神様に耐え難い苦痛を与える堕落人間
<サタンはどうして悪なる行為を続けたのでしょうか?>
サタンは堕落した後もあれだけ長い期間悪を行うことができたのはなぜなのでしょうか?
愛の減少感から、天使長ルーシェルは天使界における愛の基という位置を人間界においてもそのまま保ちたいという愛に対する過分な欲望を持ちました。満たされない愛を求めてエバを誘惑し本然の位置を離れ堕落しました。
それは愛に対する過分な欲望を持ったということです。そしてその情動に主管されたということです。ルーシェルはエバを誘惑しエバの愛を奪いましたが、一時的にしか満足感は得られませんでした。刹那的に欲望を満たしてもその時は満足するのですが、また愛の渇きが生まれるのです。こうして奪う愛が恒常化します。奪う愛には一時的な満足の後に必然的に愛に対する飢え渇きが付きまといます。
この情的状態は相手を奪うことで相手を破壊し、最終的には自己破壊に向かいます。
これは、情欲に振り回されて次々と異性と関係を持つ人や、万引き、窃盗、詐欺を繰り返す人、薬物中毒、アルコール中毒、ニコチン中毒に陥る人、SNSで正義の仮面をかぶって誹謗中傷を繰り返す人にも見ることができる現象です。ギャンブル、食べ物、買い物、仕事、インターネット、ゲームなどへの依存、パワハラ、セクハラ、モラハラや連続殺人鬼なども同様の現象です。
こういった現象を分かりやすく一言で表すと依存症です。
依存症とは満たされない情を刹那の欲望によって埋めようとする行為を繰り返す精神状態のことです。
⦅愛への飢え渇き⇒奪う愛による充足⇒愛への飢え渇きの再発⦆
このスパイラルに陥っている人は、奪う愛への依存状態の沼から抜け出せません。自分で自分を変えようとしてもほとんど不可能です。際限なく地獄の暗闇の穴に落ちていきます。これが、サタンが悪であり続けた理由です。
<神様の復帰における戦略>
ルーシェルのように欲におぼれて奪う愛に主管された存在に共通することは、本当に欲しいものは異性、お金、薬物、アルコールなどではないということです。本当に欲しいものは神様の愛であり、父母の愛なのです。
このため、刹那の愛のスパイラルから抜け出せないサタン(ルーシェル)を救い出せるのは真の愛だけなのです。
ルーシェルはエバとの間で実体的な愛の関係を結んだので、より強い実体愛がないと太刀打ちできません。神様が実体の体をまとった真の父母様の実体的な愛によらなければ救い出すことができません。
また、サタンの血統に生まれ変わった人間を元に戻すことも真の父母を通して再び生まれなければ不可能です。神様の創造は一から全体へというやり方です。独生子、独生女だけは神様が直接創造されますが、そのほかの人間は独生子、独生女が完成した真の父母の子孫として誕生するというのが原理です。このためサタンの血統に陥った堕落人間の救いも真の父母によって再誕生するしか救いの道はありません。
このように本然のルーシェルの姿を失ったサタンも、神様の子女ではなくなったサタンの血統である堕落人間も真の父母でなければ救うことができません。いかに神様でも真の父母抜きでは堕落人間とサタンを本然に復帰することは不可能だということです。
それで、神様の復帰摂理は如何に独生子と独生女を送るかということに集中しています。
独生子と独生女を送るためには如何につらい道であろうとも我慢し耐えられた道だということができます。
そのために神様が取られた道筋をまとめてみましょう。
①復帰摂理を成すためには神様が原理の絶対性を守り原理の主管者である必要があります。復帰摂理は創造原理による再創造摂理であるからです。
このためには神様が率先して原理の絶対性を死守する必要があります。原理結果主管圏において堕落という結果に責任を持つためには、三大祝福が人類始祖からサタンに移行したことを認め、実際にサタンを祝福しなければなりません。そうしなければ原理通りとは言えません。
これは、突き詰めれば、原理の根源である真の愛を貫くことを意味します。アダムとエバを真の愛で愛されたように、サタンを真の愛で愛することができるかにかかっています。
これは神様がサタンに対して「生めよ、ふえよ、すべてのものを治めよ」と言われ、それを実行されたということです。あまりにも辛い瞬間です。
こうすることで人類始祖は堕落し破壊されましたが、その元である創造原理と真の愛は侵害されずに済むのです。これはモーセ路程においてモーセが血気からアダムとエバを象徴する石板を壊した時も、その根である盤石の基台の上で再度復帰することができたのと同様です。アダムとエバが堕落したとしてもその根である原理と真の愛を死守するという基台の上で復帰摂理を行うことができたのです。
これは心情的な面から見れば、サタンは人間界における愛の基の位置を欲しかったわけですから、神様から人間界における愛の基を意味する三大祝福のお墨付きをもらったので満足したと言えます。神様が真の愛によって原理通りにサタンを祝福されたので、サタンは神様を原理の主管者、原理の決裁者の位置を認めたのです。
②被造世界の長子権、父母権、王権はサタンが持っているので、復帰するためにサタンの奪う愛の堕落性を利用されました。サタンは自分の満たされない思いを満たすために人間を打ってきます。これは前節で述べましたように依存症の世界なので、サタンは自分で自分の情をコントロールできません。打つことで欝々とした気持ちを晴らそうとします。このスパイラルは際限なく続きます。
サタンが罪を条件に人間を打つ時は天の罰の代理としてみなされ、神様はその行為を黙認されますが、打つ条件のない善なる人を打った場合は損害賠償しなければなりません。これも神様がサタンを真の愛で愛することで原理の主管者の位置を死守されたがゆえにこの損害賠償の原理が有効になるのです。また、神様が中心人物や選民であっても天法を外れればその報いを受けるという蕩減の原理を躊躇なく適用して原理の絶対性を死守される姿勢にもサタンは神様の絶対性と公平性を感じたのです。
この作戦は、神様の真の愛と原理の絶対性があって初めて有効になります。善なる個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を立て、サタンの発悪によって打たれることで損害賠償としてサタンの版図を奪ってくるのです。
神様に近いアベル圏は、サタンをおびき寄せて食いつかせる生贄(いけにえ)あるいは生餌(いきえ)という面を持っていたのです。神様は復帰を成し遂げるためにご自身を生贄にすることはもちろんのこと、選民のみならず、イエス様や真の御父母様までも生贄として差し出されたのです。
サタンはアベル圏を打てば損害賠償が付いてくるのは良く知っていましたが、アベル圏という生贄を手にして刹那の喜びを満足させたい依存症的な欲望に勝てなかったのです。神様は、サタンの刹那中毒を利用されたとも言えます。
このため、復帰歴史は残酷な生贄歴史と言っても過言ではありません。
こうしてサタンが持っている長子権、父母権、王権を少しずつ奪い返していかれたのです。
神様は、利他主義の立場で再創造摂理をされながら、ために生き、また、ために生きながら、打たれて奪ってくる作戦を取る一方、サタンは自分中心の立場で、先に打っては損害賠償までしなければならない道を歩んできたのです。神様の作戦は、打たれて奪ってくる作戦であり、サタンは打って滅びていくのです。このように、善の側は打たれ、追害され、犠牲を払いながら発展していきますが、サタンはその反対です。第一篇 神様 第四章 解放してさしあげるべき神様 第二節 再創造される神様9 1990.7.6
<堕落人間の存在が神様にとって耐えがたい苦痛である理由>
*神様と本然の人間の関係
潜在意識論Ⅰでも述べましたが、神様の創造は人間世界の創造とは著しく異なる部分があります。神様は被造物の創造される時に最高のものを造ろうとされました。一般的な創造においては作者と作品を比べると、いくら傑作中の傑作と言われる作品でも作者を超えることはできません。例えばダ・ヴィンチのモナリザが歴史的な傑作だとしてもダ・ヴィンチ本人を超えることはできません。
ところが、神様にとって創造とはご自身以上の存在を創造することなのです。特に人間は神様以上になることを願われて創造されました。
神様はこの難題をどのように解決されたかと言えば、被造物をご自身から完全に分離した立場ではなく、神様に連結して神様の機能を共有できる形をとられたのです。特に生命、質感、知情意、愛などは人間の中にはその源泉はなく神様に連結しているがゆえに現れる現象です。
これら生命、質感、知情意、愛などの機能や能力は余りに高度であり深淵なのですが、人間は誰でも普通に持っているものなので、大抵の人はたいしたことではないと思っています。しかし私は、人間が享受しているレベルの質感、知情意、愛の機能を神様とは完全に独立した形で霊人体に入れることは神様でも不可能ではないかと感じます。人間は堕落することでそういった機能や能力があまりに驚異的であることが分からなくなってしましました。気に入った自然を眺めてみてください。あまりに奇麗なのです。あまりに美しいのです。
それよりも高層マンションの最上階から見る夜景が良いと思う人や、高価な絵画が良いと思う人は感性が完全に鈍ってしまっています。田舎よりも都会が良いと思う人も同様です。奇麗な景色のある田舎に住んでみると都会が異常な世界であることに気づきます。リモートワークの時代になっているのにも神様の役事を感じます。都会にいると感性が毒されて神様から遠くなります。子女がいて子育て中の方には特に田舎暮らしをお勧めします。自然環境に神様を感じます。
さて、1999年に日本でも上映されたマトリックスという映画を覚えておられる方も多いと思います。この映画は、脳に大きな電極を差し込まれて、それによって生まれる世界が現実の世界と同じものだという前提で成り立っています。この映画ではこの部分がぴんと来ないと感じた人が多かったと思います。
映画に出てきた上の写真は行き止まりの廊下のような場所を表わしていますが、壁は数字で出来ています。現実とはかけ離れていますが、ここには正しいものが含まれています。
私たちが何かを見た時、目から脳に映像が流れるのではありません。目から神経を通って流れていくのは単なる電気信号です。色も明暗も遠近も輝度もありません。単に-70mvから+40mvの微弱な電気信号だけなのです。ですから素の世界は上の写真のように数字で表現することもできます。より正確に言えば、素の世界は本当に何もない世界です。明暗すらありません。素粒子の集合体である物質そのものと電磁波が飛び交っているだけ物理現象世界です。人間にとってみれば無の世界と言っても過言ではありません。
目の仕組みと同様に空気の振動が耳で電気信号に変換されたもの、鼻のレセプターに物質が取り付いて生ずる電気信号、舌と食べ物が接触して生ずる電気信号、何かに触れることで生じる電気信号が神経を通って脳に送れたものが、私達には映像、音、香り、味、感触と感じるのです。これが奇跡なのです。私たちの五感に上るものは余りに見事なので、かえってその奇跡に気付かないのです。
マトリックスでは実際の自然や人、建物、乗り物などが存在しなくても、実際に五感を通して生じる電気信号と同じものを脳に流せば、現実世界で体験することと全く同じように感じることができるという論理の上に成り立っています。
電気信号が五感の質感や知情意や愛を増強している要素であることは正しいのですが、電気信号をベースに五感の質感(クオリア)や知情意や愛を生じさせているのは脳だという部分は全く間違っています。
脳にはそんな能力はありません。脳は電気信号を集積しているだけにすぎません。
電気信号を読み取って意味ある形にしているのは脳ではなく、宇宙に偏在する神様の意識が人間に浸透して出来上がる二次的な意識です。すなわち生心や肉心です。生心や肉心が驚異的な能力を持っているのは、神様の意識に連結しているからです。
詳しくは「神様の精誠Ⅰ」の④神様のクオリア(質感・情感)の精誠、クオリア論序、クオリア論Ⅰ、クオリア論Ⅲをご覧ください。
この部分は神様と人間の関係の真実を知るためにとても重要な部分です。私たちの生命や心の機能、能力はすべて神様につながっていることで生じているものです。分かりやすく言えば私たち人間は神様にへその緒でつながり、さらに神様の母乳を頂いて生きているのです。人間は神様の血肉を頂いて生きているのです。これが腑に落ちると神様と自分は余りにもつながっており一体不可分であることがお分かりいただけると思います。
下記のみ言は霊界についての記述ですが、地上界においても程度の差があるだけで同様なのです。
全ての家庭が真の愛で一つになって霊界に入っていけば、神様の血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば農作業もなく仕事がありません。真の愛の食べ物はにおいをかいでも永遠に生きる事ができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。神様の体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。
「人間の生と霊魂の世界」第二章 霊界はどのような所か 一 霊界の実相と法度 4.霊人達の生、霊人達の相互関係
創世記2章16節から17節に『主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。』とあります。
これは心霊の低い時代の人々に向けて語られたみ言と見ることもできますが、取って食べるものがクオリア(質感、情感)だと解釈するととても深い意味になります。これは、神様から供給される色彩、映像、味、音、香り、触感、あるいは喜怒哀楽などのあらゆる情感を自由に味わっても良い、しかし、夫婦の愛に関係するあらゆる質感、情感は時が来るまで味わってはならないという意味を持ったみ言なのです。これは完成してから神様と一緒に味わうクオリア(質感、情感)なのです。
エデンの園にあった生命の木と善悪知るの木以外の様々な木は、神様の創造の最高傑作である五感で感じる質感や心を揺さぶる情感のことだと見ることができます。これらは間接主管圏でも自由に味わって良いもので、神様から供給される質感、情感、愛のことだと見ることができるのです。
人間はこのようにクオリア、知情意や愛の感性や能力を無償で与えられているのです。それらは神様の母乳であり血肉なのです。神様につながっていなければ私たちは木石と変わらないのです。意識すらないのです。
乳を飲む事は、実は、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていく事ではありませんか。ある意味ではどろぼうの中の最高のどろぼうではありませんか。それでもそのお母さんは赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。
・・・・ですから父母は、子供を無限に愛する事が出来るというのです。ある意味ではその赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、その様に考える人はいないのです。(祝福家庭と理想天国I-1021)
*サタンと堕落人間の関係は実の親子
人間において、生理学的に神経と血管が最も集中しているのが生殖器です。それゆえに、自分と同じ者を再創造することができる器官になるのです。最も苦労してつくったものです。そうですか、そうではありませんか。それが肥おけになってしまっているのです。
「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想完成 二 生殖器は三大本宮、天の至聖所 2.神様の創造目的を完成させる器官
上記のみ言に堕落の秘密が述べられています。生殖器は自分と同じものを再創造する器官だというのです。
創世記において神様が「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と言われたように、神様、天使、人間は似た構造であることが分かります。
つまり、サタンの生殖器も自分と同じものを再創造することができるということを意味しています。霊的堕落によりルーシェルの生殖器を受け入れたエバの霊人体は、未完成期にあったためサタンの似姿に再創造されました。同様にエバとアダムが生殖器を合わせることによりアダムの霊人体もサタンの似姿に再創造されたのです。これがサタンの血統という本当の意味です。サタンの生殖器が作り出したサタンと同じ者が堕落人間です。サタンは堕落人間の親であり、堕落人間の始祖なのです。
全人類ははんこを押すようにサタンと同じ者に再創造されたのです。サタンと堕落人間は肉身があるかないかの違いだけで瓜二つなのです。堕落人間の生殖器は肥えおけ製造機なのです。神様が堕落人間を見れば肉身を持ったサタンに見えるのです。
堕落は二つの側面があります。一つは天法違反です。これだけなら復帰はたやすかったのです。もう一つはサタンの愛によって再創造されることでサタンと全く同じ姿になったことです。堕落人間の創造主はサタンなのです。堕落人間の始祖は堕落したアダムとエバではありません。サタンが堕落人間の先祖なのです。
天使長は人間と同じ姿ですが、人間と大きく違うところがあります。それは本然の人間の霊人体は神様を入れる器だということです。天使長にはこの機能はありません。このため、サタンの子女である堕落人間は祝福を受けたとしてもこの機能はありません。重生して本然の人間の戻らない限り、人間は神様を迎え入れ神人一体を成し遂げることはできません。
統一教会の「原理」を中心として見れば、今日、堕落した人間は、生まれるや否や地獄行きです。そうではないでしょうか。生まれるや否や地獄に入籍するのです。間違いありません。堕落後、偽りの血統でつながったすべての子孫は、サタンに入籍することになるのです。
「祝福家庭」第四章 祝福家庭と入籍 二 入籍のための条件 1.所有権、血統圏、心情圏転換 ②血統転換
*神様と堕落人間の関係
堕落人間はサタンの血統なのでサタンの性質をそっくりそのまま受け継いでいます。サタンの本性は奪う愛です。しかも奪う愛の依存症です。
堕落人間は自覚できなくても、サタンがそうであるように神様の愛をむさぼっているのです。そしてそれが依存症的に常態化しています。
神様が「堕落のうじ印」「肥溜め印」のあまりに醜い堕落人間に本然の人間に対するのと変わらず母乳を与えられます。肥溜めのにおいが漂う怨讐堕落人間にそうするだけでも大変な苦痛なのです。
前出の下記のみ言をもう一度ご覧ください。
復帰摂理において神様の母乳を吸っているのは愛する我が子ではないのです。神様の血肉を貪るだけの堕落人間という怨讐なのです。
乳を飲む事は、実は、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていく事ではありませんか。ある意味ではどろぼうの中の最高のどろぼうではありませんか。それでもそのお母さんは赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。
・・・・ですから父母は、子供を無限に愛する事が出来るというのです。ある意味ではその赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、その様に考える人はいないのです。(祝福家庭と理想天国I-1021)
堕落人間は神様の母乳だけでは満足せず、神様の肉に食らいついて直接に血を吸おうとするのです。まるでヒルのようです。神様から供給される質感、知情意、愛をむさぼるのです。こうして神様の苦痛は激痛に代わるのです。神様の体は全身が傷だらけで血が流れ続けたのです。それでもまだましな方かもしれません。
ペルーのアマゾン地方の奥地にはヒルの暴君を意味するティラノブデラ・レックスというヒルがいます。名前の由来である恐竜のティラノサウルス・レックスと同じように大きな歯を持っているT・レックスヒルは、その歯を利用して哺乳動物の眼や尿道、直腸など体の開口部の組織を切り裂いて体内に侵入し、好きなだけ肉を食らい、血をすすります。それにより死に至ることもあります。それと同様に堕落の度合いがひどくなると普通の刺激では満足できなくなり、手当たり次第に異性と関係を持ったり、近親相姦に走ったり、薬物やアルコールに溺れたりするこの世的に見ても異常な世界にはまり込むのです。これは神様の皮膚を食い破って体内に侵入する人間の姿をしたT・レックスヒルです。神様にとっては死ぬほどの苦しみとなります。