top of page

天苑宮入宮式が延期された根本理由と私達の使命

今回、天苑宮入宮式の延期が決定されました。

これは突発的に起こったことではなく、お父様の聖和とお母様の侍墓路程の恩恵を受けても変革できず、天の願いに対応できないままずるずると来てしまった私たちが引き起こした結果です。この間、コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻、安倍元首相の暗殺など私達長子の代わりに次子圏が蕩減を払いました。これらのことはすべて長子である私達の責任未完遂が原因で起こりましたが、私たちはそれを全面的に自分たちの責任として捉えることができず、悔い改めませんでした。

 

特に天苑宮入宮式には絶対的に必要なことがあります。それができていないので2年間も延長してしまったのです。その原因は今回、お母様が述べられたように主権が復帰されていないからです。私たちが失敗の沼から抜け出し、主権復帰を実現するためには何が足りないのか、何をすべきなのかを突き詰めていく必要があります。それが何であるのか、この章で述べて参ります。

 

これを明らかにするにあたって、重要な観点があります。入宮式が延期されるという汚点の原因を指導者や組織のせいにするのは、それ自体がまた過ちの繰り返しになるということです。私達食口、祝福家庭は一家庭であり兄弟姉妹です。人のせいにすること自体が本然の姿とは程遠いのです。何かまずいことが起これば全体の責任であり、私が背負うべきなのです。途中厳しい意見も述べますがこの観点で捉えてくださいますようお願いします。

 

<神様の愛が分からない私達>

 

私達は神様の愛について、この世界に現れる慣れ親しんだ愛から類推しています。

厳しい状況でも信仰を貫いたら思わぬ実績をあげることができた、必死に精誠を積んでいたら病気が治っていた、祈りの条件を積み重ねたら用意された人に出会った、などを神様の愛と感じる場合がほとんどだと思います。こういった内容が証しとして伝わってきます。

しかし、これらの恩恵を毎日のように感じている方はおられるでしょうか?

 

これらは神様の基本愛である性相愛というよりも形状愛と言った方が良いものです。こういった愛は神様の愛の中心ではないため時々にしか現れません。このため、神様の愛は時々しかやってこないという認識になります。これは時々オアシス、ほとんど砂漠地帯という状況です。信仰生活は砂漠を行く流浪生活となります。

オアシス.jpg

神様との生活とは、特別な恩恵の御業を感じたとか、啓示や一問一答や黙示などのことではありません。時々しか神様の愛を感じない状態では神様に侍ること、すなわち神様と生活することはできません。なぜなら家庭生活では毎日のように父母の愛に触れるのが日常だからです。何か月に一度とか何年に一度しか父母の愛に触れられないとすれば、父母に侍ることは困難です。

 

私達は神様の愛についてこの世界に現象化している愛と同じ様に捉えていました。

間接主管圏なので神様は人間を愛したくても愛することができない、それが神様の愛の本質だと思ってきました。もちろんそういう面はありますが、正解とは言えません。

実は間接主管圏でも責任分担に干渉されないだけで、神様の愛は溢れています。驚くほどに愛が溢れています。人間がその愛に気付かないだけなのです。

これほど悲惨な無知があるでしょうか?

これは一種の飢餓状態です。カレー、卵焼き、サラダなどの一般的な食べ物が時々しか食べられないとすれば飢餓に陥ります。しかし、もっと美味しい食べ物や飲み物が、見えないだけで食べきれないほど与えてくださっているのです。それに気付かないのでいつも飢えているのです。そんな飢えた状態では自分を犠牲にして他の人のために生きるというのはとても難しいことです。真の愛で愛する重要さは分かっても愛する気にならないのです。それが今の私達の姿ではないでしょうか。

 

<間接主管圏と侍義>

 

間接主管権は信仰の時代だけではなく、信仰の上の段階があります。侍って義とされる段階です。この段階は真の父母様に侍る時代だと思っている方が多いのですが、神様王権即位式のみ言にあるように侍義とは神様に侍る時代なのです。

 

死のうと生きようと、天のお父様のために生きなければなりません。すべて蕩減過程を経てきて、真の父母のために生きるという言葉も必要ありません。真の父母も必要ないというのです。・・・・

本然の真の父母の苦労を崇拝するよりも、真の父母が苦労して成し遂げたものまでもすべて踏んで上がり、真の父母がいなく、神様だけが真の父母の位置にいらっしゃったその位置を追求することによって、皆さんが祝福の中心家庭誰々の名によって報告することができるようになったという事実を知らなければなりません。 神様王権即位式 2.祝福の中心家庭、自分の名によって祈祷する時代

 

侍るとは仕えるという意味ではなく共に生活するという意味です。

私たち食口の中に、自分は神様と生活していると感じている人はいるのでしょうか?

これはとても深刻な問題なのです。

真の父母様のみ旨を行うことはとても大事なことです。しかしそれと同じくらい神様と生活するということが大事なのです。また、復帰摂理歴史を見ると行義や信義は、とにかく行いとにかく信じるという、やらなければならないという感がとても強い段階です。苦痛や我慢が多くあろうともやり遂げねばならないという姿勢です。

 

この延長上で侍義を考えている人が多いのではないでしょうか。ですから、侍義は真の父母様の願われる万物復帰、伝道実績などにおいて苦痛や忍耐が多くあろうとも、それが侍義なので必ずやり遂げねばならないという悲壮な姿が多くみられます。

この姿を見て外部の人が教会に行きたいと思うでしょうか?

 

真の父母様は苦痛に満ちて万物を捧げ忍耐の教会生活をする私達をご覧になって、そこまで頑張ってくれるかと喜ばれるでしょか?

 

日本が捧げる万物がなければ世界の摂理は止まってしまう。何が何でもやるんだというのが信仰の神髄だと信じて進んでいます。その姿はとても尊いです。

でも、それが真の父母様が一番に願っておられることなのでしょうか?

このような我慢して忍耐して続ける信仰生活が本当の信仰生活なのでしょうか?

私達は枕詞のように勝利された万王の王、真の父母様と言って祈り始めますが、真の父母様の勝利はこの程度のものなのでしょうか?

喜んでいない食口があまりに多いのです。暗い表情の人が多いのです。

これでは運勢が来るはずはないのです。万物も人も来たくなくなります。

 

分派に行った人を非難し、反対弁護士や反対勢力と対立し戦うのは天が喜ばれることなのでしょうか?これは私達に情的な余裕がないことがもたらしていることです。許す余裕がないのです。情的に満たされていないので許せないのです。

分派に走った人や反対勢力も私達の兄弟姉妹ではないのですか?

これは私達の愛の範囲が狭い証拠です。真の愛の範囲は天宙です。しかし実際は、教会内の人や賛同的な人以外は愛せないのです。

家庭盟誓の四番で「天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天の父母様の創造理想である天宙大家族を形成し、自由と平和と統一と幸福の世界を完成することをお誓い致します。」と唱えるのとは真逆の行動です。私たちは冷静に自分を振り返る必要があります。私達は本気で天宙全体を天国にする気があるのでしょうか?

 

<心霊と知能に伴って理解できるみ言が違う---ご父母様のみ言が分からない深刻さ>

 

これは終末論 第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢(一)終末と新しい真理、を見ると分かります。多くの食口の方々は原理講論が真理の骨であると考えています。原理講論を最終的な真理の書だと思っているからです。果たしてそうなのでしょうか。

 

イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。

 

イエス様が語りたかったのに語れなかった理由は、弟子たちが受け入れる器がなかったからです。その器とは心霊と知能の基準のことです。神様は神霊と真理によって人間の心霊と知能を啓発してこられました。これには適合する基準があります。人間の心霊と知能を遥かに超えるような神霊と真理を与えてもダメなのです。基準が高すぎる神霊や真理は人間の心霊と知能が受け止められないばかりか、かえって不信したり反発したりしてしまうのです。それでイエス様は語るに語れなかったのです。

イエス様が言うに言えなかったみ言を体系化したが原理講論だと言えます。

それは次のみ言を読むと分かります。

 

皆さんが分かる原理を教える程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。

祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 「祝福の意義と価値」第四節 祝福を受けるための蕩減条件

 

皆さんが分かる原理とは原理講論のみ言のことだと分かります。

それでは先生の原理とは何でしょうか?

それは原理講論が発表された以後のみ言ということになります。

それでは真の父母様は、私たち食口はご父母様のみ言を分かっていると思っておられたのでしょうか。人と話してみれば分かることですが、相手の反応を見れば話が分かったかどうかを知ることができるものです。ましてご父母様は当然のことながら知っておられました。次のみ言をご覧ください。

 

わたしは63年も説教して来ているが、誰も私の語る言葉を理解することができない。2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会

 

事実は、少なくとも2011年9月14日というご父母様の聖和の一年前においては、誰一人として真の父母様のみ言を理解している者はいなかったということです。そしてこの状況は現在も大差ありません。皆様は教会の指導者からの説教や解説の中で、ご父母様のみ言の核心をついていると思えるような話を聞いたことがありますか?

また、先輩家庭や他の食口からそのような話を聞いたことがありますか?

これは指導者や先輩家庭だけの問題ではありません。私達全員がご父母様のみ言に相対できていないのです。原理の書である原理講論には相対できるのですが、真の愛のみ言には相対できないでいるのが現状です。

 

このように、ご父母様のみ言を理解する者が一人もいない状況で、基元節実現に貢献できた食口がいるはずもないのです。このことはとても深刻な問題ですが、私たちは感覚がマヒしてしまっていてやり過ごしてしまっているのです。これでお母様のみ旨に相対し御心を実現できるのでしょうか?

実現できるとすれば、基元節を真のお父様が命を捧げて実現されたように、このままではお母様が命を犠牲にされることしか道がない可能性があるのです。

天苑宮入宮が2025年に延長されたことは相当深刻なことです。この蕩減のためにお母様はどれほど深刻でしょうか。

 

原理講論の次の段階として真の父母様が語られたみ言には神様の恨、夜の神様と昼の神様、真の愛、絶対信仰、絶対愛、絶対服従、神様と人間の結婚などの内容があります。これらについてのみ言とそのみ言を実体として歩まれた真の父母様の路程について、真の父母様は誰一人として理解できないと嘆かれたのです。

 

それではこれらのみ言について分からなくても良いのでしょうか?

分からなくてもとにかく信じて従えば良いと考える方もおられると思います。

行義や信義の時代ならそれで良かったのですが、今は明らかに侍義の時代です。侍義の時代は真の父母様、とりわけ天の父母様と共に生活する時代です。何も分からないけれども、とにかく信じ従うのは信義です。しかし、それでは侍義のレベルとは言えないのです。これでは天寶時代において私達に任された責任を全うすることは到底できないことです。

 

<性相愛を感じることで侍義が始まる>

 

神様は性相であり、人間は神様の形状であるという創造原理の基本によって全てが解けるようになっています。何故なら、神様の中心は真の愛であり、その愛が最も強く流れる関係が性相と形状だからです。

性相と形状という概念は一見簡単に理解できるように思うのですが、実際は余りに奥が深いのです。私たち人間は形状なので、神様を知ろうとすれば、形状から性相を見ることになります。

人間から見て、神様は性相なので神様と神様の御業は見えません。余りにも原因過ぎて気が付かないのです。

 

これは何を意味するかと言いますと、私たちが日常生活の中で感じていることの原因が神様からの働きかけなのですが、人間は日常生活の背後に神様がいることが全く分からないのです。日常生活の95%は神様によって成立しているのですが、私たちは表面的な5%の部分しか認識できていないのです。

 

私は真の父母様のみ言を研究する中でこのあまりに重大な事実に気づきました。私たちが日常生活で感じていることは当たり前ではなく、天地創造以前の気の遠くなるほどの長い時間と精誠を尽くされた創造の賜物を相続して頂くことで初めて可能になっているのです。

この内容はクオリア論で繰り返し述べてきましたが、クオリアという言葉はみ言には出てきません。原理的に表現すれば性相論というのが正しいと思います。

これを理解できる食口は余りに少数なのです。これを理解してもらえるように説明するにはどうしたらよいか?私の大きく深い悩みです。

 

一方、それが分かったからと言って信仰には関係ないことだ、そんなことは専門家に任せておけば良い、今の摂理に何の関係があるのか、と思われる方も多いと思います。

 

私がそこにこだわる理由は、性相論(クオリア論)は一部の専門家が知れば良いことではなく、侍義時代に生きる私達の信仰生活に一番大切なものだと確信するからです。

侍義時代は神様に侍る時代のことを言います。侍義とは真の父母様に侍って終わりではなく、神様に侍ることが目的です。すなわち神様と生活することが侍義の目的なのです。

父母である神様の子供として生きる時代なのです。父母と共に生きるには、父母の愛を実感していないとできるはずもありません。

愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。「真の愛」第二章 愛の実際 一 神様の愛 1.愛は神様から始まる

神様と人間の本然の授受作用.jpg

侍義時代の目的は神様との家庭生活を始めるための前段階の準備を整えることです。

上図は神様と人間が愛を自由に授受する本然の家庭生活を表わしています。

 

人間が責任分担を完遂して神様と対等な立場に立とうとするのは、真の愛を授受するために、対等な愛を与えるためであり、同じ愛を授受するためです。互いに同じ立場で中心になり、同じ立場で授受するというのです。それを知らなければなりません。「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠 二 人間に責任分担がある 1.責任分担を下さった理由

 

このような状態を実現するためには完全な授受作用が必要です。この授受作用においては初めに神様から人間への愛が前提となります。人間は神様からの愛を受けて初めて神様の愛を知り、実感することで徐々に神様を愛せるようになるのです。これを表わしたのが下図です。このように侍義時代は蕩減復帰の最終段階であると同時に本然の親子生活を始めるための最終的な準備期間でもあるのです。

神様と人間の本然の授受作用 途上.jpg

この観点でもう一度上記のみ言をご覧ください。

真の愛を授受するために、対等な愛を与えるためであり、同じ愛を授受するためです。」

神様と人間が授受するのは、対等の愛であり同じ愛だとあります。

神様と同じ愛を授受するためには、神様の愛について知り、体恤することが絶対的に必要なことなのです。これは私たちが知っている形状愛はもちろんですが、神様の愛である性相愛について知り、体恤することが必須であることを意味しています。

神様の性相愛について知り、学び、体恤することが侍義時代を全うするために不可欠なことなのです。

 

性相愛の中心部には性相的な父母の愛、性相的な夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛があります。その外側には性相的な愛によって創造された被造物があります。それがクオリア(質感、情感)です。クオリアは神様の性相的な愛について知り、学び、体恤するための入り口であり基礎となるのです。

今の私達の状態は、神様から性相的な愛を浴びるほど受けているのに、それが分からないので一方通行の状態です。本当は美味しい食べ物や飲み物が溢れているのに、それに気付かず勝手に砂漠にしているのです。これでは授受作用の回路は永遠に完成しません。神様からの性相的な愛を感じるという第一歩がないので、このままでは完成への道はないのです。

神様と人間の本然の授受作用 不完全.jpg

そしてもう一つの基礎となることは、夜の神様、昼の神様について知ることです。これはクオリア論と密接に関係しています。

ご父母様のみ言において夜の神様、昼の神様はとても重要な位置を占めています。このみ言は天地創造以前の性相世界の創造を述べた内容です。このため、これを分からないままにしては侍義は始まりません。神様の性相愛について知る最高の教科書となる内容なのです。

私達は祈りの中で万王の王天の父母様と呼びかけます。

万王の王天の父母様とは、性相である夜の神様と形状である昼の神様が一体となることで、勝利され完成された神様となられたことを指す言葉です。

 

教会の中で夜の神様、昼の神様について語られるのを聞いたことがおありでしょうか?

これは誰かを責めるために言っているのではありません。これが今の私達の実力なのです。

日々流れてくるご父母様のみ言、摂理的願いに相対することは一番重要です。しかしそれと同時に長期的、基本的な観点を忘れてはならないのです。基本ができてなくて今のお母様の摂理に相対しようとすれば砂漠流浪生活になるだけです。

長期的、基本的な観点とは、私たちが侍義生活をしているのかということであり、神様との生活を始めるのに相応しい自分、家庭、教会となっているかということです。短期的になすべき事と基本的、長期的になすべき事の両方が必要です。しかし、今の状態はあまりに近視眼的になっていると思われませんか?

 

以上の観点から見る時、私達食口の誰一人として侍義の段階に入っていないという深刻な現実に直面します

 

神様の愛は性相愛です。そしてそれは余りにもふんだんに注がれています。その愛を知らずいて先には進めないのです。その愛を知らずして真の愛で人を愛することはできません。これは今のままでは天国はできないことを意味します。

性相愛を知ればその愛が神様の命を削って与えられているものだと分かります。

神様の命がけの愛を知らなければ、神様と人を命がけで愛することはできません。

これが私達の一番の課題です。重要なのは方法論や戦略戦術あるいは法的闘争や言論闘争でもありません。命を懸けて神様と父母様と人を愛する愛の勇士がいないことです。敵を作って戦うやり方は行義、信義時代での話です。今は人類兄弟姉妹を実現する時です。敵をも兄弟として愛する命を顧みない愛が必要なのです。

摂理の最終ラインを突破するのはもちろんお金ではありません。命がけの愛のみがこの一線を突破できます。

この愛の剣を手に入れて、ヨシュアに従った内的イスラエル以上の基準と証しを立てるのは今です。

 

<天苑宮入宮が延期された理由と私達のやるべきこと>

 

入宮式ができなかったのは外的にはお金の不足であり、国家が復帰できていないからです。しかし、とにかくお金、とにかく主権復帰という外的な方向行けば結果は付いてきません。

天苑宮は、神様が人間世界に下りてこられて共に住まれるという黙示録21章3-4の預言の実現です。

 

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」

 

天苑宮は天一国の市民を主管する行政機関ですが、そこには天一聖殿があって、そこに神様が天正宮から下りてこられます。天苑宮は単なる建築物ではなく、神様が人間と生活する時代の幕開けを告げるものです。これは人類が待ちに待った天国の出発を宣言するものです。

このような歴史的な入宮式を迎えられない根本原因は、私たちが神様と生活する準備ができていないことにあります。つまり、私達が侍義生活をする基準にないことが真の原因なのです。

 

2025年まで時間がありません。これ以上延期することはできません。

しかし近視眼的にならず、急がば回れというのが正解です。何円お金を復帰した、何人会員が増えたというような外的な目標を追いかけると泥沼にはまります。見えない実績が重要です。教会おいて食口がどれほど復活しているか、幸せか、喜びの生活をしているか、伝道の情熱が溢れているか、という見えない実績で測るべきです。なぜならそれが神様と真の父母様の観点であり、それこそが国家を復帰できる原動力だからです。地上人も霊人も万物も喜びと幸せに満ちている所に来たがります。この世界の最強の力は愛です。真の愛という最強の武器を用いずしては天の願いに応えることはできません。

 

私達が神様と生活して神様の愛を日常生活の中で感じることができるかが、2025年までに主権を復帰して、天苑宮の入宮式ができるかのカギを握ります。この重要性が分かる方からいち早く侍義生活を始めてください。そのために神様の性相愛を知り、その愛をふんだんに浴びて愛に酔っていただくことが急務です。

bottom of page