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神様95%+人間5%の原理

 

本然での神様の責任分担や復帰摂理における神様の責任分担は95%です。

それでは一般的な人々の生活に対しては、神様の働きかけはあるのでしょうか?

 

創造原理第五節(二)被造物の成長期間(2)間接主管圏には下記のように書いてあります。

被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。

 

このみ言を見ると、神様は間接主管圏では人間が責任分担を果たすまでは一切何もされないようにも取れます。神様は、み旨を知る人達には役事という形で様々に働きかけられるとしても、大多数の摂理やみ旨を知らない人に対しては、神様は何もされないので神様はいないも同然という解釈も成り立ちます。はたしてそうなのでしょうか?

 

このことを明確にするには上記のみ言にある「神は原理の主管者」という部分に注目する必要があります。

原理の主管者というのは単純に法則の主管者として捉える場合が多いのですが、実は想像以上に大きな範囲なのです。人間の責任分担以外の全ての部分が原理の主管者たる神様のなされることなのです。

これが神様の責任分担95%なのですが、この範囲は神様を知らない人間に対してもその生活すべてに及びます。

 

結論から先に述べますと、神様の95%と人間の5%の原理はみ旨や摂理における責任分担の原理にとどまるのではなく、根本原理としてすべての人間に関するあらゆることに及びます。

生物・生命分野あるいは意識活動について研究する人々は、それぞれの分野を探求することに終始し、これらを統一的に捉えられていません。また意識活動だけについてみても、それを構成するクオリア、知情意、愛について科学、哲学、宗教などの各分野のエキスパートが研究し様々な理論がありますが、根本を知らないため不十分です。また、意識の統一理論として統合することも出来ずにいます。

 

私達は明確な統合原理を示すことができます。

それが神様の役割95%+人間の役割5%という普遍原理です。

(人間の役割5%というのは、正確な数字というよりほんのわずかだということを表現する数字です。)

 

人間の生命活動     =  神様の役割95%+人間の役割5%

人間が五感で感じる質感 =  神様の役割95%+人間の役割5%

・人間の知情意の働き   =  神様の役割95%+人間の役割5%

・人間の愛の出現       =  神様の役割95%+人間の役割5%

 

生命活動については人間が働きかけをしなくても心臓を初めとして内臓が自律的に活動しているので人間の役割は小さいことは多くの人が認めることだと思います。しかし、五感で質感を感じること、知情意の発現、愛することなどは自分が持っている能力で為していることであって神様は関係ないと考える人が多いと思います。これらは意識活動と呼ばれているものです。

多くの人は、意識は脳が作り出していると誤解しています。また食口の皆さんは、意識活動は肉心や生心によるもので、神様が人間を創造される時に人間の性相として植え付けられたものだと思っておられる方が多いと思います。

 

しかし統一思想の主張はそうではありません。

物理学の世界では場という考え方があります。電磁気力、重力などの力が影響をあたえる空間領域のことを指しています。例えば、電磁気力が力を及ぼしている空間を電磁場、重力が力を及ぼしている空間を重力場と呼んでいます。電磁場、重力場などは宇宙空間の果てまでくまなく広がっていると考えられています。

 

場の考え方で見てみると、形状的には天宙すべてが万有原力の場です。宇宙全体、霊界全体に至るすべての空間に万有原力は浸透しています。例えば宇宙空間に二つの存在があれば、その二者は空間に遍在する万有原力を受信して相対基準を結び授受作用し重力が生じます。

また、性相的に見れば天宙すべてが神様の意識の場です。宇宙全体、霊界全体に至るすべての空間に神様の意識は浸透しています。天宙は神様の意識の場です。

すべての存在は程度の差はありますが神様の意識を受信しています。

 

意識は心の状態といえるので、原存在の性相が意識の根源(source)であらざるを得ない。それでは、その性相はどこにあるのだろうか。すなわち、神の心(意識)はどこにあるのだろうか。遍在する神であるから、その意識は時空を超えていつでもいかなるところにもあると見なければならないであろう。このような場の状態にある意識が、人間の頭脳(高度に発達した有機体)を通して総合的に現れたものが人間の心であり、細胞や原生動物のような低級な有機体を通じて現れたものが原意識であると思われる。(そうして、生心は霊人体を通じて現れた高次元の意識であろう)

統一思想要綱 第二部 第二章 認識論 第三節 統一認識論 (五)認識作用と身体的条件 2 原意識と原影像の根源と形成 ① 原意識の根源と形成

 

個体の性相と形状は神様とは独立してその個体の中に存在すると考えている人が多いと思います。確かに被造物は神様から独立した存在ですが、被造物の性相は神様の意識が被造物に浸透して発生しているのです。これはとても重要な観点です。

この観点から見ると神様が創造されたのは被造物の形状だけだということになります。被造物の性相は被造物の形状に神様が意識を浸透させて出現させておられるのです。

​以上については、詳しくは「神様の精誠」の章をご覧ください。

 

*神様はなぜこのような創造方式をとられたのでしょうか

 

その理由についてすべては分かりませんが、理由の一つは神様が被造世界全体について全知全能であるためです。

神様の意識が全ての被造物に浸透する仕組みにされたことで、エネルギー、素粒子、原子、分子、鉱物、植物、動物、人間に至るまで神様は知らないことがありません。全知が必要な理由は完全に愛し、完全に主管するためです。

また、神様の意識によってすべての被造物の性相が発生しているので、神様がやろうと思えば被造世界を思い通りに動かすことができます。

これにより、神様は当然、全能者となれるのです。

もう一つの理由は、神様がこれ以上ない最高の被造物を創造しようとすれば、神様から完全に独立するのではなく、神様の性相(心)と形状(体)に直接連結する方式を選ばざるを得ないということではないでしょうか。例えば、多くの人が絵画の最高傑作と認めるレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザは、いくら素晴らしとしてもダ・ヴィンチ本人の価値に並ぶことはできません。神様はご自身の心と体に連結されないで完全に独立した被造物を造ることは勿論できますが、その被造物は傑作とはなり得ても、神様に並ぶような超傑作にはなり得ないのです。

 

この創造方式は神様御自身を性相としてそれに相対する形状を造るやり方です。

 

神様も無形の主体なので、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないのです。したがって、神様も二性性相をもっています。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。

第六篇 真の万物 第一章 万物創造とその意味 第二節 万物創造の意味31 1992.3.27

 

神様は創造された形状(人間)に意識を浸透させることで生命を持たせ、更に五感の質感や知情意の機能を与え、更に愛することができるようにされました。くどいようですが人間が持っているこれらの能力は人間が生まれながらに内部に持っているものではありません。神様が人間に絶えず意識を浸透させてリアルタイムに生じさせておられる能力なのです。

本当にそうなのか御自身でお確かめください。

これが正しいとすれば神観、人間観、世界観は全く変わります。神なき人間中心主義は消滅します。

 

*神様95%、人間5%の原理はどこから来たのでしょうか

 

さて、朝いつものように祈っていると責任分担の95%+5%の原理は責任分担に止まらず、もっと普遍的な原理ではないかという閃きがありました。それがきっかけで文頭の結論に導かれました。

このような神様95%人間5%の原理の根拠はどこにあるのでしょうか?

それは性相と形状の役割あるいは重要度の比率から来ています。

 

いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。創造原理 第一節 神の二性性相と被造世界(一)神の二性性相

 

性相と形状においては、上記のように性相が決定的に重要な役割を果たします。この役割の比率を数字で表せば95:5と表現できます。

神様と人間の関係は性相と形状です。神様は絶対に人間が必要であり、人間は神様が絶対に必要です。形状あっての性相であり、性相あっての形状です。

しかし神様と人間が神人一体に至る過程および神人一体実現状態を客観的に見れば、性相である神様の役割の比率は95%、形状である人間の役割の比率は5%となります。

神様の責任分担95%、人間の責任分担5%の原理は、神様と人間の関係が性相と形状である所から出てきたものです

*神様の95%と潜在意識

さて、神様(性相)95%、人間(形状)5%の原理に基づいて論理を展開していくうちに、意識全体に対する潜在意識の割合も95%くらいなのではないかと思い調べて見ると、様々な見解が90%から99%の範囲にありました。そして一番多いのが潜在意識95%、顕在意識5%という見解でした。

(顕在意識とは普段認識できる意識のことで表面意識ともいわれています。潜在意識というのは、自覚されることなく行動や考え方に影響を与える意識のことです。「潜在」とは「潜っていて見えないが存在する」といった意味合いの言葉です。

一般的に、潜在意識は顕在意識からは自覚もコントロールもできないと考えられています。

日常生活や緊急時の行動、ひらめきや直感、思考全般に多大な影響を及ぼしていると考えられています。)

潜在意識と顕在意識

さて、五感に感じる質感、知情意、愛などの意識活動の95%は神様の御業であると述べましたが、具体的にはどこにその御業は現れているのでしょうか?

95%と5%の法則から見て、人間の意識における神様の本拠地は、意識の95%を占める潜在意識ということになります。

人間の一般的な考え方や心理学的に代表される学問的な考え方においても、人間の意識の中心は顕在意識だということになっています。しかし、こうやって原理的観点から理論的に追求していくと逆だということになります。

下記のみ言をご覧ください。

 

あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。創造原理 第五節 被造世界の創造過程とその成長期間(二)被造物の成長期間(3)直接主管圏

 

「神様の命令ならざる命令」とあるみ言の真意は、「明言されざる神様の御心を感じて」ということだと思います。これは潜在意識から湧き上がってくる神様の御心と解釈するとぴったり来ます。

下記のみ言も同様です。

 

ですから、心に尋ねてみるのです。その心には神様が入っていらっしゃいます。その声を聞くことができなければなりません。心の声を聞くことのできる境地まで入っていかなければなりません。

「天上天下(てんげ)唯我独尊」とお釈迦様が言いましたが、それは、「私」が「私」に尋ねれば、「私」に神様が入ってきていることが分かるということです。そのようになれば、できないことがないのです。

第四篇 真の人間 第四章 真の人間が行くべき生涯路程 第一節人間の本性の道9 1984.7.10.

 

このみ言は、神様が入っていらっしゃる心というのは顕在意識ではなく潜在意識であることを示しています。潜在意識におられる神様を感知する必要があるというみ言です。

以上をまとめると次のような結論になります。

 

顕在意識 : 人間の意識場、形状、対象、結果

潜在意識 : 神様の意識場、性相、主体、原因

性相と形状の関係はとても不思議な面を持っています。

性相はより無形で形状からは見えません。形状はより有形で性相からは見えるしコントロールできます。

これは性相が形状よりも一次元高いことを意味しています。

三次元の立体世界からは二次元の平面世界は見えますが、二次元世界からは三次元世界は見えません。これと同様ではないかと思います。

性相世界である霊界からは地上世界は見えますが、地上世界からは霊界は見えません。神様からは人間を見えますが、人間は神様が見えません。

このように、性相と形状は不思議な深い関係を持っています。

​​ところで、潜在意識の神様の座は、神様にとって全知全能の神様の玉座よりも重要です。

(神様は全知全能です。それで得られる愛の喜びもありますが、人間の潜在意識に入って得られる愛の喜びの方が遥かに大きいのです。詳しくは「真の愛に関する6つの各論」の「玉座の神様と人間としての神様」をご覧ください。)

潜在意識は神様の住まい

一般の人は勿論、学者においても顕在意識こそ人間の中心と考えています。

しかし、潜在意識は本来神様の意識場であるので本当はここが中心ということになります。

これは人間観ついてのコペルニクス的転回といえる革命的な事実です。

潜在意識における神様の御業と神人一体の謎の解明

 

神様の働きかけは潜在意識から顕在意識への流れです。潜在意識からの働きかけなのでよほど注意していないと分かりません。潜在意識から顕在意識への流れは一次元高い性相から形状への流れなので、なかなか気付かないし感知できないようになっていると言った方が良いかもしれません。

あれが食べたい、あそこの行ってみたい、あの人に会って話したいなどの様々な欲求は、自分で決めたようですが、本然の人間では神様からの働きかけが極めて大きいのです。

​これは、言葉による指示や啓示あるいは霊的役事とは別のものです。

​良心作用は自分でコントロールして生じているものではありません。明らかに潜在意識から顕在意識への流れです。

本然の人間に対する神様の潜在意識からの顕在意識への働きかけが良く分かる例がお母様の自叙伝にあります。

 

その夜、夜陰に乗じ、私達は案内者について、三十八度線を一気に越えました。

私は喜びのあまり、母に言いました。

「もう、金日成を賛美する歌を歌わなくてもいいのでしょう? 南の歌を歌うわ」

ところが、南側でも厳重な警備が敷かれていたのです。そのことを何も知らなかった私は、うきうきして何節か歌を歌いました。すると、前の茂みでガサガサと音がするのです。びっくりした私たちは、その場で石のように固まりました。また人民軍に捕まるのではないか、という恐怖が押し寄せてきました。

ところが茂みをかき分けて現れたのは、南の兵士たちでした。人の気配を感じ、銃を構えて警戒していた彼らでしたが、無邪気な子供の歌声を聞き、撃つのをやめて出てきたのです。・・・・

あの時、もし私が歌を歌っていなければ、北の人民軍と誤解され、その場で銃弾を浴びて命を落としていたでしょう。天はこのように、辛くも私たちを保護してくださったのです。

自叙伝 人類の涙をぬぐう平和の母 第二章 私は独り娘としてこの地上に来ました 三十八度線、あの世とこの世の境を行き来して P78

 

幼いお母様が、南の歌を歌いたいというお気持ちになられたのは、お母様の潜在意識におられる神様からお母様の顕在意識への働きかけです。偶然なされたことではありません。

天はこのように、辛くも私たちを保護してくださったのです。」という記述がそのことを教えてくれます。

 

聖書にアダムが名前を付けたようになったということばがありますが、それは何を意味するのでしょうか。神様がその心の中に入っていらっしゃるということです。

「罪と蕩減復帰」第二章 罪、人間堕落の内的意味 五 堕落の恨、神様の復帰の心情1.愛の怨讐、堕落の恨

 

このみ言は、アダムは自分が様々な万物に名前をつけたと思っていても、それは潜在意識から顕在意識への神様の働きかけに気付かなかっただけで、実際は神様が名づけられたということを意味しています。

 

アダムとエバは神様の何ですか。体です。それゆえに、アダムとエバが名づけるとおりになるというのは、どのような意味ですか。その体に神様が入っていってつけられるのです。

「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 三 神人一体と愛の理想完成 2.神人愛理想の根本原理 ① 神人一体をどのように解明するのか

 

さて、意識の活動において重要なのは愛と知情意です。知情意は愛をエネルギーとして機能します。愛は好きだ!という情感の事なので情に含まれると考えがちですが、愛は情の最上位にあって情の主体です。もちろん知や意の主体でもあります。

神様の知情意は神様の愛をエネルギーとして機能します。神様の愛は真の愛です。真の愛は為に生きる方向でしか発現しません。

すなわち為に生きようという動機で知や意が機能します。

情は為に生きる方向で情を投入しようとします。また、為に生きることで湧き上がってくる情を求めます。

 

本然の人間の潜在意識を根源地とする神様の愛と知情意は、人間の顕在意識に染みだしてきます。本然の人間は染みだしてくる神様の愛と知情意を自分の愛と知情意のように感じます。これが本然の良心ではないかと思います。一般的に、良心は我知らず湧き出る善の心ですが、本然の良心は善なる心の働きに止まらず、愛や知、情も含んだ潜在意識から顕在意識に染み出る神様の心と言えると思います。

 

人間に自分で意識できる顕在意識と自分で意識できない潜在意識があることは、人間という一つの個体に、父母である神様と子女である人間という二者が、どうして同居できるのかという謎に対する解答です。

 

自覚できる意識が人間の意識の中心座であり、人間が自覚できない意識が神様の意識の中心座だという仕組みです。

神人一体を実現するあまりにも絶妙なる仕組みです。

潜在意識と顕在意識の内、最終決定するのは顕在意識です。

人間の一個体に神様と人間が同居するのですが、神様は人間の決定に従われるのです。

​父母なる神様にとってそれが最上の喜びなのです。

​神様の父母の愛の深さは、想像を超える衝撃的なレベルです。

神様が愛する相対が神様よりもっと素晴らしくなると、創造した所望的基準から見るとき、神様より高い位置に立っているのです。ですから私が「神様!」と言えば訪ねてくるし、私が「ようこそ」と言うと神様は後ろからついてきながらも不平を言いません。千里、万里ついていっても、いつも神様は喜びながらついてくるようになっているのです子供についていく親の喜びというものは、口で言い表すことができないものです。天地が和動して自分以上に歓迎をするのを見るとき、父母の満足した細胞全体が、笑いのふろしきとなり、どっとはちきれて出てくるのです。

「成約人への道」第四章 成約人への道 七 愛の皇族となれ 2.愛の人になれ

*神様の真の父母の愛-人間に干渉されない真の原因

 

父母の愛といった場合、その人が育ってきた家庭環境や人生行路によって、感じるイメージは異なります。このため、神様が父母だと言っても、神様の父母の愛がいかなるものかについては、人によって捉え方は千差万別です。

しかし、潜在意識を中心座とされる神様を考えると、かなり明確に父母なる神様の姿が見えてきます。

 

神様は人間の性相として、人間に愛、知情意、五感の質感を与えられます。人間のそれらの意識作用の95%は神様が与えておられます。

そこまで与えながら意識の主導権は人間が持つようにされました。

神様は、子女である人間が判断し選択した道に従って後ろからついて行かれます。

これが潜在意識と顕在意識の根本的な仕組みです。

多くの学者や知識人が潜在意識について様々な見解を述べていますが、なぜ意識が顕在意識と潜在意識に分かれているのかについては誰も分かっていません。

もちろん神様の意識構造がその原因ではありますが、それと共に、神様と人間が別々の人格を持ちながら同居するための構造として、人間が自覚できる意識と自覚できない意識が必要なのです。

ですから、これを一言で表すならば、「生んで、育てて、立ててあげよう」です。総論は、「生んで、育てて、立てて、主人にしてあげよう」です。神様も同様です。人を創造して、育てて、天宙の主人である神様の代わりに、愛をもった者として自分よりも高い位置に存在するようにして、主人にしてあげようとするのです。

第一篇 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第一節 心情の神様28  1990.7.11

神様は、判断し選択し決定する意識である顕在意識を人間の座とされました。これは神様が性相で人間が形状で出来上がる神人一体化した神人統合体(天地人真の父母)の主人の位置に人間を立てるということを意味しています。

神様は、ご自身を含めて人間に全てを与えて、更に人間を神様の主人の位置に立てるというのが願いなのです。これは神人一体の世界では、神様は人間の僕になられることを意味します。

上記のみ言に生んで、育てて、立てて、主人にしてあげようありますように、人間を主人にするということは、神様は人間の僕になることを意味します。

これが神様の父母の愛のレベルです。

人間の僕となること、すなわち人間に絶対服従して生きる神様は、父母として幸せの絶頂の神様です。

神様の創造目的は子女である人間に絶対服従して僕として仕えることです。それほどに愛してやまない子女を生み育てることなのです。

 

そのための最良の環境が、顕在意識(子女たる人間の中心意識座、主人の座)、潜在意識(神様の中心意識座、愛の僕たる父母の座)という意識構造なのです。

​そうです。意識は家庭構造をしているのです。

 

それは人間が完成してから後に始まることではありません。

人間が誕生した時から人間の僕の道を行きたい神様です。

 

人間の責任分担5%に神様が干渉されない理由について、堕落論の第六節には、

(一)原理の絶対性と完全無欠性のために

(二)神のみ創造主であらせられるために

(三)人間を万物の主管位に立たせるために

とあります。

もちろんこれらも重要な原理的な理由ですが、愛の観点から見ると、神様が人間を主人の位置に立てるという真の父母たる神様の愛の姿勢は、人間が誕生すると同時に始まっていたのです。人間が誕生した時から、神様は人間の僕として生きたい神様です。

神様が人間の決定に干渉されないというのは、人間に絶対服従される真の愛の神様の本質から生じているのです。人間の決定や行動に干渉されないのは結果であって、愛の僕として人間に絶対服従しておられることが原因なのです

 

人間に干渉されない神様は、原理に従ってそうされるのではなく、真の愛に従ってそうされるのです。神様の心情世界を知るのに、これはとても重要な観点です。

​原理は真の愛から生じたものなので、原理を学ぶときに原理の先にある真の愛を知ろうとすることはとても大切なことです。

 

愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だという事ができます

祝福家庭と理想天国Ⅰ-1066

 

その姿勢は人間が堕落したとしても変わらなかったのです。

人間が、堕落というとんでもない誤った道を選んだとしても、人間の選択に干渉することなく、人間の僕としての道を行かれたのです。

神様の真の父母の愛は不変なのです。

 

神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。

「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 二、宇宙は主体と対象でできている 1.ペア・システムが宇宙存在の原則

「私」を主人に立てて、ご自身は「私」に僕として仕えたい父母なる神様、その神様と共に生活できる所が天国です。

​永遠に続く幸福がそこにはあります。

*脳科学、心理学における人間を惑わす間違った見解

 

脳科学や心理学は、人間の心の性質が本来の姿であるという前提のもとに人間を研究します。

また、脳の進化にその原因を求めます。

人間は動物から進化したのではなく神様の創造の傑作として登場したこと、今の人間の姿は堕落が原因であるということについて無知であるので、決して真理にはたどり着きません。

しかしその似非理論を多くの人が信じたり影響を受けたりしている現実があるので、その概要を紹介し、そのあとに真実をお知らせいたします。

 

さて、一般的に潜在意識あるいは無意識を発見したとされるのは精神分析学の祖であるジークムント・フロイト(1856-1939)です。潜在意識においてはエスと呼ばれる自己中心的な情動がうごめいていて、それを自我が制御しているという考え方です。この考え方は性悪説と言えます。フロイトは 自我とエスとの関係を、馬をエスで騎手を自我にたとえ「自我がエスの欲求をコントロールする役割をとっている」と説明しました。

 

フロイトの思想の上に進化論や脳科学の考えを加味したといえるのが、米国国立精神衛生研究所の脳進化と行動部門の主任であったポール・D・マクリーン(1913-2007)の脳の三位一体論です。これは科学というより仮説にすぎないのですが、脳を根拠としているため多くの人に信じられています。

その説によれば人間の脳は「3つの脳」が進化に従い内部から外部へと層をなしていて、それぞれ爬虫類脳、哺乳類脳、人間脳という三層構造で構成されているとしています。

脳の三層3.jpg

①脳幹(本能脳):ワニやトカゲのような原始爬虫類や魚類の脳

②大脳辺縁系(情動脳):馬や犬のような旧哺乳類の脳

③大脳新皮質(理性脳):人間の脳

 

爬虫類脳(本能脳):生理機能維持、食欲と捕食、性欲と生殖、攻撃性

哺乳類脳(情動脳):喜怒哀楽などの情動部分

人間脳(理性脳)   :理性、倫理、創造、言語、目的志向などの機能

 

魚類や爬虫類の脳と言われる脳幹部分の上に、進化によって哺乳類脳というべき大脳辺縁系が乗っかり、更に進化してその上に人間脳というべき大脳新皮質が出現して今の人類となったという主張です。

爬虫類脳(脳幹)や情動脳(大脳辺縁系)は潜在意識部分で、そこから上ってくる様々な欲望、情感を、顕在意識の座である理性脳(大脳新皮質)が制御するという仕組みだとしています。しかし、人間は進化のスピードが速すぎて三つの脳の調整が上手くいかず、たびたび爬虫類脳や情動脳からの大きな力を理性でコントロールできなくなり、それが苦悩を生む原因だとしています。

 

最近の研究では魚類や爬虫類、哺乳類などのすべての動物に三つの脳の機能が備わっていることが解明され、この説は致命的な間違いを含んでいることが分かってきました。しかし多くの人がこの考え方を信じていて様々な文献にも取り上げられ今でも大きな影響力を持っています。

 

もっともらしく見えるこれらの考え方は、心理学的あるいは進化論的に人間の心の葛藤を説明しようとしています。人間の持つ自己中心的な欲望や情動が潜在意識の世界から上ってくることには気づいていますが、それらが人間の本来の性質だと捉えてしまったことが間違いの根本原因です。人間が自己中心に傾きやすいことや人間の矛盾性が、堕落に原因があることを知らないので、当然、論理展開も解決策も間違っています。

*堕落によって潜在意識の主人が変わったことが真実

 

堕落というのはサタンの愛による再創造を意味しています。

このため神様の意識の座である潜在意識もサタンの愛の形に再創造されました。

天宙には神様の意識と愛が覆っています。被造物はその意識と愛を受信しています。しかし人間は堕落することで、神様の愛を受信しても潜在意識に現れる時に全く逆の方向の自己中心の愛として出現する存在になってしまいました。それは潜在意識がサタンの宮になったということです。サタンにとってはとても居心地の良い場所になりましたが、神様にとっては苦痛の沼になってしまいました。サタンが神様と真の父母様に屈服して悪の業をしなくなった現在でも、サタンの愛によって再創造された潜在意識は自己中心愛による活動をし続けています。

 

堕落人間の潜在意識にある愛は自己中心愛です。その愛をエネルギーとして知情意が機能します。愛と知情意の全てが自己中心です。そして顕在意識に染みだして現象化します。これが堕落性本性です。

自己中心の欲望実現のために知を働かせ、

自己中心の欲望実現によって生まれる情に喜びを感じ、

自己中心の欲望実現のために行動しようとします。

これらの現象は無意識的です。

潜在意識は原因者、性相者、主体者の座です。本来、神様の座です。これが偽の神の座になったのです。

人間は結果的存在であり、形状であり、対象です。

形状が性相を変えること、結果が原因を変えることは極めて困難です。

偽であっても神を変えることは、人間の独力では不可能です。

実際、潜在意識は言葉の示す通り顕在意識が及ばない領域です。

顕在意識の力が及ばないので人間自体では戦いようがないのです。

これが、罪悪歴史が連綿と続いてきた原因です。

 

皆さんも、気が付かないうちに自分の内から湧き出る思いを時々チェックしてみてください。

注意して観察すると、自分中心の事に心を使っていることが驚くほど多いのです。

その力は圧倒的に強いのです。

神様は堕落人間の潜在意識にも働きかけ、良心作用として顕在意識に現れますが、自己中心愛の力が圧倒的に強く、ほとんどの場合、良心の力はかき消されます。

潜在意識が不幸を作り出す

*堕落人間の潜在意識から本然の人間の潜在意識へ

 

既存の宗教団体と天の父母様聖会の最大の違いは、潜在意識の主人を変えることができるかできないかにあります。

堕落人間の潜在意識の主人であるサタンを屈服する人間が現れない限り絶対不可能なのです。

それを成し遂げられたのが真の父母様です。

真の父母様はサタンを完全屈服し、人間の主管権をサタンから取り戻されました。

また、原罪という最大の天法違反を神様が恩赦できる蕩減条件を立ててくださいました。

これで全てが元通りになるように思ってしまうのですが、堕落によって潜在意識がサタンの愛の似姿に再創造されてしまったこと、すなわち潜在意識が自己中心の情を作り出す存在になってしまったことは相変わらず残ったままなのです。

神様はこの潜在意識にいるだけで苦痛です。

この潜在意識がある限り神様は真の愛の姿で現れることができません。

 

本然の人間の潜在意識からの神様の真の愛の流れがどれほど強いかを端的に示している一例が、お父様の自叙伝にあります。

 

ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。

十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を一本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました

「平和を愛する世界人として」第一章 御飯が愛である 人に食事を振舞う喜び

 

気分が良く、胸がわくわくする内容が一般人とはあまりに違うことに気づかされます。

お父様の幼年時代のこの姿は、メシヤだから特別なのではなく、本然の人間なら誰でも持っている真の愛の力が余りに強いことを示しています。

これは潜在意識からの神様の真の愛が成せる業です。

お父様が10歳の時は本然の人間の長成期にあたります。間接主管圏のちょうど真ん中あたりです。それでも潜在意識から流れてくる神様の真の愛は想像以上に強力です。

これが本然の人間の基準です。

原罪清算された祝福家庭と本然の人間の基準には、あまりに大きな差があると認識せざるを得ません。

 

祝福家庭の二世、三世として生まれたことは余りに大きな恵みです。しかし、自分の内から湧き出る真の愛の力が、間接主管圏での本然のレベルであるかどうかは本人が一番よく分かります。もしその基準に達していないとすれば、次に示すように潜在意識を再創造する必要があります。

*潜在意識を再創造する道

 

本然の人間に帰るために一生懸命努力し精誠を尽くす生活をすれば、自己中心の心は弱くなり、為に生きる心は大きくなります。

しかし、下記の堕落の公式を根本的に塗り替えることはできません。

自分のために生きたい心>他の人の為に生きたい心

なぜなら、潜在意識が絶えず自己中心の情を顕在意識に向かって噴き出すという流れが止まらないからです。

この流れは顕在意識において堕落性として現象化します。

真剣に信仰生活をすればするほど、その生活は必然的に堕落性との葛藤となります。

しかし、堕落性の根源地は潜在意識なので、これを顕在意識から変えようとすることは至難の業となります。結果から原因を変えようとする試みだからです。

 

潜在意識を本然の機能に戻す方法は一つしかありません。

それはパソコンやスマホの調子が悪くなってどうしようもない時のやり方と同じです。

すなわち、再起動するしかないのです。

いったん電源を落とすことです。

人間で言えば一度死ぬという過程が必要です。

​サタンの生命をシャットダウンして、神様の生命の器として生き返るのです。これが重生です。もう一度生まれるしかありません。

人間は新しく生まれなければなりません。これは堕落人間の運命の道です。私たちは、いかなる困難があっても、この道を行かなければならないのです。救援歴史が神様の血統に接ぎ木する重生の歴史なので、「私」に属した過ぎし日のすべてのもの、すなわち所有観念、伝統、意識、その一切を完全否定しなければなりません。既にもっているものは、神様にそのまま認定を受けることはできません。一旦取り消して整理したあと、新しく生まれなければなりません。これは木を接ぎ木するとき、根元の部分だけ残してみな切ってなくし、接ぎ木するのと同じなのです

第五編 真の家庭 第二章 本然の男女の愛と祝福結婚 第三節 祝福結婚を通じた重生6 1985.8.20

 

人類始祖は死んでもいいと思ってサタンと愛の関係を結びました。

そして本然の人間の機能が失われ、サタンの似姿になりました。

元に戻るためには、たとえ死んでも神様とご父母様と一つになって生まれ変わりたいという心情が必要です。

神様と父母様を愛する愛の強さが死を超える基準にあるということです。

これは、タマルやマリヤそしてイエス様の右側の強盗が示してくれた愛の世界です。

重生の道はこのような神様と父母様を愛する愛が死を超える基準を信仰基台として達成する必要があります。その上で、長子権を復帰し、実体基台を造成することで重生の役事がなされます。

この両方を達成し、重生のためのメシヤのための基台を造成した基準が天寶登載家庭です。

​詳しくは、「天寶入籍勝利家庭は重生し天国に入る最初の復活」をご覧ください。

サタンの血統を取り除いてしまうことは、メシヤがします。しかし、除去されるようにする行動は、自分がしなければなりません。そこに一体になって従順にしなければなりません。このような基準が成立しない以上、私たちは救援されません。それは、死ぬか生きるかという境地を通過しなければならないのです。そこを通過してこそ、悪の血統が除去されます。生死が交錯する境地に入らなければなりません。死の境地を手探りしていかなければならないのです。

第五編 真の家庭 第二章 本然の男女の愛と祝福結婚 第三節 祝福結婚を通じた重生10 1970.10.13

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本然の潜在意識が幸福の源
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