衝撃の神観 衝撃の人間観
2023年4月7日(天一国11年閏2月17日)の早朝の起きがけに、とても重要な内容を与えられました。それは、すべての人間が神様の意識の中に入れてもらっているという内容です。これは私が書いた本ホームページの内容を統合しさらに先に進める内容だと思いました。そして、真の愛を中心として神様と人間、宗教と科学を統一し、認識論の謎を解き、人類一家族世界を実現する強力な理論体系となると確信しています。この恩恵を皆様と分かち合いましょう!
さて、この章で最初に述べたいことは、一見神様の愛が感じられない、原理だけが支配するように感じてしまう間接主管圏は、実は神様の愛が驚くほどに満ち溢れた世界だということです。(これに伴い、過去の投稿で修正を余儀なくされる部分がありますが、多岐に渡るためこのままにしておこうと思います。)
これは私達の信仰生活に革命的な変化をもたらしてくれると思います。私から皆様への最上の贈り物だと感じています。
原理講論には間接主管圏について「被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。」とあります。
私たちはこの記述に従って、間接主管圏は責任分担があるため、基本的に神様が愛を与えることができない世界であり、直接主管圏に入って初めて神様の愛に触れることができると考えてきたと思います。
これは、今は神様の愛が与えられない責任分担期間なので、神様の愛がない状態でも我慢しよう、我慢に我慢した先には待望の神様の愛にやっと出会える時がやって来る、という信仰観ではないでしょうか?
これは余りに辛く寂しい神観です。このような辛く寂しい信仰生活において教会の兄弟姉妹や世の中の人々をどうやって愛せるのでしょうか?
原理という真理は知っているのに愛は知らない人、これは一番厄介な人です。真理は知識の一種でもあります。み言によれば知識が増えれば傲慢になりやすくなります。
知識について行く人も、永生の道を行く事はできません。知識に、学問に、永生が何処にありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢になるのです。驕慢の主人が、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです。
「人間の生と霊魂の世界」第一章 人生の行くべき道 四 天国に入る秘訣 7「為」に生きれば天国に行く
真理を知っている上に愛が分からないとなると、自分は絶対的に正しく、相手や世間が間違っている、これを正さなければならないという方向に行きます。今までの教会や私達の姿がこれではないでしょうか?これは真の父母様のお姿とは真逆です。
愛の砂漠状態が解決しないと私達の心にもこの世の人々の中にも天国はやってきません。
真の父母様はこのことを良く分かっておられたので、原理講論を発表された後に直ぐに真の愛について語り始められました。この世界にいかに神様の愛が注がれているかを語られましたが、私たち食口は良く分かっていませんでした。要するに愛が分からない状態が続いているのです。
間接主管圏に絶えず注がれる神様の愛は有るのか、それとも無いのか、皆様もここで検証してみてください。これは信仰生活の根幹をなす問題です。
それでは始めましょう。
人間世界では人と親しくなり友人となれば家に上げてもらえます。食事をふるまってもらえるかもしれません。しかし、その友人にあなたの心(意識)の中に入らせてほしいと言えば、相手は戸惑うでしょう。しかしこれはあり得ないことを言っているのではありません。
霊界での夫婦の姿を述べられた下記のみ言によれば、夫をよく見るとその中には妻がいて、妻をよく見るとその中に夫がいることが分かります。霊界では完成した夫と妻は一体ですが、それぞれの個性が失われたわけではありません。夫の心は妻の住まいであり、妻の心は夫の住まいなのです。
霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になる事ができるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば男性が入っています。夫が入っているのです。神様の二性性相とちょうど同じです。・・・・・結局、終着点では神様のようになるのです。
「人間の生と霊魂の世界」第二章 霊界はどのような所か 一 霊界の実相と法度 4.霊人達の生、霊人達の相互関係
また、次のみ言をご覧ください。
皆さんは、皆さんが持っている理念や、皆さんが暮らしている生活環境において、隣人をどれくらい同参(一緒に参加すること)させることができ、この民族とこの世界を、どれほどを引き入れることができますか。皆さんの心は大きいのですが、その心の中に自分の一つの体を入れることができない堕落した人間です。皆さんの心は、天地を抱き、神様までも抱いて安息させて差し上げようとします。それにもかかわらず、皆さんは、自分の一つの体を征服できずに、あえいでいるのです。第八編 信仰生活と修練 第二章 第二節8 P858 1959.11.1
堕落した人間は、本当は自分が好きではありません。良心の願う自分とは真逆だからです。家族は好きだとしても他人、社会や国、世界には嫌いな部分が多くあります。これは自分の心から見ると、自分の心に自分も他人も入れないことを意味しています。家族や仲間は自分の心に入れることはあっても、初対面の人、そりが合わない人、自分に反対する人、意見の違う人、堕落性が気に障る人などを自分の心に入れてあげないのです。これは私たちがやってきた間違いであり、それに気付かず今も続けている罪です。人を自分の心に入れてあげないともっと自分が嫌になります。
ご父母様や神様はどうなのでしょうか?
ご父母様は怨讐中の怨讐である金日成すらも心に入れられたのです。神様はすべての人間を心に受け入れられます。これはすべての人を愛しているのと同じ意味です。
自分のことを好いてくれている、受け入れてくれていると分かれば、自分も相手を好きになるのです。神様や父母様が私達を心に入れてくださるので私達も神様と父母様が好きなのです。
さて、本題はここからです。
神様はすべての人を好きだということ、つまり善人も悪人も全ての人間を心に入れてくださっているという根拠があるのです。
神様はご自身の心(意識)に全ての人間が入ることを許されています。人間の側から見ると、すべての人間は既に神様の意識に入って暮らしているということです。これは、私が以前から述べている、神様がご自身の意識を被造物に浸透させておられるという表現よりも更に深い世界です。これが分かることで神様に対する侍義生活が始まります。これは神様と生活しているという実感が明確にある世界です。
反対にこれが分からなければ神様に侍る生活、すなわち神様と共に生活するという実感が持てるはずがないと思います。
真の父母様やイエス様はこの感覚を当たり前のように感じておられます。
この世の中で、いくら子供が好きな親でも、自分の心(意識)の中に子供を入れてあげようと思うことは一時的ならあるでしょうが、常時そうしようとまで思う親はいません。自分だけしか入れない心の領域があります。
しかし神様は私達人間を過去から未来まで永遠にご自身の心(意識)に入れてくださいます。神様の愛と神様の心の広さは想像を超えるのです。その愛は正に真の愛です。
神様は時空を超えて偏在される絶対者であり、悪なるものに対しては断固たる処罰を与えられるというのが今までの中心的な神観だったと思います。堕落人間は近づくのも恐れ多い存在という神観です。しかし実際の神様は堕落人間でもご自身の心(意識)に入れてくださっていたという誰も知らなかった真の愛の神様の姿があったのです。
なぜそれが分かるかと言えば、神様の意識に入れてもらえなければ、私達人間は何も見えないし、何も聞こえないし、何の味も、何の香りも、何の感触も感じられないのです。
また、知情意の能力もありません。愛することもできません。これは後程ご説明します。
神様が怨讐サタンの子女である堕落人間という怨讐をご自身の心(意識)に入れ続けてくださっていたという驚くべき愛の事実。人間は知らなかったとはいえ、神様の心(意識)に居させてもらっているにもかかわらず神様を信じる人も、信じない人も悪を行い続けてきたのです。神様の心(意識)の中にいる人間が悪を行えば、その苦痛は神様に余りにダイレクトに伝わります。神様はその苦痛を我慢し続けてこられました。神様にとって苦痛を与える堕落人間を神様の心(意識)から吐き出す事は簡単なことでしたが、そうされませんでした。真の愛を貫かれたのです。
皆さんの中には、人間が神様の心(意識)の中で生活していると聞いた時、その通りだと実感を持って素直に思う方もいると思います。そのような方が本当に神様に近い方です。
しかし私を含めてほとんどの方は理論的な証拠が必要だと思います。
これからじっくりと論理的に述べていきますので、忍耐強くお付き合い願います。
神様の心(意識)の中に私たちが招待されており、私たちは既に神様の心(意識)の中で生活しているという衝撃的な事実
これが体感できると私が神様の意識に入ることが許されるほどに深く愛されていることが良く分かってきます。私が感じるあらゆる感覚が神様の心(意識)に入らせてもらっていることで享受できていることが分かります。そして、他の人も神様の心(意識)に入場を許されている存在だと実感できます。神様は殺人者でも強盗でも共産主義者でもすべて心(意識)に入れておられるのです。このためすべての人類が天の父母様の愛に抱かれている同じ兄弟姉妹だと体感できるのです。神様の愛のもとにある真の兄弟だと感じれば、すべての人を自分の心に入れてあげたい気持ちが自然に湧いてきます。神様の心に入れてもらえたという実感は他の人を自分の心に入れたいという気持ちにさせます。そこに妬み、嫉妬、猜疑心、不信感、優越感、劣等感、排斥したい気持ち、血気、淫乱の思い、責任転嫁、自己正当化などの堕落性が入り込むことはできません。
本題に戻ると、私たち人間が神様の意識の中に入れてもらって暮らしているという証拠は愛の観点から見つけることができます。
神様が創造理想の愛のために天地を造られたのですが、その愛の対象が人間です。皆さんは、愛の対象が自分より優れていることを願うでしょう? そう願うでしょう? 何千倍ですか。「千倍を願うか、万倍を願うか」と尋ねれば、「万倍を願います」と言うのです。「万倍、十万倍か」と尋ねれば、「十万倍です。億万倍です」と答えるのです。「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 三 神人愛一体と愛の理想完成 2神人愛理想の根本原理 ② 神人一体の拠点
愛の対象が自分より優れていることを願うのは何故なのでしょうか?
それは自分より優れていればいるほど対象に愛が流れるからです。好きだ!が好きだ‼になるのです。
しかし、作者と作品という関係の場合、作品が作者を超えることはありません。どんなに作品が素晴らしくても作者以上にはなれません。モナ・リザがいくら歴史的な最高傑作であろうとダ・ヴィンチを超えることはできません。
ミケランジェロのアダムの創造の絵にあるような、神様と人間を分離するような創造のやり方では、アダムが神様より優れるようにすることはできません。
神様はどのようにしてこの難問を解決されたのでしょうか?
それは一つには神様の愛の性質、すなわち愛を与えて忘れるという世界によって実現します。
「愛の相手が自分より優れるのを願い、息子が自分より優れるのを願う、その原則を成すためには、神様もご自分以上投入されなければならないので、投入して忘れなくては、自分以上投入する道がないために、真の愛の道を、与えて忘れる道を行かなければなりません。」「真の父母」第八章「三大主体思想」と「真の父母」宣布 三 「真の父母宣布」と王権 3 王権復帰
それに加えて次のことが不可欠です。それが今回お伝えしたかったこと、すなわち、ご自分の心(意識)の中に人間を入れてあげることです。神様の意識の中に入れてあげることで、ご自分の意識の持っている機能を人間にそのまま相続してあげることができるのです。神様の意識の機能は余りにも超越的に優れているので、いくら神様でもそれを人間自体の中に全て埋めこんで創造することは不可能だと思います。人間が神様と同等の意識作用を持つには、神様の意識の中で生活する以外の道はありません。
可愛くて目に入れても痛くないという言葉がありますが、ご自分の意識に人間を入れてあげるというのはそれを遥かに超える愛の世界です。
神様の意識の中に入れてもらえるなどということがあるのだろうか?と思われる方がいるのは当然です。人間は神様の意識の中で既に生活しています。人間の意識で感じることは日常的なので、それが神様の意識の中で暮らしていることで初めて実現していることが分からなくなったのです。これが堕落した人間の無知の中でも最大の無知だと思います。またこれ以上の情的感覚が破壊させた状態はありません。人間は神様が分からなくなりました。これは堕落の恐ろしさです。人間は絶望的なほどに無知になったばかりでなく、神様の愛が絶望的なほどに分からなくなってしまいました。
一方、人間にとって神様の意識の中にいることは分からなくても、その恩恵は当たり前のことになっていて特別なことと感じなくなっています。例えば、毎日最高の食事が自動的に与えられているとすると、それは魔法のようなことなのですが、それに慣れてしまうとそれが当たり前になってしまって魔法には気付かないということが起きます。意識やクオリア(意識に上る質感、情感)についての現象が正にこれに当たります。私たちは神様の意識の中で生活しているのですが、それがあまりに普通になっているので無知や無情緒から抜け出せないでいます。
ですので、このクオリア(意識に上る質感、情感)について知ることが人間が神様の意識の中で暮らしていることが分かる決定的な証拠となります。
私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだという観が決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。「礼節と儀式 」第一章 神様に対して侍る礼法 一 神様に侍って生きるべし 2.一体となった生活をしなければならない
本然の人間では成長するにつれて神様の意識の中で暮らしていることで起きていることだと分かって来るのですが、私たちは心霊基準が十分ではないので、この魔法がとけて、神様の働きが分かるためにはどうしても詳しい説明が必要になります。このためこの部分の理解を助けてくれる「全人類が神様の意識の中で生活する人類一家族世界」を追加しました。これをお読みくださることで腑に落ちる方が多いと思います。下記にリンクした内容をお読みの上でもう一度ここにお戻りくださるのが最良だと思います。「全人類が神様の意識の中で生活する人類一家族世界」の最後にリンクを張ってあるので下にある第2部の所に簡単に戻れます。
これまでお話ししてきたのは神様の中に私が住んでいるという世界でした。完全一体化している状態は、夫と妻の例にあるように、夫の中に妻が住んでいる同時に妻の中に夫が住んでいる状態です。神様と人間も完全一体化する時、同じことが起こります。先に人間が神様の意識の中で生活することがあって、次に人間の中に神様が住まれるという順番です。これは既に述べて神様の心の中に人間が住んでいるということの証拠にもなります。
神人一体化とは、神様の中に人間が住んでいると同時に人間の中に神様が住んでいるという状態が起こるのです。正確に言えば、神様の中で人間が生活しているという体感があって、その体感の中で成長していくと、次第に神様が人間の中に住まれる状態がだんだんと強まってきます。神様には人間を初めすべての被造物をご自身の心にお入れになるというお姿と、一人一人の人間の中にお住まいになるという二つのお姿があるのです。
上図の左の部分については述べましたが、次は右の部分です。これについては「玉座の神様と人間としての神様」において述べましたが、内容をより分かりやすくバージョンアップしてここに記します。
神様がなぜアダムとエバを造ったのか分かりますか。神様も父母の立場で息子、娘を愛する愛を一度もってみたいというのです。その次はアダムとエバのように新郎新婦が愛する愛、その愛を一度体験してみたいというのです。おじいさんの愛、その次は国を一度愛してみたいし、世界を一度愛してみたいし、みなもちたいのです。「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠 二 人間に責任分担がある 1.責任分担を下さった理由
人間の内に住まわれる神様は眺める神様ではなく、ご自身の愛による愛の当事者の神様です。アダムとしての人生を生きる神様であり、エバとしての人生を生きる神様であり、人間一人一人としての人生を生きる神様です。
神様にとって大きな問題は、愛の対象が自体内にある場合は流れる愛は観念的傾向を持ち、強い愛にはなり得ないことです。大きな喜びを得るためには対象は自分とは完全に独立して外部にある必要があります。
しかし神様から見ると、被造物は神様に対して完全に独立的とは言えません。
私たち人間で言うならば、内臓などの器官や細胞に対する感覚に似ていると思います。内臓や細胞は自分の中にありますが意識とは独立的に動いています。しかし、人間と完全に独立しているわけではなく自体内にあります。
一方、人間や天使はどうでしょうか。
人間や天使は神様とは独立しているという意識がはっきりあります。また、自分から見て親も兄弟も相対者も万物も世界もすべて独立して存在しています。
私たちは人と接したり万物と接したりする中で、自分とは独立した存在から得られる強い刺激を感じていますが、それは当たり前のようにあることなので特段すごいこととは思わないで生活しています。
しかし、神様から見れば、この感覚を求めて創造の御業を成してこられたと言っても過言ではありません。神様が求めてやまなかった事は、自分とは独立した存在と、意識をもって授受する刺激的な喜びを味わうことです。この刺激的な愛の喜びをご自分が味わうより先に人間や万物に与えられたと言えます。
それでは神様はどのようにしてこの喜びを味わおうとされたのでしょうか。全知全能の神様からすると被造物のすべてがあからさまに全て分かります。これは素晴らしいことである一方、被造物は神様の中にあるため、神様から独立した神秘的な存在にはなり得ません。
この難問を解く方法は一つしかありません。
それは完成した人間と一体化、同化することです。全知全能ではなく限られた能力と力しか持たないけれども、神様の心情と完全に共鳴できる人間と一つになり、人間に成ることで成し遂げようとされたのです。
人間の意識は元来ぼんやりと対象を求めるのではなく、焦点という一点を求める性質があります。視界を見ても、その範囲は大きくても本当に見ているのはほんのわずかな狭い領域です。ほかの五感もみなそうです。
意識の持つこの性質は神様の本性から来ています。
神様の意識は人間という一点に集中して作用します。
しかも集中するだけではありません。神様の意識が人間の意識と同化して区別がなくなります。神様の意識は完成した人間に直接宿り、人間を通して被造世界に連結されます。
アダムが完成して神様と一体となれば、完成したアダムの心は神様の心と融合して一つになります。アダムはアダムの人生を生きるわけですが、神様もアダムという個性真理体の人生を生きられます。アダムの人生は神様の人生でもあります。
神様はアダムという人間になることによって、対象を自分から完全に独立した存在として感じることができるようになります。神様にとっても人間の内で生きる世界は劇的であり、画期的であり、とても刺激的です。
神様はアダムという人間になることによって、エバという自分とは独立した存在から強い愛の刺激を受けることができます。同様に神様はエバという人間になることによって、アダムという自分とは独立した存在からから強い愛の刺激を受けることができます。
これは、神様自体内の陽性と陰性が授受するのとは全く違います。また、アダムとエバが愛し合うのを天上から眺めるのとは全く違う次元の刺激です。
神様の愛が独立した対象に向かってほとばしります。
神様は全知全能で遍在されるお方なので欲しいものは無いかのように感じます。
一方、人間は全知全能ではなく、宇宙空間や霊界のある小さな領域を占有して存在します。神様から見れば不自由で何も憧れるものは無いように思われます。
しかし、全知全能であることは到達点なのでそれ以上刺激のない世界です。また、遍在されるという事はどこにでもいらっしゃるという事ですが、裏返せば固定した足場は無いことになります。
絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 3.神様も愛の前には絶対服従である
人間の知識と能力は限定的ですが、これがとても重要なことです。アダムが神様の全知全能の能力をそのまま受け継いだら、エバを見ても接しても受ける刺激は小さいものとなります。アダムから見てエバは、汲めども汲めども底が見えない永遠の神秘なのが良いのです。エバから見たアダムも同様です。他の人間や万物世界に対する場合も同様です。
人間が完成すれば神様のように全知全能になるとするならば、科学や数学、芸術などあらゆる分野を追求することには何の面白みもなくなることでしょう。全てを知っているし全てを成すことができるわけですから。
こうしてみるとキリスト教の教義となっている神様とイエス様は同一存在ととらえる考え方はまったくの間違いであることが分かります。神様と真の父母様が全く同一であるというのも違います。真の父母様といえども全知全能ではありません。神様が全知全能の人間と一体となられても幸せにはなれません。
神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 3.神様も愛の前には絶対服従である
神様は全知全能の創造主としてすべてを投入して完全な被造世界を造られました。その世界は万物と人間が住む世界ですが、人間が完成した後は、神様も被造世界内の一存在である人間に成ることで愛の世界に酔って生きようとされたのです。
人間が完成した後も全知全能にして遍在される神様はもちろん存在されますが、それは神様の中心的な姿ではありません。愛の神様は人間の姿をしておられます。一人一人の人間、一組一組の夫婦が愛の神様の姿なのです。
私たちの想像を遥かに遥かに超えて、人間としての人生を生きたいと思われ、人間に憧れる神様なのです。
アダムとしての人生、エバとしての人生、一人一人の個性真理体としての人間として生きる神様は、その愛の喜びに酔われて夢中になってしまわれ、全知全能であり遍在するご自身のことを忘れてしまわれるほどなのです。それほど人間としての人生を生きられる神様は刺激を感じられ、喜びに満ちる人生を生きることができるです。
そういった意味で、アダムの誕生は、神様の新しい人生の始まりなのです。エバの誕生は、神様の新しい人生の始まりなのです。人間一人一人の誕生は本来、新しい神様の誕生日になるようになっていたのです。
天地創造をなされ人間を創造されるまでの神様は、神様にとって胎中期間のようなものという事が出来ます。人間の誕生の時が、神様の本当の誕生の時なのです。
全知全能で遍在される神様が栄光の神様なのではありません。
人間という体を身にまとわれた神様こそが栄光の神様です。
神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。「天国を開く門 真の家庭」 P67、祝福家庭と理想天国Ⅰ P936 1978.1.22
こうして見ると、神様を栄光の神様にして差し上げ、本当に幸せにしてあげられるのは私たち人間しかいません。そして、神様にとって人間の価値はご自分の価値以上であり、それだけに私達一人一人の責任がとても重いことが再認識されます。
神様を幸せにして差し上げるためには、神様の心情を完全に体恤しなければなりません。そうしないと神様の心が私たちの心と融合できません。融合した心は私の心なのか神様の心なのか区別がつかない状態です。
神様であり私であるという状態、
神様が「私」になられるという状態です。
神様として存在されるより、それを捨てて「私」になりたい神様なのです。
全知全能で遍在される人生より、限定された知覚と能力であっても愛の世界に酔って生きる「私」になりたい神様だという事です。
人間生活は、今まで食べるため、住むため、着るために働くという姿でした。これは神様が生きたい姿ではないことは明らかです。神様が生きたい人間の姿は、家庭基盤の上での趣味生活です。
趣味生活が当たり前の世界を造るのも私たちの責任なのです。
そして、地上生活で趣味生活を十分に堪能してから霊界に行くことも、私たちの成すべき大きな責任なのです。
霊界に行けば先生が全て統治しているのです。先生ではなく、神様です。神様の体なのです。皆様、体のある所に心があるでしょう。心と体が一つです。もう少し深い話をすれば良いのですが、ひっくり返る人々がいる為に話をしてあげる事ができません。ひっくり返るようになっています。「ああ! そんな事があるものか」と、このようになるのです。本当にそのような事がいくらでもあるというのです。神様は遠方にいるのではありません。そのような事がある、限りなく近い所にいらっしゃる方であるのを知らなかったのです。
「人間の生と霊魂の世界」第三章 真の御父母様と霊界 一 真の御父母様の権限と使命2.宇宙の中心軸、地上・天上の統治者
愛は自分とは独立して外部にある存在に対して強く流れるので、愛のための独立した自分と、独立した他者が必要です。その独立存在が人間です。
独立存在としての人間は、神様のように汎意識ではなく制限された意識です。また、神様のように遍在できない制限された体です。しかしこれが愛の神様による天地創造の結論となります。
神様は人類始祖の堕落の悲しみと復帰の苦痛があっても何故人間を滅ぼされなかったのか?という疑問に対する一つの答えがこの中にあります。
神様にとって人間が天上から眺めるだけの対象なら、すべてを滅ぼしてもう一度創造を始められたと思います。
神様が堕落と復帰の苦しみを耐えて復帰摂理を成してこられたのは、それを忘れて余りある喜びがあることが分かっておられたからです。真の父母様が、イエス様が超えられなかった悲しみと苦難の峠を越えることが出来たのは、もちろん死の床にある神様をお救いしたいという思いが切実だったからですが、それと同時に、神様と一つになり同化する喜びがいかに大きいものであるか明確に確信しておられたからです。
真の父母様の御姿をご覧ください。
ここに写っているのは、
文鮮明という名前を持った神様の姿です。
韓鶴子という名前を持った神様の姿です。
神様は天の玉座を下りて文鮮明というお方と韓鶴子というお方と同化されたのです。
これこそが遂に栄光と幸福をつかまれた愛の神様の姿です。
そして私達の家庭も御父母様のように、神様と同化して神様を栄光と幸福の神様にして差し上げる責任があります。
それは私達が神様になることで成し遂げられます。