献命呼名祈祷
<命を捧げる精誠の意味>からが本論です。難しいようなら初めの部分は飛ばしてもかまいません。
2024.9.24
原理の中で一番重要な概念は何でしょうか?
真の愛を除けば性相と形状が最も重要な概念です。
性相は原因であり結果である形状より高い次元にあります。体という形状より高い次元にあるのが心です。高い次元にある性相は形状を捉えることができますが、低い次元にある形状から性相を捉えることは簡単ではありません。これは、三次元から平面である二次元を把握することは簡単ですが、二次元から三次元を捉えることは簡単ではないのと同じです。
性相と形状の機能と役割の割合は95対5です。これが神様と人間の責任分担に反映されています。
有形実体世界の性相は無形実体世界です。無形実体世界の性相は昼の神様です。昼の神様の性相は夜の神様です。有形実体世界は3次元なので、夜の神様は6次元ということになります。
(3次元の有形実体世界に時間を加えて4次元と捉えるのが普通かと思いますが、時間は物理現象ではなくクオリアという意識現象です。客観的には人間が時間と感じているのは連続する運動現象なのですが、人間はこれを時間と感じるのです。これがクオリアです。)
(ブラックホールはその巨大な重力によりすべてを吸収して凝縮します。このため凝縮が極限まで進み、最終的には点という0次元になると考えられていました。ところがブラックホールは熱を発生していることが分かりました。熱は物質が運動していないと発生できないため長い間の謎でした。点という0次元では運動は不可能だからです。研究の結果、3次元空間のすべての点に,隠れた6次元のカラビ=ヤウ多様体が存在してしいるという理論が出てきています。点と思われてきたブラックホールの底は6次元だというのです。点という0次元ではなく6次元なら物質は自由に動けるため熱の発生を説明できます。)
カラビ=ヤウ多様体の2次元「断面」のコンピュータグラフィック
カラビ=ヤウ空間のサイズは約10のマイナス31乗メートル
最小の空間が6次元であることは、有形実体世界から夜の神様に至る6次元を象徴しておりとても興味深いものがあります。
空間は6次元空間が無数に集まって3次元となっているようです。このため有形実体世界は9次元の世界だといえます。これは成長期間の期の3段階、級の9段階を象徴しているようです。)
さて、本題に戻ります。
性相と形状の考え方を研究しないと宝の持ち腐れになります。
例えば、塩は神様が天地創造の時に塩辛く感じるように創造された、同様にサトウキビなどから作られる砂糖は甘く感じるように創造された、というのは正しくありません。塩には性相と形状があります。私たちが知っている塩という形状には塩辛さはありません。砂糖も同様です。そして性相の源泉は神様の中にあります。
これは余りに重要なことなのですが分かっている方は極めて少数です。それが分かって一体何の役に立つのかと言われる方もいると思います。
しかし、これが分からなければ神様が人間に与えられているものが何なのかは決して分かりません。つまり神様が人間をどのように愛しておられるのかが分かりません。また創造の全体像が見えてきません。
これは私がクオリアの精誠と呼んでいるものです。そんなことを御父母様は一言も言っておられない、勝手な創作だと思われる方もいるかもしれません。
お父様は夜の神様と昼の神様に育てられたと明言しておられます。それについて何も具体的に述べておられません。まだまだ述べておられないことが多くあるのです。
しかし、性相である神様が形状である人間をどのように愛してこられたのかが分からなければ何も分かっていないと同じになります。これでは神様は私たちに人間に何を望まれ何を与えたいのか本当のところは分かりません。
皆さんは知りたいとは思われませんか?
神様の精誠が初めにあったのです。そして今もずっと精誠を尽くして人間を愛しておられる父母の姿があります。
神様の精誠と愛の実像について是非知ってください。
「総論Ⅱ 真の愛の観点から見た創造 神様の精誠」をご覧になってご自分でも研究してみてください。自分で求めないと身につかないものです。
このように人間世界で感じる父母の愛という基準が消し飛んでしまうほどに凄まじい父母の姿があります。これを知らなければ神様を知っているとは言えないのです。
ご自身は死んでもいいを思われる基準で人間を愛してこられたのです。人間の責任分担はこの凄まじい基準の愛の相続のためにあるといえます。
聖書にはその片鱗を知ることができる内容が書いてあります。
それは「とって食べるな、取って食べるときっと死ぬ」というみ言です。
これは取って食べなければ合格だったというような生易しいみ言ではありません。命をかけないと超えられない時が来るという内容なのです。つまり死んでも神様を愛するという覚悟がなければ死ぬというみ言だったのです。
聖書全体を概観しても、死をかけて信仰できない者は全員死んだのです。死をかけて信仰した者だけが良しとされ生き残ったのです。イエス様も命をささげられたし、御父母様もいつも死と隣り合わせの人生でした。お父様は安らかな死ではなく自ら進んで命を捧げられました。
要するに殉教はイスラエル民族やキリスト教徒だけの話ではないのです。正しくは殉教ではなく殉父母です。天の父母様と真の父母様に命をささげるのです。実際に殉父母の道を行くかどうかは神様の御心次第です。しかし殉父母の覚悟は絶対に不可避なのです。
死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。・・・・神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。「真の神様の祖国光復」第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって
<命を捧げる精誠の意味>
神様の精誠をお読みになると分かるのですが、神様はあらゆるものを無償で惜しみなく与えてくださっているのが分かります。
ただ真の愛については人間が責任分担を成して初めて与えられるようにされました。それは神様がたどってこられた心情路程を相続することによってなされます。これが真の親子になるための責任分担です。
神様の心情路程において最も大事なのは愛を絶対化するための道です。愛とは好きだ!という情感のことです。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。「真の愛」第一章 真の愛というものは 三 愛が介在する時、調和が成される
情感は素晴らしいものですが環境や状況によってコロコロ変わる側面があります。例えば、天心苑で多くの証詞が出て来ますがその時に証された情感が不変かと言えば時間とともに情感が弱くなってしまうことは否めません。
これは愛が絶対となるのは簡単ではないことに関連しています。この世界の愛は極めて相対的です。死ぬほど愛し合ったカップルも時間が経つと見たくもない関係になることはあまりにも日常的です。
神様も愛が初めから絶対であったわけではありません。この問題を解決しないと被造世界を創造しても永遠、不変の愛に包まれた幸福な世界にはなりません。
愛の絶対化は神様にとっても簡単な問題ではなかったのです。
愛は神様でも思い通りにはなりません。それは、愛は相対関係で生まれるものだからです。それで刺激が大きいのです。しかし神様ご自身の対象を愛する思いを絶対化できなければ天国の基礎ができないのです。天国を実現するには対象がいかなる状態でも神様の愛は変わらないという基準が不可欠なのです。
神様は愛のために死ぬという道を永遠に行かれることでこの問題を解決されたのです。これは人間のために死ぬという道を永遠に行かれたというのと同じことです。これは天地創造から見れば過去に流れた永遠の時間のことです。その永遠の心情投入の時間が経過してから天地創造がなされたのです。
永遠に命を捧げる道を行かれることで人間に対する情を絶対化されたのです。これで堕落した人間に対しても愛がぶれることがなかったのです。
取って食べたら死ぬという究極の責任分担を与えることができたのは、この愛の背景があったからです。人間を永遠に愛する基準が立っていなければ与えることができない責任分担なのです。
神様が到達された絶対愛の世界は死を超える無限時間の心情投入によって確立されました。このため人間の責任分担は死を超える心情投入を相続することです。
神様においては時間は無限時間でしたが、人間においてはこれを短くしてあげたいのが父母の心です。それが時間、空間の制限があり、死がある有形実体世界の創造です。これで最短で相続できるようにされたのです。この有形実体世界はそのためだけにあると言っても過言ではありません。
人間は堕落したためこの絶対愛の相続は蕩減路程という極めて厳しい道になりました。しかし真の父母様が平らにしてくださいました。それでも原則は変わりません。
死ぬほど神様と父母様を慕うこと、これが到達点です。命を捧げたいという心情に達することです。そしてそれが不変になる基準に行くことです。
それは神様の最高の宝である絶対信仰、絶対愛、絶対服従を相続するためです。すなわち真の愛の相続を受けるためです。
皆様は真の愛の実体になりたくありませんか?
これが個性完成です。
それは命よりも神様と真の父母様を愛することで相続を受けることができるのです。
そのために私が導かれたのが献命呼名祈祷です。
献命呼名祈祷は到達点ではありません。命を超えて真の父母様、特にお母様を慕い愛するための出発点です。
<献命呼名祈祷>
神様と真の父母様に似ることがこの道を歩む目的です。
神様はご自身の血肉を材料にして創造されました。しかし神様の心情は人間の堕落によって凍りついてしまいました。
この神様の凍りついた心情を溶かせる人は歴史的に誰もいませんでしたが真の父母様がその心情を解放して差し上げました。
神様はご自身の血肉を削ってまで創造されるお方です。この神様の心情を溶かすには神様のように何度も命を捧げることができる人が必要だったのです。それをご父母様は絶えずなしてこられました。
私たちの精誠はご父母様に似ているでしょうか?
天心苑で祈れば叶わないことはない、と言われた御言の深い意味は求めて悟らなければなりません。
お父様も霊界は地上人の精誠を燃料として役事すると言われています。そして役事をなすには精誠が足りないとも言われました。
命を捧げる心情が神様と真の父母様の伝統です。神様が命を捧げて創造されたのは、本当の創造力は命に超えないと現れないからです。
再創造も蕩減復帰も命を捧げないと本当にはできないのです。願いが叶うというのは本然の創造力のなせる業なのです。
このように見てみると、天心苑で祈れば願いが叶うというのは、天心苑祈祷を通して命を捧げる基準を身につけなさいということなのです。
そこで私が提案したいのは献命呼名祈祷です。呼名祈祷は心情投入するので創造力を持ちます。呼名祈祷には失われた心情関係を再創造して修復してくれる力があります。
堕落によって、全ての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させる為には、何時も自分自体が接続させる事の出来る作用をしなければなりません。その様な作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。
「地上生活と霊界」第三章 霊界 一 肉身を持って体恤可能な霊界 4 霊的体恤の過程
この呼名祈祷の力を真の父母様と私の関係復帰のために用いない手はないのです。
特にお母様呼名祈祷です。あらゆる呼名祈祷に先立ってお母様呼名祈祷をすべきだと思います。
このサイトをご覧の皆様は極めて高い信仰基準、心霊基準をお持ちの方が多くいらっしゃると感じております。その方々に献命呼名祈祷をお願いいたします。これはお母様に命を捧げる気持ちを込めた呼名祈祷です。
命を捧げるというのは死んでもいいということです。一般の人は命を自分のものだと思っているので命を惜しみます。死を避けようとします。
最終的には死ぬとしても苦しみのない老衰で死にたいと思うのです。
しかし私たちが受けた新しい命は神様と真の父母様から与えられたことを知っています。ですから、いかに命を捧げるのかが重要なことになります。しかし死に方は自分では決められません。病気、事故、事件、自然災害など何で死ぬのかはわかりません。イエス様の弟子たちは皆悲惨な死に方で死にました。しかし彼らは最も良いタイミングで命を捧げました。永遠に誇れるような死に方をしたのです。
彼らの犠牲によってローマ帝国がキリスト教を受け入れるまでに変わっていったのです。これは命を捧げることで生まれた創造力です。
神様と真の父母様に命を捧げなさいとは公には誰も言いません。しかし御言の結論はこれです。神様と真の父母様の人生もこれです。
天苑宮入宮式までの期間はこの伝統を受け継ぐ最大のチャンスです。
お母様いのち呼名祈祷、お母様に献命呼名祈祷、これはお母様を呼名しながら10回目毎にお母様に命を捧げます!と叫ぶ祈祷です。
この祈りをすれば実際に死の試練を受ける方も出てくると思います。具体的には死ぬような思いをするということです。
しかし間違いなくお母様との心情がとても近くなります。皆様の中には高齢の方も多いと思います。トップガンのように2世ではなく1世の方が多いと思います。1世が2世に示せるのはこれしかないのではと思います。
私も始めてまだ浅いのですが、私の場合はお母様、お母様、お母様、と三回を一まとめにして呼名しています。これを3回行うと9回になります。そして10回目は少し間をおきます。そこで息を吸って真のお母様、命を捧げます!叫びます。10回目はゆっくり時間をかけて心情を込めてします。この呼名祈祷を何回するかは皆さん次第です。しかし回数は重要ではありません。どれだけ心情を込められるかが大事です。また、どのように命を捧げる呼名祈祷をするかは色々と工夫してみてください。
この呼名祈祷は確実に蓄積されていく感じがします。昼間これを行ってから天心苑祈祷会に参加するとお母様への慕わしさが違ってきます。
ただし、この呼名祈祷をすることで死の恐怖がやってくる方は無理をしないでください。
この呼名祈祷をする時の心情は、喜んで狂うほど死んでも良いと踊りながらです。最後にこの御言をお送りします。
生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天
2024.9.28
<狂うように喜んで献命呼名祈祷>
合心共鳴祈祷の時の苑長と副苑長の祈りは声が重なり合いまさにハーモニーのように聞こえました。どんな賛美役事の歌より心に響いてきました。
このお二人の祈りは特別です。神様と真の父母様に命を捧げる基準に到達した人しか現すことができない心情の響きです。その基準に達した人に能力が与えられるのがはっきり分かります。
その賛美役事以上のハーモニーを聴きながら改めてみ言が思いおこされました。
生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天
命を差し出すのに狂うように喜んで差し出すとあります。天地創造をなさった天の父母様はご自身の血肉を削って創造されました。それはあまりにも痛々しく感じることなのですが、事実は狂うように喜んで命を差し出す心情だったのです。そこには狂うような喜びがあったということです。
死の世界は不安と恐怖が渦巻く世界のように感じますが、天の父母様と真の父母様が到達された世界は狂うような喜びに満ちた愛の世界なのです。死の先にはこんな狂うような喜びの世界があるのです。この世の人々は全く知らないのです。死んでも良いという天的な爆発的な喜びの世界があるのです。
天の父母様はこの狂うような喜びの世界を人間に与えたくて死がある有形実体世界を創造されたのです。この心情世界に到達するために天心苑祈祷会があると感じます。苑長と副苑長のこの勝利基準が天心苑祈祷会を引っ張っていると感じました。
精誠のたどり着く所がこれです。この心情世界を身につけてから行くところが霊界です。それがなくて霊界の天国に行っても虚しいのです。外的にいくら美しい天国であっても自分の中身が神様と父母様に似ていなければ苦しくなってくるのです。天国は自分にはふさわしくないと感じるのは強い苦痛となります。
狂うように喜んで献命呼名祈祷をすると幸せな気持ちになります。初めはそうでなくてもだんだんとその心情が復帰されてきます。初めから完全な献命祈祷にはなりません。それで良いのです。何回も何回も献命呼名祈祷をしていくうちに命を捧げたい心情が徐々に与えられるのです。
ポイントはできるだけ狂うように喜んで行うことです。
孝進様は病を通して天に命を捧げられました。興進様は事故を通して天に命を捧げられました。大母様は寿命を縮めて天に命を捧げられました。私の場合は狂うように喜んで命を捧げられた孝進様、興進様、大母様を慕って呼名する祈りも加えています。孝進様、興進様、大母様には命を捧げる時に狂うような喜びの世界があったのです。これが統一家の伝統です。
入宮式までのこの期間はこの心情に到達ための最高の環境です。
お父様の聖和の時はこの心情に至りやすい環境でした。今回はそれ以上の環境です。天の父母様が地上に来られる復帰歴史上初めての時です。永遠の思い出であり永遠の誇りとなる時を迎えようとしています。
この続編をアップしましたのでご覧になってみてください。