総論Ⅰ 真の愛の観点から見た創造 夜昼の神様
全体の内容量が多くなったため全体像が見えにくい状況が生じました。
そこで内容を創造、堕落と復帰、重生の三部に分けて、プレゼンのように概観できる形式にしてみました。
各スライドには、なるべくわかりやすいように説明を付けましたが、不明な部分は本論からお調べくださいますようお願いいたます。
プレゼンのスライドだけ集めたものはPDF形式で「プレゼン用のPDFファイル」にアップしましたのでご活用ください。
復帰摂理全体から見て、今がどういう時期にあたるのかを知ることはとても重要なことです。
復帰摂理は大きく三つに分けて考えることができます。
第一期は独り子と独り娘を迎えるまでの基台時代です。この内容は主に原理講論に記述されています。
第二期は真の父母様がご聖婚されて、神様の恨の解怨を成し遂げられた期間です。これは基元節における天地人真の父母様聖婚式において実現しました。
第三期は基元節の勝利によって神様が真の父母様の体を着られることで天地人真の父母様となられ、縦的真の父母である天の父母様と横的真の父母である真の父母様による重生の役事が始まる時代です。
天の父母様聖会という名前の教団が発足したことがそのことを雄弁に物語っています。
本然の縦横の父母が復帰されたことで、堕落人間の生み変えが始まるのです。神の子の誕生が本然の父母を通してなされる様に、堕落人間から真の子女への重生にも天地人真の父母様という本然の父母が不可欠です。
いよいよ復帰摂理の実りを刈り入れる時なのです。堕落人間として生まれた私たちにもいよいよ待ちに待った春が来るのです。
親愛なる食口、祝福家庭の皆様、天宙的な春が来ようとしています!
旧約時代、新約時代、成約時代においては神様と人間が基本的に直接対することができない時代であるため仲保者を必要としました。
しかし、復帰摂理が進み、2001年の神様王権即位式のみ言には次のようにあります。
本然の真の父母の苦労を崇拝するよりも、真の父母が苦労して成し遂げたものまでもすべて踏んで上がり、真の父母がいなく、神様だけが真の父母の位置にいらっしゃったその位置を追求することによって、皆さんが祝福の中心家庭誰々の名によって報告することができるようになったという事実を知らなければなりません。
私たちが、祝福中心家庭誰々の名によって神様に報告するようになったのはこの時期からです。この時から真の父母様が神様と一体であるように、私たちもいつまでも真の父母様にぶら下がるのではなく、神様と一体となることを真剣に実現しなければならなくなったということです。
天の父母様と祝福家庭の一体化を実現するには、み言の全容を知る必要があります。幸いにも御父母様は私たちが完成に至るためのすべてのみ言を語っておられます。ただ、それはストレートに手取り足取りという形ではありませんでした。責任分担として求めなければ分からないようになっています。
真の父母様のみ言を理解する土台となる原理講論は、テーマ別に各論があり、それらが関連性を持ちながら一つの体系となっています。
一方、真の父母様のみ言は各論としてまとまっているわけではなく、体系化されているわけでもないので、み言の深意を知ることは簡単ではありません。それは私たちが責任分担として成す必要があったのですが、出来ていませんでした。それを見て御父母様が嘆かれたのです。
わたしは63年も説教して来ているが、誰も私の語る言葉を理解することができない。2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会
皆さんが分かる原理を教える程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。
祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 「祝福の意義と価値」第四節 祝福を受けるための蕩減条件
食口の中には、原理講論があくまでもみ言の中心であると考えている人が多くいます。あるいは原理本体論が中心だと考えている方もいます。しかし、原理講論や原理本体論がみ言の全体像かと言えば、十分とは言えません。理由の一つは、御父母様のみ言の方が更に深い内容を語られているからです。もう一つの理由は、原理講論や原理本体論だけでは、どうしたら堕落人間から本然の人間に完成できるのかという一番必要な内容が述べられていないことにあります。
御父母様のみ言は真理の実体である御父母様からほとばしり出たものです。それぞれの内容について関連性を見つけて統合的にとらえることはとても難しいことなのですが、御父母様の中では一つに統合されているので必ず実現できることです。
それを実現するカギは真の愛にあります。真の愛を中心に置いて御父母様のみ言を訓読すると違う風景が見えてきます。
み言が部分ではなく全体像として現れてきます。
御父母様の直接のみ言は、人間の視点から見た真理ではなく、神様の視点から見た真理です。人間を神様と父母様の似姿として完成させる道筋を示してくれます。
そして、もう一つ重要なことはそれが断片の集合体ではなく、体系だということです。理念は体系化して初めて実践する力となります。
個人と家庭の完成を成し遂げ、天国を実現するのに十分な実践を促すみ言体系が今こそ必要なのです。
御父母様のみ言体系が必要とされる理由を、もう一つの観点から見てみましょう。御父母様は私たちと神様の仲保者として登場され、成約時代を全うするのに必要なみ言をくださいました。それは、原理講論、統一思想、勝共理論などです。これらは成約のみ言であり、新約時代2000年の土台が必要でした。これは、これらのみ言を理解する心霊と知能に達するのにはイエス様から2000年が必要だったということを意味します。
御父母様は堕落人間が完全に復帰するまでの使命を持ってこられたので、神人一体を実現するためのみ言を語る必要がありました。このみ言を私たちが理解するには本来更に2000年が必要だと言えるかも知れません。しかし、実体の父母様を迎えていることで食口、祝福家庭の心霊と知能は短時間で急速に復帰されてきました。このため、食口、祝福家庭の中には終末論第五節(二)終末に際して我々の取るべき態度に記されているような、理念と思想の欠乏による不安や混とんを感じるほどに心霊と知能が高まってきている人も現れてきます。
み言は自主的な責任分担をもって求めなければ分からないようになっています。お父様が聖書と自然から原理を見つけられたご苦労の跡を推し量れるみ言があります。
祈祷する人は、自然は第一の聖書だと言いました。第二ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。「真の神様」 第二章 神様と創造に役事 五 神様が万物世界を造られた目的 3.自然は愛の理想を教えてくれる教材
私たちには御父母様のみ言があるので、み言を探求する過程で頭を振るような苦労はないのですが、それでも責任分担があるのです。完成に至るには御父母様が手取り足取り導いてくださるわけではありません。責任分担は一人一人にあるので自己の責任分担として御父母様のみ言の深意を求める必要があるのです。
創造原理の性相と形状、陽性と陰性は初めて聞いた人にとっては簡単ではない概念です。原理講義でもこの部分を受講者に分かるように話すのはとても苦労します。しかし、愛を中心に見ると、とてもシンプルな概念に変わります。
神様は愛をより刺激的にするために創造を始められたので、性相と形状、陽性と陰性は愛から生まれ、愛がより強く流れる関係にあります。愛とは好きだ!という情感のことです。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
「真の愛」 第一章 真の愛というものは 三 愛が介在する時、調和が成される
性相は形状が好きです。形状は性相が好きです。陽性は陰性が好きです。陰性は陽性が好きです。
神様と人間は、性相と形状なので、人間は神様が好きです。同様に神様も人間が好きです。陽陰においても、男性は女性が好きであり、女性は男性が好きです。性相と形状は無形(見えないが有形と同じ形)と有形で上下です。陽陰は平面の関係で同質です。
神様が愛が最大になるように構想され、それが実体化したのが性形と陽陰です。
人間が神様のようになりたいという強い欲望があるように、神様にも人間のようになりたいという強い欲望があります。好きな相手とは一つになりたいのが愛の指向性です。つまり、性相は形状と一つになりたい、形状は性相と一つになりたいという欲望です。
これが神様が人間を着るということです。人間からすれば神様に着られるということです。
更に、神様が上で、人間が下というのは格位の上下によって愛が流れるという観点では良いのですが、完全に一体化するのを妨げる要素ともなります。それを平面的に一体化するためにあるのが陽性と陰性です。
つまり、神様と人間が陽性と陰性として結婚することで平面的に一つになるのです。これにより完全な神人一体が実現します。
詳しくは夜昼の神様論Ⅱをご覧ください。。
神様の創造についての概念は一般的な創作や製造の概念とは著しく違います。一般的な創作や製造においては材料と人手を集めて電気機器や工作機械などによって作ります。
一方、神様の創造においては、作るための人手も材料も工作機械や動力もありません。すべて神様がなされますし、材料は神様の体、すなわち神様自身の血肉です。自分の体から出た血を使い、体の肉を削り取って何かを創作しようとする人間はいません。神様の創造は想像を超える世界です。
これは神様がご自身の血を抜き、肉を削り取っても創造したいと思われたということです。これは死と隣り合わせで行われる創造です。凄まじい世界です。ここまで神様を駆り立てたものは愛を得たいという強烈な衝動です。死んでも愛を得たいという動機で創造がなされました。
愛、すなわち「好きだ!」という情感が得られるなら死んでも良いという神様なのです。
歴史上の宗教家、哲学者、思想家、科学者が神様や真理に到達できない理由がここにあります。イエス様や真の父母様のような本然の人間には、死んでも愛を求める性稟が力強く宿っていますが、堕落人間にはそれがほとんど欠損しています。このため神様の本質や創造についての真理に到達できないのです。命を越えて愛したい愛、これが真の愛です。神様や被造世界は真の愛でできているので、この真の愛の目で探求しないと神様の実像や真理が見えてこないのです。
さて、人間は堕落して神様が分からなくなりましたが、愛を求め、愛に生きる性稟は残っています。統一思想では神様の本質は心情だとあります。心情とは喜びを得ようとする情的衝動だとあります。
この定義をもっと明確にしてくれるのが次のみ言です。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。「真の愛」第一章 真の愛というものは 三 愛が介在する時、調和が成される
神様の、喜びを得ようとする情的衝動とは、好きだ!という情感を得たいという情的衝動のことです。神様にとって喜びとは、愛すなわち好きだ!という情感を得ることがすべてなのです。
人間の本質も同じです。朝起きてから寝るまで好きだ!という情感を求めて生きています。皆様もご自分の心を観察してみてください。その事実を実感されると思います。
五感は好きだという情感を得られるところに向かいます。目も耳も舌も鼻も皮膚も全て好きだを求めて動きます。衣食住性を求めるのも、真理を求め美を追求し善を実践しようとするのもすべて好きだ!という情感を得たいからです。好きだの真逆の嫌なことをすることを余儀なくされることもありますが、それはその先に好きだ!があると思うからです。
神様は愛の王なので、愛の中でも命を超える愛を実践されます。また、神様が死を超えて愛したい愛に生きておられるので、当然、人間もその道を行かなければなりません。これが真の愛の道です。
死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。・・・・神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。「真の神様の祖国光復」第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって
天地を作るということは莫大なエネルギーが消耗しますが、それをご自身の血肉を削りながらなされたのです。創造は愛の現実化であり、そこまでするのかという世界なのです。愛、特に真の愛は「そこまでするのか!」という性質も持っています。
裏返せば、愛はすべてに勝って良いものなのです。
創造活動をすれば、疲れたり、体が弱ったり、動けなくなるほどになりますが、愛が返ってくれば一瞬で幸せになり元気になるのです。
神様が創造を進められるにつれ、世界はどんどん神様に似ていきます。そうなれば被造世界に対する神様の愛はどんどん強くなるのです。このため、神様は創造活動を通して莫大なエネルギーや精神力を消耗されましたが、それを補って余りある愛の喜び、すなわち、被造世界が「好きだ!」という情感が得られたのです。天地創造における神様は幸せに満ちた神様だったのです。
愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。「天一国主人の生活」第一章 一 真の愛は神様のみ旨がとどまる中心
神様が命よりも愛が欲しい方だという前提に立つと、愛を得られない期間が長いとすればとても苦しいことになります。
神様は初期において、ご自分を見て自己愛の喜びに浸っておられた時期があったことはみ言にもあります。しかし、自己愛の喜びには限界があります。自分から独立した存在から得られる愛の刺激は、自己愛の刺激とは比較になりません。
このことから、天地創造の前の無限ともいえる期間において、神様がご自分から得られる自己愛のみで満足しておられたとは到底思えません。
神様は、創造することで愛を得る道がなければ、気が狂ってしまわれるほどに愛を求めてやまないお方です。
その神様が創造される時の創造方式があります。それは他我創造です。
今までは「他為」思想について語りましたが、これからは「他為」ではありません。他我主義(他人と私は一つであると考える主義)思想を語らなければなりません。「他」とは何かといえば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。「他為」的思想の時代ではなく、「他我」的思想時代です。「私」が相対を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行ってこそ天に帰るのであって、自分第一主義で進んでいく人は天国に行けません。それが原理です。 第四編 真の人間 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活7 2003.6.29 p.446
他我創造とは相対と一体化するために創造するというものです。創造主と被造物の関係は性相と形状です。性相である神様が創造した形状を着ることが目的です。そして性相である神様が形状をまとうと、形状は神様と同じ価値を持ちます。
つまり、神様の形状として創造された存在を神様が着られる時、形状も神様になります。人間は神様に着られることで被造物ではなくなり、神様になるというのがとても重要な認識です。人間が被造物のままでは、神様と人間は永遠に別々です。
空の器とは、その器に入っていくものと対等な価値をもつのです。「天一国主人の生活」第一章 創造の原動力は神様の真の愛 二 神様と真の父母と一体を成し遂げるための真の愛
空の器とは形状のことです。
夜の神様が、ご自身の愛の対象であり、体として創造されたのが昼の神様です。正確に言いますと、創造された時点では昼の神様は神様ではありませんでしたが、夜の神様が被造物である昼の神様を着ることで、昼の神様は神様となられました。
夜の神様が昼の神様を着られると万王の王、あるいは天の父母様となられます。
天の父母様と人間の関係も同様です。
人間は天の父母様の形状として創造されました。この時点では人間は被造物であり空の器です。
天の父母様が人間という形状を着られると天地人真の父母となります。
このように次々と体を創造し着ていかれる理由は次のみ言にあります。
アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。「真の神様」第一章 神様の本体 二 無形の神様は体が必要 1.体をもつためにアダムとエバを創造
震動的衝撃や衝動的刺激とは愛の震動や愛の刺激のことです。体を持つことで無形である神様が感じられる愛の震動や刺激が強烈になるのです。私たちもこの愛の震動や刺激に同参するのです。
夜の神様と昼の神様の関係は性相と形状であり親子です。天の父母様と人間の関係も同様です。このため、夜の神様は祖父母であり、昼の神様は父母、人間は子女という関係にあります。これは三代の神様家庭であり、神様一族です。真の父母様が三代を強調される根源的理由がここにあります。
人間は誰でも神様のようになりたいという欲望があります。それは叶わぬ夢ではなく、人間が初めからそのように創造されていることから生じる欲望です。人間は誰でも夫婦として天の父母様に着られ、天地人真の父母という完成した神様になって永生するのです。
上図は夜の神様、昼の神様、天地人真の父母様を四位基台の形式で表したものです。
独生子、独生女の原型は昼の神様の中にあります。この原型は無形の独生子であり、無形の独生女です。このお二方は全人類の男性と女性の普遍相でもあります。
皆さんは神様を知らないけれど、お一人の神様がお一人だけではないのです。夜いらっしゃる神様と昼いらっしゃる神様がお一人であるはずなのに、知ってみると、なんと夜の神様、昼の神様、心的な世界の神様、体的な世界の神様が、一つになった立場にいることができないような立場でした。「清平役事16周年記念真の父母様特別集会」のみ言 天基元年天暦12月19日(2011.1.11)天宙清平修練苑天城旺臨宮殿
少年時代、七歳前までは、小さな子供が、天を眺めても、地を眺めてもこのように複雑多端な渦中で、私は『なぜ天があり、生きていけないような受難の狭い道に追い立てるのか、この世の中よ!』、そのような議論の果てに、人知れぬ幼いときから、神様がいるということが分かりました。どのように分かったのか? 私の心から、いないという事実を認定できる根源を探す道理がないのです。私の心にささやく言葉を聞いてみても、夜の神様、昼の神様がいて、二人が分立されたその位置において、深い穴を前後に置いて見ながら、内的な神様、外的な神様が相談しながら私を育てたのです。2012年陽暦7月16日韓国・清平の清心平和ワールドセンター
上記の二つのみ言は夜の神様と昼の神様の関係が内的、外的および心的、体的の関係にあること、すなわち心と体に関係にあることを示しています。(人間が心と体の二重存在である原因はここにあったのです。)
また、人間の堕落によって夜の神様と昼の神様が別れざるを得なくなったこと示しています。(詳細は神様の恨と解怨Ⅳをご覧ください。)
更に夜の神様と昼の神様が相談して真のお父様を育てられたとあります。
アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、神様もそのように育ってきたということを意味します。神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。
「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 三 宇宙の根本は愛である 2.人間は万宇宙の愛の中心 ② 人間成長の道は神様御自身の展開過程
神様においても全く同じです。神様も息子、娘を育ててこられたということを知らなければなりません。神様にも赤ん坊のような時があり、兄弟(妹)のような時があり、夫婦のような時があり、父母になった時に創造なさったということを知らなければなりません。無形なる神様もそのように大きくなってこられたということです。無形の神様にとって、実体のアダムとエバが成長する姿を見ることは実に刺激的なことです。アイゴー、私も兄弟(妹)げんかをしてこのように育ち、夫婦となり、父母となりました。ちょうどそれを再び眺めるようになるのです。ですから、神様が創造されたのと全く同じように、神様はアダムとエバが実体の神様として成長し、息子、娘を生んでいく姿を平面的に感じてこられたはずだったのです。ファミリー94年4月 P33~34 真の父母と創造理想家庭 1994年1月15日世界宣教本部
上のみ言を注意深くお読みくだされば分かるのですが、神様という言葉が二つの意味で使われていることが分かります。すなわち、息子、娘を育てた神様と赤ん坊、兄妹、夫婦、父母と成長してゆかれた神様がいることが分かります。生み育てた神様が夜の神様で、赤ん坊として生まれ兄妹として成長し、夫婦、父母となられた神様が昼の神様です。あからさまに記述されています。これを見ると、人間の誕生、成長過程のすべてが天地創造以前に神様が経験しておられることが分かります。人類の真の父母である神様が経験したことがないことを、人間が初めて経験するということはないのです。
創造は統一思想では創造の二段階構造として説明されています。そのもとになる説明がキリスト論の(2)ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊に記述されています。しかし、上記のみ言から見ると、創造に関するロゴス中心の説明は外的だということが分かります。神様の創造活動は、技術者が設計図に基づいて作るというような外的なものとはかなり違うのです。神様の創造は、あくまでも愛が中心なのです。
夫婦が愛しあって子供を宿し出産し養育するという姿が、神様の創造活動の実像を端的に表しているのです。
以上の内容を踏まえて三大祝福を見ると、全く違う風景が現れます。
三大祝福は人間が幸福になることだけを目的に与えられたものではありません。三大祝福の実現を眺める神様ではなく、神様が主体として人間を着てなされる世界です。
第一祝福は個性を完成することが中心ではありません。勿論それもありますが、一番重要なことは神様がその人の体を着られるということです。人間から見ると人間の完成は神様に着られる時に実現します。そしてこれは結婚の初夜に起こります。つまり、第一祝福と第二祝福は連続的です。結婚することなしに個性完成することはありません。
結婚の初夜に完成基準に達した男性と女性が死んでもいいと思うほどの愛に酔いしれる時に、神様が男性と女性の体を着られて同参されます。この時に人間の個性完成も実現します。
神様が人間の体を着るパターンはいくつかありますが、それは夜昼の神様論Ⅱをご覧ください。。
第二祝福は神様が人間の体を着て子女を繁殖されることです。夫婦の性愛は神様の夢の実現です。無形世界で無形の独生子と無形の独生女が愛し合われた性愛の世界を、人間という体を着てなされる何百倍、何千倍も刺激的な愛の世界です。
愛で和合して喜ぶことができるものは、昔創世前の時代の神様の喜びと、創世以降の相対的実体たちが出会って同化して感じる刺激的な愛の衝撃とは、天地の間の差があるのです。踊りを千年、万年踊っても終わることがないというのです。「成約人への道」 第四章 成約人への道 七 愛の皇族となれ 2.愛の人になれ
第二祝福で出来上がる家庭は無形なる神様世界での家庭の実体化です。無形なる神様世界の家庭は、夜の神様が父母で、昼の神様の中身である無形の独生子と独生女が子女という3人で構成されています。この神様家庭が人間の家庭で実体化します。
人間世界に父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛という四つの愛が存在することについて、何故そうなっているのか考える一般の人はほとんどいないと思います。しかし、現象には必ず原因があるのです。四つの愛の原因であり源泉は天地創造前からあった神様家庭にあるのです。
第三祝福は神様が体を着て万物世界を主管されるということですが、ここで神様が体を着て人間になられるということをもう少し明確にしたいと思います。それは神様が全知全能性をもって人間の体を着られるということではありません。
完成した男性が全知全能で、完成した女性が全知全能なら喜びがありません。相手のことがすべて分かるのですから何も面白くありません。相手の過去から未来に至るまですべて分かるのですから相手を見ても接しても何の刺激もありません。この状態は相手が自分の中にあって独立してないのと同じです。
男性にとって自分の外部に存在する女性に接したときに、神秘の深淵のあまりに深さに魅了されるのです。逆もそうです。対象が自分の外に存在すること、これが神様にとってあまりにも貴重なのです。
神様も全知全能でいるよりも知識が有限で全能ではない方が、愛の刺激が大きいのです。愛を得たい欲求が命を超える神様にとって、全知全能ではなく、偏在もできない人間の中に住むことはあこがれなのです。そういう意味において真の父母様も全知全能ではありません。
人間という体を着られた神様は、個性真理体としての一人の人間の持っている知識、能力、感性、知情意の範囲内で存在されます。神様は全知全能であり偏在されることを忘れて、その人間として喜びに満たされます。
もちろん全知全能の絶対者としての神様も同時に存在します。神様の存在様相は全知全能の絶対者としてのお姿と人間の中に住まわれるお姿とが同時に存在します。人間から見ると不思議に感じますが、神様にとっては普通のことです。なにしろ人間が1000億人、1000兆人、1000京人と無限に増えていっても全ての人間の中に同時に住まわれます。真の愛の神様にとって全知全能の唯一無二の絶対者としての神様の幸せよりも、人間の中に住むことで得られる愛の喜びの方が圧倒的に大きいのです。
男性は完成しても相対者は永遠の神秘であり、愛が止まらない愛の対象です。女性は完成しても相対者は永遠の神秘であり、愛が止まらない愛の対象です。
また、自然界は、人間という体を着た神様にとっても神秘の対象であると同時に科学的に探究しても永遠に尽きることのない謎に満ちた対象です。神様は苦労に苦労を重ねて天地を創造されたすべてを忘れて、人間として愛に喜びに浸りたいのです。
作者が作品を創作するときには、作品は作者を越えられないという事実が生じます。これは作者のすべての性相と形状を作品に入れることは不可能だからです。ダ・ヴィンチの最高傑作とされるモナ・リザは、絵画全体でも最高傑作と認める人が多い作品です。しかし、いくらモナ・リザが歴史上稀に見る傑作であったとしても作者であるダ・ヴィンチを超えることはできません。
作者から出て作品として現実化する時に価値が逓減するのです。
神様であっても単なる創造なら同じことが起こります。被造物が神様から独立して存在する限り、この宿命から逃れられません。ミケランジェロのアダムの創造の絵に描かれた神様と人間の関係では価値の逓減は避けられません。
神様は対象がご自分より立派であることを願われます。対象が立派であればあるほど愛が流れるからです。
被造物は神様より価値が逓減するというこの難問題を、神様はどう解決されたのでしょうか。
それは、神様の機能を対象と共有するという解決策です。神様の知情意の機能、五感で感じる質感の感覚など、私たちがごく当たり前のように持っている機能は、実は驚異的に素晴らしいものなのです。当たり前のように毎日使ったり感じたりしているので、その飛びぬけた特別さが分からないのです。これらの機能は神様と共有しています。神様が私たちとつながって、それらの機能を無償で使わせてくださっているのです。この意味で神様と被造物、特に人間は既に大部分が神様と重なっています。言い換えれば、私たち一人一人のほとんどの部分は、既に神様に着られているのです。これについては次のスライドから徐々に説明していきます。
上図の根拠となるみ言は統一思想の中にあります。
意識は心の状態といえるので、原存在の性相が意識の根源(source)であらざるを得ない。それでは、その性相はどこにあるのだろうか。すなわち、神の心(意識)はどこにあるのだろうか。遍在する神であるから、その意識は時空を超えていつでもいかなるところにもあると見なければならないであろう。このような場の状態にある意識が、人間の頭脳(高度に発達した有機体)を通して総合的に現れたものが人間の心であり、細胞や原生動物のような低級な有機体を通じて現れたものが原意識であると思われる。(そうして、生心は霊人体を通じて現れた高次元の意識であろう)
統一思想要綱 第二部 第二章 認識論 第三節 統一認識論 (五)認識作用と身体的条件 2 原意識と原影像の根源と形成 ① 原意識の根源と形成
この内容は統一思想を書かれた李相憲が推論の形で書いておられます。お父様からお聞きになった内容を整理していく中で、こうであるに違いないと思われて記述されたと思います。この個所はお父様から聞いた内容を李先生の責任分担として探る必要があったのだと思います。結果として、統一思想の中で最も重要な部分になったと思います。
万有原力は神様の形状を根源として現れるエネルギーのことです。その一方で、神様の性相を根源として現れ、被造世界に遍在している神様の意識があるのです。天宙は神様の意識の場だと言えます。
この神様の意識は神様の被造物に浸透し、その被造物固有の独立意識として出現します。それが上図です。
例えば動物の本能は、神様の意識が動物に浸透することで生じる動物固有の意識です。これが動物の性相として形状である体を動かします。
人間の肉心は、神様の意識が人間の肉体に浸透することで生じる肉体の意識です。この肉心が細胞、臓器、血管系、神経系などを動かします。
宇宙に普遍的に存在する原子や素粒子の法則性や宇宙の諸法則も神様の意識が原子や素粒子や空間に浸透することで生じています。宇宙の法則が何億光年離れた場所でも全く同じなのはこのためです。
重要なことは被造物の性相は、初めから被造物の中に植え付けられたものではなく、神様の意識が被造物の形状に浸透することでリアルタイムで生じていることです。このため、神様が被造世界に意識を投入されることを一瞬でも休止されれば、被造世界は消滅します。
また、被造物の固有の意識は神様の意識が根源で生じますが、神様の意識とは独立して機能します。
創造原理を見ると神様は人間の責任分担に干渉されない神様なので、被造世界を創造された後は何もされないように思ってしまいがちなのですが、神様の被造世界に対する精誠は予想を超えるものがあります。
愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。「真の愛」第二章 愛の実際 一 神様の愛 1.愛は神様から始まる
自分がない神様を知るには自分がない無我の境地に入る必要があります。これは禅の境地のようにも思えますが、実際は禅のように自分の精神を無にするよりも、もっと能動的姿勢によって生まれています。それは絶対服従です。
神様の愛は絶対服従の愛であるため人間が考える愛よりずっと高く深いのです。普通では見つけることができません。性相的、陰徳的な愛です。人間は歴史を通してこの愛を知らなかったし、気付きませんでした。この愛については私達食口、祝福家庭も気付きませんでした。神学者や哲学者、科学者など神様を追求してきた人々が神様の本当の姿が分からなかったのは、神様があまりにも愛のお方であり、その愛が絶対服従の愛であることが分からなかったからです。
この愛に気付くヒントが次にみ言にあります。
一つになれば感じないというのは重大なのです。
「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 3.生殖器は根本問題解決の出発点と終着点
あまりに見事に一つになっているので、それが自己意識が全くない神様の絶対服従の愛によって起こっていることに気付かないのです。
人間が神様とは関係なく自分でやっていると思っていることでも、ほとんどが神様の存在が前提で起こっているのです。下記の不思議なみ言もそういう観点で初めて理解できます。
アダムとエバは、神様の二性性相がそのまま出てきたので、一つのふろしきから出てきたのと同じです。双子で生まれた兄と妹のようなものです。その兄妹の双子がおっぱいを片方ずつ分けて飲み、お互いに触って、母親のおっぱいを飲む愛を中心として考えるのです。すべて母の懐に抱かれて愛するのです。「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 三 神人一体と愛の理想完成 3.なぜ結婚が重要なのか
それでは神様の見えない高く深い愛を捜してみましょう。
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