神様の私に対する恨を解怨するみ言基準と心情基準
Ⅰ 原理講論と御父母様の直接のみ言
イエス様の時の新約のみ言から原理講論に述べられる成約のみ言の間には2000年の時間が経過しました。しかし、新約から成約までの変化以上の変化が真の父母様の時代に続けて起こりました。原理講論の内容は新約聖書の内容と比べるとあまりに画期的です。そして、それに勝るとも劣らない革命的な変化が原理講論と真の父母様のみ言の間にあります。
真の父母様のご存命中に人間が完成するのに必要なみ言の全てを語る必要があったためです。原理講論からその後のみ言の内容に至るには、本来なら2000年がなければ心霊と知能がついていかないと言うこともできます。
新約聖書をいくら読んでも成約のみ言である原理の内容は出てきません。これができるのはメシヤしかいません。同様に、原理講論をいくら読んでもその後語られた御父母様のみ言の内容は推察できません。
原理講論は「天宙的なメシヤのための基台」を作ってこの世にその姿を現わそうとなさる真の父母様のみ旨に同参し協助する使命を持った人に向けて書かれています。
当然、原理講論には永遠の真理の内容も含んでいますが、それと同時にメシヤを守る囲いを作る選民の使命を持った人々を導く教書としての内容も多くの部分を占めています。
選民というのは善の天使長群のことです。アダムとエバが生まれる前に善の天使長世界があったのを蕩減して再現することが目的です。
このため原理講論は、独り子、独り娘を守る善なる天使長として使命を全うするために必要な内容が中心となっています。執筆されたのも御父母様ご自身ではなく善の天使長として先頭に立っておられた劉孝元先生でした。
原理講論の内容と比べて御父母様のみ言の内容はどの部分が深化しているのでしょうか。
この深化した部分が神様の私に対する恨を解怨して天寶家庭の基台を造成し、重生するために必要な部分だと言えます。
思いつく主要な部分をいくつか挙げてみます。
①性相と形状
原理講論:神様はご自身の本性相と本形状に似せて性相と形状を備えた被造物を創造された。このため被造物の性相と形状は神様とは独立して存在する。
真の父母様のみ言:これは正確には原理講論の後に御父母様の指示で李相軒先生が書かれた認識論に載っています。神様が創造された被造物の性相は被造物の中に初めから内在しているわけではありません。神様の意識が被造物に浸透して初めてその被造物の性相が出現します。
神様の意識が浸透することで素粒子、原子、分子の固有の法則性や性質が生まれます。
例えば炭素の陽子、中性子、電子の数は各6個、窒素は各7個、酸素は各8個であるが、陽子、中性子、電子の数が各1個増えるだけで何故性質の全く異なる原子になるのか、部品をいくら研究しても永遠に解明できません。同様に陽子、電子が各79個、中性子が118個から何故金(gold)ができるのか、部品である陽子、電子、中性子を調べても決して分かりません。
その植物に独特の植物心やその動物に独特の本能も同様。生命活動の全ては神様の意識が植物や動物に浸透してなされる御業です。細胞の部品に過ぎないDNAを研究しても生命の謎は決して解明できません。
肉身や霊人体の性相部分も神様の意識が肉身や霊人体に浸透することで出現しています。
人間の情知意や愛も神様の意識が人間に浸透しなければ決して出現することはありません。形状的要素である肉身や脳をいくら研究しても永遠に分かりません。
②神様の天地創造と人間創造についての説明
原理講論と統一思想:
原理講論の第七章 キリスト論 第四節 重生論と三位一体論 (2)ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊、において被造世界の創造はロゴス(み言、理法)に基づいてなされたとあります。
統一思想要綱ではより発展的に説明されていて、ロゴス創造のための内的四位基台と創造の実体化のための外的四位基台、合わせて創造の二段階構造として述べられています。
これらの内容はとても知的、理論的に述べられていることもあって、天地創造が人間世界での創造活動と同質であると誤解される可能性があるかもしれません。
真の父母様のみ言:天地創造が天の父と天の母の夫婦の愛と父母の愛愛を基盤として始まったことが明確述べられています。天地創造において愛が性相であり、創造の二段階構造は形状であることが明確に分かります。特に人間の創造においては、創造というより天の父母様の夫婦の愛を出発点とする出産であることが分かります。
結婚した夫婦の位置というものは、とてつもない位置です。歴史時代において人類が望んできた子女としての希望峰が花開く位置であり、兄弟として花開く位置であり、夫婦として花開く位置です。そして、夫婦として愛した神様が創造を始められたように、息子、娘を生むことをもってアダムとエバが創造を開始するのです。それで、実体的創造主の立場となり、私を中心として平面的創造主の立場から息子、娘を生むのです。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 三 1.四大心情圏と (1)人間の完成は四大心情圏の愛の完成である
③創造目的と三大祝福
原理講論:「神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。」
人間は神様の子女として三大祝福を全うして最高の幸福を得る。神様もその姿を見て最高の幸福を享受される。
真の父母様のみ言:
アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。「真の神様」 第一章 二 1.体をもつためにアダムとエバを創造
神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。「天国を開く門 真の家庭」 P67、祝福家庭と理想天国Ⅰ P936 1978.1.22
この観点は最も重要な内容の一つです。神様と人間は親子であるというのは原理講論の根本的理念ですが、御父母様のみ言では、人間は神様の体であるというもう一つの根本的な内容が加わります。この観点が加わると三大祝福のみ言には全く違う風景が見えてきます。
三大祝福は神様が心で人間が体で共に成し遂げる内容となります。神様は三大祝福を眺める方ではなく三大祝福実現の主体であり実体そのものとなります。
第一祝福は人間に与えられた創造本性を完成することが中心ではありません。人間は神様の体として、心である神様を迎え一体となるということが中心です。
神様も人間も独立して自主性を持つため、神様と人間が一体となることは極めて困難な業となります。
これには主に二つの重要な要素が必要となります。
一つは、人間は神様の体というあまりに高貴な立場として完成する必要があるため、人間の立場としては自分で自分を見て本心から神様の体として相応しいと思える必要があります。
これは自分で自分を見て神様と同価値の神様だと思えるかどうかということです。
神様や他の人から見た観点も重要ですが、納得させるのに一番難しいのは自分自身です。これを実現する道が責任分担だと言えます。
もう一つは、神様と一体となるためには、神様の歩まれた心情の世界を残らず追体験して神様の心情歴史に深く共感できる道を行く必要があります。
この二つの観点は信仰生活を全うするためにはとても重要な内容です。み旨に貢献して御父母様から重要な位置を頂いたならば、自分は間違いなく天国に行けると思うならば落とし穴が待っていることになります。天国に行くというのは、自分が行くのではなく神様の体として完成して、心である神様と一つになって神人一体となって天国に行くのです。人間が単独で天国に入城するのではありません。
第二祝福の本当の姿も原理講論の描く世界とはかなり異なります。男性は神様に着られて体を持った神様となります。女性は体を持った神様の妻です。本来、この世の一般的な結婚のような男性と女性だけの結婚というのはあり得ないのです。
神様の視点に立つと、第一祝福は神様が体を持ちたいという欲望の実現です。第二祝福は体を持った神様が妻をめとって結婚生活をして子女を設けて家庭を持ちたいという神様ご自身の欲望の実現です。
人間は神様の体として創造されているので復帰途上、完成途上であっても神様の潜在意識を受信しています。人間の持っている衣食住性の欲望や美真善愛の追求欲は人間の中に内在している訳ではありません。神様の潜在意識を受信して生じています。
これは理解しがたい方もいるかもしれません。人間が堕落してサタンの似姿のなることで、人間という神様の意識の受信体が本然の機能を失い自己中心の欲望を発生するようになることで、人間の欲望の全ては神様とは関係ない俗なるもの、悪なるものだと思うようになったことが原因です。
人間の持っているすべての内臓や四肢五体は、人間が地上で生活できる様にするために与えられたものではありません。人間の肉身や霊人体は人間のために作られたのですが、それ以上に神様の似姿として神様のための体として機能するように造られているのです。このため、人間の内臓や四肢五体、五感、衣食住性、美真善愛などすべて神様由来です。
着たい、食べたい、住みたい、性的欲求、美しいものに惹かれる、真理を追究し善をなしたい、愛したい、といったすべての欲望は神様の潜在意識的な欲望を受信して生じています。堕落することでこれら欲望が自己中心的となり、その欲望に主管されるようになったため悪なる欲望と感じるようになりましたが、本来はすべて神様の欲望です。この観点からすると人間はもうすでに神様の体として機能しているのです。自分由来だと思っていた心と体の機能や欲望は神様由来なのです。よくよく眺めれば神様から独立した人間というのは存在しません。人間中心主義などあり得ないのです。
責任分担を全うし神様の直接主管圏に入れば神様の潜在意識のみならず顕在意識も人間の意識と一体化します。(このあたりの詳しい説明は「玉座の神様と人間としての神様」「潜在意識論」をご覧ください。)
重要なことは「私」という存在は生まれるやいなや神様の体として機能しているということです。「私」は神様の子女として創造されたから尊いというだけではなく、神様の体そのものだから尊いのです。
有形の人間が無形の神様を求める気持ち以上に、無形の神様が有形の体を持ちたいという欲望がいかに強いかをご理解ください。物質の三態を例にとると分かりやすいのですが、気体、液体、固体となるにつれて衝突した時の衝撃は強くなるのです。気体と気体ではぶつかっても衝撃はわずかです。液体と液体がぶつかれば気体同士よりは衝撃がありますが液体は簡単に混じりあい衝撃が弱くなります。固体同士はお互いが壊れるのではないかという程のとても強い衝撃をもたらすことができます。
夜の神様は愛の震動的衝撃を求めて体としての昼の神様を創造されました。夜の神様と昼の神様は一体となって天の父母様となられましたが、更なる愛の震動的衝撃を求めてより有形である人間を創造されました。
象徴的にみると、夜の神様は気体に相当し、昼の神様は液体に相当し、人間は固体に相当します。夜の神様、昼の神様、人間は神様一族なのです。創造というのは自分という性相を形状化することです。創造の目的は形状を造ってそれを着ることで愛の衝撃をより強く感じようとすることにあります。(このあたりの詳しい説明は「夜の神様 昼の神様に関するみ言の解明」と「対称性の破れと心と体、生老病死の密接な関係」をご覧ください。)
今まで私達は、神様と人間は親子と言ってもやはり別次元の存在と考える傾向にあったのです。しかし実際は性相と形状の違いはありますが同価値なのです。性相と形状は一体不可分です。形状にとって性相は絶対必要ですが、性相にとっても形状は絶対必要なのです。
第三祝福は人間が万物を主管するのではなく、体を持ち家庭を持たれた神様が、ご自身が創造された万物世界を主管されることです。
④責任分担
原理講論:「人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。」
真の父母様のみ言に基づく責任分担の本質:
既に②において述べましたが責任分担は、人間が神の創造の偉業に加担することで、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限を持てるようにするため、という内容にとどまりません。
人間の本当の責任分担は、神様が通過してこられた心情世界の全てを追体験して体恤し、神様の心情の相対に相応しい堂々たる神様の子女となって神様の天宙史的なご苦労を慰め、神様の心情に静じ、また動じる堂々たる神様の体となることにあります。
⑤堕落論
原理講論:人類始祖が天使と淫行関係を結んだことで人間はサタンの血統となった。神様は愛する子女を失い、被造世界すべてがサタンの主管となり悲惨な立場に追いやられた。
真の父母様のみ言にみる堕落論の核心:
神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。
歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。
どれほど驚くべき事実でしょうか。
イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。「真の神様」 第四章 真のお父様の見た神様 三 2.神様の歴史的に悲惨な姿
原理講論の堕落論の内容を遥かに超える苦痛が神様の中にあったのです。それはイエス様でさえも分からず御父母様が歴史上はじめて解明されました。子女の死がもたらす悲痛以上の悲痛が堕落論の中核です。
1967年、社会学者のトーマス・ホームズと内科医のリチャード・レイによって作られた「社会的再適応評価尺度」というものがあります。
5千人の精神的に不調な患者を対象に、その原因となったストレス項目を調べて点数化したものです。これは人間がストレスを強く感じる内容を強い順に数値化して列挙したものです。
その上位5つが下記です。
堕落によって神様が通過された世界について、この世の学者の研究によって全て推し量ることはできませんが、かなり核心に迫っていると思います。
ストレスのベスト5のすべてが堕落によって神様が通過された事件です。
特に注目すべきは、子女の死は5番目で、上位の3つは夫婦に関するものです。
原理講論では堕落によって神様の子女が死んだことが神様の悲しみの原因となっています。しかし、真の父母様のみ言に出てくる内容は次のような内容です。
神様においてエバは未来の妻でした。なぜならば、アダムは神様と一体になるので、神様自身です。神様の妻をサタンが犯しました。サタンは神様の怨讐であり、私たちの怨讐です。 「罪と蕩減復帰」第二章 三 1.サタンは堕落した天使長ルーシェル
サタンとは何ですか。姦夫、愛の姦夫だというのです。こいつが……そのサタンがお父さんを殴り殺し、お母さんを強姦して生んだ子女が正に皆さんです。気分が悪いでしょう。とても信じられないなら、先生の言葉が本当かうそか命を懸けて神様の前に談判祈祷を一度してみなさいというのです。「罪と蕩減復帰」第二章三サタンは神様の愛の姦夫
神様の将来の妻であるエバがサタンによって性的蹂躙されたという事実、それにより神様の妻は死に、ご自身の体であるアダムを失い、囹圄生活を強いられたという事実は、子女が死んだという事実よりも大きな苦痛であり悲しみであり恨なのです。
原理講論で明かされた神様の恨は親子関係に関する恨です。その後、真の父母様によって明かされた神様の恨は夫婦関係に関する恨です。真の父母様による神様の解怨においてどちらが難しかったのかは、「神様の怨恨と御父母様による解怨」の章や「真の父母様による神様の恨の実体解怨路程(会員)」をご覧くだされば明らかです。
これが分からないと堕落に伴う神様の心情は分からないことになります。
また、「絶対性論Ⅱ」の「エバは神様の最高傑作であり、神様の許嫁(いいなずけ)」ご覧ください。
⑥復帰原理
緒論(一)蕩減復帰原理 (2)メシヤのための基台にある記述
信仰基台
堕落人間が創造目的を成就し得る基準を復帰するためには、まず初めに、人間始祖が立てることのできなかった、その「信仰基台」を蕩減復帰しなければならない。・・・
第一には、そのための「中心人物」がいなければならない。アダムが「信仰基台」を立てる人物となることができずに堕落してしまったので、それ以後今日に至るまで、神は「信仰基台」を復帰し得る中心人物を探し求めてこられたのである。・・・
実体基台
堕落人間が創造目的を完成するためには、「信仰基台」を復帰した基台の上で、過去に人間始祖が成就し得なかった「完成実体」を成就しなければならない。
下線部分の記述を見ると、堕落人間がアダムの蕩減を成し遂げ、創造目的を完成するかのように聞こえなくもありません。しかしそれは御父母様のみ言を見るとあり得ないことだと分かります。
真の父母様のみ言:
そして、それから二十年もたたずして、再び世界は第二次大戦の惨禍の中に巻き込まれていきました。
宗教の目的とは何でしょうか。アダムを完成することです。また神様の救援摂理の目的とは何でしょうか。アダムを完成することです。神様の目的や天使長の目的がアダムを完成することにあるので、その基準を世界において、霊界と肉界において再蕩減しなければなりません。霊肉を中心として、サタン世界と天側の天使圏が戦って勝敗を競うというのが第二次大戦であったと見るのです。聖書から見れば、ハルマゲドン戦争なのです。「真の父母様の生涯路程」第一節 解放を前後した摂理的基台 一九四五・八・一五 前後 一 第二次世界大戦とキリスト教文化圏
御父母様のみ言の下線部分を見ると、復帰摂理の縦的蕩減条件を最終的に横的に蕩減する世界大戦とは、サタン世界と天側の天使圏の戦いであるとあります。
信仰基台と実体基台を復帰する目的はメシヤのための基台を造って神様の独り子、独り娘を迎えることです。独り子、独り娘という人間が来る前にいるのは天使長なのです。
このため、原理講論に出てくる復帰摂理は天使長の失敗を蕩減するためのものです。復帰摂理歴史が見せてくれる教訓は、善なる天使として使命を完遂し勝利するにはどうすべきなのかという教訓なのです。
原理講論に出てくる復帰摂理は、神様の人間に対する恨を蕩減して解怨するためのものではありません。神様の天使長に対する恨を蕩減して解怨するためのものなのです。
このため、私達が祝福家庭として責任を全うして神様の体として完成に至るにはどうすれば良いのかという事について、原理講論は参考にはなりますが教書にはなりません。それはご父母様のみ言の中にしかありません。
Ⅱ 復帰摂理に垣間見える神様の本当の心情
原理講論の総序には、新しい真理は神様の創造や反逆する堕落人間を救おうと心を尽くしてこられた悲しい復帰の心情を教えてくれるものでなければならないと書いてありますが、実際にはその記述はほとんどありません。御父母様のみ言の全体像を元にして神様の復帰の心情の一部を類推してみます。
私は、神様と人間の関係が僕の僕、僕、養子、実子と変化してきたのは何故だろうと考えてきました。以前は心霊の淪落した堕落人間に対して、いきなり実子に与えるようなみ言や愛で接してもそれを受け止めきれないことが理由だと思っていました。
それは、人間が堕落したとしても神様の人間に対する父母の心情は不変だと思っていたからです。
しかし、「神様の怨恨と御父母様による解怨」の章で述べましたように、神様にとっても堕落人間を愛するということは簡単なことではなく至難の御業だったのです。
愛においては神様の全能ではないのです。これは従来のキリスト教の価値観とは大きく違います。
神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。 「真の神様」 第一章 五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である
そういう観点から見ると、アブラハム以前の僕の僕の時代は、神様は人間に直接相対しようというお気持ちなれなかった時代です。
「神様の怨恨と御父母様による解怨」⑦何千万年も復帰を始めるお気持ちにはなれなかった、にある1995年11月3日のみ言にありますように、神様の復帰摂理が地上に定着したのは今から4000年前なのです。
しかし、その神様は父母ではありません。主人なのです。これは堕落人間に対して父母として接する心情には到底なれなかったことを意味します。
蛇でありマムシの子である堕落人間に対して父母の心情など湧くはずもないのです。それでも心を振り絞って主人として立たれたのです。そして旧約時代からは、神様は復帰摂理を成し遂げる明確な決意を持っておられました。アブラハムが象徴献祭を失敗してもイサク献祭を準備されることで摂理を継続されました。カナンの地でヤコブがエサウを屈服することに失敗してもハラン路程を用意されました。これは失敗したら惜しみなく捨てられたノア家庭の時とは相当違います。
復帰摂理は法則性の観点からだけでは本質は見えてきません。神様は、徹底した心情の神様だからです。アダム家庭でアベルとカインの摂理を成せたのは、アダムとエバが堕落したとはいえ神様との心情の思い出が残っていたからなのです。しかしカインのアベル殺しによって神様にとってアダム家庭は一切思い出したくない存在になったのです。
イエス様という実子が誕生したことで神様の堕落人間に対する情は飛躍的に上がりました。実子との心情関係を基盤としてイエス様に従う堕落人間を養子として感じ愛せるようになられました。イエス様を信じない非選民圏であっても神様の愛の心情は広く浸透し恩恵を受けるようになったのです。霊界の空気が変わったとでも言うべきでしょうか。これによって神様の養父母としての愛が人間世界を覆うようになり、新約時代はそれ以前の世界とは違う時代になっていきます。
メシヤ再降臨準備時代になって世界は大きく変化します。これは再臨主を送ることで創造理想を実現できるという希望が神様に大きな力を与えたためです。人間でも夢の実現が近くなれば元気になります。それと変わりません。
それを知ったサタンが発悪したのがカイン型人生観とカイン型民主主義であり世界大戦です。第二次世界大戦後に勝戦国が敗戦国を援助するという歴史上はじめての現象が起こった理由は、第二次大戦終了前の1943年、待ちに待った独生女が生まれた神様の喜びが根底にあります。
このように見てみると、復帰摂理の進展は人間の側の要素より神様の側の要素の方が、影響が圧倒的に大きいことが分かります。真の父母様はこのことをあまりにもよくご存じでした。このため復帰を最終的に完了するために人間の救いよりも神様の解放を優先されたのです。