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身もだえ号泣されながら最上の愛で人間を愛される神様

2024.8.4

神様は天地創造においてこれ以上ない最良の愛を注いでくださいました。

人間が堕落しても神様の愛は永遠、不変、絶対でした。人間に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従は一切影響を受けることなく絶対でした。

このことを心から知ることが信仰生活に到達点のように感じます。

皆様にその到達点をお知らせすることができれば無上の喜びです。

 

創造において神様の愛が絶対ならば、人間堕落においても人間に対する愛は絶対、不変であることになります。また、再創造である復帰においても神様の愛は絶対だということになります。

しかし、復帰摂理を見ると非情でむごいとしか思えない神様の姿が出てきます。ノアの時の洪水審判からそれが出てきます。

キリスト教的価値観から見れば悪を犯した者に対する神様の裁きということになります。神様が善悪基準に従って審判され、神様の判決は水死の刑ということになります。それが実行されたのが洪水審判ということになります。

この場合、神様は愛の神様ではなく善悪の審判者です。このような善悪の審判者としての神観を持っている食口も少なくないかもしれません。この神観においては神様の最高価値は善悪であって愛ではありません。神様は愛のお方だとみ言では知っていても、心からそう思ってはいない場合が多くあります。

 

天一国時代に生きる私たちは神様の愛についてどのように捉えたら良いのでしょうか。

神様が本当に愛の神様であるなら、洪水によって多くの死者が出たのは神様の愛によってなされたものでなければ矛盾することになります。

 

真の父母様の示された神観は天の父母様です。絶対的な愛の主体である天の父母様はいきなり洪水を起こされたのではありません。ノアは人々に、地を覆いつくす洪水がやってくるので悔い改めて一緒に方舟に入りましょうと訴えました。ノアはこれを120年間行いました。洪水で多くの人間が苦しんで死ぬのを一番避けたかったのが天の父母様でした。

 

神様は復帰においては原理結果主管圏の神様です。人間の責任分担が関わることには干渉されませんが、人間が成した結果に対しては責任を持たれます。原理結果主管圏でも神様は絶対愛のお方です。神様が責任を持つというのは父母の責任のことです。父母はいかなる場合でも子女に最上のものを与えようとします。ノアの時代の人々は悪逆の限りを尽くしていたような人たちです。神様にはどう映ったでしょうか。

 

ノアの時代の人間から見た神様は余りにも遠い神様です。神様から見た人間もあまりに遠い存在なのだと思ってしまいがちです。この認識は間違っています。

神様から見た真の父母様は余りにも愛が流れる存在です。神様が涙を流して抱きしめたい父母様です。それではノアの時代の人々に対された時の神様の愛は、真の父母様に対する愛に比べたら僅かなのでしょうか。もしそうなら神様の愛は絶対ではないことになります。

 

ノアの時代の人々はサタンに主管されたあまりに可哀そうな子女です。

何とかできないか、洪水を回避できないかと気をもんで休まることがない父母の姿がそこにありました。それで120年間待たれました。しかし悔い改めず悪を行い続ける人間を見た時に、神様は一番したくない洪水を起こさざるを得ませんでした。これがその時に人間に与えられる神様の最上の愛でした。人間には霊人体があるので人間を滅ぼされたわけではありません。死をもって罪を贖い、ノアの摂理に貢献する道を与えられたのです。

人間に死の道を行かせることができる愛を持っておられるのは神様しかいません。一人一人の人間に永遠に責任を持っておられる愛の神様にしかできないことです。

 

神様は父母なので洪水で死んでいく人間を見ながら泣かれました。特に天のお母様は号泣されました。洪水で死んだ人たちは霊界でも恨みに満ちた悪霊となったかもしれません。しかし洪水で死んでいく人たちを見て滝のように涙を流された神様の本当の姿を知った時にすべての恨みが消えてなくなるのです。そのような悪霊、恨霊も神様の愛にふれて号泣するようになるのです。

 

さて、今生きている私たちの場合はどうなのでしょうか。

病気、事故、事件に巻き込まれる、貧困、家族の死、人間関係の軋轢など多くの不幸の中にある方も多いと思います。神様の愛を見出すのが困難な状況です。このような状況の中で、神様が何をしておられるのかを明確に知る必要があります。次のみ言をご覧ください。

 

この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。 「宇宙の根本」 第二章 人間創造と愛の理想の完成 五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる

 

ここには従来の復帰摂理における神様とサタンの立場についての概念をひっくり返すことが書かれています。

このみ言によれば、サタンは神様の決裁を受けなければ何もできないことが分かります。原理結果主管圏である間接主管圏では、神様は人間の成した結果に対して責任を持たれ、その結果に対して必ず役事をされます。これは再創造の役事です。このため必ず愛を中心として役事をされます。

このみ言をみると、サタンは神様の裁可の中でしか悪を行うことができないことが分かります。サタンが神様の許可なく勝手に悪を行うことは決してできないのです。これは復帰摂理を見る時にとても重要な観点です。

堕落後の世界でも神様がすべてに責任を持って復帰摂理をなしてこられました。これが真実です。

 

神様の役事には二種類あることが分かります。それは神様の直接の愛の役事ともう一つは神様がサタンにゴーサインを出して、神様の許可を得てサタンが人間を打つ役事です。サタンの動機は完全に悪でしたが、結果的にみ旨を協助する者だったのです。

今は、サタンは復帰されたので、代わりに悪霊、恨霊、中心霊がその役目を担います。悪霊、恨霊、中心霊は人間を苦しめたいだけの動機で悪を行いますが、悪霊、恨霊、中心霊に許可を出される神様の動機は完全に愛です。これは神様が彼らに命令されるわけではなく、やりたいように放任されるということです。

 

人間のあらゆる思考や行動の結果に責任を持たれる神様です。神様が、私がなした結果に対して責任を持たれたので、今の自分の環境があるのです。その環境は幸福な環境だけではありません。一見すると不幸な環境も神様が悪霊、恨霊、中心霊にやりたいように放任されることで生まれています。

神様はどうしてそのような環境を人間に与えられるのでしょうか?

それは神様が人間を心から愛されることで与えられた環境です。

病気、事故、事件、貧困、家族の死、人間関係の軋轢などは本然の人間には必要ないものですが、堕落した人間を本然に導こうとする場合、絶対に必要なものなのです。

それらの不幸な環境を我慢して受け止めて甘受するだけではなく、その状況を心から感謝して愛する時、そのような環境を与えられた神様の愛とその環境を愛する人間の愛が合わさって再創造の役事が起きるのです。

 

病気、事故、事件、貧困、家族の死、人間関係の軋轢を幸せだと感じる人は皆無に等しいと思います。この他にも不幸なことは数限りなく起こります。戦争に巻きまれる、他国から侵略される、植民地化され奴隷のように扱われるなどもあります。神様は戦争や侵略を回避する道を必ず与えられます。しかし神様が用意された道に従わなければ戦争や侵略が起こります。人間が責任を果たせないで起こったことも神様は最上の愛で責任を持たれます。

 

例を挙げると、第二次世界大戦で数限りない人が死にました。神様はサタン側の国家であるドイツ、日本、イタリアが先に団結して神側国家を攻撃するのを裁可されました。本来ならアメリカ、イギリス、フランスの神側国家が独日伊を愛で屈服できたなら戦争は必要ありませんでした。しかしそれができなかったので、その結果に責任を持たれた神様はサタン勢力が神側国家を攻撃しても良いという裁可を下されました。どれほど苦しい決断だったでしょうか。そして戦争で子女たちが殺しあうのを見つめなければならない神様でした。神様の涙は途切れることがありませんでした。特に天のお母様はどれほど号泣されたでしょうか。

 

この世の中で、子供を幸福にするために兄弟で殺し合いをさせる父母がいるでしょうか?神様が来られた愛の道は人間には到底理解できない道でした。神様のいかれた道はアブラハムのイサク献祭など比較にならない苦痛に満ちていました。神様から心情的に遠い人間同士の殺し合いではありません。あまりにも愛しておられる子女同士の殺し合いなのです。このような心情世界は真の父母様以外には誰もわかりませんでした。人間を凄まじいほどに愛しておられなければけっして決断実行できないことです。神様にとって自分が死ぬほうが楽なのです。神様はご自分を何度も何度も殺して人間に最上の愛を与え続けてこられました。それは人間の堕落を先頭切って蕩減された神様の姿でした。そのような想像を絶する愛を私たちは知りませんでした。

それが分かれば私たちの祈りは全く違うものになるはずです。

 

戦死して霊界に行った霊人は神様に問いかけるでしょう。

「私は神様とイエス様を信じ教会に通い、神様中心の生活をしていました。それなのになぜ私をこのような悲惨な死の道を行かせるようにされたのですか?」

それに対して神様は言葉に詰まってしまわれることでしょう。神様は、その人により良きものを与えられなかった申し訳なさが先立つのです。神様はその人が戦死しないようにすることもできました。しかしそれは最上の愛の道ではなかったのです。真実はその人が歩んだ戦死の道は、神様がその人に与えられた最上の愛だったのです。その人のために身もだえて号泣された天の父母様の姿を知ればその人の恨は完全に溶けるのです。

 

すでに霊界に行った過去の人々が通過していたあらゆる不幸、現在地上で生きている人々が通過しているあらゆる不幸は、神様がその人を懲らしめるためになされたことではありません。事実は全く逆です。

その人、その家庭、その民族、その国家がなしてきた結果に対して責任をもたれ、それに対する最高の愛として現れているのが不幸としか思えない出来事なのです。

 

私たちは霊界に行って「神様、食口としてみ旨の道に来たのになぜ不幸の連続の人生を行くようにされたのですか?」と言ってはならないのです。

私が苦難と苦痛と悲しみの中にある時、その環境を与えられたのは天の父母様です。そして私が苦しむ姿を見て泣かれます。特に天のお母様は号泣されます。私たちはその天の父母様の涙と愛の苦痛を感じる必要があります。

天のお父様の完全な共鳴体が真のお父様です。天のお母様の完全な共鳴体が真のお母様です。天のお母様の愛の苦しみをストレートに感じられる真のお母様は眠れないのです。

地上にいる間に天の父母様と真の父母様の私に対する凄まじい愛の姿を知る必要があるのです。

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