神様の意識の中で生活する人類Ⅰ
「衝撃の神観 衝撃の人間観」の第1部で述べた、私達が生まれながらに神様の意識の中に入れてもらっている、神様の心の中で生活しているという驚くべき事実について理解を深めるために、愛について少し述べたいと思います。
この世の人々は人間が如何に愛を求めて生活しているのか気付いていません。人間の本質が知性だと思っている時点で何も分かっていません。また、私達も愛がどれほど必要であるか、分かっているようで分かってない傾向にあります。私たちが真の愛について十分に腑に落ちないのは、愛の重要性に気付いていないからかもしれません。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
「真の愛」 第一章 真の愛というものは 三 愛が介在する時、調和が成される
愛といえば、為に生きること、という概念が思い起こされます。これは、堕落したために愛が自己中心になってしまったので、為に生きることを強調しなくてはならなくなったからです。本然の世界では、愛は為に生きることと切り離されることはありません。
愛の根本解明のためには、本然的に愛を捉える必要があります。愛とは好きだということだというみ言が、愛の謎を根本的に解いていくのに一番適した定義です。ご父母様の愛についてのこの定義は見事です。 この定義に基づいてもう一度天地創造について考えると、神様は「好きだ!」という情感が得られるならご自分の血肉を削っても構わない、いくら消耗しても構わないと思われたということになります。
愛を中心として絶対信仰です。愛を完成する為には絶対服従しなければならないのです。死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。それ故、霊界に行くという事は死ぬ事ではなく、神様の愛を求めて行く道だという事です。神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。
「真の神様の祖国光復」第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって
愛と神様の関係を端的に表しているのが上記のみ言です。死を超える愛のレベル、これこそ人間が相続すべき中心課題です。
「好きだ!」という情感が神様にとっては自分の命よりも価値が有るということです。
「好きだ!」が得られるならどんなに苦労しても構わないのは、「好きだ!」という情感がそれまでの苦労を忘れさせるに余りある幸せをもたらすからです。神様が創造を続けることができたのは、創造するに従ってご自分に似てくる被造物からの美によって好きだ!という情感が得られたからです。
創造そのものは消耗です。いくら神様でも消耗が続けば疲れ果てます。この消耗による疲れを一瞬にして癒してくれたのが被造物からの美なのです。この美によって神様の中に好きだ!という愛の情感が生まれ、その愛の情感に満たされることで消耗や疲れも吹き飛び更に喜びに満ちて創造されたのです。
宇宙はどのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対を造って、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。「真の神様」第二章 神様と創造の役事 一 神様の創造の動機は愛 1.創造の役事は完全投入
具体的に言えば五感から感じる「好きだ!」が分かりやすいです。
見た時に感じる情感:
「きれいだ」「美しい」「色彩の調和が素晴らしい」「透明感が良い」「遠くまでの見晴らしが良い」「繊細さが際立っている」「高い山と海のコントラストがいい」
聞いたときに感じる情感:
「きれいな音だ」「ハーモニーが素晴らしい」「あの演奏家のピアノはピカ一だ」「あの歌声は心にしみわたる」
味わった時に感じる情感:
「この寿司は美味しい」「この苺の甘さは他にない」「胡椒を入れると絶品だ」「食後のデザートはこれに限る」
このように対象に対して好きだ!と流れる情、これがすべて愛です。
父母の愛は、父母が子女を「好きだ!」と思う情です。夫婦の愛はお互いに相対が「好きだ!」と思う情のことです。
ちなみに、本然の世界においては、人間の愛や情は神様の愛や情と共鳴しているので、人や万物に対して「好きだ!」という情感が先に自然に生じ、その結果として「為に生きる」という行動となって現れます。本然の世界には怨讐関係はないので、人や万物が「好きだ!」という情があふれて止まらない情の王国です。どんな人に対しても情が溢れるというのは本然の世界では特別な事ではなく普通の事なのです。クールな人間関係などというものはどこを探してもない世界です。
ですから、好きだ!という情はなくても、それどころか嫌いだ!という情があっても為に生きようと身もだえるのは、堕落世界を復帰する時にのみに必要なことなのです。これは自然に生じる情ではないので無理して愛する愛とならざるを得ません。愛を本然の位置に戻すために、愛を愛らしくするために我慢に我慢を重ねてもせざるを得ない愛なのです。復帰摂理の本質は、人間の復帰というよりも愛が自然に流れるという状態、すなわち真の愛の復帰なのです。
神様が自分の命を削っても愛が欲しいということ、すなわち「好きだ!」と言う情感が得られるなら命も惜しくないと思われるという事は、神様にとって、愛は神様よりも価値が有るという公式が存在することになります。
愛=好きだ!という情感>神様の命(存在)
「好きだ!」が得られるなら、いかなる犠牲もいとわない神様です。
「好きだ!」が得られるなら、奴隷になっても良いと思われる神様です。
愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だという事ができます。祝福家庭と理想天国I-一〇六六
下記のみ言にありますように、神様は、人を見る為ではなく愛を見るために血肉を削り、命を削って創造されたというのです。
これはとても重要なことです。
神様は、真の愛の為に天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、神様お一人でもつ事はできません。お一人で愛を感じる事はできません。「天一国主人の生活」 第一章 創造の原動力は神様の真の愛 一真の愛は神様のみ旨がとどまる中心
私達は、現実存在や外的なものに幸せの源があると思いやすいのですが、神様にとっては「好きだ!」が得られるがどうかがすべてです。外的な被造世界は愛を得るための手段です。神様は死をも厭わないほどに愛=「好きだ!」を求められるお方です。これが神様の本質と言っても過言ではありません。子女である人間の本質も同じです。
「好きだ!」と言う情感こそ神様も人間も求めてやまないものです。
「好きだ!」と言う情感に満たされる時に、神様も人間も幸せに満たされます。
このため、真の愛=真に好きだ!は最高格位です。
神様も人も生きる目的は好きだ!という情感に満たされることです。
三大祝福は正にそれです。
第一祝福は「自分が好きだ!」「神様が好きだ!」という情感に満たされる事です。
第二祝福は「相対が好きだ!」「子女が好きだ!」「家庭、氏族、民族、国家、世界が好きだ!」という情感に満たされる事です。
第三祝福は「万物が好きだ!」という情感に満たされる事です。
三大祝福は神様の宝の中の宝である「好きだ!」という情感を人間に相続してくださるためのものです。
皆様も人間がいかにこの「好きだ」を求めて生きているかを観察してみてください。
地位、名誉、権力よりも愛が大事だ、などとよく言いますが、実は地位、名誉、権力が欲しいと思う人は地位、名誉、権力が好きなのです。地位愛、名誉愛、権力愛と言い換えてみると分かりやすいと思います。
人間は朝起きてから眠るまで些細なことも大きなことも全て「好きだ」を得るために生きています。いや眠ることも好きだからそうするのです。
食事をするのも、食べることで得られる「味が好きだ」「噛み心地が好きだ」「喉越しが好きだ」を得るためです。また、まずいものしか食べられない状況にあったとしても「満腹感」という「好きだ」は得ようとします。
いや、人間は好きでない事もすると言われるかもしれませんが、これは好きでないことをする苦労、苦痛の先にある「好きだ」を得ようとするからです。
このように人間は神様の愛と父母の愛が原因で生まれたので、一見すると、お金、配偶者や子供、社会での地位、名誉、などのように外部にあるものを得ようと生きているかのように見えますが、実は自分の内界に生ずる「好きだ」という情感を得る為に生きているのです。
神様も愛が好きなので、神様も愛に及ぶことができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしい神様が? 神様が愛に及ぶことができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前にはどうすることもできません。「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる 1.神様と人間は父子の関係
神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。
「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 二 宇宙は主体と対象でできている
さて、意識の話に戻しましょう。
意識の話は難しそうだと先入観を持たないでください。意識は私たちが毎日当たり前のように感じているものです。これを知ることの最大の意義は、私達の意識に直接的な愛を与えてくださる神様を感知するためです。
私達の意識に上って来るものはほとんど質感と情感です。
質感と情感は心理学的、哲学的、生理学的にはクオリアと呼ばれています。
クオリアとは「イチゴの真っ赤な感じ」、「空や海の抜けるような青さの感じ」、「歯痛でズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見てワクワクするあの感じ」、といった主観的に体験される様々な質感と情感のことを言っています。
私が何をお伝えしたいかと言いますと、私たちが当たり前のように生活の中で感じている質感や情感は、私たちが神様の意識の中で暮らしていることで初めて生じているということです。クオリアを感じられるのは霊人体があるからだと思う方もいるかと思います。しかしクオリアという質感と情感は霊人体のない動物でも感じます。人間以外の被造物は人間ほどではないのですが、質感と情感を感じています。被造物だけが神様の意識に入れてもらっているのです。AIやアンドロイドがいくら高度に発達しようと、これらは神様の意識の入れてもらうことはできません。このためAIやアンドロイドは、この質感や情感が永遠に分からないのです。
クオリアという質感、情感が、神様の意識の中に入れてもらうことで生じているのか、そうでないのか、皆さんもご自分でも確かめてください。
もし、私達の意識の上って来る質感や情感が神様の意識に入れてもらうことで生じているとすれば、神様と人間の関係は劇的に近くなります。神様と人間が親子だというのは、人間世界にある親子関係など霞んでしまうほどにあまりにも親密な親子なのです。
私達が神様の意識の中で暮らしているということが分かれば、そこから神様との生活が始まるのです。これが侍義です。
侍義とは侍って義とされるという定義です。しかし、より本質的には、私たちは神様ご自身の意識に入れてもらうほどに愛されていることを実感して生活することです。全身で神様の愛を感じながら生活すること、これが侍義生活です。信仰中心の生活とは別次元の生活があるのです。これができたら日常が喜び溢れるものに変わります。
さて、神様はおならやおしっこをされるでしょうか?
これは下卑た話ではなく、極めて重要な話です。
クオリア(意識に上って来る質感、情感)には高名な学者でも気付いていない重要なポイントがあります。気付いていない理由は愛の観点からクオリアを捉えていないからです。
愛の観点で見ると分かるのですが、私たちが感じる質感や情感は最高位の情感である「好きだ!」を誘発するためのものです。私達の意識に上って来る質感、情感は神様から人間に与えられる愛そのものなのです。つまり私達の意識は神様の愛に満ちているのです。
一見すると「好きでない、嫌いだ」に関係するように思える質感、情感は、ご父母様の指示で李相憲先生が書かれた「新しい共産主義批判]の「相応相克の法則」にありますように、あくまでも「好きだ」を「「好きだ!」に強めるために存在します。たとえば磁石のS極とS極、N極とN極は反発しますが、これはS極とN極がより強く結びつくためです。
参照:「新しい共産主義批判」 第四章 第七節 統一史観概要 (二)創造の諸法則 ②授受の法則 相克の現象 P279
私達の愛を誘発する質感と情感の内、最初に質感から見てみましょう。下記のように分類はしてなくても皆さんが日常で当たり前に感じているものです。
*見た時に感じる質感:「色彩」「明暗」「輝度」「コントラスト」「色彩の調和感」「透明感」「遠近感」「立体感」「巨大感」「微細感」「躍動感」など
*聞いたときに感じる質感:「音」「音の強弱、高低感」
「音の和音感」「リズム感」「メロディー感」「音の遠近感」
「音の方向感」など
*味わった時に感じる質感:「甘い」「辛い」「酸っぱい」「苦い」「塩辛い」「新鮮だ、鮮度が落ちているなどの質感」「味の濃淡」「色々な味が合わさった時のハーモニー感」など
*臭いの質感:「甘い香り」「刺激臭」「酸っぱい香り」「臭さ」「新鮮な香り、腐った香り」「香りの方向感」など
*接触した時に感じる質感:「圧力感」「熱感、温感、冷感」
「硬さ、柔らかさ」「痛み」「乾燥感、湿感」「粘着感」「掻痒感」「噛み心地」「喉越し」など
*その他の体感:「加速感」「重力感、上下感、無重力感」
「空間感」「時間感」「空腹感、満腹感」「眠気、覚醒感」
「尿意、便意、排泄感」「渇き感」「四肢や内蔵の存在感」など
次に情感を見てみましょう。
*「美しい」「楽しい」「かわいい」「悲しい」「怒り」「不安」「寂しい」「驚き」「わくわくする躍動感」「心が明るい、暗い」「憎しみ」「焦燥感」「諦め」「嫌悪感」
「恐怖感」「後悔」「忍耐」「辛さ」「屈辱感」「無念さ」
「恥ずかしさ」「懐かしさ」「虚無感」「期待感」「挫折感」
「希望感」「慕わしさ」「惜別感」「同情」「同感」「親近感」など
これらの質感と情感を良くご覧になってみてください。あまりにも多様です。皆さんがこれらの質感や情感を感じられるということは、皆さんが神様の意識の中に入っている何よりの証拠です。
視覚が一番分かりやすいと思います。
カメラで撮った写真にも景色や人物が写っているのが見えます。テレビを見てもそこには奇麗な映像があります。このため今の最新技術なら色彩や明暗、透明感、立体感、遠近感、輝きなどを再現するのは簡単だと思っている人があまりに多いのです。もう一つの先入観は、外界に客観的に色彩や明暗、透明感、立体感、遠近感、輝きなどがあると思っていることです。
しかしこれは完全な間違いです。この分野の学者はそのことが良く分かっています。外界にあるのは物質と飛び交う電磁波だけです。電磁波のうち、約1万分の4ミリから8ミリというあまりに短い波長だけを人間の目が捉えます。これが目で電気信号に変換されて脳に行きます。
皆さんはマトリックスという映画をご覧になったかと思います。そこで脳に電極を差し込む場面が出てきます。そうすると現実で見たのと同じ景色が出現するというものです。これは科学者の見解に基づいてつくられています。この映画で正しいのは視神経を通って伝達されるのは色彩や明暗、輝度、立体感などではなく単なる電気信号という物理現象だということです。間違っているのは脳がその電気信号を色彩や明暗、輝度、立体感などの質感に変換しているということです。
外界には色彩や明暗、輝度、立体感などは一切ありません。先ほど申し上げたように物質と飛び交う電磁波があるだけなのです。人間が住んでいる神様の意識の中は魔法の部屋です。単なる電磁波から生じた電気信号があまりにも見事な色彩や明暗、透明感、立体感、遠近感、輝きとなって意識に上るのです。
重要なことは神様が天地創造で創造されたのは形状だけだということです。(性相は天地創造前に存在していたのです。)
結局、宇宙万象は、創造主である神様の内的性相が多様な実体として現れた外的形状なのです。第十篇 平和思想 第三章 世界平和の実現方案 第三節 文化と世界平和4 2000.2.9
風景自体には色彩や明暗、透明感、立体感、遠近感、輝きはありません。写真はある波長の電磁波を反射しているだけです。テレビはテレビカメラで記録した電磁波を再現しているだけです。それを色彩豊かにしているのは写真やテレビではなく神様の意識に住んでいる人間です。この仕組みに気付くことがとても重要です。
色彩や明暗、透明感、立体感、遠近感、輝きなどは風景の性相です。風景の性相は神様が天地創造前に創造されました。これは天地創造前の夜の神様と昼の神様だけが存在していた時期にあたります。天地創造前の創造は天地創造以上に奇跡的な素晴らしさに満ちています。
たとえばイチゴの形状は天地創造によって作られました。しかしイチゴの性相は天地創造前に造られて、ずっと前から神様の意識の中に存在しています。イチゴの赤い色、甘酸っぱい味、鼻に抜ける香り、みずみずしさ、喉越しなどの性相は神様の意識内にある天地創造前の創造物です。その性相と天地創造によって作られた形状が一体化したものが私達の知っているイチゴです。
このイチゴの持つ赤い色、甘酸っぱい味、鼻に抜ける香り、みずみずしさ、喉越しなどの質感という性相を感じることができるのは神様の意識の中の住人である人間や動物だけです。AIやアンドロイドは永遠に分かりません。
さて、少し話を戻して、既に羅列した質感、情感をもう一度ご覧ください。これらの質感や情感は最高位にある情感である好きだ!という愛に直結しているということです。一見真逆の働きをするように見える質感や情感も、結果的には好きだを好きだ!に強めるためにある質感や情感であるということです。要するに、私たちの意識に上って来るものが、あまりにも好きだという愛を誘発してくれるものだということです。好きだ!に満ちているのです。この好きだ!があるから私たちは生きていけるのです。
これらはすべて神様の意識の中にあるものです。私たちが神様の意識の中で生活しているので上記の質感、情感を私達も感じることができるのです。日々の生活の中で是非ご確認して味わってみてください。私たちが質感、情感を感じられることそのものが神様の意識の入れてもらって生活している証拠です。
そして、私たちが日々の生活の中で感じている質感や情感、知情意や愛の機能は神様の心(意識)が源泉なのです。つまり、私達の心の機能を観察すれば神様の心の機能が分かるのです。
私が父に似ると同時に父は誰に似ましたか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみるとき、神様はどんな方ですか。私のような方だと言えば、さっと入ってくるのです。
「真の神様」第一章 神様の本体 三 神様は人格的な神 1.神様は知情意をもった人格神
神様は絶対的なお方であり、全知全能のお方です。そのような神様は誰に似たのでしょうか。私たちがそのお方の形状どおりに造られたので、神様は私たち人間に似ています。神様は人格的な神様です。ですから、神様は人間に似ているのです。人間を神様のかたちに造ったとあるので、父である神様は息子と似ているに違いありません。神様は人間に似ているのですが、どのように似ているのでしょうか。女性に似ていて、男性に似ているというのです。第一篇 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第三節 真の父母であられる神様12 1974.2.8
例えば、神様には味覚はあるでしょうか?
私達に味覚があるということは神様にもあるということです。
味覚がどれほど驚異的な現象なのか、多くの人は気付いていません。
食べ物の味が神経を伝わっていくわけではありません。例えばミカンを味わった時に感じる原因物質はクエン酸や果糖です。舌のレセプターがクエン酸や果糖の刺激で電気信号が発生し、その電気信号が脳に行きます。神経を通っているのは電気信号という物理現象だけです。この電気信号に味が付いているはずはないのです。
学者たちはミカン自体には全く味はないことを良く知っています。そして何の味もないミカンから生じる電気信号を味に変えているのが脳だと主張します。しかし、脳が物理的な電気信号から甘さ、酸っぱさ、辛さ、苦さ、うま味などの質感を作り出していると考えることは余りにも幼稚で愚かです。神様が分からない学者があまりにも多いのです。
糖度計というものがあります。多くの人が果物などの糖度を計ってくれるものだと信じています。しかし、ラーメンの塩辛さもこれで測っています。糖度計とは味という質感を計る機器ではなく濃度という物理現象を測っているだけです。私達の感じている味は余りにも複雑多様で見事です。味という質感に私たちはどれほど大きな美を感じているでしょうか。この美に対して大量の愛が流れるのです。その時に幸せを感じるのです。
食事をする時に感じる味の質感、鼻を通っていく香りの質感、噛み心地の質感、喉越しの質感、満腹という質感、美味しいという情感、これらをじっくり感じてみてください。
それらは神様の意識の中で生活していることで得られている奇跡なのです。すべて神様由来の質感、情感です。食事をすることでも神様の意識の中で生活していることをはっきり確認できます。食事の時間は食べ物を味わうことで、神様の意識の中に入れてもらって与えれている神様の愛を味わう時間なのです。
私達は食べ物について様々な味覚を感じ、食べることで大きな喜びを得ています。これはすべて神様にある感覚です。私たちが霊界に行っても何かを食べるのかという質問の答えは簡単です。当然、人間は霊界でも食べるのです。
神様は排便や排尿をされるのでしょうか?
排便や排尿の時に感じる感覚は神様由来なので、神様も当然排便、排尿、あるいはおならもされることが分かります。排便、排尿、おならをする時でも神様を感じることができるのです。一般の人は排便やおならが下卑たものだと思っていますが、排便、排尿、おならをする時に感じる感覚は余りに高度で繊細です。また、不思議な好きだという情感を感じます。ある医学者が、人間が便とおならを区別できる感覚は驚異的にすごいと言っていましたが、もし人間がおならと排便の感覚を区別ができなければ大変なことになります。
神様は性愛を感じられるでしょうか?
これは一番重要な問題です。
人間が我を忘れるのはいつでしょうか?
何かを食べて我を忘れることはないとは言えませんが普通はありません。
しかし、男性と女性が性愛で愛し合う時には我を忘れるほどの激しい好きだ!という情感に包まれます。この情感の強さは他で生じる情感と比べることができないほど強烈です。この愛は最強です。この最強の愛を知らなければ愛を知らないことになります。
これによって神様においても性愛は愛の中でも最高の位置にあることが分かります。
神様の意識の中にある性愛は、人間が完成してから相続されるべきものでしたが、その性愛を勝手に盗んで堕落という被造世界全体の破壊と神様の心を破壊することに用いたのです。これほど大きな罪があるでしょうか。人類始祖の罪がいかに大きいかご理解いただけると思います。
夫婦で愛する時の感じる様々な質感や情感は神様からの最大の愛です。このため夫婦で愛する時に神様の愛が最も強く現れます。神様に最大の感謝をささげる時間となります。
凹は何をするところですか。凸は何をするところですか。それを合わせることによって、愛が連結されるのです。それを合わせなければ愛が分かりません。完全な愛が現れて、絶対的に一つになるところが生殖器です。他の道はありません。
「宇宙の根本」第二章 二 2.神様の創造目的を完成させる器官
夫とそのようにむつまじく暮らして、死ぬ時には何を考えるかと言えば、いつも愛の器官を考えるようになるのです。彼の顔、キスを考えるようになるのです。あの霊界に行って残る記憶というのは、愛する夫、妻とキスして愛し合う、その生殖器を合わせた、それ以外にはないというのです。それをつかんで、キスしながら死んでいきたいですか。「人間の生と霊魂の世界」 四 天国に入る秘訣 5.夫婦愛が愛の理想の中心の花
私たちが普通だと感じている様々な感覚はすべて神様由来なのです。私たちが神様の意識の中で暮らしているからです。
そして食口もこの世の人々も神様の心(意識)の中に入れてもらっているのです。自分が五感があり、知情意があり、愛することができるように、他の食口やこの世のすべての人々も五感があり、知情意があり、愛することができるのです。
これは自分が神様の意識に入れてもらっているという特権的な神様の子女であるように、他の食口やこの世のすべての人々も特権的な神様の子女なのです。全人類が神様の意識に入れてもらっている仲間です。全人類が本当に兄弟姉妹なのです。つまり世の中に他人はいないのです。今まで、敵だ、怨讐だと思っていた人が実は共に神様の中にいる兄弟姉妹だと分かるのです。この感覚が天国創建の礎石となるものです。
自分が神様の心(意識)の中で生活しているという感覚を日々味わって確認してみてください。
朝起きて目を開けた時に目が見えるのは、神様の意識の中で生活しているからです。食事をして様々に味や触感を感じるのも、いろいろな香りを感じるのも、単なる空気の振動を音として楽しめるのも、様々の感触を感じるのも、自然の風景や映画やドラマを見て感動できるのも、相対者や子女に慕わしい愛の情が流れるのも、すべて神様の意識の中で生活することを許されている者の特権なのです。このことを感じながら生活するのが侍義です。これが神様との生活です。
そしてこれは、神様の人間に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって実現しています。神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の姿を私達に示してくださっているのです。
他人という相互不信する人間が集まった世界での生活ではなく、人類一家族世界での生活が始まります。
自分の心に他の食口や世の中の人々を入れてあげることができたら、
自分の心に天国ができ始めているのを感じませんか?
ご自分ができるようになったら、その感覚を他の食口に伝えてあげてください。人類一家族世界はそこから始まります。
天国は自分の心の中から拡大していきます。
ただし、この部分は知的に理解してから情的に感じるようになるまで少し時間がかかる場合もあります。しかし情的に感じる様になれば世界が違って見えてきます。これは本然の人間が感じる世界です。
この章は「衝撃の神観 衝撃の人間観」の補稿なので戻って続きをお読みください。⇒ 「衝撃の神観 衝撃の人間観」の第2部へ