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法治時代から愛治時代へ

旧約時代は旧約のみ言が真理であり法であり善悪の判断基準でした。

新約時代は新約のみ言が真理であり法であり善悪の判断基準でした。

 

新約のみ言を真理と信じるキリスト教徒にとって、聖書に照らし合わせて善悪を判断しました。

過去においては聖書を信じない人々は異教徒、野蛮人とみなした時代がありました。非キリスト教徒は存在が許されない者という考えに至り、殺害することを御心とみなしたのです。

法治主義の弊害

1096年に始まり200年間に及んだ十字軍戦争では、軍人と軍人の戦争という次元を遥かにこえ、一般市民であるイスラム教徒やユダヤ人に対する容赦ない虐殺が行われました。第一回の十字軍ではエルサレムが十字軍の手に落ちると、大虐殺、大略奪が行なわれました。大勢のイスラム教徒やユダヤ教徒は、神殿内に集められ火を放って生きながら焼き殺されてしまいました。

第1回十字軍遠征に従軍したフランスのある聖職者は、次のように記しています。

「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げられていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長いあいだ冒涜をほしいままにしていたアラブの人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう“神の裁き”は正しく、賞賛すべきである。」

十字軍戦争において十字軍側の戦死者は100万人、相手側のイスラム教徒や一般市民の戦死者は200万人ほど、合計300万人との推計があります。当時の人口比率で見て現代に換算すると3000万人となります。実に世界大戦並みの死者です。

 

ポルトガルやスペインが強国だった大航海時代、キリスト教会は、異教徒によって占拠された土地を奪い返し、神の教えに背く異教徒を焼き殺す事は「正しい戦争」であると承認し、神への信仰の証しとして、侵略戦争を「聖戦」として奨励した時期がありました。

中南米大陸の現地人であるインディオに対するキリスト教会の見解は後には変化しますが、当初は「インディオには魂がなく人間ではない」という見解でした。彼らは聖書の記述に基づき、人類はノアの家庭から始まりアブラハムに至り、約6千年かけて陸続きのアジア、ヨーロッパ、アフリカに広がったと考えていました。この聖書の世界には新大陸である南北アメリカは入っていません。

このため聖書世界の範疇からはみ出た世界にいるインディオは人間ではないという見解になり、人類愛の対象から外されました。

銃や刃物で殺されたり、焼き殺されたり、西洋人が持ち込んだ天然痘、チフス、麻疹、インフルエンザなどにより病死したインディオの総数は1億人近くにのぼり、残ったのは1千万人程度ではないかと推定されています。こうして、アステカは1521年に、インカは1533年に、完全に滅ぼされました。これらは戦争ではなく驚愕のホロコースト(大量虐殺)でした。

 

このようなキリスト教史の暗黒部分にスポットを当てたのはキリスト教を非難するためではありません。問題は人間の堕落性です。聖書のみ言も堕落性の眼鏡を通すと凶器に変化します。スペイン、ポルトガルによる侵略、虐殺の背後にあった本当の動機は、人を殺してでも富を得ようとする邪悪な欲求でした。この醜い堕落性を、神様とイエス様と聖書を表に出して「聖戦」だと正当化したのです。

 

さて、成約時代は原理のみ言が真理であり法であり善悪の判断基準です。このみ言は極めて高い心霊基準を持っている人に向けて語られたものなので、旧約時代や新約時代に起こったような悲惨な現象が起きるわけもないのですが、それでも一つの物差しである限り、物差しに叶うか叶わないかの審判が生まれます。この審判基準は原理に対する解釈が個々人によって少しずつ違うので、その分、軋轢や分裂が生じる可能性があります。

 

どの宗教でもこの現象は起こります。自分の宗教を信じる人は救われるけれど、そうでない人は不幸な道を行くなどです。どの宗教も信念に基づいて全人類を教化しようとしますが、その過程で宗教と宗教の衝突が起こります。

私達もその傾向が皆無であるわけではありません。人を原理、非原理に分けて見たりします。教会内でも悲惨な状態にある人や位置のない人を蕩減が重いと見たり、位置のある人は無条件で天の人として持ち上げたりもします。

あるいは知らず知らずのうちに自分の都合の良いように原理を曲げて用いることはかなり多くの場面で起こります。そのことを指摘されたみ言もあります。

 

日本の責任者たちは、「教会長だからアベルであり、君たちはカインだから、カインはアベルに屈服するのが原理だから従え」と先生が教えない原理の教えをしているのではありませんか?そういう原理はありません。愛の力でもって、自動的に自然に頭を下げるような、そういう使命を果たさない者はアベルではありません。「み旨と世界」1978.9.22

 

いくら真理のみ言があっても、み言を自分の都合の良いように曲げて解釈したり、自分の都合の良い部分だけに関心を持ってしまう行為は、自分でも気づかないうちに無意識にやってしまっています。これではいくら信仰生活をして実績を上げようとも、いつまでたってもみ言の実体にはなれません。

このような現象を防ぎ愛の実体となる道はないのでしょうか?

 

その答えもみ言の中にあります。

 

神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。「宇宙の根本」第一章二、宇宙は主体と対象でできている

 

これはお父様しか解けなかった真理です。

神様は全知全能の絶対者であり、神様が服従されるなどあり得ないと考えてきました。

しかし、神様は真の愛には絶対服従されるというのです。

神様が愛に絶対服従されるというのはどういう意味でしょうか?

 

神様は、真の愛の為に天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、神様お一人でもつ事はできません。お一人で愛を感じる事はできません。「天一国主人の生活」 第一章 創造の原動力は神様の真の愛 一真の愛は神様のみ旨がとどまる中心

 

神様が人間を創造されたのは子女としての人間実体が見たかったからではなく、愛が見たかったからだという事です。神様がご自身の血肉を材料として世界を創造されたのは愛の対象が必要であったからです。

対象の存在は手段であって目的は愛です。

それでは愛とは何でしょうか?

愛という言葉は範囲が広く分かりやすく説明するのが簡単なようで実はとても難しい概念です。誰もが分かっているようで実際はよく分かっていないのではないでしょうか。

 

次のみ言がそれを明確にしてくれます。

 

愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。「真の愛」 第一章 三 愛が介在する時、調和が成される

 

愛とは好きなことです。好きだという情感です。

神様が血肉を削って創造の御業をなされたのは対象を見たかったのではなく、好きだという情感を得たかったからだという事です。神様ご自身の血肉を削り気の遠くなるほどの時間と精誠を投入されても真の愛が得られるならすべての苦労が報われるという事です。「好きだ」という情感は神様にとってご自身の存在よりも大事なものなのです。

神様の宿願である創造理想たる天国は、好きだという情感に満ち満ちた世界なのです。

好きだという情感は全知全能の神様でも自由に操れません。愛は神様でもコントロールできないのです。このため神様よりも上位に存在し、愛を得るためにはご自身を犠牲にされます。

愛に絶対服従されることが神様が真の幸福になる道なのです。

 

堕落によって失われた好きだという情感を復帰する道は、堕落によって好きではない存在になったとしても無理やりでも好きだと思って相対する道しかありません。これが蕩減復帰の本質です。好きではないどころか憎しみが湧き上がる怨讐であったとしても無理やりにでも好きだと思って相対する道です。これが真の愛を蕩減原理によって復帰する唯一の方法です。

蕩減復帰原理の発見

お父様は、大きな岩に川の水がぶつかっても岩が微動だにせず、水が岩を避けて通っていくのを見て、蕩減復帰原理を発見したと言われています。

外界から如何なる迫害や苦痛を受けようと自分の姿勢が不変ならば外界の方が変わるという事です。

真の愛の復帰も同じです。いかに許しがたい怨讐がいたとしても、相手に対して憎しみではなく相手が本当に好きだという真の愛の姿勢を貫けば、真の愛が本然の姿を現し、怨讐である相手が変わっていくというのです。

 

イエス様も死に至る十字架上で真の愛を貫く戦いに臨まれ勝利されました。真の父母様も全生涯を通じて真の愛を貫くにおいて一歩も退かれることはありませんでした。

神様も醜く許しがたい姦夫の子女となり怨讐となった堕落人間を、ご自身の死の苦痛を超えて真の愛で愛しぬかれました。このお姿にサタンも一切讒訴できませんでした。そしてサタンまでも一貫して真の愛で愛されました。

 

さて、ここからが重要な部分なのですが、イエス様も真の父母様も神様もみ言に従ってそうされたのでしょうか?真の愛に絶対服従されたのです。

 

堕落によって人間は本然の立場を失い悲惨な人生を歩むことになり、神様も本然の神様からは程遠い苦痛の囹圄に閉じ込められました。そして、真の愛も本然の姿を失いました。

この世界には自然な姿の真の愛はかけらも見えなくなりました。しかし、真の愛の存在がなくなれば地獄が永続します。このため、無理に無理を重ね、苦痛を忍びに忍んで真の愛が存在を維持し続ける様にされました。神様は真の愛が大岩のごとく存在するように死力を尽くされました。

これが本然の真の愛を復帰する道だったのです。

 

真の愛を復帰する道はまず神様が行かれました。夜の神様は真の愛に絶対服従され真の愛を貫かれました。昼の神様は夜の神様と真の愛に絶対服従する道を行かれました。真の父母様は天の父母様と真の愛に絶対服従する道を行かれました。

堕落人間は、いきなりそれはできないので、天がみ言を与えられ、それに絶対服従する道を歩むようにされました。それが、旧約、新約、成約のみ言です。これはその時代の人々にとっては真理であり法です。しかしこれが法である限り既に述べました問題が生ずる可能性があり、実際様々な問題が発生しました。

 

そして現在、法を最高位において歩む時代は終わりました。基元節の勝利の後、法治時代は終わり真の愛の全権時代になりました。

最高格位には真の愛があります。人間にとっては神様が上位の格位です。昼の神様にとって神様は夜の神様です。夜の神様の上位の格位にあるのは真の愛です。夜の神様にとっての神様は真の愛です。そのため天の父母様は真の愛に絶対服従されます。

 

基元節までは神様は無理を重ね、愛し難きを愛して真の愛を貫いてこられました。しかし、基元節において夜の神様、昼の神様、真の父母様のご聖婚が実現したことで真の愛が完全に解放されて本然の位置に戻りました。神様の愛は無理して愛する愛ではなく、心から好きだと感じる愛へと戻ったのです。ですから、神様にとって以前は真の愛を貫くことは苦痛を伴いましたが、今は自然の湧き出る愛に変わりました。

 

さて、そういう時代圏において私たちはどのようにすれば良いのでしょうか?

もちろんみ言は私たちの信仰生活の核心です。しかし、それ以上に愛を核心にすべき時代が来たのです。

み言の物差しは善悪を分け分別してくれます。しかしどうしても私たちはこの物差しを自分に向けないで他の人に向けがちになります。そうすると批判や分裂が生まれます。

 

み言はとても切れるのでみ言に基づいて他の人、他の団体、他の民族や国家を見た場合、その分析はほとんど正解です。見事な分析です。特に原理を用いて相手の粗を探し出すことにおいては誰でも名人です。

相手の中にある粗を受け入れ飲み込んでしまうならば素晴らしいのですが、実際は原理のみ言で切り捨て御免状態になることがあるのではないでしょうか?

前述したキリスト教徒の過ちのように実際に刃物を振るわなくても、いつの間にか霊的な見えない刃物を振るってしまう事があるのではないでしょうか?

 

原理が余りに真理なので、私たちは原理の目のみで見ることが当たり前になり、それが習慣化し生活化してしまいました。これは見事な堕落性なのですが、一番気づきにくい堕落性かもしれません。原理を物差しとして正義の目で見ているのであって堕落性などではあり得ないと思ってしまうのです。原理から見てこれが正しいという正義を前面に出して思考をしてしまうのです。正義はこの世も認める善の物差しなので、これにはまるとかなり厄介です。

しかし。正義よりも愛が上位なのです。何よりも正義を優先させることは正に主管性転倒なのです。

 

これは悪い意味で原理に主管されている状態だと言えます。

これは病と言っても良い現象です。毎日み言を訓読し、み言を語る生活をしていても、この病からなかなか抜け出せません。熱心に訓読し原理を語っている食口の中にはそれによってより症状が悪化する人もいるほどに難しい病です。

み言は知識の側面もあるので、知識は増えれば増えるほど傲慢になるというお父様のみ言があります。み言の蓄積量が多い人ほど原理中心に傲慢が加わって、かえって本然から遠ざかることも起こりえるのです。イエス様時代の律法学者やパリサイ人が典型です。

 

この弊害を解消してくれるのが愛の物差しです。

み言に照らし合わせて相手に問題があったとしましょう。

その時こそ愛の物差しを登場させる場面です。

 

あなたはその相手を好きですか?

 

これが愛の物差しです。

 

この時に相手を好きではない、受け入れられないとすれば問題なのは相手ではなく自分自身です。相手に対する原理的見立てが完全に正しいとしても、愛の物差しで見れば私は愛の失格者です。

人と対する時、原理の物差しに従って批判的な言葉を発したくなっても、愛の心情が溢れて愛の物差しに合格するまでは言葉に出さないで沈黙を守ることができるかどうかです。

堕落性の情は、ゆっくり出てきません。

今すぐその場で発散したいという強い力を持っています。

この強い情に負けないで、急がば回れで、時間を置くか、祈って心情転換することができるかにかかっています。

心の中で原理より愛が上位に来るまで我慢できるかどうかです。

食口は正義感が強い人が多いのでこれが至難の業なのです。

天宙主管の前に自己主管というのは情欲の主管に止まりません。

湧き上がる堕落性に基づく裁きや怒りの情動よりも相手が好きだという情が上位にあるかどうかです。

これこそが信仰生活の勝負の時です。

何時でも何処でも、善悪の剣よりも愛の心情が優先できるようになれば天国人の仲間入りです。

 

イエス様は十字架上で怨讐であるユダヤ人やローマ人を好きだという心情に至られたのです。真の父母様も自分に拷問し殺そうとする怨讐を好きだという心情に至られたのです。それで、御父母様を拷問した人が悔い改めるということが起こったのです。

神様がみ言に基づいて法的に判断されたら誰一人として生き残れません。全人類が執行猶予なしの死刑対象です。

真の愛の神様だから人間は神様が好きなのです。愛しているのです。愛の神様だから私たちは許されて復帰されたのです。

 

私達も神様と真の父母様に真剣に似ようとしなければならない時代です。

 

どんな人、どんな団体、どんな民族、どんな国家に対しても

「好きだ」「愛してる」と思えていますか?

み言の剣で切り捨てていませんか?

相手が堕落性に満ち、悪なる要素が多い人に対しても、裁きではなく愛が先立ちますか?

 

絶えず自問自答すべきです。

教会内では食口という善なる人が溢れているので、愛の学校という観点から見れば、初級、中級クラスです。愛するのが難しくありません。しかし、外の世界はそうはいきません。良い人ばかりではありません。表面上は良く見えても実際の中身は上級の難易度の人が溢れています。こういった人に対しても、裁きではなく愛が先立つとすれば愛の達人です。

その域に達した方がいらっしゃるならば、是非証しを聴かせていただきたいです。

 

相手の間違いを正せるのは自分の中に相手を確実に好きだという心情がある場合のみです。それがなければ衝突と分裂しか残りません。

子供が親から怒られても親子の分裂が起こらないのは、子供が親の愛を感じているからです。いくら親が子供を愛している基台の上で子供の過ちを正しても、親の愛が独りよがりの愛である場合は、子供は反発します。親子の場合ですらそうなのですから、他の人に対しては更なる愛の配慮が必要です。

 

法で見ると善と悪に分立されます。法は悪を分立するには必要ですが、分立以上のことはできません。

愛の目で見ると、原理も非原理もありません。どんな人も兄弟姉妹です。

愛は分立したものを統一します。

真理は悪を分立し統一の道筋を示してくれますが、真理で統一することはできません。

心と体、個人と個人、氏族と氏族、民族と民族、国と国、一つにできるのは愛だけです。

真の愛には原理が内包しているので、愛に酔った人は自然に原理に従いたくなるのです。

 

事故にあった人、病気の人、飢えている人、貧しい人、犯罪を犯した人、獄にいる人、更には普通に生活している人からこの世の成功者にいたるまで、全てが他人ではありません。神様や御父母様の目には苦しむ子女に見えます。

誰でも等しく兄弟姉妹として感じるのが真の愛の姿勢です。

 

私たちは神氏族メシア活動や生活の様々な場面で人に会ったり、たまたますれ違ったり、ニュースでいろいろな人、団体、民族、諸国の情報に触れたりしますが、そのたびごとに相手に対して「好きだ」という情を感じているか、いつも注意する必要があります。

 

善悪の物差しを優先させると裁きが起こり自分の心が傷を負い幸せではなくなります。

原理の目で相手を見ても幸せにはなれないのです。

原理の目で見て善悪を判断したとしても最後は必ず愛の目で終えなければなりません。

原理の目のみで見る習慣をやめ、愛の目で見ることを習慣化することが重要です。

いつも誰に対しても愛の目で見る生活をするだけで人生は大きく変わります。

 

愛の目は相手を好きだと感じながら見る目です。

 

是非やってみてください。

基元節の勝利によって真の愛が解放され、愛の目で見ることが以前よりたやすくできる時代になっています。食口、祝福家庭の方であれば更にたやすくできる素晴らしい恩恵時代なのです。

人生がとても楽しくなります。

いつも幸せな気持ちに包まれます。

物差しを原理から愛に変えるだけでこれほど変わるかと驚かれると思います。

基元節の勝利によって本然の位置に戻った真の愛の恩恵を思う存分味わってください。

 

自由、平等、平和、幸福!それが神様の創造理想の地上世界と天上世界であり、解放された万国の主体的な愛の主権として、億千万歳の太平聖代を中心として愛が満ちあふれた世界であり、真の愛が勢力を得る時代です。全体、全般、全権時代に越えていくのです。すべて成し遂げたというのです。イエス様は、十字架で亡くなりながら、霊的救いをすべて成し遂げたと言いましたが、先生は、天地、統一世界において「すべて成し遂げた」と言えるのです。第十二篇 天一国 第四章天一国のビジョンと責任 第二節み旨をすべて成し遂げられた真の父母様3  2003.7.23

 

好きだという情は愛そのものなので神様が関心を持たれないはずはありません。神様は愛が命のお方ですから。

また、好きだという情、愛のある所には愛の香りに引き寄せられ人が集まり万物もやってきます。

具体的にために生きなくても、愛の目で見ていれば人はそれが分かるのです。愛の波動を感じるのです。

人間は愛にはとても敏感なのです。

 

この体験をして愛の力を知った食口、祝福家庭が多くなることが天国の始まりです。そこには愛に引き寄せられて来るなと言っても人も万物も集まります。

言うまでもなく、最後は真理ではなく愛なのです。

​​この真の愛の姿勢を貫くことが個性完成への一番の近道なのです。

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