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災禍を引き寄せた私たちは何を間違ったのか?

2022.8.14お母様

<繰り返す食口の失敗と御父母様による贖いというパターン>

 

御父母様と食口の道を概観すると、隠れた失敗も含めて多くの場面で食口の至らなさが原因で失敗しています。これは今後真の父母様の路程が学者によって研究されていけば更に明らかになると思います。

一方、真の父母様は食口の失敗についてそれを挙げ連ねて叱責するのではなく、食口が神様と真の父母様に尽くした精誠を有難く受け取られ、食口の至らなさは御父母様が引き受けて責任を取られるということです。それはご自身の命と引き換えという所まで行きます。

 

例を挙げてみますと、梨花女子大事件は修練会の摂理史の説明では、金活蘭総長を初めとした大学の経営陣が、伝統的なキリスト教と違う統一原理の教えが大学に入り込めば、米国キリスト教会からの援助が打ち切られることを恐れて、統一教会に走った教授や生徒を迫害したとなっています。摂理史の説明では保身に走った梨花女子大側の失敗が原因とされています。しかし、食口の側には全く問題がなかったでしょうか?

統一原理と統一教会の側は天の側、み言を受け入れない大学と既成キリスト教側は悪の側という風に接した部分はなかったでしょうか?もしそうならそれは真の父母様の姿勢とは根本的に違います。

原理を聞いたばかりの学生たちに高い基準を求めることは難しいことかもしれません。お父様は梨花女子大から迫害を受け追放や除籍になった教授や学生たちを深く心配されたことは皆様も良くご存じ事と思います。お父様は食口の側の何が問題だったのかをよくご存じでした。一方で食口が梨花女子大を復帰するために精誠を尽くしたことを深く感謝しておられました。お父様にとって食口の問題点よりも食口の精誠に対する感謝の方が遥かに大きかったのです。迫害され苦しんでいる食口たちを心配し愛することに心が占領されて、問題点を指摘されることは一切ありませんでした。そして食口の失敗の責任はご自身がすべて背負われて牢獄に行くことで代わりに蕩減の道を行かれたのです。

 

実際、梨花女子大事件は食口側の愛の基準の至らなさによって起こったのですが、食口の精誠を何よりも有難く思われる御父母様の姿勢、そして最終的にすべての責任をご自身が背負われて苦難の路程を行かれるという結末になりました。私は、梨花女子大事件に見られるこのパターンが何度も繰り返されてきたと感じています。そしてその連鎖はずっと続いています。

 

興進様の昇華やお父様のダンベリーにおいてもその犠牲によって摂理が大きく進んだことは事実ですが、それは食口の失敗を御父母様家庭が引き受けることでなされたことです。

お父様の晩年の死の道もこのパターンです。本当はすべて私たち食口の愛の基準の至らなさが原因です。お父様は生きて天一国で基元節を迎えることができなかったのです。しかし、食口の失敗を追及することは一切されず、ご自身の命をもって食口の失敗の責任を取られました。

お母様も食口がお父様を十字架につけてしまったという罪をすべて背負われて、侍墓3年路程を歩まれました。あなた方の失敗ゆえに私が三年の侍墓精誠の道を行くことになったなどとは一言も言われませんでした。それどころか、かえって食口を元気づけられ、天一国安着と天寶家庭の恩恵を用意されました。

真の父母様は、私達の歩みについて喜ばれたとしても、私達の出した実績が善なるものかあるいは悪が混じっているかは一切言われません。善悪の判断を言われないのです。私達は御父母様が善悪について何も言われないので、良しとしておられると勘違いしてきたのです

 

御父母様の私たちに対する姿勢は真の愛です。真の愛とは絶対信仰、絶対愛、絶対服従のことです。

頭から私達を信じておられます。愛しておられます。仕えておられます。それは絶対的です。私たちは言葉では知っていますがやったことがない世界です。神様と真の父母様が私たちに対される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で対されているのだろうと頭では分かりますが、自分でやったことがないので腑に落ちるところまではいかないのです。

お父様は晩年泣かれることが多くあられました。もう一度やり直したいと何度も言われました。

そして、「神様はルーシェルを信じすぎた。ルーシェル、ミカエル、ガブリエルと三天使長の交代制にしていれば堕落は起きなかった。私も弟子たちを信じすぎた」と言われました。

真の愛の世界、すなわち絶対信仰、絶対愛、絶対服従の世界においては、相手を善悪で判断することはありません。結果として相手が間違っていたら自分が責任を取るのです。

神様も人類始祖とルーシェルの失敗の責任を負われ死の復帰摂理を歩まれました。御父母様も弟子や食口の失敗を背負って死の道を行かれ聖和されました。

 

お父様がやり直したいと泣かれた時に、私たちは何が間違ったのか真剣に自省すべきでした。やり直すべきはお父様ではなく私達です。しかし、何がいけなかったのかも分からないまま、ずるずると来てしまったのです。そしてコロナ、ウクライナ、元首相の殺害と世間からの大嵐が次々と押し寄せているのです。

 

このままでは私達の失敗の連鎖と御父母様による代理蕩減という流れはまだ続く様相なのです。

これは私達食口の失敗ゆえに起こっていますが、私たちがこの責任を負えなければどうなるでしょうか?そもそも、すべてが私達の責任で起こっていると受け止めて悔い改めている食口があまりに少ないというとても残念な状況になっています。

 

この連鎖が終わらない理由は愛の基準に直結する私たちの心霊が十分に成長できていないからです。善なる生力要素が十分に霊人体に流れていかないのです。その主要な原因ともいえるものがあります。それを探ってみましょう。

 

<悪循環の主要な原因と考えられること>

 

今回の元首相の事件についてお母様は、「やるべきことは何なのか。間違ったことは何なのか。」とおっしゃったといいます。私達はどこが間違ったのか、今この時こそしっかり検証する必要があります。

 

私は原理講論に現れた価値観とその後に真の父母様に語られたみ言の価値観に大きな変化があることが重大な要因の一つと考えています。じっくり見ていくと原理講論と御父母様のみ言は根本においてかなりの違いがあることが分かります。

原理講論は食口にとってみ言の背骨のような存在であり原論です。ほとんどの食口は原理講義を聞いて復帰されました。み言の原体験です。

実際、お父様も1968年1月1日の神の日までの期間は原理講論と一字一句違わないように講義するよう指示されました。

原理講論はコンピュータやスマホにおけるwindows、iOS、androidのような基本ソフト(OS)のようであり、私たちの判断や行動を決定する根っことなっています。このため私たちは御父母様のみ言も無意識のうちに原理講論という基本ソフトの理解の上で捉えています。

​原理講論の初版が出たのが1966年です。1960年のご聖婚から始まった第一次7年路程のただ中です。1960年から1968年1月1日までの期間は神様の息子、娘であるアダムとエバの堕落に対する神様の恨を御父母様が解怨していかれた期間です。

神の日は、お母様が責任を果たしたので設定することができました。世間にどんなことがあっても、七年間、お母様の私に対する心は変わることがなかったというのです。死んでも変わることなく、夫が行く道をついていこうという覚悟と姿勢で、七年路程を越えました。エバが神様を信じることができない立場で堕落したので、代身して蕩減する立場で神様が信じることのできる立場に立たなければならず、また、エバがアダム(夫)を堕落させたので、夫が百パーセント信じることのできる立場に立たなければならなかったのです。ところで、お母様は不信の人類歴史の中で、初めて神様と夫が百パーセント信じてくれる立場に立つことによって、その心の基台の上で、神の日が設定され得たというのです。そのときが一九六八年でした。男性の蕩減復帰基準と女性の蕩減復帰基準を立てて、アダムとエバが長成期完成級で堕落したのを復帰する七年過程を経て、八年目を迎える一九六八年に初めて完成期完成級で夫婦の資格、夫の資格を備え、この地上に現れることができました「祝福家庭と理想天国」 第六章 ご父母様の聖婚と祝福家庭 第一節 ご父母様の聖婚と七年路程 5お母様を通した七年路程

 

み言においての大転換があったのも1968年だと考えられます。み言における大転換を意味する言葉が真の愛です。

全部は調べきれていませんが、それ以前は真の愛ではなく神様の愛という言葉が使われていたと思います。1968年の神の日に神様の息子、娘に対する恨が解怨されることで神様の人間に対して凍り付いた愛が溶け出したのです。この時を境に、真の愛がみ言の前面に出る様になりました。

神様の人間に対する恨が解怨されていない段階では、神様の愛である真の愛について深く語ることができない時期だったと言えると思います。それに加えて教会の草創期においては、サタン世界を分別して食口として確立することが最も願われることでした。このため原理講論には神様の愛についての記述はほどんどなく、真理による分別に主眼が置かれていたと推測できます。

真の父母様のみ言の主眼は1968年1月1日の神の日以前は原理でしたが、それ以後は真の愛だと言えます。つまり、原理講論は前段階の真理、御父母様のみ言が真理の本体だということです。

1968年の神の日のみ言でも、み言を(外的に一字一句違わずということより心情的に咀嚼して)自分のみ言として語ることができなければなりません、と言われました。これは心情基準(愛の基準)や人格基準が確立されみ言の主体となった上で原理を語るべきだという意味です。

み言に盲目的に従っていくだけの人になってはいけません。まずみ言を通して主体性を備えた実体、すなわちみ言の主体となって、創造することができる人格を備えなければなりません。ところが、今まで統一教会で原理のみ言を勉強する人々を見ると、心情的基準や人格的基準を見いだすことができず、み言だけで働き、動く人々がたくさんいるのです。これではいけません。み言を学べば、そのみ言を自分のみ言として語ることができなければなりません

原理を語るとき、その原理がどこかの師が教えてくれた原理としてではなく、自分の骨と肉を通して生命を得た立場で語らなければなりませんそのような本然の主体性をもってみ言を語ることができる人にならなければ、そのみ言で関係を結んだ人々が、自分とは何の関係もなくなるのです。ですから、み言を中心とする実体的な人格を完成しなければなりません。第二篇 真の父母 第五章 天地人真の父母と勝利圏相続 第五節 真の父母のみ言相続36 1968.1.1

ところで、私たちは真理の書である原理講論を聞いて復帰されたので、どうしても原理講論が標準理論であり原器となりがちです。

​私たちは真の愛のみ言を原器として原理講論を捉えるのが正しいのですが、その反対になりがちになるのです。

私たちは御父母様のみ言を基本とすべきであり、原理講論は御父母様のみ言の理解の土台の上で理解すべきなのです。

 

原理講論は徹底した真理中心の書です。真理中心だということは知性中心の論調だということです。総序をご覧になると分かりますが、あらゆる問題を解決する新しい真理が現れる、それが統一原理だと要約できます。しかし、その後の御父母様のみ言を見ると、世界のあらゆる問題は真の愛によってのみ解決されると明言されています。

人類歴史において、真の愛を完成すれば、政治、経済、文化的問題はもちろん、すべての紛争と葛藤問題もきれいに解決できるはずです。今日世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ根本的な解決が可能なのです

「真の愛」第一章  真の愛というものは  五 愛で完成する

 

原理講論には他にも真理、理性中心の主張を見つけることができます。これらは原理講論後のみ言の中核である真の愛の観点で捉え直す必要があることになります。

 

<総序>

暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである

 

世界に満ち溢れるべきなのは真理以上に神様の真の愛です。原理が、いくら人類が待ち望んできた真理であるとしても、真理では人々を救うことはできません。人間を救うのは真の愛です。

 

<第三次世界大戦 (1) 第三次世界大戦は必然的に起こるのであろうか>

統一されたのちにきたるべき理想世界は、全人類が共に喜ぶ世界でなければならないので、この世界は、敵を武器で外的に屈伏させるだけでは決して実現できない。ゆえに、彼らを再び内的にも屈伏させて衷心から喜べるようにしなければならない。そのためには、人間の本性的な欲求を満足させる完全無欠な理念がなくてはならないのである。・・・人間は理性的な存在であるから、結局理性で屈伏し、理性によって一つになるのでなければ、完全な一つの世界となることはできないのである。・・・この新しい真理が民主主義世界で勝利の基盤をもつようになり、更に進んでは共産主義の理念を屈伏させることによってついに一つの真理による一つの世界が成し遂げられるのである

 

人間が理性的存在であることは事実ですが、それは属性です。愛的(情的)存在であるというのが本質です。人間は愛によって創造されたので理性には屈服しません。真の愛にのみ服従します。最高位の情である愛によらなければ一つの世界は永遠にやってきません。

<創造原理 第一節 神の二性性相と被造世界 (二) 神と被造世界との関係>

二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である

(堕落論 第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め)

神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、・・・

 

神様は創造原理によっても創造されたのは事実ですが、それは本質ではなく真の愛の中核である神様の真の父母の愛によって創造されたというのが一番重要な真実です。特に人間は神様の父母の愛によって生まれたので、神様と人間は親子なのです。作者と作品ではないのです。

<緒論>

復帰摂理は、創造目的を再び成就するための再創造の摂理であるから、どこまでも原理によって摂理されなければならない。それゆえに、これを復帰原理というのである

 

神様が原理によって復帰摂理をなされるというこの内容は、私達も復帰は原理によって行うべきと思ってしまう危険性を内包しています

原理によって復帰できるのなら、神様はたやすく復帰をなすことができました。み言によれば神様の復帰摂理が着地したのは今から4000年前だとあります。堕落からアブラハムまでは実際は数百万年、あるいは数千万だというみ言もあります。復帰を始めるまでの膨大な時間がなぜ必要だったのでしょうか。その理由は​、神様は真の愛によって復帰摂理をなしてこられたからです。堕落によって失われたものの中心は真の愛です。神様が堕落した息子、娘やサタンに対して堕落していない息子、娘、天使長として真の愛で接することができなければ真の愛による復帰を始めることができなかったのです。堕落したアダムとエバそしてサタンを本然の存在として真の愛で愛する決意をするまでに、神様でさえも数百万年、あるいは数千万年という期間が必要だったのです。

何千万年も復帰を始めるお気持ちにはなれなかった神様にあるみ言)を参照してください。

<創造原理 第五節 被造世界の創造過程とその成長期間 (二) 被造物の成長期間 (2) 間接主管圏>

被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである

 

神様は人間の責任分担には干渉されませんが、間接主管圏においても原理の主管者である以上に愛の主管者です。間接主管圏であったとしても神様の愛は驚異的的です。神様の真の愛、すなわち絶対信仰、絶対愛、絶対服従とはどの程度なのかが明快に感じることができます。あまりに高いレベルです。詳しくは、総論Ⅰ総論Ⅱ絶えず私に注がれている神様の精誠の驚くべき実像(神様の精誠Ⅰ)をご覧ください。

原理は善悪を分立し、神側とサタン側という観点を提供します。

真の愛は善はもちろんのこと、悪さえも受け入れ一つにしようとします。

​真の愛には善悪、敵味方の観点はありません。

真の父母様の観点は徹頭徹尾真の愛です。真の愛で物を見られます。

もちろん原理によって判断はされますが、原理的に見て悪であっても真の愛によって許して包み込んでおられるので、全く原理によって判断されてないかのように見えるのです。

 

真の父母様のこの姿勢を物語る様々なエピソードがあります。

聖歌の中に作者不明(anonymous)とあるものがありますが、これは離れたり、反逆したりした食口によって作られた聖歌です。これらの聖歌は外した方が良いのではと進言した食口に対して、お父様はその聖歌を作った時の食口の精誠をないがしろにはできないと言われ、そのまま残すように言われたと伝え聞きました。

また、ある食口が餅を一生懸命作ってお父様に差し上げましたが、その時にはカビが生えてしまっていたといいます。しかしお父様はその餅に食口の精誠が込められているのを感じられ、カビが生えた餅を美味しそうに喜んで召し上がられたというのです。

理性中心の観点でできた原理講論は、真理を求めている人にあまりにも大きな衝撃を与えるものでした。私自身も原理の真理性に感動して復帰されました。入教してからは来る日も来る日も朝から晩まで原理講義をしていました。教会で原理講義をするか、修練会でスタッフをしているかというような生活でした。しかしそのような原理漬けの生活をしても本心からの喜びを得ることができず、一抹の空虚感や情的な枯渇感が消えませんでした。


人や事象に対する時、善と悪、原理と非原理、正義と不義という眼鏡をかけて見ていることが当たり前のように身についていました。その状態でいくら活動しても心霊の成長を感じられませんでした。ある段階まで行くと善悪分立だけでは心霊の栄養にはならないようです。真の愛で愛さなければ心霊が成長しないのです。

​精神的に重い病気にかかっているかのようでした。


そして天聖経を拝読して初めてその原因が分かりました。御父母様のみ言は真の愛を中心としてすべてが語られていました。原理講論の神様は原理の神様ですが、御父母様のみ言に出てくる神様は愛の神様です。真の愛の生活に転換しなくては大変なことになると感じました。

 

<キリスト教と天の父母様聖会の新旧の経典>

 

キリスト教の経典には新約聖書のみならず、旧約聖書も入ります。

イエス様が旧約聖書のみ言と対比しながら語られた聖句の一つがマタイ福音書にあります。

 

マタイ5:43-5:44

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

 

旧約のみ言と新約のみ言とは相当の開きがあることが分かります。

しかし、キリスト教においては旧約聖書も経典であるため、旧約聖書に従って判断し行動することが頻繁に起こりました。イエス様の敵までも愛しなさいというみ言に従わないで、旧約聖書にある敵を憎む方向に行くことの方が多かったことはキリスト教史が示しています。

 

法治時代から愛治時代へ」で述べましたが、キリスト教国家が繁栄へと向かう途上で、キリスト教徒はキリスト教に帰依しないおびただしい数の人々を容赦なく殺害しました。

1096年に始まり200年間に及んだ十字軍戦争当時、キリスト教徒によって結成された十字軍は、聖地奪還という彼らの正義を実現するためにイスラム教徒やユダヤ人を敵とみなし200万人殺害しました。これは現代の人口比にすると2000万人に当たります。第二次世界大戦での世界における犠牲者に迫る死者数です。

 

また、ポルトガルやスペインが強国だった大航海時代、キリスト教会は、異教徒によって占拠された土地を奪い返し、神の教えに背く異教徒を焼き殺す事は「正しい戦争」であると承認し、神への信仰の証しとして、侵略戦争を「聖戦」として奨励した時期がありました。神様とイエス様の名前を掲げて南米大陸を侵略したキリスト教徒は、原住民であるインディオを銃や剣で殺害したり焼き殺したりしました。彼らが南米に持ち込んだ天然痘、チフス、麻疹、インフルエンザによる死者を合わせると1億人が犠牲となりました。当時の世界人口が4億人か5億人と推定されますので、聖戦の名のもとにホロコーストという言葉でも足りない惨劇が引き起こされたのです。

 

イエス様のみ言が敵をも愛して和合の方向へ導く愛が前面に出るのに対して、旧約聖書の記述には敵と味方を分立して、敵を打ち滅ぼす内容に満ちています。

(神様はヤコブがエサウを屈服したように愛で屈服する道を望まれました。イスラエル民族も異民族を兄弟民族として兄弟愛を持って接するべきでした。しかし、異民族の風習の影響を受け、信仰が侵害を受けるようになったので、仕方なく異民族を滅ぼしてメシヤのための基台を作るしかなかったのです。これは神様が願った本来の姿とは大きく異なります。)

 

この旧約聖書とイエス様の新約のみ言の関係と似ているのが、原理講論と真の父母様のみ言の関係です。原理講論は真理中心であるため分立の役割をします。神側とサタン側、敵と味方を分けます。御父母様のみ言は真の愛のみ言なので、分かれているものを愛によって一つにしようという作用をします。

新約時代のキリスト教徒がイエス様のみ言を知っていながら旧約的な価値観に従ったように、私達も御父母様の真の愛のみ言を知っていながら、み言が分からない人や、反対したり非難したりする人を自分の兄弟だという見方ができずにここまで来てしまいました。原理講論的な、神側とサタン側、敵と味方の思考に走りがちになるのが常でした

人間を原理の眼鏡をかけて敵と味方にわける考え方は家庭盟誓の四に反することは明らかです。

四、天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天の父母様の創造理想である天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します

キリスト教史においてイエス様の敵を愛するような愛の実践した例はまれだったと言わざるを得ません。私達においても、個人においても教会においても、真の愛を実践した例はとても少ないと言わざるを得ません。

キリスト教徒において、旧約聖書の方が相対基準が合いやすかったということです。私達においても原理の方が相対基準が合いやすいことを意味しています。真の愛は創造本性を持つ人間には当たり前のことなのですが、堕落性の多い私達には知的には理解できても、情的にはピンと来ていないということだと思います。

 

<原理中心の思考と行動のどこが問題なのでしょうか>

 

原理は真理中心の書なので、真理が最上位の価値となります。また、前述したように真理は善悪を分立する作用があります。真理サイドが善で、そうでないものは悪とみなす働きを持ちます。このため、極端に言えば原理的なもの、すなわち正しいもののみが存在価値があり、正しくないもの、すなわち原理的ではないものには存在価値がないということになります。

原理講論は、この世の中がサタン世界であり、神様と真の父母様につながるには出エジプトする以外にないことを強く促すという大きな働きをしてくれます。正に分別の大ナタです。

原理講論は、人々を罪悪世界から救い出して食口として復帰する時には特に重要なみ言です。

 

また、この価値観は正義感と結びつきます。原理的なことを実現することが正義であり、非原理的なものは不義となります。そして正義を実現するためには犠牲は付き物だという考えに行きつくことがしばしば起こります。真理や正義に最高の価値を置くことは、独善に陥る危険性を秘めています。つまり真理中心の価値観は堕落性を誘発して悪に流れる可能性を秘めています。

この堕落性の誘発して強めるのが原理を知っていることからくる傲慢です。これもかなり厄介です。

原理は最高に知識という側面を持ちます。知識が増えれば増えるほど傲慢になるというみ言があります。知識人の多くが傲慢なことはよく知られた事だと思います。しかしそれは他人事ではなく、私たちの多くが歴史上誰も知らなかった原理という真理を知っていることで、知らないうちに驕慢の罠に引っかかっていたのです。この傾向は原理講義ができたり、礼拝ができるようなみ言の実力のある人ほど陥りやすい堕落性です。

 

お金について行きたい人は、永生の道を行く事はできません。知識について行く人も、永生の道を行く事はできません。知識に、学問に、永生が何処にありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢になるのです。驕慢の主人が、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです「人間の生と霊魂の世界」第一章 人生の行くべき道 四 天国に入る秘訣  7 「為」に生きれば天国に行く

 

さて、原理中心主義の場合、その原理の物差しは自分に向くよりも相手に向かいます。原理が裁きの刃になります。また、原理の目的を実現するためには他の人を犠牲にしても仕方がないことだという自己正当化を引き起こします。また、原理的ではない人、教会に反対する人たちを敵視し排斥することが起こります。

 

真理なのになぜこんなことが起こるのでしょうか?

御父母様のみ言を読めば最高の価値を持つものは真の愛であることが分かります。原理は真の愛から出てきたものですが、あくまでも中心は真の愛であり、原理は属性です。このため真の愛を差し置いて、原理を最高格位に置くことは主管性転倒という堕落性になります。堕落性である主管性転倒の考えや行動は更なる自己中心的な堕落性を引き寄せる要因となります。原理に基づいて善を行い正義を実現しているように思っても、知らないうちに悪に浸かってしまっていたということが起きます。

 

善か悪かという真理の物差しで見ると、自分は正しく相手が間違っているというふうに結論付けてしまいがちです。一方、真の愛の物差しは相手を愛しているか愛していないのかという物差しです。いくら原理的に見て相手が間違っているとしても、私が相手を愛せないなら、変わるべきは相手ではなく自分なのです

 

また、真の愛を性相とすれば、原理は形状です。原理を中心とすることは形状中心主義に結びつきやすくなります。内的な愛よりも、外的な物や数字に重きを置くようになります。簡単に言えば、数字さえ全うすれば真の愛によらない実績でも許される、仕方がない、とにかく数字だ、数字を全うしない者には存在価値がないという考え方です。

見えない愛の実績は評価されず、見える数字が評価されます。これは神様の評価方法とは真逆です。明らかな主管性転倒です。

そして外的な実績や数字を実現するために人を利用することが起きてきます。この罠にかかると簡単には抜け出せなくなります。堕落世界は外的実績を求められる世界です。私達の場合、信仰が加わるのでこの世よりも更にひどい結果を生み出すことになります。

これは悪性の病です。多かれ少なかれ私たちはこの病にかかっています。命がけにならないと治らないかもしれません。いくら一生懸命活動しても霊人体に善なる生力要素は全く流れていきません。放っておけば悪なる生力要素が大量に流れ、いずれ霊的死を迎えるほど深刻な病です。

 

教会の責任者や現場の担当者として、多くの万物を捧げて実績を上げた方々には頭が下がります。その万物によって世界的な活動が支えられました。しかし一方において真の愛を中心としないで出した実績は、神様も真の父母様も喜ばれないという明確な事実があります。それが今回の一連の災禍となって現れました。また、出した実績がその人を苦しめます。本心をごまかすことはできないからです。霊人体も悪化します。

これは責任者や万物復帰の担当者だけの責任ではありません。その人たちは兄弟姉妹です。兄弟の責任は他の兄弟の責任でもあるのです。

​その方々の非を責めるのではなく、自分の責任として悔い改め、許し愛して一つになることが天の願いだと思います。

<原理中心の病を治癒する唯一の特効薬は真の愛>

 

真理が善悪分立の作用を持つのに対して、愛は善も悪も区別せず一つにしようとする作用を持ちます。特に真の愛は分裂とは無縁です。すべてを一つにしようとします。何故なら万人が真の愛を好むからです。

愛は好きだという情感のことです。

 

愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。

「真の愛」第一章 真の愛というものは 三 愛が介在する時、調和が成される

 

神様はこの好きだという情感を得たいために創造されました。対象が素晴らしければ素晴らしいほど好きだという情感は強くなるので、ご自分を超えるほど素晴らしい対象を求めて創造されました。それが人間です。

愛は対象の素晴らしさによって誘発されますが、対象から好きだと思われることでも大きな愛の刺激が生まれます。

 

本然の世界ではこの愛の刺激は当たり前のように存在します。

例えば自分以外に10人の人がいるとして、その10人は全員私のことが好きです。私もその10人のことが好きです。これが天国の愛の世界です。ある意味単純です。

一方、今の世界は本然とは程遠いのでそうはいきません。私も相手が好きだし、相手も私が好きだという関係ができる割合は数%にも満たないかもしれません。これでは永遠に人間は一つにはなりません。決して平和はやってこないし、天国は遥か彼方です。

 

そこで、私以外に10人の人がいた場合、私がその10人全員を本当に好きだと感じた場合どんな現象が起きるでしょうか。人間は愛に対してとても敏感なので、10人は私が自分のことを好いてくれていることを感じ取ります。好かれた相手は私に対して悪い思いを抱くでしょうか?

自分のことを好きだと思ってくれる人はとてもありがたい存在なのです。その人を大切に接したいという気持ちが自然に湧いてきます。そして、私が相手のことが好きだという思いを抱きつづけるなら、いずれその人も私のことを好きになるのです。

この愛の威力は強力で、私のことを煩わしく思ったり嫌いだと思ったりしていた人でも、私が相手のことを好きだという思いで接し続けていくと、愛の力がその人の心を変えていきます。私のことがだんだん好きになっていくのです。

多くの人が、人々を一つにし、世界平和を成し遂げるには高度な政治判断や経験が必要になると考えていると思いますが、答えは極めてシンプルなのです。私たちはこのとてもシンプルなことを何度も聞いていたのにいまだに気付けずにいます

 

お父様が金日成にお会いになった時、お父様は金日成が好きだという心情を確立したうえでお会いになりました。お父様にとっては怨讐中の怨讐ですが、神様が金日成を愛しておられる心情に触れることで、お父様の中に金日成が好きだという情感が満ち溢れたのです。金日成はお父様が自分のことを憎んだり警戒したりせず、素朴に好いてくれているという情感を感じ取って、この人は心底から信じられる人だと感じたのです。

 

私と金主席は、手をつないで廊下を歩いていき、記念写真を撮って別れました。私を送り出した後、金主席は「文総裁という人は本当に立派だ。一生の間に大勢の人に会ってみたが、あのような人はいなかった。度胸もあり、情にあふれた人だ。親近感を覚えて気分が良くなり、ずっと一緒にいたいと思った。後でまた会いたい。私が死んだ後に南北の間で論議することが生じれば、必ず文総裁を訪ねなさい。」と金正日書記に繰り返し伝えたそうですから、お互いにかなり通じ合ったようです。「平和を愛する世界人として」第六章 愛は統一を導く

その金日成に対して、その母親以上の心をもたなければなりません。敵意概念をもっていけば版図が曲がってしまうというのです。水平になりません。それゆえに、金日成を四十年前に失ってしまったお兄さんのように考える弟の立場に立って父母に侍り、天の前において、お互いに敵愾心なく歓談できるようにしなければなりません。そのためには、忠告しなければならない時は忠告もしてあげなければならないのです。お兄さんが間違ったのに、「お兄さん、大丈夫です!」と言っては、天が正義の立場に立てません。
 金日成が何と言ったのかといえば、自分が八十歳になるこの時まで、このような度胸をもった人に会うことができなかったというのです。それで「怨讐に会う」という考えは少しもなかったというのです。兄弟に会ったり、過去に最も親しかった友人に会っているような感じがすることが、なぜそうなのか分からないというのです。自分の心がなぜそうなのか分からないというのです。それを説明する方法がありません。異常だというのです。今でも、「ああ、無性に会いたい文総裁!」と言っているということが伝わってきました
真の御父母様の生涯路程 9 九 真の御父母様の北朝鮮訪問(一九九一・一一・三〇~一二・七)

 

この愛の情を準備するためにお父様が必死のお祈りをされたことは、

劉孝元先生の相対者である史吉子先生の下記の御父母様についての証詞「私は慕わしさのあまり悲しみの涙に濡れて生きる人である」にあります。

お父様が金日成主席に会われたとき、お父様には“この殺人魔。韓国を血畑に荒らしたこの者め”という感情もあったそうです。けれども、金日成がもう一度、暴力でもって戦争を起こしたならば、世界は大変なことになってしまいます。そこでお父様は、金日成を親の立場で愛していかれたのです。 

お父様はそのことを後に、「金日成をいかに愛するか、という最後の祈りをハワイでやった」と言われました。 

そのように祈っていると、“全世界の者が『金日成を殺せー。殺人魔だー』と言っても、もし、金日成を生んだ親がそこにいたならば、その気持ちはどうだろう。『私の息子が自分の目の前で死ぬのは見たくない。どういう方法を使っても、法律を変えてでも、息子を殺さないで生かして、もう一度良い子に戻したい』という心を持つのではないか。それが親である”という思いが、心情に響いてきたというのです。

 

それでお父様は、金日成に対して、親として愛する心を準備してから北韓に向かわれ、その結果、あのような歴史的な“抱擁”の場面となったのです。 

そしてそのことを、金日成本人が敏感に感じ取ったというのです。その証拠に、彼は死ぬまで、息子である金正日書記に、「私は世界中の偉い人に会ったが、文先生に会ってからは文先生が恋しくてたまらない。どうしてだろう。会いたいなあ、会いたいなあ」と言っていたというのです。

御父母様でもどんな人間に対しても自然に愛の情が湧くわけではありません。悶えながら準備されることもあったのです。これこそが愛における霊的勝利圏です。

相手に接する前に相手が好きだという愛の勝利圏を確立していれば、神様が導くことができるのです。

 

私達は今までこの愛の心情圏を十分に準備しないままに、人に接していたのではないでしょうか?

今回の激しい反対派の指弾に対して対応する立場の方は嫌気がさすほど気が重いと思います。憎しみをもって攻撃してきたり、思い知らせてやるという思いで来たりする人など、負の情念が渦巻いている拷問のような場だと思います。対応する食口は法律的に対するとか、金銭で解決するとか、様々考えを巡らせたり戦略戦術を練ったりすることも多いと思います。しかし一番重要なのはお父様が金日成にお会いになる時に用意された愛の心情圏を私達も用意できるかです。相手が好きだという自然な情を用意できるかにかかっています。私達を憎み、攻撃し、見下し、讒訴する人も兄弟なのです。その心情を復帰するために切実な祈りや決死の精誠条件が必要な場合もあると思います。

 

反対する連中に思い知らせてやるという気持ちは真の愛の敵です。

反対する人々の正体を暴露したり、教会側が正しいと擁護してくれる論調の記事に目を向けたりする気持ちは良く理解できます。しかし、私たちは正しく、反対する人々は悪の側だという善悪の物差しでの判断を前面に出すのは、もう卒業すべき時です

 

私たち食口全員が、讒訴する人々をも兄弟だと感じることができるかどうかです

反対するマスコミとスタッフ、脱会させたり、献金の返金を実現することを生業としている弁護士やそういった人々に踊らされる一般の人々、この人たちはみ言も真の父母様も分からない人たちです。最も天から遠い人たちであることは事実です。

しかし、だからと言って価値がないわけではありません。私達の永遠の兄弟です。その人たちを愛の目で見えないとすれば、問題なのは彼らではなく私達なのです

 

今のままでは私たちは真の父母様とあまりにも似ていません。

​あまりに別物です。

そう思われませんか?

あまりにも残念な私達です。

しかし、私たちは必ず変われるはずです。真の父母様が子女のために相続できる真の愛の勝利圏を用意してくださっているのですから。

 

愛はあらゆるものの中で最強です。その愛の気持ちは必ず相手が感じ取り影響を受けます。愛が準備できれば必ず対立から和合する方向に動くのです。

 

真の愛は、真の父母様が金日成に示されたような怨讐の怨讐を愛するというような高いレベルの世界でもありますが、初めからそこを目指さなくても良いのです

日々出会う人、車ですれ違う人、道ですれ違ったり、スーパーの買い物で出会う人、どんな人に対しても家族のような心情が湧くようになるかどうかです。日常で出会う人に対しても家族として感じる様になれば立派な愛の人です。それは低いレベルではありません。一番重要な基本です。原理講義や説教を自由自在にできることよりも、高位の政治家を動かすことよりも何倍も重要なことであり、天が何倍も喜ばれます。外的な実績だけでは虚しいのです。

ぜひ実践してみてください。

異次元の喜びがやってきます。

本心の喜びを感じることができます。

 

​真の父母様は食口に対しても一般の人に対しても接し方は変わりません。どうしてそんなことができるのかと不思議に思っていましたが、それが真の愛の普通の姿なのです。

 

家庭は天国に入る事の出来る最小単位の修練所であり、教材です。そこにはおじいさん級、お母さん級、夫婦級、兄弟級が皆あります。これをおじいさんとおばあさん、あるいはお母さんお父さんの年齢、その次には自分の年齢、息子・娘の年齢に拡大させたのが世界人類です。この人類を自分の妻の様に愛し父母の様に愛し、息子・娘の様に為に生きる事の出来る家庭だけが天国を相続出来るのです。これは驚くべき事実です。神様がつくられた天と地の全ての権勢を相続出来る特権がここにあるのです。「真の愛」第四章 愛と家庭 三 愛の王国に入籍する為の愛の訓練場(一四三-二八五)

 

家庭は天国をつくる事の出来る教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさんの年齢の人をみな自分のおじいさんの様に愛すればその人は天国に行く様になっています。自分の父母のような年齢の人を自分の父母の様に愛すればどこに行っても通じます。万国共通です。霊界に行っても境界線が出来ないのです。万国の若者を自分の子女だと思う心をもてば彼は十二の真珠門があり方向があっても天国のどこでも通じるのです。ですから家庭というのは天国と因縁を結ばせる為の教材です。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心とすれば神様の子女、聖子になるのです。人はみな、そのような欲望をもっています。(一三七-七八)「真の家庭」第三章 家庭は天国の中心模型 四 家庭は天国の模型教科書

 

上記のみ言にあるようなどんな人に対しても家族のように接する愛を実践する運動を起こすことが緊急に願われています。

私たち全員が、原理の人から愛の人に転換することが急務です。愛なくして原理を語ればそれは毒薬になります。相手も自分も死に至ります。

原理を中心に、

自分や内部は善、正義、選民

他人や外部は悪、不義、賤民

という見方を気付かないうちに無意識にしてしまう私達です。知らないうちに悪い習慣になって本性化しています。これは最大の堕落性であり、霊的病です。悪霊の巣になってしまいます。いくら役事を一生懸命行ったとしても、終わったらすぐに悪霊が押し寄せてきます。悪霊にとってはこれほど住み心地の良い所はないからです。

原理中心主義の生活では心霊も枯れていきます。そしてその空虚感を満たすために知らず知らずのうちに非難し裁く相手を求めます。

健康も害するようになり病気になります。

喜びは少なく不安、恐怖、苦しみが多い人生になってしまします。

万物は愛のある所にやって来るので、愛で生活していない私達から離れていきます。

幸せになりたくてこの道に来たのに、間違った道に迷い込んでしまい、悲惨で不幸な人生になります。そして気が付いたら地上生活が終わっていたということになりかねません。

教会の枢要な指導者として摂理に貢献し多大な実績を挙げたとしても天国に行けるわけではありません。真の愛を体恤した人しか天国には入れません。

真の愛と関係のない生活をすれば心霊が低いままなので、霊界で行くところは期待したところではありません。こんなはずではなかったと後悔しても遅いのです。

軌道修正する時は正に今です。

 

 

<同じパターンが繰り返される可能性があります>

 

何回も繰り返してきたパターンが今回も繰り返されるのではないか心配です。

 

8月14日頃、今の日本の現実を報告した方大陸会長に対して、お母様は次のように言われたようです。

『よく来たね。あまり心配しないでください。あまり心配なさらないように。』

お母様が暖かく心配しなくていいと言われるので、安心された方も多いと思います。

お母様は正に私達の母なので、子女である食口が世間からの嵐のような非難を受け、食口が作り上げてきた基盤が崩れていく苦痛に同参されとても心配しておられます。心配ない、大丈夫だと言って子女をいたわり元気付けておられます。

 

お母様は食口の何が問題で今回の事態になったのかあまりにもよくご存じです。

一方で日本の食口が神様と御父母様に捧げてきた精誠に深く感謝しておられます。お母様の御心は、日本の食口が積み上げてきた精誠に対する感謝と悲惨な環境にある子女である食口への母の心配で占領されています。私たちの何が間違っていたのかは今後も指摘されることはないと思います。

 

これが真の父母様の愛の伝統です。

私達の想像を超えて徹底的に愛のお方なのです。

善悪の判断よりも愛が勝るのです。

私達が最も相続すべきことであり、私たちが一番できていないことです

 

お母様はコロナ、ウクライナ、元首相の殺害事件と世間の嵐のような非難、これらすべてが私達食口に問題があって起こっていることをあまりにもよくご存じです。(私たちが真の愛で生きていないのが最大の問題点です。)

しかし、それよりも私たちに対する愛の方がずっと勝るのです。一貫して絶対信仰、絶対愛、絶対服従のお方です。微塵の疑いもなく私達を信じ、喜んで私達のために犠牲になり、私たちに仕えておられます。

 

これが何を意味するのかお分かりかと思います。

お母様は食口の失敗をご自分で背負おうとしておられます。あるいはすでに背負っておられるかもしれません。

「あまり心配しないでください。」と言われて私達の心を軽くしようとされるお母様の言葉を表面的にとらえて、心配しなくていいんだと思うとしたらそれは大きな間違いです。

お母様はそう言われる一方で、私達の代わりに犠牲なる道を覚悟しておられます。

この深刻な状況を身に染みて分かる食口が必要です。

もう御父母様の犠牲という悪循環を終わらせなければなりません。

 

コロナ、ウクライナ、元首相の殺害事件と世間の嵐のような非難をすべて自分の責任だと捉えて深く悔い改める食口が必要です。実際私達の責任なのです。

そして、真の愛の物差しで判断し、真の愛で動く真の父母様に似ている人が必要です。

普段の生活において、食口であろうが、そうでなかろうが、天に近い人であろうが、遠い人であろうが、賛同的であろうが、反対する人であろうが、善悪の目で見るのではなく、自分の本当の兄弟姉妹として愛で接することができるかが一番大事なことです。何故なら、本然の世界では神様と真の父母様を父母として全人類が慕わしい兄弟姉妹だからです。蕩減復帰の本質は本然の姿を貫くことです。神様と真の父母様はいつもそうなのです。御父母様にとって食口も子女ですが、教会外の人も子女なのです。神様と真の父母様には敵も怨讐もいません。慕わしい愛する子女だけがいるのです。

 

私達も人との本然の愛の関係を貫くことで天国の人間関係が戻ってきます。また、すべての人に兄弟姉妹として接するという、一番基本的で、一番大事な真の愛を実践できれば、 善なる生力要素が激流となって霊人体に流れ込み、私達の心霊も短時間に大きく復活します。

そうすれば幸せに満ちた人生になり、幸せに満ちた家庭になり、笑顔が絶えない教会になります。健康になります。万物も寄ってきます。

人々も来るなと言ってもやってきます。

 

私たちは一番シンプルで一番重要なことを分かっていなかったのです。やってこなかったのです。

善悪の物差しを優先して生きることで、私達は膨大な時間を失ったと思います。最大の復活の機会を失ってしまっていたのです。

しかし、まだ生きている限りは挽回できます。リセットできます。

これができればとても素晴らしいことです。

誇れることです。

これは何よりも御父母様への多大な貢献となります。

これこそ本当に摂理への貢献です。

お父様が晩年もう一度やり直したいと何度も泣かれてすべてを背負って霊界に行くしかなかった道をお母様も行かれる可能性は消えていません。

しかし、食口の中にこの真の愛の伝統が根付けば、御父母様が十字架の代理蕩減の道を行かれるという悲惨な連鎖は確実に終わります

​愛する食口、兄弟姉妹の皆様。天国は近づいています。

次章ではさらに深く探求した内容を載せました。

この未曽有の危機を短期間で超える道についてです。

​是非ご覧ください。

 ⇒ なにとぞ瀕死の教会を救う旗手となってください(最終摂理時代Ⅲ)

天国に行く道は兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます「礼節と儀式」 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼式 七 兄弟間の友愛

家庭の生活において、愛を中心として一つになったモデル的なその形態は、教科書と同じです。これを拡大したのが世界です。世界は、祖父母の年齢、父母の年齢、自分たち夫婦の年齢、息子、娘の年齢に等級が分かれているのです。そのように互いに違う年齢の等級が一つの家庭において訓練され、一つになった形でその公式を通して和合できる者になれば、世界のどこに行っても、天国、天下のどこに行ってもその相続を受けることができ、そこに同参することができ、主人の位置に入ることができるのです。天国は家庭です。そのような愛の経験をもって国境を越え、兄弟姉妹のように愛する世界が地上天国です。そのように生きた人が、永遠の天国に連結されるのです。それは人生最高の成功であり、最高の幸福の道なのです第四編 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活 14 P449  1991.5.4

2021.5.10祝勝会
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