天心苑:重生のみならず養育もなされる場
<誕生と養育>
良い種を植えてもそれで立派に育つとは限りません。
木が幼木の時に傷がつくと成木になっても傷は消えません。
同様のことが人間にも起こります。
人間は植物よりも遥かに繊細です。扱いには細心の注意が必要です。これが養育です。
伝道したり牧会したりする中で、父母の愛を十分に受けて育った人とそうでない人の差はとても大きいことを感じてきました。それで大学の時、心理学をたくさん研究しました。特に、赤ちゃんや幼児、少年少女時代にどれほど親の愛をふんだんに受けたかどうかが人格形成に決定的な差となって現れます。精神的な病は統合失調症、うつ、様々な依存症、強迫性障害、せん妄、摂食障害など多岐にわたります。以前は自分の異常さに気が付いている人が神経症、気付いていない人が精神病と分類されていました。自分の異常さに気付かない人ほど重症とされます。
これらの精神的な病は悪霊の働きが中心です。しかしその悪霊を呼び寄せる傷ができたのは幼い時に受けた愛の傷が大きく関係しています。
こう言うと、自分はその世界とは関係ないと思っている人が多いと思います。ここで堕落性と幼年期について考えてみましょう。次のみ言をご覧ください。
驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本職です。サタンの要素です。それで私たちは驕慢の代わりに謙遜、固執の代わりに和合をしなければなりません。和而有親です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになってこそすべてのことに通じるようになるのです。あの人この人、二人が一つにならなければ大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになるのです。サタンの本質にはねたみと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は私たちには許すことができないものです。「礼節と儀式」第三章 礼拝と教会生活礼節 十 他人との関係 2 他人との人間関係
み言によれば驕慢と固執の反対は謙遜と和合だとあります。どうして謙遜になれず驕慢になるのでしょうか。どうして和合できず固執するのでしょうか。
それは本当に意味で自分に自信がないからであり、自分が価値ある 者と感じていないからです。自分が価値ある存在であると心の底から感じているなら驕慢にはならず自然に謙遜になります。自分が本当に満たされているからです。他の人と比べて自分が上だと感じることで価値を確認する必要がありません。その人の心はどんな人でも受け入れようとするので固執とは無縁です。
普通の人は簡単に傲慢になります。教会でも責任者となると傲慢になろうとする心を主管するのが大変だと思います。長の付く位置を持つことに執着を持っている人は論外だとしても、食口が教会長に侍ることが持ち上げることだと勘違いしている人が多いためです。いわゆる木に登りやすい環境があるのです。
また、自分は驕慢ではない、固執しないと考えている人ほど重症です。気付いている人はまだ軽症だと言えます。
さて、驕慢、固執の原因は遺伝罪的要素や中心霊の仕業が大きいのですが、中心霊を呼び寄せる素地は幼年期に形成される部分が大きいのです。この原因は何でしょうか?
自分が価値あるものと感じられるかどうかは、幼年期にどのような愛を受けたかによって決まる部分が大きいのです。
真の父母様について見てみましょう。
少年時代、七歳前までは、小さな子供が、天を眺めても、地を眺めてもこのように複雑多端な渦中で、私は『なぜ天があり、生きていけないような受難の狭い道に追い立てるのか、この世の中よ!』、そのような議論の果てに、人知れぬ幼いときから、神様がいるということが分かりました。どのように分かったのか? 私の心から、いないという事実を認定できる根源を探す道理がないのです。私の心にささやく言葉を聞いてみても、夜の神様、昼の神様がいて、二人が分立されたその位置において、深い穴を前後に置いて見ながら、内的な神様、外的な神様が相談しながら私を育てたのです。2012年陽暦7月16日韓国・清平の清心平和ワールドセンター
これはお父様の養育についての話でが、お母様やイエス様も同様と考えられます。養育は言葉だけではありません。深い愛の情感を伴っています。人類始祖は神様が父母として愛して養育されます。完全な神様の血統であるだけでなく、神様の完全な愛による養育のよって成長されました。
本然の人間には本然の種だけでなく真の愛による養育が必要なのです。
一方私たちは種も本然ではないし、養育も真の愛によるものではありませんでした。つまり私たちが考える以上に本然の自分と今の自分の落差はあまりにも大きいのです。
真の父母様による重生の仕組みについては「天心苑役事:イエス様誕生と同じ公式で再誕生」をご覧ください。ここでは養育についてお話しします。人類始祖は神様の独り子、独り娘なので神様が直接養育されますが、子孫は真の父母様や完成した父母によって養育されるようになっています。
本然の父母に養育基準とはどんなものなのでしょうか?
子供を教育するのに、自分の息子、娘だけ愛するなと言うのです。世界の人の為の、祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を 懐に抱いてお乳を飲ませる時は、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をやるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいという様に対そうとするのではなく、人の子も自分の子のようだという心情で対する母になるべきです。その様な母のお乳を飲んで育つ赤ん坊達は、必ず偉大な人になるでしょう。すぐには駄目でも、一代、二代を経ていく間、必ずその後孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。「地上生活と霊界」第二章 死と霊界 二 死に対する理解 7 死ぬ前にすべきこと ⑥公的な仕事をせよ
この世でも命がけで子供を愛する母親はたくさんいます。しかし、上記のみ言のように自分の子供だけでなく人の子も同様に愛し、家庭範囲の母ではなく、人類を代表した母として人類を代表した赤ん坊に乳をのませるという心情で対している母親は一人としていないことでしょう。つまり、全人類が本然の養育に必要な真の愛を受けずに育ったということです。これは重要なことです。家庭次元の母の愛によって養育されれば、子供は他の家庭との隔絶感が生じます。民族、国家レベルの母の愛によって養育されれば、他の民族、国家に対して隔絶感を持つ子供に育ちます。このため子女の養育に必要な母の愛は、世界的、天宙的である必要があるのです。
つまり、私たちに必要なのは再誕生だけでなく、再養育が必要なのです。生命が誕生するのに必要な真の愛のみならず、本然の人間として成長するのに必要な真の愛が再投入される必要があるのです。
<再養育の場でもある天心苑>
実体的に赤ちゃんとして再度生まれるのが不可能なように、赤ちゃんから養育し直されることも不可能です。ではどうすれば本然の養育を受けられるのでしょうか?
その答えは宗教的、良心的な霊人のみならず、悪霊、恨霊、中心霊までもが絶対善霊になれる仕組みにあります。
霊人は肉身がないので生力要素を流すことができません。しかし、生力要素があってはじめて復活できるというのが原理です。それでは悪霊、恨霊、中心霊までも復活できる生力要素はどこから来るのでしょうか。
それは肉身を持って完成されたお母様から来ます。お父様が地上におられた時はお父様もその役目をしておられましたが、今はお母様のみがその役目をなされます。数千億に上る霊人に生力要素を与えることは生易しいことではないことは容易に想像できます。
赤ちゃんとして死んで霊界に行った霊人も大人に成長しているという話をお聞きのなっていると思います。天心苑の燃え続けるろうそくの精誠だと説明されたりしますが、事実は真の父母様から流れ出る生力要素をもらって成長したのです。
生力要素は真の愛が形状化したものです。真の愛は自己を犠牲にすることで流れます。神様の天地創造は真の愛によってなされましたが、ご自身の血肉を削ってそれを材料にしてなされました。人類の再養育も再創造の御業なので真の父母様の血肉を削り与えることでなされます。霊的、心情的に鋭い人はお母様がご自身の血肉を削り与えておられるのを感じることができると思います。お父様が聖和される前にお母様に対して何度もすまないと言われたのは、霊人に血肉を削って与える役目をお母様お一人に押し付けることになる申し訳なさを伝えられたことも含まれていると思います。
さて、天心苑では絶対善霊を生み出した恩恵が天心苑徹夜祈祷会に参加している食口に対して与えられています。私たちは成長過程で正しい養育を受けることができなかったので、霊人体の成長が未熟でありいびつになっています。母親が子供に乳を与える時、子供をいとおしく思う愛が生力要素を生み出し、それが赤ちゃんにも流れていきます。それは赤ちゃんの霊人体の成長に決定的な役目を果たします。
復活論にあるように、地上人を協助した霊人にも地上人の生力要素が流れていきます。悪霊が憎しみを動機として与えた苦痛や苦難も地上人が甘受すれば、甘受した地上人から悪霊人に生力要素が流れていきます。このように生力要素は分け与えられるという性質を持っています。この分け与えるという性質が養育において重要な意味を持ちます。特に幼いときは自分が善なることをすることで流れる生力要素はわずかです。それを補うために父母、特に母の生力要素が重要になります。
私達の未熟でいびつな霊人体を修復し成長させてくださるのがお母様の生力要素です。これが天心苑に溢れています。生力要素を頂くためには条件が必要です。霊人が復活するのに必要な生力要素は地上人を協助するということで得られます。私たちが復活するのに必要な生力要素を頂くための条件は天心苑徹夜祈祷に参加して精誠の祈りを捧げることです。それだけです。余りにもわずかな条件です。
天心苑祈祷会に参加して涙を流すほどの恩恵を頂けるのはこの生力要素を頂くからです。お母様の生力要素を頂けば持病が治り、堕落性がなくなり、神様と真の父母様の心情に触れる、真の父母様の夢をみる、あるいは啓示や指示を受け神様と一問一答するなどの現象が起こります。これは一時的現象ではなく生力要素を頂くことで霊人体が本然に近づくここで起こっているのです。
私たちが死んだ状態でいるのは神様と真の父母様の大きな苦痛です。涙で胸がずぶ濡れになるほどだというのです。そして何としても重生させ再養育しようとされるのです。
皆さん一度考えてみて下さい。皆さんが子供を抱いて育てる時子守歌を歌ってあげ、独り言で話しかけ、立派になる事を願うその心は父母ならば誰でももっている事でしょう。いくら甲斐性がなく、足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。「真の家庭」第八章 真なる父母の愛 一 何でも与えたいと思う父母の心
<失われた幼年期の成長に必要な呼名祈祷>
自分は幼年期に十分に成長したので、幼年期をやり直す必要はないと考える方もいると思います。ご自分の今の姿を幼年期のお父様の姿を比べてみてください。
お父様の自叙伝に10歳の時の記述があります。
十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を「本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。十朝鮮里は日本の一里、約四キロメートルに相当する)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。
このお父様のお姿は独生子として生まれた特別な方だからではありません。本然の人間の10歳の時の心霊基準なのです。自分は既にこの基準にあると胸を張って言える人がいるでしょうか。本然の人間と私たちにはいまだに相当の違いがあります。
この幼年期の基準を取り戻してくれるものとしてお母様が与えてくださったのが呼名祈祷です。もちろん呼名祈祷はそれだけの意味ではありません。しかし、失われた幼年期の成長に必要な内容であることは確かだと思います。
一方的に生力要素を与えられる段階から自分でも生力要素を作り出し、それを相手に分け与えることを覚えていきます。本然では幼年期にそれが必要です。それが呼名祈祷の持つ重要な面です。
何度も何度も相手の名前を呼び続けることで心が復活してきます。それは自分の生力要素となってじぶんの霊人体を成長へと導きます。また、その生力要素は相手にも流れていきます。
呼名祈祷はどのようにするのが良いか質問を受けることがあります。私も模索しています。今は仕事の時間も呼名祈祷しており毎日1万回呼名祈祷しています。多ければ良いとは限りません。じっくり一人一人に心情を込めるやり方もあると思います。私は運転中に呼名祈祷することが多いのですが、独りの空間なので指折り数えながらリズムよく片手を振りながら大声で心情を込めてやっています。(片手運転で呼名するのは危ない部分もあるので、安全に運転できない方にはお勧めできません。)
また、怨讐を呼名に入れることはとてもおすすめです。お母様の鈴木エイト氏のことを1000回呼名しなさいと言われています。それで大きな恩恵を受けられた方もいます。愛せない人、害や苦難を与える人は自分にとって特に重要な人です。自分の復活には不可欠な人だということが分かってきます。恩恵をより多くもたらしてくれるのは怨讐なのです。愛をもって呼名祈祷することが事態を解決するカギです。
私はワンオンマと10回呼名するごとにサランヘヨや愛していますと叫んでいます。ワンアッパ、孝進ニム、興進ニム、大母ニムの時も同様です。鈴木エイト氏の時もサランヘヨや愛しているよと叫んでいます。
これは誰を呼名するのかを含めてベストのやり方かは分かりませんが、様々挑戦してみてください。乗って来ると楽しくなります。そして生力要素が強く流れると思います。