お金経済の確実な消滅と天国の趣味経済
この章では、真の愛に基づく異次元の経済理論と経済世界を探ってみたいと思います。
さて、世界経済は貿易摩擦や成長率の低下など先行きが見通せない混とんとした状況にあります。いわゆる景気が悪い状況が続いています。日本でも給料が上がらず据え置きの状態が長年固定化しています。
一般的にお金を得ることは人生における至上命令になっています。人々が勉強して学歴を追求し技能や資格を得ようとすることには、より多くのお金を得たい動機が強く働いていることは否めません。政府の実績においても景気を上昇させた政権が良い政権とみなされる風潮です。この世界を眺めると命の次に大事なのはお金だという価値観が色濃く存在していることが分かります。他の人の命よりもお金儲けが大事だという心理もあちこちに散見します。
これらのことは良くないことだと多くの人が感じているのですが代わりになる道がないのでこの価値観に基づく世界がずっと存続してきました。
この経済体制を根本から変革する道を順を追ってお話いたします。
<既成の経済世界の根幹であるお金の持つ根本的問題点>
貨幣の登場で経済が大きく発展してきたのは事実です。経済活動の初期は、物々交換が基本でした。物々交換はお互いに相手の持っている物が必要な場合のみに成り立つので実際は交渉成立が簡単ではありませんでした。しかし、貨幣が使われるようになることで流通が根本的に変わりました。電子マネーや仮想通貨なども含めて、貨幣なくして現代の経済社会は語れないと言っても過言ではありません。
さて、貨幣(お金)の持つ機能には次の三つがあると考えられています。
-
交換機能 --- お金は商品やサービスと交換できる機能があります。お金はたいていの物やサービスを購入することができます。
-
価値の尺度の機能 --- 商品やサービスに値段をつける単位になる機能を持ちます。
-
価値の貯蔵機能 --- 貯金するなどにより後で使うことのできる機能があります。
今の世界の経済活動の土台となるお金の持つこれらの機能は、本然世界でも有効のように感じる方もいるかもしれません。しかし、真の愛の価値観から見るとお金を基軸とする経済世界は次のような致命的な欠陥を持っています。
①唯物的な低い価値観
提供する物やサービスに値段をつけることで、真心を込めた物やサービスも数量化され物質的なものとして扱われお金で買うことができます。お金が貝殻や石であった時代もありましたが、金(gold)がお金の代表になりました。そして現代のお金は無形化しコンピューター上の数字です。しかし、その本質は物であることにはかわりありません。お金の本質が物である限り、人間が込めた真心や親切心など精神的なものも物質的、定量的尺度で測ることになります。
実際、人間の労働は如何なる労働でも精神的に大きな消耗を伴う活動ですが、お金で買えます。マルクス経済学は労働を資本家が搾取することが問題の根源だと主張して暴力による革命を正当化する理論となりました。しかし、マルクスは労働の搾取以上に深い問題には無知でした。人間の労働は本然的には神様から受け継いだ創造力です。人間の労働がお金と交換される程度のものだという低い価値観が根本的な問題なのです。人間はサルから進化したという極めて心霊の低い価値観がベースにあるので根っこから狂っています。
一般的な経済世界における価値観も共産主義ほどひどくなくても、人間の労働はお金で交換できるものという価値観であることには変わりありません。人間の労働がお金と交換できるという価値観は、人間自体もお金と交換できるという考え方の入り口になります。
実際、ほとんどのサラリーマンは給料と引き換えに労働力だけでなく人生までも捧げています。会社は給料をくれる養父母か主人のようです。給料によって買われているので、良くても養父母に養われる養子のようです。悪ければ主人に仕える僕のようです。満員電車に鮨詰めになって通勤する姿は人間扱いされているとは思えません。
経済世界や経済理論の根底となっている人間観が、本然の人間観と比べて唯物論的であり、同時に人間の価値を物の価値と変わらないほどに余りに低く見ていることに大きな問題があります。
②神様の不在の価値(価格)の決定過程
例えば農作物の場合、野菜、穀物、肉などを生産する農家の投下資本と投下労働力などの供給側の要素と、消費者の購入欲求という需要側の要素の均衡点で価格が決定します。しかし、実際は野菜、穀物、肉などの農産物の95%は神様の供給される原理の力(生命力など=愛が現象化した力)で作られています。農家が農産物を育てたように考える人が多いのですが、実際に育てたのは神様です。農家はこの原理の力がより有効に働くための環境を提供しているだけです。
工業製品の製造に必要な石油、鉱物、植物、水なども神様が造られたものです。神様の働きを無視して価格を決めるのはあまりに無神論的です。神様の働きを価値の要素と考えると、実際は値段がつけられません。
例えば鶏の卵は1個20円ほどで売られていますが、実際は何億円出しても買えない価値を持っています。
有名画家の絵画には高額の値が付きます。綺麗な観光地でも多額のお金が動きます。しかし、絵画や風景の色彩を提供しているのは神様です。神様によるクオリアの供給がなければ綺麗な絵画や風景は存在しません。飛び交う電磁波があるだけです。音楽コンサートやオーディオ機器にも高額な値がついたものがあります。しかし、演奏家やオーディオ機器が造り出しているのは空気の振動です。音というクオリアは神様が供給してくださいます。こういう観点から見ると、色彩や音などクオリアを伴うものも値が付けられません。
更に根源的に言えば、この世界の全ては神様が血肉を削って創られたという厳粛な事実があります。地上界についてみるとそこにあるのは宇宙に満ちている物質とエネルギーです。
これこそが本物のインフラです。あらゆる産業はこれを基にして経済活動を行っています。
巨大企業であるGAFAはコンピューターやインターネットというインフラの上で急成長しました。しかし、そのもっと根源には材料としてのケイ素から作られるシリコン、レアメタルや他の金属、プラスチックなどの石油由来物などがあります。駆動するために電気エネルギーが必要ですが、これは万有原力から生まれます。
また、人間が経済活動するためには食べ物や筋肉や脳を動かすための電気エネルギーが必要ですが、これらの提供者は神様です。
GAFAの時価総額は2020年2月3日の時点で約3.9兆ドル(約430兆円)ですが、根本的インフラの供給者である神様に利益を還元したのを見たことはありません。他の企業体も同様です。
神様が血肉を削って創造し無償で提供して下さったこの世界は、価値が無限なので値段が付けられません。あらゆる物質やエネルギーや現象は神様の血肉を削って与えてくださいましたし、現在も与え続けておられます。
ある農民が、多くの人に喜んでほしくて無償で差し上げようと思って丹精込めて作った作物を、許可なく勝手に持って行って市場で売りさばいてお金儲けしている人を見たら、その農民はどんな気持ちになるでしょうか?
神様の抜きにして値段を付け利益を得ようとする経済活動は、はっきり言えば余りに盗賊的です。
③私有財産や私的所有を是とし堕落性を助長する働き
自分で稼いだお金は自分の物だという意識は当然のことだという社会的通念があります。それで何を買っても良いし、お金が多く貯まれば土地や金、宝石、絵画を購入したり、株や金融商品などを購入したりして、多方面で私有財産を増やすことは賢明で良いことだと考えられています。私的財産の所有は資本主義経済体制の国では極めて常識的なことです。
私有財産を持つこと自体が堕落性だと言えば、多くの人が非難するかもしれません。共産主義者の時代遅れの主張だと馬鹿にする人もいるでしょう。
しかし、次のみ言をご覧ください。
堕落は、自分のものをつくろうとし、自分が所有しようとすることから始まります。神様とメシヤが来られるのに、このようにすれば必ずサタン側になるのです。それで従順の道理を通らなければならないというのに、いつも堕落した世界に執着する事情が残るようになるのです。皆さんは皆さんの所有を神様のために使おうとする時、どのようにしますか。私は自分が稼いだ物でも、夢にも私の物にはしません。「礼節と儀式」第三章 礼拝と教会生活礼節 五 献金は法度に合うように捧げるべし 1.十分の一献金を捧げる法
堕落論を所有の観点で見れば、ルーシェルが神様の息子、娘を堕落させ、全人類と全万物を自分の所有としたことだと定義できます。
この世界の全ては神様が創造されたもので、もともと神様のものです。
神様の創造物全てを奪っていった悪魔を真の愛で屈服し、全人類と全万物を神様のものとして取り戻されたのは真の父母様です。悪魔が全てを所有していた時代は、悪魔の意向に沿う人間、すなわち悪人、独裁者が中心となってこの世を所有していました。
なぜ善なる人たちがみな犠牲になり、悪なる人たちがうまくいくのですか。歴史を見ると、独裁者がなぜこの世を支配し、善なる王が出てきても平和の世界をつくることができなかったのでしょうか。歴史を調べてみると、独裁者の世界統一の夢だけが記録されているのです。それはサタン世界だからです。「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠 四 責任分担の発見とその重要性
しかし、悪魔が所有権を失い、すべてが神様と真の父母様の所有となった現在、それを私たちが頂くには従うべき道理があります。
今自分が持っている物、または自分所有の財産は、自分が少しの間管理する過程にあるというのです。皆さんは管理人です。それで、各自がよく管理して奉献しなければならないこの万物は、真の父母の懐を通し、神様の懐へ帰っていかなければなりません。もう一度言えば、神様の物であると同時に「真の父母」の物という過程を通さなければ、私の物にならないという事実を知らなければなりません。
「礼節と儀式」第三章 礼拝と教会生活礼節 五 献金は法度に合うように捧げるべし 1.十分の一献金を捧げる法
神様の創造物を人間にくださろうとする場合、先ず真の父母の物となるという過程が絶対に必要です。その上で天一国を通して私の物として頂くというのが原理であり道理です。私の物となると言っても一般社会での私有財産ではありません。私はそれを少しの間管理する暫定的管理者なのです。
この世で当たり前になっている自己所有や私有財産は、お金や物への利己的な執着という堕落性です。盗人根性なのです。先祖代々の土地などと自己所有を正当化する人もいます。しかし、その先祖がその土地を手に入れた経緯はほとんどが褒められたものではありません。神様が作られた大地を自分の物だと主張するのは強盗の咆哮です。
自己所有や私有財産という執着的物欲、金銭欲は余りに常態化、習慣化しており、この堕落性、このサタン的執着から抜け出すのはかなりの困難を伴います。しかし、これが本然の経済社会を作る場合の最大の障害になります。私たちがいち早くこの執着心から脱却することが急務です。
お金はこの執着的物欲を確実に増大させる刺激となります。お金は人間をお金至上主義、商業主義へと駆り立てる下地になります。
現在、世界では全人類が食べていくのに十分な食料が生産されています。しかし、世界人口の9人に1人にあたる8億1500万人が、飢餓に苦しんでいます。また、3人に1人が何らかの栄養不良に苦しんでいます。
飢餓が起きているのは、人口に対して食べ物が足りないからではありません。
2020年現在、世界での穀物生産量は、年間約26億トンです。これは、一人あたり約340kg以上の穀物が食べられるという計算になります。1年間に必要な一人あたりの穀物量は180kgですので有り余る量です。
それでも飢饉が起きてしまうのは、穀物を家畜に食べさせて肉として売った方が儲かるからです。
また、穀物を投機の対象として儲けようとする投資家がいるのも原因の一つです。彼らは世界経済が低迷し、株や債権では儲からなくなったので、干ばつや洪水で生産が減った穀物を買いこんで高く売り、お金を儲けようとします。穀物の国際市場価格が急落しても、食料の取引を仲介する中間業者が儲けるために価格を吊り上げたままにしておこうとする所業も大きな要素です。
国連機関やNGOが食糧支援をしようとしても、穀物価格が高くなれば買える食料の量が限られ、支援も行き渡らなくなります。
更に食品ロスも大きな問題となっています。期限切れ間近の食べ物は惜しみなくごみとして捨てた方が消費者に信用されるし値崩れを避けられるので、結果的に利益が大きくなると考える食品業者が多いことも飢饉に密接に関係しています。
アメリカでは穀物生産量の8割を食肉生産のために使っています。
牛肉1kgを作るのに穀物約10kgが必要です。アメリカでは、一人あたり年間100㎏の牛肉を消費しますが、これは牛肉のためだけにアメリカ人一人当たり1トン以上もの穀物を消費している計算になります。
また、先進国では「食べ残し」や「賞味期限切れ」などで、消費段階で捨てられる食べ物が生産されている量の3分の1にあたる13億トンもあります。日本は廃棄される食糧の割合が世界一高いと言われています。まだ食べられる食糧の少なくとも20〜30%が廃棄処分されており、日本人が肉の消費量を2割減らせば、飢えをなくすことができるとも言われています。
よく、お金には色がないとか、お金自体は悪くないという人がいます。しかし、麻薬や売春、人身売買で得たお金には色がないでしょうか?
お金には欲しいものに交換できる機能があることで、人間の持つ根深い堕落性である金銭欲、財産所有欲、執着的物欲、権力欲、愛欲を刺激して堕落を助長します。
お金自体が堕落の産物であって将来的にはなくなるということについては後ほど述べます。
④お金で報酬をもらえば真の愛を実践する貴重な機会を失う
農家の人が農産物を作って食べたい人に食べてもらいたい。漁師が魚介類を取って食べたい人に食べてもらいたい。電気製品を作る工場で働く人が作った電気製品を使ってもらいたい。こういったすべてには為に生きる心情が入っています。
しかし、自分が供給したものに対してお金をもらえば、その瞬間に為に生きる美しさは失われます。愛の実践ではなくなります。
真の愛は無条件で与える愛です。そうであるが故に何よりも美しく、喜びと幸福もたらし永遠に残ります。
お金は愛の純粋性を奪い、愛を俗化させます。お金をもらうための生産活動は真の愛という無償の愛を実践する機会を奪ってしまいます。
このように言えば、収入もなくどうやって生きていくのかと思われることでしょう。それについては後ほど述べます。
<お金中心の社会と真の愛中心の社会はどちらが発展するか>
多くの経済学者が豊かな世界を実現する経済理論を追求しています。毎年、ノーベル経済学賞が発表されますが根本から豊かな世界を実現できるような理論は現れていません。
GAFAのように個々の企業体としては急成長して巨大化するものもありますが、富の集中を生み出すだけで人類全体を豊かにすることとは無関係と言っても過言ではありません。
はっきり申し上げれば、今の経済理論や経済システム、企業システムを続けていても人類全体の豊かさは実現できません。
IMFは2019年10月15日発表の「世界経済見通し」で、世界経済の成長率(実質GDP成長率)は2019年に3.0%、2020年に3.4%になるとしています。経済が成熟してくればこんなものだろうと思っている人も多くいます。しかしこれは神様が願われるよりあまりに低い成長率なのです。
現在の経済システムの成長ポテンシャルがなぜ低いのか、真の愛に基づく経済システムの成長ポテンシャルが、なぜそれを簡単に凌駕できるのか、授受作用の原理によって簡潔に解明できます。
下記の図をご覧ください。
給料やお金を得ることが出来ないとしても働くという人はほんの一握りです。圧倒的多数の人は給料やお金が得られることが働くことの一番の動機になっています。
上図ではⅠにあたります。
Aという会社のために働いたり、Aさんの為に働いたとしても、目的は給与であったり収入であったりするので、授受作用の最大の力は自分に向いています。相手に向かう力、すなわち自己の消耗や犠牲によって与える分はなるべく小さくしたいという傾向にあります。例えば、10の給料や収入を得るために7ぐらいしか働きたくないが常です。会社の側としてはそれでは利益が上がらないので足りない3の分、あるいは10の給与で15働かせたりすることが起こります。サービス残業などはその典型です。これはいやいや働いている状態なので、生産性はどんどん低くなります。
愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。「真の愛」 第一章 真の愛というものは 二 愛は無限に与え、また与えること
世界経済の成長率が低いのは、ほとんどの人が自分の為あるいは家族を養うためだけに働いていることにあります。自己愛には弱い創造力しかありません。生まれるものが僅かしかないなのです。
神様の創造力が発揮されるのは為に生きる時、すなわち真の愛で愛そうとする時です。真の愛の実践が目指すのはお金ではありません。相手を無条件に信じ、相手に自発的に服従することで自分と相手の両方に生ずる愛の喜びの情感です。
真の愛は10受けたらそれ以上返したい心情が溢れる愛です。上図のⅡがそれにあたります。私がAさんに10差し上げたら、Aさんは12とか15とか20とかを返したくなる世界です。しかも、返す時に受けたものより多く返した場合でも、少なくて申し訳ない思いになる愛です。更に、与えたことを忘れる愛です。これにより本然的な授受作用の力が生まれ爆発的な増殖作用を生み出します。
単純化すれば、お金で得られる喜びや幸せと真の愛がもたらす喜びや幸せを比較してどちらが大きいかということになると思います。
お金を得るために命を捧げる人はいないことはありませんが、無理やりの世界です。愛の為なら命を捧げる人が多くいます。まして真の愛の味を知ったら誰でも喜んで命を捧げるようになります。命の原因は愛なので元々、命より愛が大きいのです。
真の愛の味を知ること。
ここからすべてが始まり、すべてが変わります。
真の愛の味を知る道は「真の愛論」の「真の愛の驚異的な感化力と実践の奥義」に述べています。是非ご覧になってみてください。
真の愛の世界が、既存の経済体制とは比較にならない驚異的な経済発展を生み出すのをご理解いただけると思います。
<他人世界-お金が必要、一家族世界-お金のない愛の世界>
前述しましたように、人間の労働や精誠の投入やそれによって供給される生産物、サービスに対して値段をつけることはできません。神様から受け継いだ創造力は真の愛の属性であるので無限の価値を持ちます。
本然の世界では生産物やサービスは無償で提供されます。それらは真の愛の体化物なのです。
エデンの国で、アダムとエバは、お金を出して食べ物を買って食べたりしたでしょうか。すべてただでした。すべての環境条件をつくられた神様は、人間に無限の価値をただで与えてくださったので、霊界に行っても、無限の価値の存在がすべて自然に供給されます。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。そこでは、お金を出して買って食べたりはしません。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。
第七篇地上生活と霊界 第二章霊界とはどのような所か 第二節霊人の生活
このみ言は霊界のことを中心に述べられた内容でもありますが、時が経つにつれて地上世界も霊界のようになっていきます。人間が生きるために必要なすべてのものは神様が無償で与えてくださっているので、人間も神様のようにすべきなのは当然です。
神様がそうされたのですから、人間も生産物やサービスを無償で提供するのが本然です。
天一国の市場には時間の問題で競りなどの売買は見られなくなります。あらゆる生産物がわれ先に集まってきます。そこから地域ごとにある店舗に運ばれ店頭に並びます。あるいは宅急便で各家庭に届きます。人々はそれを無償で手に入れるようになっています。お金を支払う必要はありません。無償で作り無償で頂く世界です。
政府や行政が主導するような公共事業をする場合、国庫や地方自治体に予算がなければ何もできないので税金や予算が必要ではないか、あるいは企業が工場の新設などする場合、内部留保としての資金がないと経済活動に大きな支障がでると思う方もいるかと思います。
しかし、その心配はいりません。国も企業もすべて公的です。公的というと公的なもののために自分が犠牲になるという概念を持ちがちですが、真の愛の世界に住む人々はより公的なものほど心情が燃えるのです。
例えば、国や地方自治体が高速道路を作ったり港湾を整備したり学校を作ったりする時、必要なものは建設資材や建設重機と人手です。企業が新工場や新社屋を作ったりする場合には製造機械、検査機器、コンピューター、オフィス機器なども必要です。建設資材や建設重機、製造機械、オフィス機器などを作るにも素材や人手が必要です。これを単純化すれば金属、石油、木材、石、水などの天然の原料と人手に集約されます。天然の原料は神様が既に与えてくださっているものですのでこれは本来公的に管理されるものです。そうすると人手確保の問題が残ります。
整備された天一国では食料、衣料、電気、ガス、水道、車両、燃料、住居、住設、電気製品、家具、医療、教育、趣味など一切お金がかかりません。その上に天一国の国民は真の愛の味を知っている人たちです。もらうだけもらって何もしない人は一人もいません。もらった以上に与えなくては落ち着かない人たちです。為に生きたくてうずうずしている人たちです。国の公共事業や企業で人手が必要な時にはわれ先に別の企業や人が集まります。どれだけ為に生きたかが競争になるのです。
国や企業は必要十分な事業計画を出せばよいだけです。人々はいつそれが出るのか興味津々で待ちわびている世界です。
天一国がこうなれば天一国民はどれほど自国を誇れるでしょうか。
子供たちはその世界で生まれ生活します。これ以上の教育があるでしょうか。
天一国に旅行に来た外国人も滞在中は食事、交通手段、宿泊施設など全てが無償で提供されます。帰りには土産も用意されることでしょう。旅行者たちは現実化した天国を目の当たりにして感動することは間違いありません。人々や国々は天一国に押し寄せてきます。こうして世界は瞬く間に統一されます。
お金は他人の集合体である社会や国において必要なものです。
お金は身内以外の人を他人と見る価値観が根底にあって生まれたものです。身内以外の他人が、無償でやって欲しいことをしてくれたり、欲しい物をくれたりすることはないので、欲しいものを手に入れるには対価が必要だという価値観です。これは他人主義の価値観というべきものです。
本然の世界では他人というくくりの人はいません。他人という概念自体が堕落の産物です。
この章を書いた後に、貨幣がなくなる世界が来ると主張する学者や書籍が出始めていることを知りました。天使のラッパが時の到来を告げているような現象です。素晴らしい先見の明です。
しかし、その論拠は本質的ではありません。堕落による他人主義をなくさないと残念ながら理想で終わります。他人同士の経済活動のために必要だったお金は、それ自体が堕落の産物だという認識が重要です。堕落の痕跡を消せるのは真の愛だけです。
人々が真の愛を知るようになれば他人主義が消えてき、それに伴いお金も消滅する運命なのです。
世界が天一国になれば他人はいなくなるのでお金は無くなります。人類は経済的にも本当に一家族になるのです。
私はこのような世界を実現したくてたまりません。皆さんの中にもそう感じられる方がおられると思います。一日も早くその世界を作りましょう!
私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだというのが、私たちの主流思想です。「礼節と儀式」第三章 礼拝と教会生活礼節 五 献金は法度に合うように捧げるべし 1.十分の一献金を捧げる法
エデンの国で、アダムとエバは、お金を出して食べ物を買って食べたりしたでしょうか。すべてただでした。すべての環境条件をつくられた神様は、人間に無限の価値をただで与えてくださったので、霊界に行っても、無限の価値の存在がすべて自然に供給されます。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。そこでは、お金を出して買って食べたりはしません。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。
第七篇地上生活と霊界 第二章霊界とはどのような所か 第二節霊人の生活8 1994.8.21
<趣味生活時代の到来は天国のはじまり>
ところで、近い将来あらゆる産業がAI化され自動化されます。ほとんどの製造の場に人間がいなくなります。AIによって人間が要らなくなると職がなくなると心配している人の姿がニュースになったりしています。しかし、それは全くの杞憂です。AI化、自動化は人間が労働の苦痛から解放されるために現れたものです。人間が我慢しながら労働する時代はもうすぐ終わろうとしています。
農業、漁業、食品製造業、衣料製造業、鉱業、工業、電気電子産業、建設業、インフラ建設整備業などで働く主役はAIやロボットです。家庭で必要な食料や電気製品などあらゆる物が注文すれば即座に自動で運ばれてきます。
衣食住や生活のために働く時代が幕を下ろすのです。
それでは、人間は何をするのかと言えば趣味生活です。
これからの技術産業時代は、オートメーション技術によって人間が働かない時代です。そのような時が来ます。今もそのようになりつつあるのです。人がボタンさえ押せば、機械が仕事をするのです。何千人が作業をしていた工場で、三、四人いれば昼夜、生産品を提供できる時代が来るというのです。第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン 第一節 万物還元と趣味生活9 1989.6.24
一生懸命に働いてきた人々は、年を取れば自然と共に暮らし、自然に逝かなければなりません。神様の愛を感じながら生き、神様の愛を感じて逝くことによって天国に入るのは、定められた道理です。趣味生活、神様がそれを好むのです。皆さんの趣味が創造と連結されるのです。すべての趣味の材料が私を待っています。それは疲れることがありません。趣味が重なり合い、自動的に神様の世界と近くなるのです。これが人間の願う最高の生活です。
第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン 第一節 万物還元と趣味生活10 1996.6.9
衣食住のために働く時代は終了し、人間は趣味に生きる時代に突入しようとしています。
趣味生活は神様が好まれる生活だというのです。
何故でしょうか?
趣味生活というのは「好きだ!」という情感が溢れて止まらない生活です。神様の創造目的は愛が充満し愛を呼吸して生きる世界を作ることです。愛というのは「好きだ!」という情感のことです。この「好きだ!」という情感が満ち溢れている世界が天国です。
人間にとって趣味生活ほど幸せな生活はありません。神様も人間という体を着てこの刺激的な情感を味わいたいのです。
また、この「好きだ!」という情感を作る出すことは神様の天地創造と同じ行為です。趣味生活こそ神様の創造活動に似た生活です。人間がどんどん繁殖してあらゆる分野で趣味生活をすることは、神様の天地創造が横的にどんどん拡大していくことなので、神様がご覧になる時あまりに刺激的です。
趣味生活をしなければなりません。神様が創造した時、無理やり造ったのではありません。喜びを感じるように造ったというのです。創造の神様の立場を、私たちは再び感じなければなりません。誰かが「やりなさい」と言うからするのではありません。せずにはいられないのです。たとえ眠らなかったとしても、それはしなければならないというのです。そこに、どうしてお金が介在し、環境が介在しますか。
ですから、趣味生活、趣味産業、趣味研究などが、神様と共に喜ぶ中で一つになって行われたものであってこそ、神様に所有されるものとなり、神様が愛する息子、娘たちが愛用できるものになるのであって、そうでなければサタンのものだというのです。お金を目的に、これをするのではありません。第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン 第一節 万物還元と趣味生活11 1997.3.9
趣味と言っても、趣味生活、趣味産業、趣味研究など多岐にわたります。農作物を育てたり、釣りをしたり、飲食店を開いて美味しい食事を提供したり、服をデザインしたり、絵をかいたり、音楽を聴いたり演奏したりなどは勿論のことです。未知の宇宙を探検したり、人類の新しい移住先に相応しい惑星を探したり、あるいはその惑星を人が住めるように改造したりなどが趣味の人もいます。分子生物学、化学、理論物理学、数学、医学などの学問研究分野や実践分野が好きでたまらない人もいます。あるいは自動車や飛行機、ロケット、ロボットを設計したり作ったりするのが好きでたまらない人、子供たちに教えるのが三度の食事より好きな人など、とにかく人間の創造本性は多種多様なので趣味の分野も無限に広がります。
それらが重なりあうことによって自動的に神様の世界と近くなるというのです。
個人が自己の利益を追求したとしても神の見えざる手によって社会全体の利益が実現されるというアダムスミスの理論は根本から修正されなければなりません。自己の利益を追求することを中心として理想世界が実現することは決してありません。
神様が願われた理想世界の実現は次のようになされます。
神様の創造性を個性真理体として受け継いだ本然の人間が、真の愛を中心として創造本性に従って趣味生活することは、神様が願われる天国実現に不可欠な役割分担を各自が自然に実現することになります。このように各自の趣味生活というパーツが結集すると見事な天国が姿を現すのです。それは神様と人間の真の愛がとめどなく流れ、その流れが川となり大河となり大海原となって天宙全体の隅々まで溢れます。神様と人間が永遠の幸福に浸る天国世界です。
真の愛を中心として楽しく生きなければなりません。動物と話し、すべての万物と和合し、神様と和合しなければならないのです。そのようになれば、国境がありません。異なる文化ではないのです。愛の文化です。愛の文化は趣味文化なので、趣味生活が愛なのです。自分が妻を愛し、息子、娘を愛することを、世界版図で行うことができるのです。すべて自分の家庭を拡大した文化祝典の対象圏です。そこに参加して楽しむ心情文化世界が、地上天国文化だというのです。趣味文化は、堕落していない本然の愛の文化です。趣味文化は、地上天国の文化だというのです。
第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン 第一節 万物還元と趣味生活7
1994.2.24