
潜在意識の神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従に似る極楽
「神は死んだ」「このような無慈悲な世界に神のいるはずがあろうか」とまでは思っていない人がほとんどかと思います。しかし、多くの人が神様が私たちに生活に深く寄り添って存在しているとは考えていないのも現実です。神様を信じている人でもこの点では五十歩百歩かもしれません。
これは、神様にとって個々の人間の存在は、いちいち顧みるほど重要ではないと考えている人が多いからではないでしょうか。人間の日々の生活や生老病死は人間にとっては真剣な問題でも、全知全能者として君臨される神様からすれば、些末なことであって深く注視するに値する内容ではない、と思っているのだと思います。
人間の側から見れば、それでは困るので、神様が自分に特別に関心を持ってもらえるようにするために、一生懸命お祈りしたり、教会に献金したり、礼拝に通ったり、精誠を尽くしたりするわけです。
そうしなければ神様の愛は私には注がれないと思っているのです。
それを怠れば、神様から見放され、運勢を失い、裁きや罰を受けるかもしれないという思いもあると思います。君臨する絶対者に対する一種の恐怖信仰かもしれません。こういう信仰観の人が食口の中にも案外多いかもしれません。しかし、潜在意識の神様という観点からみると、神様は恐怖信仰の対象とは真逆の存在です。
*絶対信仰、絶対愛、絶対服従は観念ではなく実体を伴っているという事実
神様にとって絶対信仰、絶対愛、絶対服従の相手は一人一人の人間です。
絶対信仰、絶対愛、絶対服従は神様にとって観念ではないことを如実に示してくれるのが、意識構造における神様の立ち位置です。
神様は人間の意識に永住することを決めたうえで創造計画を立てられました。これは単なる計画ではなく神様の実体的な住居場所の設計図を伴う計画です。出来上がった意識構造を見ると、その構造の95%が神様のお住まいです。潜在意識の部分がなければ人間自体が存在できないようになっています。潜在意識は心臓を初めとした内臓の機能、あるいは細胞の機能や管理のすべてを司り生命を維持する働きもあります。つまり、神様が気が向いた時だけ来るような旅先の旅館やホテルのような構造とは全く違います。
それは、たとえ何があっても別居することはあり得ないことを意味しています。事実、神様は人間が堕落して、ご自身の住まいである潜在意識のほとんどがサタンに占領されても、人間を捨てることはされませんでした。わずかばかり残った良心を信じ、それを取っ掛かりにして執念で復帰してこられました。
これを通して、神様の人間に対する絶対信仰とは何かを知ることができます。
絶対信仰とは、相手が期待を裏切る行動を選択したとしても、それによって影響されないことを意味します。初めに信じた心は何があっても変わらないのです。
私たちは、神様といえば全知全能だという認識が先立ちます。このため、神様は摂理的な事案でも個人個人の出来事についても、それがどのくらいの割合、ないし確率で上手くいくのか失敗するのかがすべて分かっているので、それに基づいて対応しておられると考えてしまいます。
しかし、神様は徹頭徹尾、愛のお方です。全知全能は属性にすぎません。
このため、神様は、その人間がみ旨の方向に行くか、失敗するのかについての予想はできるのですが、その人間に接するときにはその予想は完全に忘れてしまわれます。きわめて純粋に、あまりにも無垢にその人間を頭から完全に信じられるのです。
原理講論に出てくる復帰摂理においても、一次、二次は失敗するかもしれない、などとは一切思われなかったのです。イエス様は第二のアダムなので、十字架の可能性が大きいなどという考えは、一切思い浮かばなかったのです。
神様が、その心の片隅に、人間の潜在意識というご自分の住まいも、ひょっとしたら住めないほどに汚れることも起こりえるという考えが少しでもあれば、人間の心に永遠に同居しようという思いにはなれるはずもありません。神様の信仰は、私たちの想像を超えて絶対なのです。どれほど悪逆無道な人間に対しても絶対信仰なのです。絶対は相手の状況によって影響されないので絶対なのです。頭から信じることがあるのみで、信じないという選択肢が初めから全くないのです。
神様の絶対愛も私たちの予想を超えています。
神様の愛はあまりにも広範囲で膨大です。
「絶えず私に注がれている神様の精誠の驚くべき実像」を是非ご覧ください。
神様の力の精誠はほとんどが外界における精誠ですが、生命の精誠、クオリア(質感)の精誠、知情意の精誠、愛の精誠はすべて人間一人一人の潜在意識の神様から人間の顕在意識に与えられる精誠です。
このような神様の精誠という人間に対する愛に気づいている人はほとんどいません。
人間世界においてある人が誰かの為に生きるといった場合、受ける側からすると、よほど鈍感でない限り何を与えてもらったかは分かるものです。慈善事業、奉仕活動、災害救援活動、救急医療、様々なボランティアなどの見返りを求めない活動を通して恩恵を感じた人は多くいます。恩を感じた人も多くいます。
しかし、神様が与える場合、人間の側が、何を与えられたのかほとんど気が付かないのです。恩知らずという言葉がありますが、人間は恩を受けたこともわからないので恩知らず以下です。
神様の側からみると、愛を与えても受ける側に手応えがないのです。しかし、人間が気づかないとしても黙々と与え続けてこられました。
一般的な人間社会で、こんな与え方をしている人を見つけることは極めて困難です。一時的にはあるかもしれませんが、悠久の時間を通してこんな風に与え続けられる人はいません。
完全な陰徳です。
絶対服従については一般的には理解するのが簡単ではない概念のように感じます。しかし、潜在意識におられる真の愛の神様という観点で見るとよく分かってきます。
絶対服従は、自分という意識がありません。相対としての存在意識だけなのです。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従
服従とは、自分という意識がありません。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ③ 一体の基準は絶対信仰、絶対愛
神様は人間に途切れることなく与え続けておられるのに、その存在が全く表に出ないのです。あまりに隠れておられます。あまりに見えません。表にあるのは人間の意識だけです。
神様の意識は正に潜在しています。
人間は分からないまま潜在意識と呼んできたのですが、潜在意識の本当の意味は、神様がそこに潜在しておられるということなのです。
神様は、自分という存在意識が完全に消えています。これが潜在意識の実像です。
このため、神様は、人間の意識の深みを注意深く探して初めて見つけることができます。
侍るといってもこれ以上の侍る世界があるでしょうか。これ以上の服従の世界があるでしょうか。服従の美を表現する言葉として忠孝烈がありますが、神様の服従はそのどれよりも遥かに深いです。服従する度合いが絶対的です。
下記のみ言にそのことが表現されていると思います。
愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。「真の愛」第二章 愛の実際 一 神様の愛 1.愛は神様から始まる
このように神様の人間に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従という真の愛の世界は、ほとんどの人間が全く気付くことができないものです。しかし分かってみると、それは「私」の潜在意識におられる神様の普段の姿なのです。見えない深く静かな所からの神様の愛は「私」に流れてきます。
愛の世界は受けたことがなければ与えることができないものです。しかし、私たち人間は神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従という真の愛を潜在意識からいつも受けています。
ですから神様から真の愛を受けたことのない人はいません。
気付けるかどうかだけなのです。

*観念的な真の愛の実践から、神様の愛の似姿になる実体的実践をして極楽世界へ
絶対愛するのです。他の何もありません。自分の世界を捨てて、家庭を捨てて、妻を捨てて、子女を捨てても、それ以上に絶対愛するのです。絶対服従するのです。自らの一生、生命もすべて投入するのです。投入して忘れてしまうのです。今まで皆さんは、観念的に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を考えていたかもしれませんが、それは観念ではありません。実際に皆さんが、すべて行わなければなりません。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従
このみ言にありますように、真の愛の中身である絶対信仰、絶対愛、絶対服従は観念ではなく、実際に行い、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の実体にまでなることが個性完成であり、責任分担です。
ここで潜在意識の神様が「私」に対してなして下さっている絶対信仰、絶対愛、絶対服従の姿についてまとめてみましょう。
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私と永遠に同居され、何があっても片時も離れることがない
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一切の疑いなく頭から私を信じておられる
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私が幸せになるのに必要なすべてを「私」に気付かれることなく絶え間なく与えられる
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自分という存在意識が一切ない
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与えたという意識は全くなく、「私」を主人として侍り、私の決定に絶対服従される。(原理結果主管圏の真の意味)
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神様にとって、こうすることが最高の幸せであり、この愛の極楽世界を味わうために創造された。
以上のことに皆様も納得していただけるでしょうか?
ご納得いただけるなら、今度は自分が潜在意識の神様の似姿になる番です。
創造本然へ帰っていき、そこで愛の対象を取り戻すためには、絶対信仰と絶対愛、そして絶対服従の心情をもって、投入し、忘れてしまうのです。神様がなされたすべてのものを再び取り戻すために、私たち自身も、神様を身代わりして、この世界に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓の各節の解説 五 家庭盟誓第五節の解説1.主体的天上世界と対象的地上世界の統一 (2)天上世界と地上世界を統一させなければならない
私たちが神様と真の父母様から受けている絶対信仰、絶対愛、絶対服従という真の愛を、まず神様と真の父母様に対して実践し、同時にこの世界に実践し現わす時が今です。
私たちが、神様も真の父母様も知らないこの世界にいる人たちに対して、その人たちの潜在意識の神様のようにふるまえるかです。
私たちの手本は潜在意識の神様であり、それを先駆け実践し勝利された真の父母様です。
神様は全知全能のお方であり、天宙を統べる王の王ですが、それ以上に「私」を絶対に信じ、絶対に愛し、絶対に服従される真の愛の方です。
その姿に似ることが神様の王子、王女たる私たちの行くべき道です。
そうすることで、神様が酔いしれようとされた極上の幸せの世界に浸ることができるのです。神様はその極上の幸福の世界に人間を連れていきたいのです。
これをお読みになっている食口、祝福家庭の皆様。
是非、このような神様の真の愛に似た愛の勝利者の証詞を立てて披露してください。
そして真の愛の最終案内人となり、御父母様のように多くの食口や悩める人々の幸せの光となって導いてください。
⇒潜在意識論Ⅴ
