起こるのです。ここが重要なポイントです。堕落世界にはどこにもそんな愛を見つけることができないので、そのような観点から推測した人は誰もいないのです。
神様が永遠、不変、絶対の愛の方である場合、人間とは永遠の関係であり、永遠に責任を持たれる方であることが分かります。
この世では人間関係は有限時間内で存在するので永遠に責任を持つということはありません。人間もいつかは死ぬし、会社などの組織もいつかは終わります。ある人やある組織から、あなたには永遠に責任を持ちます、と言われても誰も本気で受け取る人はいません。このため神様は永遠に責任を持つ愛のお方であるがゆえに人間の命を奪われることがあるという発想は誰も思いつかないのです。
神様は一人一人の人間に対して永遠に責任を持たれます。真の父母様も私達一人一人に対して永遠に責任を持たれます。
『祝福を受けた人は霊界に行っても先生が永遠に責任を取ります。先生が主管して指導します。祝福とはこのように先生と永遠の因縁を結ぶものでもあるのです。』
「礼節と儀式」 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼式 十三 祝福家庭の生涯儀礼 2.祝福、祝福式
真の父母様が食口をとても厳しい道に追いやることがあるのは、私達に永遠に責任を持っておられるからです。あれだけ情の深いお父様とお母様なので、永遠に責任を持つという前提がなければ、私達を無情、悲惨と思える道に強制的に行かせることはできないのです。
「真の愛を中心として、毎日、主体的天上世界と対象的地上世界の統一に向かい、前進的発展を促進化」すると言いました。統一に向かって前進すればいいのに、前進的発展を促進化させなければならないと言いました。激しく追い込まなければならないのです。たたきなさいというのです。地上でぐずぐずして歩調を合わせることができなければ、激しく追い込まなければなりません。
私たちの「家庭盟誓」の五節に、「前進的発展を促進化することを」というのがあるでしょう。一つにして前進するのはよいのですが、その促進化は、棍棒で何度もたたいてするというのです。強制です。子牛のように強制的に引っ張ってきて祝福してあげれば、祝福を受けたその人が、霊界に入っていくときに地獄には行きません。長い時間かからずに天国に行くというのです。ですから、強制的にでもしなさいというのです。「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓の各節の解説 五 家庭盟誓第五節の解説 2.前進的発展を促進化することを ①毎日、前進的発展を促進化しなさい
洪水審判は人間に永遠に責任を持たれる神様という観点でのみ理解できます。神様が洪水で命を奪うことをされたのは、無慈悲、非情とは全く逆の動機からきています。人間を永遠に愛し、永遠に親子であり、永遠に責任を持たれる神様にしかできないことなのです。
誰よりも命を奪うことはしたくない神様ですが、地上で悪にまみれて霊人体がますます悪化し、人類の救いを大幅に遅らせる行動をとる人々を強制的に止められたのです。この人々は放っておけばサタンがもっと酷いやり方で命を奪うのです。神様の御業によって死んでいった人も、永遠に神様の子供であり、永遠に責任を持たれるので決断できたことだったのです。神様は本当に永遠、不変、絶対の愛の方なのです。
如何に悪なる人間でも、神様が永遠の精誠と永遠の時間をかけて構想し創造された掛け替えのない子女なのです。その子女を本当に救うために肉身の命を奪うことは、子女を永遠の愛で愛する覚悟を持った存在において初めてできることなのです。
このように洪水審判を初めてとして、人間の命を奪うなどの神様の御業は、表面的には悪人を罰して懲らしめるための裁きように見えます。しかし、実際は、神様が永遠、不変、絶対の愛で人間を愛される存在であること、つまり真の愛のお方であることの揺るぎない証拠なのです。
不信仰に陥った北イスラエル十部族を異邦人の手に引き渡して滅ぼされたり、不信仰を抜け出せない法王庁とキリスト教徒を十字軍戦争に駆り立てたりなどの、私達が外的粛清と呼んでいる御業も、すべて神様の永遠、不変、絶対の愛の御業なのです。一見、粛清や審判と見える神様の御業は、実は最も深い愛の動機からなされたものなのです。
以上の内容を私達に当てはめると次のようになります。
信仰生活において、良いことがあれば恵みだと喜び、悪いことがあれば蕩減だと考え暗い気持ちになります。まして悪いことが次々と起こったり、それが長期に渡って終わりがないように見える場合、そこに神様の愛を感じることはとても困難です。じっと耐えて過ぎ去るのを待つしかない状況です。
しかし実際は、良いことが起こっても悪いことが連続しても全てが神様の愛の御業なのです。今はサタンのいない時代です。神様と真の愛が全権を握っている時代です。一見サタンの業と思えることも、神様が悪人や悪霊を使って行っておられることです。
神様はサタンを通じて作戦されるのです。執拗に苦労させ、殺したりもするのです。「地上生活と霊界」 第四章 天国 三 天国に行く事が出来る要素と条件 一 天国に行く事が出来る要素 1 苦労が必要
神様は悪の勢力を使ってでも愛の御業をなされる方です。神様の御業は愛以外の動機でなされるものはありません。
皆様はそれを正しいと思われますか?
苦難の絶頂でもより深く神様の愛を感じることができる人ほど本物だということになります。苦難は神様からの最上のプレゼントです。私達が本物になるために必要なので、苦難の溶鉱炉に無理やりにでも放り込まれるのです。これこそ本物の神様の愛なのです。
こういう見方ができる本物の人になりたいものです。
私が皆さんを見るようになるとき、本当ではありません。皆さん三、四人、四、五人を合わせてぶん殴って、再び作り出せば本当になるか、このように見るのです。私が売る本当の市場、本当の商店に皆さんをそのまま置いて、本当だと言いながら売れないのです。売り出すことができないのです。分かりますか? そのように見るのです。ですから、鍛錬と試練、製錬の過程がまだたくさん残っていると見るのです。
「おまえたちは純金か?」というとき、私は純金だと見ません。まだ錬磨を受けるべき宿題の過程が残っているから、嫌でも良くても製錬所に全部突っ込まなければなりません。突っ込んで悪いものは焼いてしまい、純粋なもの、一つの結晶体として連合したもの、表も中も間違いない一つに現れうるその形態を備える前には、統一教会員だと言えません。「真の父母」第六章「真の父母」と我々 六 生命視すべきこと 1 自己主張不可
自然災害や事故、事件に巻き込まれて死んだ人々も数限りなくいます。これらの人々は善なる功績が多いがゆえに摂理を進めるための供え物となった人もいますし、また悪なる所業が原因で霊界に送られた人もいます。
いずれの場合でも、それらの人々への神様の真の愛は永遠、不変、絶対です。
人間を死ぬほど愛しておられる神様において初めて人間の命を奪うという愛の御業を実行できるのです。人間を死ぬほど愛している神様にしかできないことです。これによって霊界に行った人々は、初めは悲惨な死に追いやられたと思うでしょうが、神様の最上級の愛によって霊界に来たことが分かる時が来るのです。
今回の元首相暗殺に端を発した教会叩きは、既に述べましたように神様による外的粛清だと私は考えています。私たちが悔い改めて変革できないので、外的勢力を使って強制的に悟るようにされた御業です。神様が私達食口を苦しめたいはずはないのです。神様が私達のために讒訴が得意なカイン圏を総動員して断腸の思いでなされたことです。永遠、不変、絶対の真の愛で愛してくださった御業なのです。私達は教会を打ってきた人々や団体に目を向けるのではなく、そこまでして愛してくださる神様の真の愛を感じる必要があるのです。
私が神様の愛の絶対性、不変性、永遠性を確信したのは、次のような経緯によります。
神様の摂理が着地したのが今から4000年前だというみ言があります。神様は人類始祖の堕落からアブラハムの時までの数万年、数百万年は、サタンや人間に対する恨みが強すぎで愛が全く流れなくなり、復帰摂理を始める気になれなかったのだと思ってきました。
(過去の記述には間違いがあると気づきましたが、少しずつ訂正してまいりますのでご容赦ください。)
しかし、人間や万物が神様の意識の中にいることで、様々の能力を発揮し行動できることを理論的にも体験的にも腑に落ちてからは見解が変わりました。サタンも洪水審判を受けた悪逆なる人たちも五感や知情意が働き、サタン的であっても愛することができたのです。これは神様の意識(心)の中に入れてもらっていなければ不可能なのです。神様はサタンも堕落人間も意識(心)の中から追い出すことはされなかったのです。私達は人からひどい仕打ちを受ければ、相手にしないのは勿論のこと、意識(心)から外して忘れようとします。
しかし、神様はサタンも堕落人間もずっと意識(心)の中に入れてくださっていたのです。
これは神様には怨讐がいないという何よりの証拠です。
み言のほとんどの部分で、サタンは神様の怨讐であり、サタンの血統に落ちた人間も神様の怨讐となったという記述が出てきます。ところが次のみ言のように、ほんのわずかではありますが、神様には怨讐はいないというみ言があります。
愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。
「真の神様」第二章 神様と創造の役事 一 神様の創造の動機は愛 1創造の役事は完全投入
こちらのみ言が本当のことだと分かりました。それでは神様にとってサタンや堕落人間が怨讐であるというみ言があるのはなぜなのでしょうか?
それは、神様がサタンと堕落人間から受けた仕打ちが、極悪な敵からしか受けることがない悪逆無道な内容だったということを私達が深く認識するためです。また、真の父母様がサタンを神様の敵として感じておられたことの率直な表現です。
しかし、神様自身がどう感じておられたかとは別のことなのです。
神様には堕落前も堕落後でも怨讐はいないのです。これが真の愛の神様の真実です。
それでは神様の恨と何だったのかについては後程ほど述べます。
神様の愛の相続は生死の境で
イエス様の路程:
イエス様が神様の愛を相続された舞台は十字架路程です。
十字架に至る路程ではたくさんの怨讐が登場します。パリサイ人、サドカイ人、最後の晩餐での12弟子、ゲッセマネでの3弟子、イスカリオテのユダ、イエス様を否認したペテロ、大祭司カヤパ、総督ピラト、十字架につけよと叫ぶユダヤ民族、刑を執行するローマの兵士などです。
ここにおいて重要なことは、神様はこれらの人々をも愛しておられたということです。父母として見捨てることなどできないのです。
神様がイエス様を愛しておられたことは言うまでもないことです。そのイエス様を十字架につけた怨讐であるこれらの人々を神様はそれでも愛しておられたのです。神様の愛は永遠、不変、絶対です。神様の実子に対してもその実子を殺害する悪人に対しても愛は変わらないのです。今は姦夫の血統に落ちて、神様とは似ても似つかない醜い堕落人間になったとしても、本来は神様の実子だからなのです。
イエス様が十字架上で怨讐を愛することができたのは、悲痛の絶頂で神様の怨讐のない永遠、不変、絶対の愛を相続できたからです。イエス様は神様の真の愛を相続できた最初のお方です。これは形状世界に真の愛が出現したことを意味しています。イエス様を通して神様の真の愛が世界に流れる道ができたのです。これにより世界は大きく変わり始めたのです。
神様には怨讐はいません。真の愛のお方としての完全なる姿を貫いてこられました。
そのため私達にとっての怨讐が現れた時は、神様の愛と自分の愛の質の違いを埋める最大のチャンスとなります。イエス様はこの愛の戦いに勝利されることで怨讐がない神様に近づくと事ができたのです。そして、霊的とはいえその愛を地上に連結されたのです。
最近のいまだに終わらない教会の対する讒訴の嵐は、讒訴の先頭に立つ反対弁護士、共産主義者、離れた元食口や元賛同者、保身のため簡単に手のひらを反す政治家、非難報道で視聴率を稼ごうとするマスコミなど、怨讐のオンパレードです。
神様は悟らず悔い改めきれない私達に対して、外的粛清としてカイン的な人々を総動員されたのです。これは悪霊の再臨復活の原理と同じです。私達がこの状況を甘受し、この人々を怨讐と思わず本然の兄弟として愛することができたら、私達も反対する人々も復活し大逆転できる道として用意されたという面を忘れてはなりません。災い転じて福となす道があったのです。神様と真の父母様は、この絶好の機会に正しい道を行けない私達を見て、どれほど落胆されたことでしょうか。
また、この場面は神様の愛を相続する絶好の舞台なのです。神様にとって教会に反対するこれらの人々も永遠の愛の対象であり、永遠の子女です。怨讐ではありません。このため、反対勢力に対する見方が、神様と私達とではあまりに違うのです。この場面で怨讐を愛することができたら神様と私達の愛の質の違いを埋めることができる機会だったのです。これは神様の愛を相続することで達成されます。そう考えると反対勢力は本当にありがたい存在です。私達を愛の完成へと導いてくれる存在です。
裁判闘争に持ちこんだり、非難の声明を出して相手を叩きのめそうとすることは余りにももったいないことなのです。
反対したり誹謗中傷したりする人たちの言うことはほとんど間違っており、私達は原理的に間違っていないと思う方もいると思います。彼等のどこが間違っており、背後で操っている組織があるなどを熱心に発信される方もいます。しかし、善悪で判断するより重要なことがあることを忘れておられます。それは私達が反対勢力の人々をそれでも愛せるかどうかです。これができなければ、主張が正しくて論理的には勝者でも天の前では敗者です。
裁判闘争で勝つよりも、怨讐を愛する愛の勝利者となることの方が、お母様が喜ばれることであることは明白です。
しかしまだ遅くありません。今からでも真の愛に転換するチャンスが残っています。
心ある方は反対勢力の方々のために赦しの祈りを捧げてください。この人々も兄弟姉妹なのです。何も知らないから反対しているのです。このとりなしの祈りの輪が広がったらどれほど素晴らしいでしょうか。この時こそ神様の愛の姿に似た者となりたいものです。
真の父母様の路程:
真の父母様の路程を概観すると数えきれないほどの怨讐が登場します。その度に真の父母様は怨讐を愛するために身悶えるように道を行かれました。
真の父母様は最大の怨讐と言える金日成に対しても、初めから愛せたわけではないことが記録されています。
原理講論を書かれた劉孝元先生の相対者である史吉子先生の下記の御父母様についての証詞「私は慕わしさのあまり悲しみの涙に濡れて生きる人である」に次のようにあります。
『お父様が金日成主席に会われたとき、お父様には“この殺人魔。韓国を血畑に荒らしたこの者め“という感情もあったそうです。けれども、金日成がもう一度、暴力でもって戦争を起こしたならば、世界は大変なことになってしまいます。そこでお父様は、金日成を親の立場で愛していかれたのです。
お父様はそのことを後に、「金日成をいかに愛するか、という最後の祈りをハワイでやった」と言われました。
そのように祈っていると、“全世界の者が『金日成を殺せー。殺人魔だー』と言っても、もし、金日成を生んだ親がそこにいたならば、その気持ちはどうだろう。『私の息子が自分の目の前で死ぬのは見たくない。どういう方法を使っても、法律を変えてでも、息子を殺さないで生かして、もう一度良い子に戻したい』という心を持つのではないか。それが親である”という思いが、心情に響いてきたというのです。
それでお父様は、金日成に対して、親として愛する心を準備してから北韓に向かわれ、その結果、あのような歴史的な“抱擁”の場面となったのです。
そしてそのことを、金日成本人が敏感に感じ取ったというのです。その証拠に、彼は死ぬまで、息子である金正日書記に、「私は世界中の偉い人に会ったが、文先生に会ってからは文先生が恋しくてたまらない。どうしてだろう。会いたいなあ、会いたいなあ」と言っていたというのです。』
ここには金日成を生んだ親の心情が述べられています。これは神様の心情でもあるのです。神様にとって金日成は怨讐ではありません。愛する子供です。
私達は真の父母様は原罪なく本然の人間としてお生まれになっているので、生まれながらに怨讐を愛せる愛を持っておられると思ったりしますが、そうではないことが分かります。
怨讐のない神様の愛をいかにして相続できるか、これが真の父母の道なのです。これができないと神様が入られる器、すなわち神様の体にはなれないのです。
怨讐のない完全な父母である神様の愛の基準に如何に到達するか、身悶えられた路程が真の父母様の道でした。
神様は解放されていない恨という苦痛に満ちていることを歴史上初めて発見されたのは真の父母様です。
神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。
「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様 2 神様の歴史的に悲惨な姿
ここにおいて私がやっと分かったことがあります。皆様は既に分かったおられたことではないかと思います。神様の恨とは何かということです。
神様の恨について、私は愛せない怨讐を愛さなければならない苦痛だと思ってきました。しかし、そうではなかったのです。神様には怨讐はないというみ言の通りなのです。私は神様の立場に立ってという思考に基づいて真理を探究してきたつもりでしたが、肝心な部分を間違っていたのです。間違えた理由は自分の中にある愛に対する隠れた不信が邪魔をしていたからです。
それでは神様の恨とは何なのか?
心情を蹂躙されたことです。
それは真の愛を貫くことでより強く生じます。
父母は子供からひどい仕打ちを受けても父母の愛は変わりません。しかし、自分の命以上に愛する子供からの仕打ちがあまりにひどい場合は、愛している分、心情が著しく傷つくのです。死ぬほど愛しているので死ぬほど傷つくのです。これが恨という苦痛の真実です。子女によるあり得ないほどの心情蹂躙は死の傷となり、死の苦痛となるのです。
この恨は神様と人間の関係から生じた深い傷なので、神様と人間の関係を通してしか癒されません。神様の死の傷を奇麗に元に戻し、死の苦痛から解放できるだけの愛で神様を愛する人間が必要です。それが真の父母様なのです。
先生は何でもありません。人類歴史は百五十万年だと言われていますが、永い歴史過程において自分の威信と権威とすべてを忘れて、失った子を探し求めて身もだえするかわいそうな父母の身の上を誰に訴えるのでしょうか。子が現れてそれを解いてさしあげるまでは、その胸の内にしこりとなった恨を解くこともできないし、打ち込まれた釘を取り除くこともできません。釘を取り除いて愛の涙で、血肉で、それが肉となるように解いてさしあげなければならない神様の怨恨の心情を、誰が解放してさしあげるのでしょうか。私の解放よりも先に、神様が解放されるべきであるということを知らなければなりません。これが宗教人の追求する究極的な解放の道だということを知らなければなりません。
「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 五 神様を解放して差し上げよう 2.神様の解放は人間がしなければならない
表面上はサタンが神様の心情を蹂躙したかのように見えますが、サタンは人間の堕落によって生まれた存在なので、人間の堕落の産物にすぎません。
結局、人間が神様の心情を死ぬほど蹂躙したのです。
さて、愛における神様と真の父母様の立場を再度明確にする必要があります。
神様は愛においては一貫して永遠、不変、絶対です。
一方、真の父母様は生まれながらにして神様の愛をそのまま受け継いでいるわけではないのです。真の父母様が神様の愛を相続していかれた足跡の一部を八段階復帰路程に見ることができます。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の八段階は真の父母様が神様の愛を相続していかれた道を表わしているのです。
それぞれの圏内の怨讐を愛していくことで神様の愛に似ていかれた路程です。これは対象を入れる心の器が大きくなったいった路程と見ることもできます。最後は神様までも安息できる心の器を用意されたと見ることができます。
真の父母様の路程は神様の恨すなわちあり得ないほどの心情蹂躙の追体験路程です。神様が通過された恨の道を追体験することは二つの意味があります。
一つは神様の恨を解怨するためです。
もう一つは神様がそのような恨すなわち心情蹂躙を受けても変わることがなかった神様の愛を相続することです。この両方を成し遂げるのが真の父母様が歩まれた道です。
アダムとエバが戒めを守って完成する道の何倍、何十倍、何百倍も困難な道なのです。
この極限的に困難な道を勝利されたのが基元節です。この日は真の父母様が神様の恨を完全解怨された日であると同時に、神様の愛を完全に相続された日です。
基元節を期して真の父母様の愛は永遠、不変、絶対となりました。
神様の愛は元から永遠、不変、絶対でしたが、真の父母様がその真の愛を完全に相続されたので真の愛がこの世界の絶対的な中心になったのです。
これにより、神様と真の父母様は私たち一人一人に対して、私達の一つ一つの家庭に対して、そして天宙全体に対して永遠に責任を持つことができる立場に立たれたのです。
このため、私達の人生は絶対安心圏に中にあります。
私達の人生に永遠に責任を持ってくださる存在がいることはどれ程すごいことでしょうか。
たとえ命を捧げるような道を行ったとしても絶対安心圏の中なのです。神様と父母様のために命を捧げることは清々しい道であり、栄光の極みなのです。命を捧げることは絶対安心圏の中心に行くことです。
このようにして私達は心配して不安にさいなまれる生活から解放されるのです。
そして次は神様と真の父母様が私達を永遠、不変、絶対の愛で愛してくださり、絶対的に責任を持ってくださり、愛の絶対安心圏に入れて下さったように、世の中の人々に対して私達が神様と父母様の代身となって人々を愛の絶対安心圏に案内してあげる番です。
この期間に、私とともに闘っている皆さんは、真の父母の個人的な身代わりであり、家庭的な身代わりであり、民族的な身代わりであり、国家的な身代わりです。このような父母の身代わりとして、今まで韓国各地へ出て闘っているのです。今は、世界的な舞台に向かって出て、責任を持って闘わなければならないのが皆さんの責任であるのです。
「真の父母」第四章 「 真の父母」の使命 三 真の父母になる以前の過程
易しい立場で易しい事をしながら孝の道理を果たそうという人よりは、限りなく難しい立場で孝の道理を全うしようという責任者、そのような立場に立った人、そのような立場に立った息子、娘こそが、孝子の行く道に入ってきた人です。それは間違いありません。
この様に見るとき、神様は世界的な問題を心配していらっしゃるので、世界的な問題に責任を持とうという人がいれば、その人は、世界のいかなる民族やいかなる人よりも、神様の前で認められる近い立場に立っているという事は言うまでもありません。
それ故に、孝子の立場とは、「父母が受けた悲惨な事に対して代表的に責任を持とうとする立場だ」と結論づける事ができます。
良い事があっても、良い事は除き、常に悪い事に責任をもたなければならない道が孝子の行くべき道です。
「真の孝の生活」 第二章 真の忠孝 一 真の忠孝は困難の中でも自ら実行する事
追補 恩恵の証詞
「人間の生と霊魂の世界」第三章 真のご父母様と霊界 二 真の御父母様と天国建設 1 真の父母になる為にみ印を受けなければならない、には御父母様が原理の内容を霊界全体と神様から公認を受けるための43日間の凄まじい霊的戦いが記述されています。一部を抜粋して下記に掲載します。
再臨主になる為にはどのようにしなければならないでしょうか。霊界に入っていってイエス様を中心として全ての宗教関係にある原理の内容、天地はこうで全ての原則がこのようになったという道理を解いて霊界で承認を受けなければならないのです。その内容を発表しなければなりません。・・・・
四十三日間霊界全体に対して闘争の役事をしたのです。ですから最後には何かというと、四十日目は神様までも「レバレンド・ムーン、こいつめ。なぜこの天上世界に来て平穏な天の世界を混乱させるのだ、このどろぼうめが」と言うのです。皆「わっ!」と言いました。かといって私は後退しなかったのです。・・・・
ですから、先生が霊界で闘う時、自信満々に「異端が何だ」と対抗して闘ったのです。今後は、霊界に大混乱が起きるので神様が審判長として判決を下さなければなりません。ところが、神様まで反対するのです。「文総裁はお前達が言う様に異端者だ!」と言うのです。なぜですか。アダムが天を裏切ったが故に、蕩減復帰の原則によって神様もアダム完成者を裏切らなければならないのです。それでこそ神様の心にわだかまった塀が崩れるのです。そして、全体が皆反対し、神様まであちら側に立っていて、ただ一人文総裁が残ったのです。・・・・
ここには真理探究と霊界と神様の公認を受けることが困難極まりないものであることが書かれています。私達食口がご父母様のみ言の真意を知ろうとする場合も極めて薄めた内容ではあっても、同じような体験をする必要があるのかもしれません。み言を訓読すると人間が自分の責任分担で求めなければ分からないようになっていることと、その絶妙なさじ加減に驚嘆することがあります。
今回の神様の愛の絶対性、不変性、永遠性への確信についても僭越ではありますがそれを感じています。ここしばらくお母様の前に命を捧げる決意するように追い込まれているのを感じていました。十分とは言えませんがそのように決意を固めると神様の愛についての一番重要な内容について見えたのです。
私も神様の愛の絶対性を無条件に信じていた時期がありました。ところが、み言を訓読すると、サタンは神様の怨讐であり、サタンの血統を受けた堕落人間も神様の怨讐であると明確に書いてあります。これは神様が人間の父母であるという原理とは相容れません。
私達は神様が絶対的に自分を愛してくださっていると信じたいけれども、自分を怨讐として見ておられると思うと神様の愛に対する絶対的な確信と安心感はなくなります。
サタンは神様の怨讐であり、サタンの血統を受けた堕落人間も神様の怨讐であるというご父母様のみ言は、み言の真意に到達するための試金石であり、門番の試験ようなものだと感じます。命を捧げる決意がないと門が開かないようになっていると思いました。
その門が開いたので本当に解放されました。
皆様と共にこの解放感と絶対安心圏を分かち合いたいです。