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天心苑短編集

2024.5.23

本論は理論性、統合性、分かりやすさなどを優先したので各論が長くなりがちでした。また新規の内容をアップするのに時間が空いてしまっていました。
そこで天心苑祈祷で与えられた内容をその日にアップするような短編集を作ることにしました。短い時間で読める内容となっています。

心の高速と高温で一気に上昇

2024.5.15 心の高速と高温で一気に上昇

地球脱出速度というのがあります。地球の重力を振り切って宇宙空間に出るには毎秒11.2キロ、時速4万キロの速度が必要です。
弾丸の10倍から20倍の速度です。音速をマッハと言いますがマッハ33以上です。
これ以下の速度では地球の重力を超えられず落ちます。
これは責任分担の象徴のような話です。超高速を出さないと突破できないばかりか落ちます。
たとえ宇宙空間を出ても毎秒7.9キロ、ジェット機の約30倍の速度を下回ると落ちます。
ここから分かることは責任分担を成し遂げるには心情的な超高速が必要だと言うことです。別の言葉で置き換えれば心情的な超高温です。
今まで皆様も天に大きな貢献をしてこられたと思います。それは心情が高速で高温だからできたことだと思います。
しかしそれで満足していてはそこから落ちます。天が願う責任分担の基準はもっと速く、もっと熱くだと思います。平たく言えばもっともっと高い基準で行け!というのが天の声だと思います。
皆様、超高速、超高温で一緒に宇宙空間に行きましょう!

これは荒唐無稽な話ではなく、霊界での移動速度に関係しています。霊界では誰もが高速で移動できるわけではありません。
その人の心情の速度によると考えられます。その人の心情の速度がロケットより早ければ霊界の地球を脱出して宇宙空間にいけます。
もっと心情が高速で熱ければもっと高速に移動できます。
そして無限の速度と温度に到達すれば銀河から銀河へ一瞬で移動できるようになるのです。
天心苑で祈れば不可能なことはないというのは、そのことも含んでいると思います。

2024.5.20

中心霊の解怨で効果が大きい人とあまり効果がない人の差

中心霊の解怨は天が与えてくださった最大級の恩恵です。しかし解怨して大きな変化のある人とあまり変化のない人がいるのはどうしてなのでしょうか?
次のみ言をご覧ください。

この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。 「宇宙の根本」 第二章 人間創造と愛の理想の完成 五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる

全盛期のサタンですら神様の裁可なくしては行動出来なかったのです。ましてや今は神様全権時代です。
ここから分かることは、解怨しても効果が出ないのは、神様がその役事でその人の中心霊が分立されるのを良しとされないということです。
どうしてなのでしょうか?
悪霊の存在が神様の御業を助ける役目にしている場合があるからです。
復活論の悪霊の再臨復活に書いてある通りなのです。
悪霊の業が神様の御旨を協助する場合は、地上人に苦痛を与えて悔い改めに至らせる場合です。つまり神様が地上人が悔い改めることを願われる時は悪霊の業を止められることはないということです。人間には責任分担があるので復帰されるためには悔い改めが不可欠です。悔い改めない限り神様が役事を起こすことができないのです。
人類始祖も堕落した後に悔い改めればすぐに救いの道があったという御言があります。アダムはエバのせいにして、エバは天使長のせいにしたのです。自己正当化、責任転嫁です。これがやっかいなのです。
天心苑で何度も何度も悔い改めを強調される理由はここにあります。
結論的に言えば悔い改めを伴わない解怨では変化を起きないということです。神様が役事できないのです。
自分に問題があると悔い改めることは簡単ではありません。
今回私たちがこの世から打たれた時、反対勢力のせいにした食口がたくさんいたと思います。残念ながら神様のことがわかっておられない食口がかなり多いのです。
神様は今回の世間からの打撃を防ぐことができないほど無力な方でしょうか。もしそうだと思うならそれは無神論です。
神様は反対勢力が私たちを撃つことを許されたのです。私たちが問題だと教えて下さっているのに反対勢力のせいにするのは神様の悲しみとなります。
さて、中心霊の話ですが、中心霊を解怨しても変化がない方は原因が中心霊ではなく自分にあることを悟らなければならないということなのです。自分自身について何か根本的な悔い改めがなされていないことが原因なのです。
神様の役事が起きるには深く深く自分のことを悔い改めることを生命視する必要があるようです。

天心苑徹夜精誠も同様です。お母様が天心苑で祈れば叶わない事はないと言われたのに祈っても役事が起きないのもその人自身の悔い改めの基台がないからだということになります。
私たちは食口とし復帰されたので選ばれし者という自負心があります。更に知性が高い、情が深い、実践力がある、主管力がある、み言の感化力がある、霊能力がある、牧会力があるなどが加わると傲慢に陥りやすくなります。能力、実績と傲慢は紙一重です。能力がある方や実績がある方は一層注意が必要です。
神様と真の父母様が私たちを愛してくださるのはその愛が真の愛だからです。私たちに能力や実績があるからではありません。どんなに醜くても、能力がなく実績がなくても本然の愛で愛してくださいます。能力や実績があると自分が愛される価値があるからだと錯覚する原因になります。
私たちはいくら立派な人でも一旦堕落の血統から生まれたのでたかが知れているのです。重生して本然にならない限り心の底から喜ぶことができないのです。
天心苑は精誠と役事の場です。その基礎には悔い改めが絶対に必要です。

このように能力と実績がある人ほど悔い改めができないという悲しい現実があります。

私たちは何を悔い改めるべきなのかわからないから悔い改めの必要を感じない事実があります。
天心苑祈祷で何を悔い改めるべきかを祈り求める事から始める必要があるようです。

中心霊の解怨で効果がない人がいる理由

2024.5.22 特赦、恩赦と悔い改め

お父様は晩年、結局一番の孝行息子は孝進だったと言われました。
それは孝進ほど悔い改めた者はいないからだと言われたのです。
これほどまでに悔い改めは重要なのですが私たちはそれがわかっているようで分かっていないようです。
私たちは何度も特赦、恩赦を受けました。それで過去は消されたと思って悔い改めないことが起きます。
しかし心の深い所では、過去の過ちを自分が許していないことが分かります。
以前は責任分担は神様から愛されるに相応しい者となるためだと思っていました。信仰生活も神様の子女になるのに相応しいと神様から公認を頂くためだと思っていました。
しかし、神様はどんな堕落人間でもご自身の子女だと思っておられ、それがぶれたことがない方です。真の父母なのです。
そう考えると責任分担は何のためにあるのでしょうか。神様が私たちをご自分の子女だと思って下さっても、自分自身がそう思えるわけではありません。
人間が心から堂々たる神様の子女だと思えるようになるために責任分担があるのだと感じます。
真の父母様も初めから全人類の父母だと心から思えたわけでないと思います。人類のために精誠を尽くし抜く事で真の父母だという揺るぎない確信を獲得されたのです。
自分で自分を納得させるのは簡単ではないのです。
皆さんはご自分の過去を許しておられますか?
特赦や恩赦を受けても自分が自分を許せるわけではないのです。特赦、恩赦で讒訴条件がなくなりますが、それによって自分を許せるわけではないのです。自分で自分を許していない心、これが悪霊以上にやっかいだと思います。この心は心の深い深い底にあって消えない心の痛みとなっているのです。皆様はこの痛みを感じますか?
神様が私を許し愛して下さっても、私が私を許さないのです。この心に悪霊が居座ります。
これを解決する道は徹底した悔い改めしかありません。自分の良心、本心が納得するまで悔い改めないと自分で自分を許せないのです。
このように精誠と同じ程度に重要なのが悔い改めです。悔い改めと精誠が両輪となって責任分担の完遂がなされると思います。
私たちは徹底した悔い改めをする必要があるのです。
孝進様に悔い改めの役事をお願いすれば喜んで助けてくださると思います。
本心、良心の声はとても厳しいのです。サタンの讒訴よりも強いかも知れません。
三大罪は、淫乱、公金横領、心情蹂躙です。
孝進様の悔い改めのレベルを目指す必要を感じます。

悔い改めが重要である深い意味
現在から逃げる堕落性の解決

2024.5.26

現在から逃げる堕落性の解決

堕落性本性とはサタンと人類始祖が堕落をすることで形状化、実体化した本性だという事ができます。
性的な愛を卑しいものだと感じてしまう感情が湧き上がるのも堕落性です。堕落性は心の隅々まで入り込んでいて、それがサタンと堕落した人類始祖から受け継いだものだと感じるには良心を研ぎ澄ます必要があります。
さて、現在から逃げる堕落性というものがあります。
人類始祖は堕落することで大変な罪を犯したという悔恨を強く持ちました。これにより過去は暗闇になりました。また良心の苦痛を強く感じた人類始祖の心には今後罰を受けるような苦しい事が待ち受けているという不安が生まれました。
このように過去には悔恨と暗闇を感じ、未来には不安を感じるという堕落性が生まれたのです。その悔恨と不安によって現在が押しつぶされるような事が生じています。簡単に言えば、現在は苦しい時間帯なので幸せを感じないということです。
現在という神様が役事される一番重要な時間帯が、押し寄せる悔恨と不安によって苦しい時間帯になっています。
現在の苦しみから逃れたいので行くのが観念の世界です。良い思い出のある過去の観念世界、過去の自慢話に浸る人もかなりいます。また明るい未来を想像する観念世界、これは夢を描くことでもありまが不安が占領しています。例えば、自分が死ぬという未来は確実なのですが、不安が大きいためそこから目をそらします。この過去と未来という二つの世界からの影響は潜在意識的でとても強く、現在は簡単に悔恨と不安に占領されます。その上に、現在世界に厳しい現実が加わると耐えられなくなります。

それで過去、現在、未来などと関係ない観念世界に行こうとします。
都会に行って電車に乗るとスマホをいじっている人があまりに多いことに驚きます。またゲームや仮想空間、テレビ、ドラマに浸る人も多くいます。これが全て悪いわけではありませんが、この割合が問題です。意識が現在になく、過去の観念世界、未来の観念世界、時間と関係ない観念世界に行く割合が8割を超えるようです。
良心の感覚が鋭い方はこの異常さを強く感じておられると思います。
神様の働き(役事)は現在に行われます。それを妨げようとする悪霊は人間の意識を現在から引き離そうとします。そして人間はまんまとやられています。このような中心霊、悪霊、恨霊の戦略は見事です。
病気、家庭の不和、子供の問題だけが悪霊の業ではないのです。意識が現在にない問題は同様に深刻です。

 

この問題に対する最高の解決策は祈りです。祈りは今を生きる神様との授受作用です。天心苑での祈りも呼名祈祷も意識は今を生きられる神様に向かいます。
過去への悔い改めや未来へ願いも観念ではなく今を生きる神様に向けられので現在に焦点があるのです。現在から逃げるのではなく全てを現在に持ってくるのが祈りなのです。
祈りが生活化すれば人類始祖から受け継いだ現在から逃げる堕落性を克服できるのです。現在に過去と未来を持ってきて過去と未来に対する意識を変える事ができるのです。祈りによって過去と未来と現在を幸せだとに感じるようになるのです。これは祈祷の恵みの一つです。
皆様も日々の生活の中で良心を研ぎ澄ませて、自分と社会、世界に染み込んでいる隠れた堕落性を見つけ出してください。

(現在から逃げる手段の典型として依存症があります。酒、たばこ、麻薬、いじめ、パワハラ、セクハラ、虐待、DV、スマホ・ゲーム依存、ギャンブル依存、買い物依存、など数限りなくありますが、それについては別の機会に述べます。)

善神に主管される

2024.6.1

悪神に主管されるか、善神に主管されるか(驚きの証詞)

天心苑で、夢で御父母様にお会いした、現実に御父母様が現れて対話した、父母の愛に触れて涙がとめどなく流れたなど様々な証詞を聞いていますが、それは人生において貴重な体験です。

そんな中、最近素晴らしい食口と授受する機会を得ました。その方は春の風のような万年少年少女のような方でした。仮にAさんとしましょう。

私はあることを成し遂げるのにどうしても一点が突破できずにいました。私の持っている天稟と能力では難しいと考え、できる人を探していました。そしてAさんにお願いしました。とても素直な方ですぐに引き受けてくれました。

 

お願いした使命は簡単なことではなく、一大決心が必要な内容です。Aさんが決意できた後にお父様が現れて「お前がやってくれるか?」とお聞きになった後に、決意を確認し感動し喜んでおられたというのです。

それでAさんを指名した私も鼻高々だったのですが、後ほど私が指名したわけではないということが分かったのです。

Aさんは祝福の相対者と初めて会ったときに相対者から「御父母様のようになってください。」と言われたそうです。それは相対者の願いだということになるのですが、最近、お父様が現れて「あれは私が言わせた」と言われたそうです。これを聞いて天の父母様と真の父母様の役事はそんな深い次元で行われることが分かりました。

私が自分の能力の不足でできないことを悩み、誰かできる人はいないかと模索してAさんにたどり着きましたが、私がやったと思っていたのは全く違うと分かったのです。天が95%をなしておられることを強く認識しました。

(Aさんは、願えばすぐにお父様、お母様、孝進様、興進様、大母様が現れて毎日のように対話をしています。そのたびに泣いているような人です。本人はとても純粋で、最近までほとんどの食口はそういう能力があると思っていたようです。Aさんに託した使命や天との対話内容などお知りになりたい方も多いでしょうが、私が徐々に話しますのでAさんが誰なのかなどは考えないでください。また、Aさんが誰なのかある程度分かった方もいるかもしれませんが、そのことで連絡を取らないでください。その使命はできると決まったわけではありません。責任分担があります。それで使命に集中させてあげてください。)

Aさんと出会い、私は今までの自分の信仰生活を悔い改めざるを得ませんでした。

本題は次に書きます。

善神に主管される(天心苑の意義)

2024.6.1

悪神に主管されるか、善神に主管されるか(天心苑の意義)

 

私たちは様々な決断をして様々な活動をしています。人間の決断と活動によって世界は動いているかのように見えます。しかしそれは余りに表面的な見方なのです。

重要な点は、人間が形状であり、結果的な存在だということです。私たちは形状なので、性相的存在の影響が95%なのです。本当に自分で決断し行動しているのは5%以下なのです。

例えば、この観点から世界大戦を眺めると、復帰摂理の実像が見えてきます。表面上は参戦国の諸事情と理念あるいは利害のぶつかり合いに見えます。しかし、それは全体像の5%を捉えているにすぎません。95%を占める性相のぶつかり合いが根本なのです。世界大戦は、動機は全く反対ですが、本当に神様とサタンのぶつかり合いなのです。

 

人類始祖は神様に従うか、サタンに主管されるかという選択を誤り堕落しました。人間にとって神様に主管されるか、サタンに主管されるかという道のうちどちらを選ぶのかというのが責任分担なのです。世の中のほとんどの人は自分を誰にも主管されていないと思っているのですが、事実はサタンを代表する悪神に主管されるか、神様を代表とする善神に主管されるかのどちらかしかないのです。

なぜ、サタン、悪霊を悪神と呼び、神様、善霊人、善天使を善神と呼ぶのかといえば、これらの存在が人間の性相として機能できるからであり、人間の95%をコントロールする神の立場にあるからです。

 

人間は形状的、結果的存在なので、性相的存在である悪神か善神のどちらかに主管される道以外にはないのです。これはとても重要な観点です。人間は中間位置に落ちたので神様とサタンのどちらにも主管されないこともあると考えがちですが、中間位置も含めて善神に主管される以外の道は本然ではないので、悪神に主管されていると結論付けることができます。私たちはこの観点が良くわかっていなかったと痛切に感じます。

 

世の中には良心的に生きて社会的信用があり、良い家族や良い仲間に恵まれていると思っている人もいると思います。そこには悪霊は関与してないように見えます。しかしその人が神様や真の父母様に行こうとしてないなら、悪神に完全にやられているのです。一見幸せそうに見えても悪神の思うつぼなのです。悪神にとってはその人が神様や真の父母様に行くことを妨げることができれば大勝利なのです。

 

この観点は私たちにもきっちりと当てはまります。信仰生活を何年も続け指導者の位置にあったとしても、天の父母様、真の父母様、孝進様、興進様、大母様や絶対善霊と相対基準が結べない状態なら、悪神に主管されている状態なのです。この点に、お母様が天心苑を用意された重要な根本理由のがあると感じます。天心苑祈祷が重要だと感じていない食口は霊的五感が鈍らされているのです。自分の観点で天のために動いていると思っていても、天の父母様や父母様から見れば悪神に完全にやられているのです。天心苑祈祷をしない食口のために祈祷をお願いします。悪神にやられている人間を見て、天はどれほど心がえぐられるお気持ちでしょうか。

 

天心苑は私たち食口が善神に連結するための役事の場です。

善神に連結すれば善神の持っている内容を相続できます。これが、苑長が強調される能力を受けるということです。いまこそ善神と一体化して能力を相続する時です。

 

もう一度強調させてください。人間は形状なので、性相の主管を受けるようになっているのです。性相の影響を受けずに存在することはできません。性相と形状は二つで一つです。このうち性相の役割は95%です。

善神に主管されない生活をしているなら、それは悪神に主管されていることを意味します。私たちはこの点をなおざりにしてきました。これでは信仰生活をしてきたとしても自己満足の次元に留まります。

信仰生活には中間地帯はありません。中間地帯は悪神の主管領域です。結局、善神の導きにどっぷりつかる以外に道はありません。

天心苑祈祷の時間はもちろんのこと、その以外の時間も常に善神の主管下に自分をおく生活が必要です。気を抜けば悪神の主管下に簡単に落ちます。

天心苑の奥の院

2024.6.4

天心苑の奥の院に入られましたか?

 

霊性修練性が歌うway makerという歌は、元の歌詞を見ると神様=イエス様という内容です。キリスト教はイエス様を神にしてしまいました。これによりイエス様は人間とは心情的に遠い関係になってしまいました。人間は僕であるサタンの配下に落ちたので、僕の僕、つまり奴隷になり、奴隷根性が根底に流れるようになりました。イエス様は奴隷のような自分からすると神様だという価値観を生んだのではないかと思います。

 

同じように私たちは神様と真の父母様に対して自分たちとは根本的に違う遠い存在に追いやる傾向が生まれます。天の父母様と言っても父母とは思えない、真の父母様とはいっても父母とは思えない、そんなことは恐れ多いという気持ちです。

 

私たちは原理の根幹にある創造原理と堕落論を間違って捉えてきたと感じます。

創造原理は、人間は神様の子供だと言っています。

堕落論は、人間はサタンの子供に落ちたと言っています。

相反する概念です。どちらを中心に置くかによってその人の信仰生活は全く違うものになります。原理講論には神様が人間を見てどう思っておられるのかが明確に書かれていません。御父母様のみ言を見ると、人間が怨讐である姦夫サタンの子供になったことが随所に書かれています。それで堕落論を中心に人間を捉える食口がたくさんいることになりました。御父母様がそのように言われたのは神様の苦痛がいかに大きいかを知らせるためなのですが、結果として堕落論中心の人間観が根付きました。日本人は自己卑下の人が多いので、この価値観がぴったりはまっている方が多いのです。

 

しかし、み言を注意深く見ると、神様は人間に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従であり人間の堕落後もその愛は変わることがないことが分かります。

 

さて、創造原理と堕落論の捉え方ですが、創造原理があくまで中心です。なぜなら創造原理は神様が人間を見つめる不変の愛の観点です。堕落論は強烈な事実ですが、重要なことは、堕落しても創造原理にある神様が人間を見つめる愛の目は変わらないということです。私たちは神様の目で自分を見るべきなのです。堕落論を語る時も、最後にそれでも神様の人間に対する愛は不変だということを入れるべきです。

このように「私」はあくまでも神様の子供です。知らないうちに罪を犯し、堕落性に満ちていても神様は私を永遠の実子として愛しておられます。真の父母様も全く同じです。

ですから、悔い改めは自分が神様の実子だという軸は絶対不変のものとしてブレない前提で行う必要があります。神様の実子なのにこの有様で申し訳ありませんというのが悔い改めです。神様の実子であることを否定するような内容は悔い改めではありません。堕落論中心の信仰生活は心霊の成長が見込めません。

 

さて、皆様は天心苑の奥の院に入られましたか?

そこには真の父という自分の実の父と真の母という自分の実の母がいます。お父様、お母様というよりお父ちゃん、お母ちゃんと言ったほうが心にしっくりきます。

孝進様、興進様はお兄ちゃんです。大母様はお婆ちゃんです。

天心苑で祈るとどうして願いが叶うのかといえば、私が真の家庭の末っ子であり、ご子女様の弟、妹だからです。神様の息子、娘であり、真の家庭の一員なので家族の功労の全てをもらえるのでどんな願いも叶うのです。

 

天心苑の奥の院に興味ある方は「天心苑にある究極の恩恵」と「天心苑にある究極の恩恵 心情の質的変化」をご覧ください。

最高の呼名祈祷

2024.6.7

最高の呼名祈祷

 

日々の精誠ありがとうございます。

日常生活で呼名祈祷を頑張っておられると思います。私も生活の中で呼名祈祷して色々試してみました。

私の少ない経験ではありますが効果を検証してみました。呼名の対象は家族や伝道対象者、摂理的義人、天に対する貢献の大きかった霊人、ワンオンマなど色々あると思います。

 

最高の呼名祈祷は祈った自分も復活するものだと思います。検証の結果、お父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷が圧倒的な恩恵が大きいと分かりました。

皆さんお父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷をされたことはありますか?

これは韓国語で言えばアッパ、オンマ呼名祈祷です。

それならアッパ、オンマ呼名祈祷で良いではないかと思われる方もいると思います。韓国の食口は真のお父様と真のお母様と心情的に近くなるとアボジ、オモニではなくアッパ、オンマと呼ぶようになります。アッパ、オンマは韓国では幼い子供が親を呼ぶ言葉です。アッパ、オンマという言葉は親を慕い求める強い情を伴います。

 

一方、私たち日本人がアッパ、オンマと呼んでも親を慕い求める強い情は生まれません。言葉の壁がこれほど大きい言葉はありません。

そこで言葉の壁を超える道が必要です。韓国語が日本語と同様に使える人でもアッパ、オンマという言葉で韓国人と同じ情感を持つことはできません。

そこで、韓国語でアッパ、オンマに当たる情感を誘発する日本語が必要です。

それがお父ちゃん、お母ちゃんです。(自分が幼い時に父と母を呼んだ言葉です。パパ、ママの人や父ちゃん、母ちゃんの人もいると思います。その言葉で呼名してください。)

 

お父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷の効果を発揮するにはポイントがいくつかあります。

 

・気に入っている御父母様の写真を何枚か用意する。そのお写真を見てから始める。あるいは見ながら行う。

・子供に帰って、幼子になって、お父ちゃん、お母ちゃんを慕い求めるように大きな声で何回も何回も呼ぶ。自分が幼き時、初めて父母を呼んだ呼び方で大きな声で呼ぶ。パパ、ママ、父ちゃん、母ちゃん、オトン、オカンなど。

この時、恥ずかしさを超えて幼子になり切りましょう!

・声が漏れる事が気にならない空間を確保する。止めた車の中、走る車の中なども良いです。

・回数は気にしない、あるいは数えない。気持ちを投入する事に集中する。

・真の父母様に情的に近くなると安心して気を緩めがちになるのですが、もっと情的に近くなることを求めて継続しましょう。

・寝る前、朝起きた時に必ずお写真を見てお父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷しましょう。この時は大きな声でなくても良いです。

 

お父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷をする恩恵

・公的な場では真のお父様、真のお母様ですが、心情的な距離が極めて近くなるので、真のお父様というより私のお父ちゃん、真のお母様というより私のお母ちゃんと感じるようになります。再臨主は、元々人類一人一人の実の父として来られ、実体聖霊は人類一人一人の実の母としてこられます。真の父母様は真の父母の愛を完成されたので、あらゆる空間に真の父母様は私の実の父母だと感じる父母の情が満ち溢れています。そのため真の父母様は私の実の父母だと感じる情が当たり前に感じる事ができるようになっています。それが普通なのです。それが日常なのです。

・どんな立派に見える人でも中身は幼い子供です。ですからいつも愛情に飢え乾いた状態なのですが、無理して大人のように振る舞っています。何でも言えて、何でも受け入れてくださり、いつも心配してくださる父母を持ったという幸せは素晴らしいものです。人生が安心感に満たされます。

・真の父母様と心情的に近くなればなるほど真の父母様と一つになり勝利圏を相続できます。

この世界で成功している人は、自分の実力で成功したと思っている人が多いと思います。しかし成功者のストーリーの中で一番重要な内容が抜けています。

それは先祖の功労です。成功者の成功した原因のほとんどが先祖の功労です。先祖の立てた精誠です。この精誠故に神様が祝福されたので成功できたのです。本人の努力など成功した要因のほんの一部に過ぎません。

ここにわたしたちの願いが天心苑で叶う理由があります。

私たちの先祖は真の父母様です。真の父母様の功労、精誠はどんな願いでも叶う内容です。このため私たちが真の父母様の実の子供だという心情が強まれば、それだけ真の父母様の捧げられた精誠に連結するのです。

このように真の父母様の用意された天の宝物殿に連結するのがお父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷です。ワンオンマ呼名祈祷も良いのですが、私たちは幼き時代にオンマという言葉で母を呼んだことがないので気持ちがこもらないのです。

 

なお、分かりやすい説明は、下記をご覧ください。

 

天心苑にある究極の恩恵

天心苑にある究極の恩恵 心情の質的変化

天心苑の至聖所の先

2024.6.16

天心苑の奥の院の更に奥にある門

 

天心苑の至聖所に入れた感覚は得ていたのですが、その先があるのをずっと感じていました。最近やっとその姿が見えてきたのでここに開示いたします。この恵みを皆様と共有できることはこの上ない幸せです。

 

天心苑の奥の院に入るには強い情的力が必要です。信仰的な力では奥の院に入れません。従来の神様と真の父母様、真の家庭に対する信仰では入れません。


天心苑には奥の院に至るヒントが正面にあまりにも明確に描かれています。写真のように精巧な絵を見て偉大な真の家庭の方々の姿だと思っている人はその先には行けません。

真のご家庭と自分との心情的な距離がありすぎて到達できないのです。

天心苑正面にあるのは自分自身の家庭の父母であり兄弟であり祖母だと分かると、その先に進めるようになっているのです。そこが天心苑の奥の院です。

 

奥の院という言葉は私が勝手に言っている言葉ですが、天心苑正面とは全く違う心情世界が広がっているので奥の院という言葉を使いました。天心苑の至聖所と言ったほうが正解だと思います。

この天心苑の至聖所に入る道については毎日天心苑祈祷会に参加し、日々の生活でも呼名祈祷や祈祷をすることで与えられたものです。これは私が皆様にお届けできる最高の内容ではないかと思います。

 

これについては下記の内容をお読みくださり、ご自分でも祈祷で確認なさってください。

天心苑にある究極の恩恵

天心苑にある究極の恩恵 心情の質的変化

天心苑短編集にある「最高の呼名祈祷」と「天心苑の奥の院に入られましたか?」

 

さて、これからお話しするのは、天心苑の至聖所の更に先にある門についてです。

そこに至るには心情的に更にスピードを上げる必要があります。天心苑の至聖所に入った喜びに浸った後にはそこで満足せずもっとギアをあげる気持ちが重要となります。

 

天心苑の至聖所の先にある門とは何でしょうか?

モーセ路程には幕屋についての記述があります。モーセの時代の至聖所は大祭司だけが一年に一度だけ入ることを許された場所です。不信仰な大祭司が至聖所に入るとその場で死ぬことが起こったため、大祭司が死ぬ場合に備えて、大祭司は体にひもを結んで入ったと言われています。至聖所には大祭司以外は入れないので、死んだ場合はひもで引っ張り出すためです。至聖所はそれほど尊い場所です。至聖所には幕屋の縮小体である契約の箱があります。

 

契約の箱の上には贖罪所がつくられていたのであるが、神が言われるには、金をもって二つのケルビムをこしらえ、贖罪所の左右に向かいあわせに置けば、二つのケルビムの間から主なる神が親しく現れて、イスラエルの人々に、命じようとするもろもろのみ言を語るであろうと言われたのである(出エ二五・16~22)。これは将来、二つの石板に表示されているイエスと聖霊とが来られて摂理されることにより、贖罪が成立すれば、その贖罪所に神が現れると同時に、エデンの園において、アダムが生命の木の前に出ていく道をふさいでしまったケルビム(創三・24)が左右に分かれて、だれでも生命の木であられるイエスの前に行って、神のみ言を受けることができるようになるということを表示してくださったのであった

原理講論後編 第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 第二節 モーセを中心とする復帰摂理 (2) 第二次民族的カナン復帰路程 ③ 幕屋を中心とする復帰摂理 (イ) 石板、幕屋、契約の箱などの意義とその目的

 

神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。創世記三・24

 

天心苑にも聖所と至聖所があります。天心苑は天一国時代の幕屋にあたります。モーセの時代、幕屋はイスラエル民族を救うためにものでしたが、幕屋を不信した者の末路はご存じだと思います。

 

人類始祖が堕落したときに神様がケルビムと回る炎の剣で命の木の道を塞がれたとあります。この道を再び通れるのは、贖罪が成立しケルビムが左右に分かれる時であることが分かります。ここから天心苑の至聖所の最後の門は贖罪が成立しないと開かない門だと分かります。

 

この門を通過するには、完全な贖罪を成し遂げることが必要です。

それには祝福を受け、真の父母様を信じるだけでは不十分なのです。堕落を蕩減するのに十分な条件が必要です。

 

エバが堕落したのは、死んでもいいと思うほどにルーシェルを愛したからです。死を超えてもいいと思うレベルでルーシェルを愛したことが堕落なのです。アダムもエバも死ぬほど神様を愛したのではなく、死ぬほどサタンを愛したのです。この愛を蕩減しないといけません。贖罪と蕩減の本質がここにあります。

それには神様の実体である真の父母様を愛する愛が、死んでもいいと思うレベルに至ることが必要です。それが本当の蕩減復帰であり贖罪です。

 

信仰ではこの愛には至れません。

ここに至ることができるのは肉親への強い愛です。

アッパ、オンマ呼名祈祷、お父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷です。

この呼名祈祷の不思議なところは、お父様、お母様が慕わしく、「好きだ」が「好きだ!」へ、「好きだ!!」へ、「好きだ!!!」へと日に日に高まっていくところです。この呼名祈祷はお父様、お母様を好きでたまらなくしてくれます。お父ちゃん、お母ちゃん呼名祈祷をしていくと、不思議な泣きそうな強い心情がやってきます。

その強い心情を感じたのは、2日前に仕事で往復2時間の道を車で走った時でした。車の良いのは思いっきり大きな声を出せるので周りを気にする必要がないことです。

 

そのような強い情が押し寄せてくるのは、空間すべてにお父様とお母様が「私」のことを「好きだ!!!」と思ってくださっている情が溢れているからです。信仰で求めれば信仰で返ってきます。愛で求めれば愛で帰ってきます。肉親の愛で求めるなら、肉親の愛がやってきます。強い肉親の愛で求めれば、強い肉親の愛で応えてくださいます。完全な真の父母の愛が既に存在しているのです。孤児だった私に本当の肉親がいたのです。

 

愛は高いところから低いところに流れます。父母は偉大で高いほど強くて大きな愛が流れてきます。父は真聖徳皇帝です。勝利された再臨主であり独り子です。母は独生女、実体聖霊です。どれほど素晴らしく尊いでしょうか。それが私の実の父母なのです。

 

この強い愛は、父母様がいれば死んでもかまわないという高みに連れて行ってくれます。最高の愛が自分に流れてくるのです。他のものは何もいらない気持ちになります。死んでもかまわないほどの強い愛に包まれます。

 

天心苑で願いを叶えてくださいと祈りますが、それすらもいらないほどの気持ちになります。父母様に命を捧げようと必死になる必要はありません。好きでたまらなくなれば自然にその情になるのです。

 

その情に至れば天心苑の至聖所の先にある最後の門が開きます。

しかし、一時的ではなく、絶えずその情を感じるようにする必要があるようです。

そのためにはスピードを緩めずさらにスピードアップしてサタンの情の領域を振り切ることが必要です。真の父母様への強い肉親の情だけがそれを成し遂げられます。

ピュアウォーターへ道

2024.6.23

堕落性に満ちた立場からピュアウォーターへ道

 

堕落性を脱いで創造本姓に至る道については原理講論には堕落性を脱ぐための蕩減条件として出ています。アベルを愛して、仲保とし、屈服し、善を繁殖するのですが、この場合、アベルとは教会の組織上のアベルに留まりません。すべての人をアベルとして接することで堕落性が脱げていきます。

また、復活論の悪霊の再臨復活のところにも出てきます。ここに悪人や悪霊の悪なる業を甘受することで堕落性が脱げると明確に書いていただきたかったです。悪霊の救いの方法としてのみ記載されているので、実践に結びつかなかったことが悔やまれます。

現実的には愛しがたく、堕落性に満ちた人が次々に出現します。その人の堕落性を見るのではなくその人を送ってこられた神様の心情に思いを馳せて初めて超えることができます。このやり方で堕落性を脱ぐ信仰生活をしてくることが天の願いでした。しかし、実際勝利できた人は食口の中でごくわずかです。私の知る範囲では一人しか知りません。この方は余りに多くの試練が次から次へとやってきましたが、そのたびに試練を与えざるを得ない親なる神様の心情に立って超えてきました。そしてみんなが避けたがることを自分が背負って後始末をする人生でした。そして試練がやってくるとだんだん慣れてきて、「今度はそう来たか」と思えるようになったと言っておられました。これが以前お話ししたAさんです。

そして今年2024年6月17日(月)安侍日の11:11に天の父母様、真の父母様、孝進様、興進様、大母様が総出で拍手していただいたと証詞していました。

このような証詞を聞くと、自分がそのように勝利できずに今に至っていることがとても悔やまれます。

 

ほかにも堕落性を脱ぐ道についてみ言が黒色の天聖経「地上生活と霊界」第三章 霊界 一 肉身を持って体恤可能な霊界 4 霊的体恤の過程、にあります。既にご存じの方も多いと思いますがご紹介します。

 

我々食口達は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接した様な、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入る様になれば、我々の体が、堕落性を持っている為に、必ず反発する様になります。神様の神性と反発する様になります。

それ故、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスの様に、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。

  この様な役事を絶えずする様になれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に一〇〇パーセント受け入れる事が出来る様になるのです。その様になれば、その様な現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれる事を皆受けながら、寸分も違わないのです。この様な現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。

 

このような役事を通過する食口が出現することを願われて語られたみ言だと思いますが、これを通過した食口はさらに少数だと思われます。ここに御父母様がご苦労された理由の一つがあります。私たちは天の願われた基準に到達できていないのです。残念ながら、あまりに遠い所にいる私たちです。

真の父母様はその問題を解決するためにご苦労してこられたといっても過言ではありません。次に続きます。

100日修と天心苑

2024.6.23

霊界での100日修練会を地上に展開したのが天心苑精誠祈祷会

 

ピュアウォーターの基準に達する食口が少ないことを見越して御父母様は興進様と大母様を霊界に送って道を造ってこられました。正にway makerです。御父母様の指示を受けて興進様と大母様が、善霊であろうと悪霊であろうと霊人が堕落性を脱いで絶対善霊になる道を開拓されました。それが解怨後の100日修練会です。これは悔い改めと特別なたわしで霊人体にこびりついた堕落性を削ぎ落すことによってなされます。

これは既に霊会に行ってしまった霊人が、肉身がなければできないことを天の恩恵によってなされた役事です。この場合やはり生力要素が必要ですがそれは御父母様の精誠によってご自身から生じる生力要素を与えられたのではないか思います。

 

このような役事は霊人の復活のためにあるだけでなく、地上人の最終復活を実行するための準備でもあったのです。

ずっと以前ですが大母様が、霊肉祝福を受けた霊界の絶対善霊が地上の相対者の霊人体をたわしで磨いて綺麗にする役事が行われていると言われていた事を思い出しました。しかしここに問題があります。地上では100日ですが霊界では100年なのです。要するに100年かかる役事なのです。これを地上人に対して行っても霊界に行くほうが早くなってしまい間に合いません。私にとっても霊界での100日修は憧れの存在でした。しかし、この100日は地上の100年にあたると聞いて、やはり甘くないなあと思っていました。

 

それで霊人が絶対善霊になる方式を地上に持ってくるのには、100年という時間をもっと短縮することが必要となります。そのために真の父母様、孝進様、興進様、大母様がどれほど精誠を投入されたか想像もつきません。

 

そしてお母様から天心苑はお母様の胎中だというみ言が発せられました。

天心苑はお母様の胎中だというみ言は、霊界100日修練会のような本然の人間に生まれ変わる役事が天心苑で始まるという宣言だったのです。私たちは自分で自分の霊人体をたわしで磨くことはできないので、それをなしてくださるのは絶対善霊の方々です。解怨した先祖圏や恨霊、悪霊の数が多いほどこの役事においては有利です。この方々は私に対して一番一生懸命役事してくれる存在です。どれほど懸命にたわしで堕落性を削ぎ落してくれるでしょうか。

また、真剣に悔い改め、真剣に祈る人ほど絶対善霊が役事しやすいのは言うまでもないことです。

(私は天心苑で祈って精誠を捧げることで天が重生へと導いてくださると思っていましたが、その解釈では余りに不十分でした。お母様の腹中である天心苑における絶対善霊の役事の重要性に気づいていませんでした。お詫びいたします。本来は間違った部分はすぐに手直ししたほうが良いのですが時を見てしたいと思います。)

 

このように霊界の100日修練会と同じ仕組みが天心苑祈祷会にはあるのです。しかも短期間で変化するようになっているのではないかという感じがします。もしそうなら天心苑の恵みは驚くべきレベルだということになります。

天心苑徹夜精誠に参加する前と後では心霊の成長のスピードが違うと思われませんか?

堕落性は薄まっていませんか?

恨霊、悪霊、中心霊でさえも絶対善霊になるのです。私たちは天心苑で汚れなき綺麗な霊人体を手に入れることができるのです。

 

それから中心霊の解怨について感じた事があります。

中心霊の解怨で大きな変化がおきるのは、一番影響力の強い霊人の影響がなくなってだけではない気がします。地上人の変化はそれだけでは説明できない気がします。

これもだいぶ前に大母様が言われていたのですが、霊界100日修では霊人の霊人体に欠けている部分があると興進様がその部分を修復されるというのです。

これが中心霊の解怨の時に地上人の霊人体に対して行われているような気がします。それが中心霊の解怨をした地上人の中に別人のように変化する人がいる理由だと思います。このように想像をはるかに超える役事が天心苑を中心に今起きています。

 

最近、苑長が話し始める時に必ず1000回を超えて、と言われます。1000回を越えて天の父母様が地上に来られたので異次元の祈祷会になってきたようです。

神様を解放するのです。そうすれば終わりです。神様が思いどおりにすることができるのですから全知全能の神様の全権全能を行使する時代が来るので、そこは泰平王国とならざるを得ないということを知らなければなりません。「真の神様」 第四章 五 神様を解放してさしあげよう 2.神様の解放は人間がしなければならない

これは祈祷会というより修練会と呼んだ方が良いほどの威力です。

特に天心苑祈祷会を呼名祈祷や祈祷によって生活化することによって1日を全て修練会にすることもできる気がします。それだけ天の父母様が地上に降りてこられたことの恩恵が大きい気がします。前回述べた堕落性を脱ぐやり方も同時並行してできる時を迎えていると思います。

 

お母様の在世期間に人類の3分の1が真の父母様を受け入れる基準が願われていますが、先駆け歩んだ祝福家庭が完成することも当然お母様の構想に入っていると思います。

天心苑祈祷会は真の家庭の方々や先祖圏絶対善霊や他の絶対善霊の方々が、私たち一人一人に対して戦争のような真剣さで堕落性を洗い流し、欠けた部分に肉を付け本然の姿に戻すよう役事されます。

戦争のような真剣さとは命がけだという事になります。役事をしてくださる霊人の方々が、さまざまに醜さ、堕落性ゆえに死んでいる私たちを真の愛で命がけで蘇生させてくださる役事の場です。

皆様、私たちも戦争のような真剣さで何としても生きている内に完成してお母様の願いを完成しましょう!

王座に君臨

2024.6.30-1

王座に君臨するみ言

たくさんのみ言があります。どれも大事ですが何が中心の柱なのでしょうか?

み言の王座に君臨するみ言はあるのでしょうか?

このみ言があれば他のみ言は要らないと言えるほどのみ言はあるのでしょうか?

私たちはこのみ言の価値を知りませんでした。そして実践しようとしてきませんでした。

 

このみ言は食口であれば誰でも知っているものです。

それは絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。

次のみ言をご覧ください。

 

絶対信仰、絶対愛、絶対服従することのできる人になりさえすれば、統一教会の原理を知らなくてもいいのです。成約人への道」第四章 成約人への道 三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建 1 第一宣言:新希望農場(New Hope Farm)宣言

 

新約、旧約の完成と原理を知らなくても、これを中心とし、神様のみ旨を中心として、ただそのまま家庭だけが絶対信仰、絶対愛、絶対服従することができる基準に越えていけば、天国に行くのです。「真の家庭と家庭盟誓」第一章 家庭盟誓宣布と前提条件 一 家庭盟誓が出てくるようになった背景 1.今は個人ではなく家庭時代

 

絶対信仰、絶対愛、絶対服従することのできる人になりさえすれば、統一教会の原理を知らなくてもいいのです。」というのは絶対信仰、絶対愛、絶対服従がみ言の王様だということを示しています。

 

私もこのみ言の重要性は分かっていたつもりでしたが、捉え方が甘かったと反省しています。

教会に来る前から絶対信仰、絶対愛、絶対服従の性質を色濃く持っている人がいるということを最近知りました。教会に来る時の状態は食口によって差があります。先祖の功労や後天的条件などかなりの差があることは確かです。しかしここまで違うとは思っていませんでした。それは前述のAさんに会ったからです。(「Aさんの驚異的な証詞」を参照してください。)

Aさんはミッション系の学校に行ったことも加わって絶対信仰、絶対愛、絶対服従に近い性格を持っています。そんな人を私はAさんしか知りませんが、皆さんの周りにはいらっしゃるのかもしれません。あるいはご自身がそういう方かもしれません。

 

出発点での差はあまりにも大きいと痛感させられています。絶対信仰、絶対愛、絶対服従に近い性格を持っている人は好循環が起こります。どんどん天に昇っていくのです。神様の心情が良く分かります。Aさんが、神様は愛することしかできない方だといった言葉が印象強く残っています。

Aさんのような高い心霊基準に至る人を育てるために真の愛の教育体制が必要だと痛感します。何よりも私たちが変わらないといけません。

私を含めて一般の食口はそうではないので好循環が起こりません。竜巻の回転のように上昇できないのです。いやになるほど上昇速度が遅いのです。あるいは停滞しているだけだったり、下降している場合も多くあったりします。

 

絶対信仰、絶対愛、絶対服従がなぜ重要なのかといえば、それは真の愛を説明した言葉だからです。そして神様と真の父母様の本質そのものだからです。

 

絶対信仰

一切の疑いなく頭から信じる。不信ということが一切ない。裏切られても頭から信じることは変わらない。

神様も真の父母様も信じることしかできないお方です。不信という性質が全くないのです。不信しようとしてもできないのです。

 

私たちはどうでしょうか?

人を見たら泥棒と思えとまではいきませんが、裏切られ苦い経験をしてきたことが多い人ほど神様や父母様、人に対して不信が消えません。裏があると見てしまうのです。

 

絶対愛

無条件の愛、見返りを求めない、無償の愛、愛は与えて忘れる、もっと良きものを与えられないだろうかと悩む。相手からいかなる仕打ちを受けようとも怨讐にはならない。神様、真の父母様はそういう方です。

神様、真の父母様はいかなる状況でも愛することしかできないお方です。怨讐がいないのです。

 

私たちはどうでしょうか?

無条件の愛を与えることはほとんどありません。実の子の対してのみその愛が出現しますがそれも完全な無償とは言えません。ましてや他の人に対しては見返りを求めます。相手を自分の利になるように動かそうとします。権謀術数や策を弄することが世渡り術です。世間ではお金をもらえなければ何も渡さないし、お金がなければ何も得られません。条件付きの愛しか見ることができません。ビジネスの世界に生きれば生きるほど無償の愛から遠ざかります。

 

絶対服従

相手に仕え、喜んで相手に利用されることを指します。

真の愛の到達点をあらわす言葉です。

いかに相手の役に立てるか、いかにその願いを叶えてあげられるかが生活の中心です。神様と真の父母様の本質を表しています。

 

私たちはどうでしょうか?

相手に仕え利用されることはとても少ないと思います。

相手に仕えてもらい、利用しようとします。そうすることが相手のためだと思いたい、あるいは思い込んでいる場合は更に重症です。

 

以上を見てみると私たちには悔い改めるべきことが余りにも多いことが分かります。本然からあまりにもかけ離れてしまっています。今回の世間の冷たい風についても、反対勢力の暗躍や信教の自由を理解できない人々の無知のせいにしている食口がおられます。私たちは絶対信仰、絶対愛、絶対服従という神様と父母様の本質とはあまりにかけ離れており、修正が困難のほどになっていることに気づかないといけない時を迎えていると思います。生きているうちに絶対信仰、絶対愛、絶対服従の実体になることが天の至上命令です。

 

絶対愛するのです。他の何もありません。自分の世界を捨てて、家庭を捨てて、妻を捨てて、子女を捨てても、それ以上に絶対愛するのです。絶対服従するのです。自らの一生、生命もすべて投入するのです。投入して忘れてしまうのです。今まで皆さんは、観念的に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を考えていたかもしれませんが、それは観念ではありません。実際に皆さんが、すべて行わなければなりません。

「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

神様の治療

2024.6.30-2

神様の真の父母の愛による治療の役事

 

前回の投稿は今回の内容への序章でした。

私たちは普段、私たちから見た神様という観点で見ていますが、神様から見た私たちという観点がより重要です。

神様から見ると絶対信仰、絶対愛、絶対服従は普通の姿です。それが正常で健康な姿です。そうすると絶対信仰、絶対愛、絶対服従ができない私たちは神様にはどのように映るのでしょうか?

それは私たちが病気にかかって苦しんでいるという姿です。父母はそれを見ると耐えがたい苦痛を感じられます。何としても救いたいのです。

 

インフルエンザなどの感染症の時を思い浮かべると分かりやすいと思います。流感にかかると体は正常な姿を失い動くのも苦しくなります。熱が出て咳や痰も出て苦痛に耐える状態になります。これらの症状は悪いようにとらえられますが、免疫力が総動員されて病気を治そうとしている時の現れる現象です。熱はウィルスそのものが原因で出るのではありません。ウィルスや細菌は熱に弱いので、免疫システムが戦いを有利に進めるために発熱するように働きかけているのです。咳や痰もウィルスを体外に排出しようとする反応です。これが病気から回復する時の原理的、原則的な反応ということになります。そのようにみると熱、せき、痰などの症状はとてもありがたいものだということになります。

 

私たちは神様と真の父母様から見ると何物にも代えがたい玉のような息子、娘なので父母は病気を治してあげようと必死です。病気を治すやり方はインフルエンザの例と同じなのです。原理的、原則的には同様の治療がなされます。

 

ところで私たちはどんな病気なのでしょうか?

サタンの血統に落ちることで正常な細胞がサタンの似姿になったのです。一番似ている病気はガンです。放っておけばガンは全身に広がり死を迎えます。

堕落の場合は霊的死に至ります。がん細胞は正常細胞をがん細胞に変え、臓器の奥深くまで広がります。がんの場合は病気の進行具合によってステージ0からステージ4まで分類されますが、人間の霊的病気の具合もこのように考えても良いと思います。

霊的病気でがんに当たるのが堕落性です。堕落性は全身に広がると正常な働きをするはずの良心作用が発現できなくします。

 

神様も父母様も知らないし信じていない人はステージ4で死が間近です。

この世にほとんどの人々は天から見るとステージ4か霊的に死んだ人です。

皆さんの堕落性の具合はいかがでしょうか?

ステージ2でしょうか?

ステージ1でしょうか?

ステージ0で完治寸前でしょうか?

完全に健康な状態が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の状態です。

それを100%とすると私たちは何%位まで来ているでしょうか?

 

さてここまで来て大きな真実に気づきました。

これから神様の治療法について書こうと思っていたのですが、神様の秘密の一つに辿り着いた気がします。

 

さて、神様が死の病に陥った人間を治療される場合、そこに寄与しているのは善神と呼ばれる善なる天使や善霊人だけではありません。堕落性が大きく霊的病の度合いの大きい人には善神は働けません。善神が働けるのは善なる要素が多い人です。

 

堕落性が深い場合には悪霊が活躍します。また、本人に信仰があって耐える力が大きい時には堕落性を早く脱がせるためも必要な存在が中心霊、悪霊、恨霊です。彼らが人間に与える苦痛が必要なのです。堕落性は死に至る病ですがそれ自体では病だとは感じないのです。何の症状も出ないのです。そこで症状を表面化させて病気に気づかせる必要があります。そしてその苦痛を通して早く神様に帰ろうとする道へと導かれるのです。その役目をするのが中心霊、悪霊、恨霊です。

 

彼らは人間を悪へと落そうとしますが、同時に精神的、肉体的な苦痛を与えます。この苦痛が回復のための薬になるのです。感染症にかかって熱がでたり、咳や痰が出たりする状態と似ています。熱、咳、痰、全身倦怠などを通過して病が治るように、悪霊のもたらす病気や事故、家庭問題などを甘受していくことで堕落性が少なくなっていくのです。

私たちは中心霊、悪霊、恨霊に対する考えを変える必要があります。彼ら自身は私たちを不幸にしようと思って悪神の業を行いますが、これが私たちにとってはとても苦い良薬となるのです。私たちを治してくれる存在として受け入れて愛することが重要です。彼らを排除し駆逐しようとする気持では堕落性は脱げません。

そして重要なことは神様が彼らを用いておられるということです。中心霊、悪霊、恨霊には神様のみ旨に協助しているという自覚は皆無です。しかし彼らを用いて人間を救おうとしておられる神様がおられるのです。

 

この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。愛の世界を破綻させる仕業をするのです。「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる

 

このみ言を見るとサタンが悪の業を行う時に必ず神様の決済を受けることが分かります。神様が悪の働きをコントロールして悪を用いておられることが分かります。

 

そうすると次のみ言の意味を分かってきます。

 

神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか

「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様 2.神様の歴史的に悲惨な姿

 

悪魔が神様に対して、「あなたの創造理想を中心として愛の絶対圏理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏がこのように滅び、破壊状態になったにもかかわらず、今も創造理想的論理が適用されるというのですか」とあざ笑うのです。そういうとき神様は何と答えられるでしょうか。どれほど息の詰まるようなことでしょうか。本来、主人の息子となるべきであるにもかかわらず、怨讐の息子となり、抜け出そうにも抜け出すことのできない塗炭の苦しみの中に陥った人類を見つめられる神様がどれほど悲嘆にくれておられるかを、はっきりと知る既成教会の人々はいるのでしょうか。「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 一 歴史的な恨、苦痛の神様2.復帰の恨、子女を訪ねて六千年

 

神様の僕にすぎないサタンから嘲られ、さげすまれ、嘲笑されながらも。神様は我慢に我慢を重ねて復帰摂理を進められたのはなぜなのでしょうか?

それは人間の復帰のためにはサタンの悪なる業が必要だからです。人間を蕩減の苦痛に追い込む存在が必要だったのです。もちろんサタンは人間の救いに貢献しようなどとは一切思っていませんでした。しかし人間の復帰には人間に苦痛を与える蕩減復帰の環境が必要なのです。このように子女である人間を救うためにどうしてもサタンが必要なので、神様は子女である人間のために我慢し忍耐を続けてこられたのです。

神様の父母の愛がその我慢と忍耐を可能にしたのです。

人間を救うために万王の王の立場を捨て、サタンからの讒訴、嘲り、嘲笑を忍耐し我慢し続けてこられた父母の姿を感じますか?

 

さて人間の堕落性を脱がせ絶対信仰、絶対愛、絶対服従の実体として完成させるための集中治療室が天心苑です。堕落による病を完全に治してくれる治療の殿堂です。治療のために必要なあらゆるものが揃っています。今まで間接的に治療してこられた神様が地上に降りてこられ天心苑で直接的に治療の役事をされます。神様はこの時をどれほど待って来られたことでしょうか。

参加していない兄弟姉妹がいるならば是非導いてあげてください。

愛による再創造

2024.7.22 

愛による創造と愛による再創造

 

神様の天地創造は愛によってなされました。

ただひたすら人間を愛され愛を投入することでなされました。

人間が堕落してサタン主権世界となり人間がサタンの僕となり悲惨極まりない世界になっても、神様は愛を貫くことで再創造の道を行かれました。

復帰摂理は天地創造とは異質の世界のように感じますが、愛という観点では同じなのです。神様はサタンから讒訴され、蔑まれ、馬鹿にされ、嘲笑われてもサタンを愛されました。神様は我慢して耐えたり、甘受されたりされたのではなく、サタンとサタン世界を愛されました。

 

天地創造はすべてが真の愛によってなされました。人間と被造世界に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従でなされました。

復帰においても真の愛によってのみなされなければ再創造にはならないのです。このため復帰という再創造においても真の愛以外の要素が入れば失敗に終わります。

 

神様と同様の再創造に道を歩まれたイエス様は、十字架において我慢し耐えられたのではありません。十字架の絶頂でも十字架による苦痛を愛され、中傷罵倒するイスラエル民族を愛されました。その環境を愛することで再創造が起こったのです。キリスト教圏が世界的に拡大したのは、イエス様の愛の勝利の基台の上でなされた神様の再創造だったのです。

 

真の父母様の道も同様です。興南路程も我慢し甘受されたのではありません。興南で苦痛を与える看守や過酷の労働環境を愛されたのです。それは神様が来られた愛の道でした。

興進様や孝進様の聖和を我慢して甘受されたのではありません。その状況を愛されたのです。愛の世界は好きだ!という世界です。興進様、孝進様を霊界の送られた可哀そうな父母ではなく、その状況を心から愛する父母の姿でした。

それにより再創造の御業が起こったのです。天心苑に至る完全の救いの道は愛のよる再創造の結果なのです。

 

私たちの一人一人の周りで起こる不幸や苦痛は、再創造するにはどうすればよいのかを明確に示しています。その不幸や苦痛を我慢して甘受するだけでは再創造は起こりません。真の父母様の路程を見れば復活論の悪霊の再臨復活で示された甘受では不十分であることが分かります。我慢や甘受から愛する地点に到達する必要があります。その不幸や苦痛が好きだ!という心情世界に行く必要があります。そうすれば再創造が起きるのです。

 

そういった意味で日本における迫害はとてもありがたいものです。これを法的、政治的に解決することも必要ですが、本質的な解決にはなりません。愛のみが根本解決をもたらします。反対し非難する人々、迫害する国家を心から愛するのです。それが神様と父母様の解決方法です。その愛によって日本が神日本として再創造されます。

 

私たちが日々の生活で感じる不幸や苦痛は神様の処方箋です。「その状況を愛しなさい、そうすれば私がすべてを再創造する」という神様のメッセージなのです。

甘受より深い真の愛

7月24日

甘受より深い真の愛の世界

私たちは精神的、肉体的な病気や苦痛、不定愁訴、経済的困難、親子、夫婦関係のおいての問題、仕事上の人間関係の問題など、様々な苦難を抱えています。私たちはそれらの状況を否定して排除しようとする傾向にあります。

これは知らないうちに自分や相手に対する裁きの傾向を持ちます。裁きは更なる苦痛を生み出します。特に自分に対する裁きには気づかない場合が多いと思います。

 

健康でない人は健康でないことを恨めしく思い、知らないうちに健康でないために活動できない自分を裁いてしまいます。経済的苦難も、お金を稼げない自分や相対者に対する恨めしい思いを持ち無意識的に裁いてしまっている場合があります。また貧しさに不満を持つようになります。

このように様々なケースで無意識のうちに裁いている場合が多いのです。これは苦い環境を拒否しようとするところから生じています。

 

実はこの苦い環境こそ神様の薬です。良薬は美味しくないのです。良薬は口に苦し、です。

これらの苦い環境は、その人、その家庭、その民族に合わせて絶妙に処方された最高の薬です。

この苦い薬を甘いと感じるまで愛する時、苦い環境が神様の傑作の薬であることが初めてわかるのです。逆にその環境を愛してみないとそれが神様の愛の塊であることが分かりません。愛することで、神様が私のことを心から愛してくださる方だと深く気づくことができるのです。

苦い薬を甘いと感じるまで愛することで本然の私、本然の家庭、本然の国家、世界に戻っていくのです。

原理講論の時代の終わり

7月31日

原理講論の時代の終わり

天地人真の父母様 天正宮入宮式典戴冠式18周年記念式及び実体聖霊独生女真のお母様勝利帰国歓迎集会において、お母様は次のよう語られました。

ってくれてありがとう。 今、皆さんはどの時代に住んでいますか? 天一国時代に生きているよね? ・・・・
もう一言だけ付け加えましょう。
これまでの統一教会の歴史において原理講論は荒野時代で終わった天一国時代においては、真の父母論です。・・・天一国時代は真の父母論を勉強しなければならない。分かるか? だから、UPAの士官候補生が宣教に出て、真の父母論を講義すればいいのだ。そこに創造原理が全部入っている

お母様が原理講論の時代が終わり、真の父母論の時代になったと言われました。これは歴史的宣言です。ついていけず離れる人が出るかもしれません。

お母様がこのように宣言されたのにはいくつかの理由があると思います。
その中でも一番大きな理由は復帰原理の中核をなすカイン、アベルの原理の使命が終了したからです。

原理講論の半分以上にカイン圏とアベル圏の長子権復帰の戦いの歴史が書かれています。これは長子権を持つサタン、カイン圏と次子圏に止まる神様、アベル圏の長子権をめぐる戦いです。

長子権を持つ兄カインを弟アベルが愛することで愛で屈服し、兄カインが弟アベルに私の代わりに長子になってくれと言ってアベルを押し上げるというのが本来の長子権復帰の道です。
しかしこのやり方をまがりなりにも成し遂げたのはヤコブのみでした。
多くの場合、力でねじ伏せるやり方で長子権を奪い取ったのです。例えばイスラエル民族がカナン人を殺戮したり、戦争で打ち負かすことで長子権を復帰しました。また世界大戦もその例です。

本来はイスラエル民族は愛でカナン人を屈服させなければならなかったし、第二次世界大戦でも米英仏が独日伊を愛で屈服すべきでしたが力でしか屈服できませんでした。
それでも第二次世界大戦後には神側が世界的な長子権を持っていました。
しかし神側の中心の立場にあったキリスト教圏が真の父母様を受け入れなかったことで全ての長子権は再びサタンに奪われました。

真の父母様は平壌刑務所、興南路程を通して僕の僕の長子権復帰から始められ、8段階全ての長子権復帰を真の愛で復帰していかれました。
そして1989年8月31日の八定式をもってサタンの持っていた全ての長子権を復帰することに勝利されました。これで血が流れる長子権復帰の戦いが終わりました。この時をもって原理講論の使命期間は終わったとみても良いと思います。(何故この時ではなく、今になって原理講論の時代の終わりを宣言されたかについては別の機会に)

食口が次の心霊的成長を成し遂げるにはカイン、アベルの原理の後の導き手が必要です。新しい光が必要です。

復帰摂理は長子権を復帰する戦いなので個人から世界に至るまで全てカイン、アベル、サタン側、神側に分立します。この原理は長子権が復帰されるまでのものです。このためカイン、アベルの原理に永遠性はありません。アダムとエバの再臨である独生子、独生女がサタンが持っている長子権を復帰されたなら、その時点で原理講論の大半を占める復帰原理の使命は終わります。
しかし、真の父母様が全ての長子権を復帰された後でも、カイン、アベルの思考方式が永遠の真理であるかのように私達食口にこびりついています。

教会でもいまだに教会長はアベル、教会員はカインという考え方が根強くあります。カインである教会員はアベルである教会長を愛し、仲保とし、屈服し、善を繁殖することがやるべきことという考え方です。これは服従を強いることになるので真の愛とは真逆となります。ここに二世が幻滅し、あまりに多くの一世が教会を離れた主要な原因があると思います。

 

これは責任者を責めるために言っているのではありません。自分が責任者の立場にあったなら知らないうちにカイン、アベルの原理を中心に教会運営をしたかもしれません。これは私たち全員の問題なのです。
また教会はアベル、この世はカインあるいはサタン世界と考えます。これが今や天国建設の最大の弊害となっています。

今回の教団に対する国家的迫害が起きた時も、多くの食口が神側、サタン側の考え方をしました。これは戦いの論理です。
しかし、真の父母様は長子権のみならず父母権、王権までも復帰され、神様全権時代になっています。これが天一国時代です。そのためカイン、アベルの考え方、カイン、アベルの原理の使命は完全に終わったのです。

 

天一国時代の今、全人類は天の父母様と真の父母様の元の兄弟姉妹です。もはや他人ではなく血族なのです。この事実を深く知る必要があります。

しかし私たちはいまだに成約時代に生きています。カイン、アベルの戦いの時代に生きているのです。
これは勝利された天地人真の父母様と祈りながら真の父母様の勝利を信じていないことに原因があると思います。
このため真の父母論が必要とされるのです。

そして何より真の父母様と一つになって勝利圏を相続することが一番大事なことなのです。


個人から天宙に至るまで全ての長子権、父母権、王権は真の父母様が持っておられます。私たちがすべきことはその勝利圏とその源泉である真の愛を相続することです。そうすれば私たちは自動的に全人類の長男、長女の立場に立てるのです。私たちがご父母様の勝利圏と真の愛を相続し、人類の長男、長女に相応しい心霊と人格を備えることが重要です。弟、妹のために全力で生きるのが長男、長女です。孝進様、興進様が身をもって示してくださっています。
天の勝利圏と真の愛を相続すること、天心苑祈祷会の持つ大きな意味です。

入宮式までになすべきこと

2024.9.7 - 9.12 入宮式までになすべき天が願われる基準

 

9/7

入宮式までに地上人が絶対善霊基準を達成することを天の父母様は完全に予定されてそのために必要な役事を完全に用意しておられます!

これを絶対的に信じてください。7ヶ月しかないと思わないでください。イエス様の時、右側の強盗は一瞬の精誠で蕩減を全て成し遂げてイエス様と同じ楽園に行ったのです。

このような短期成就の道を天の父母様が用意しておられます。これが天の父母様の95%です。後は私たちの責任です。

天の父母様はご自身が一番欲しい体を人間に与えられました。入宮式に来られる天の父母様が渇望されているのは体です。天の父母様が性相で私たちは形状です。性相と形状は愛がもっとも強く流れる関係です。天の父母様はこの気が遠くなるほど強烈な愛を実現したくて地上に降りてこられます。

その愛を授け受けすることができるかは私たちにかかっています。

天の父母様の完全な体は真の父母様です。そして私たちも右側の強盗がなしたような精誠を捧げれば真の父母様のようになれるのです。

それは厳しい道ですが得られるのは溶けてしまうような天の父母様の愛です。

この7ヶ月に人生を賭けるよう願われていると思います。

それをご自身でお確かめください。本心に尋ねてみてください。

信仰生活の総決算の時が来ていると思います。

9/10

なぜ精誠を尽くすことが信仰生活の中心なのか、もう一度振り返ってみましょう。

あらゆることは神様にその原因があります。心情は神様の創造以前の世界にも飛んでいくことができます。

天地創造以前、神様のなされていたことは愛を絶対化することです。いくら光が溢れる最高の世界を創られたとしてもその世界に向かう神様の愛が絶対でなければ虚しいのです。

神様は愛を絶対化する道をご存知でした。それは心情を永遠、不変、絶対的に投入することでした。対象は人間です。私たち一人一人に対して永遠をかけて心情投入されました。これが神様の精誠の伝統です。精誠とは心情投入のことです。

天地創造以前の構想(ロゴス)の創造のためにかけられた時間が無限、永遠だったのです。これにより神様にとって一人一人の人間は永遠に離れることができない絶対的な愛の対象になったのです。この心情投入(精誠)が完全になされた時に愛は絶対となったのです。これは神様が愛に絶対服従されたということでもあります。

この愛の確立が先で天地創造は後です。

これにより、あれほどまでに神様を激しく裏切った堕落によっても神様の人間一人一人に対する愛は微動だにしなかったのです。

愛とは好きだということだという御言があります。神様は私たち人間一人一人を好きでたまらない方です。そしてその絶対愛を相続されたのが真の父母様です。ですから真の父母様にとって私たちはどんなことがあっても好きでたまらない子女です。

この心情が根底にある御父母様はいくら体がきつくても幸せなのです。

幸福とは好きでたまらない状態にあることです。三大祝福は、自分が、相対者が、家族が、氏族、民族、国家、世界、天宙がそして万物が好きでたまらないことです。

さて、私たちが精誠を尽くす対象は神様と真の父母様はもちろんのこと、全ての人を好きでたまらない愛を相続するためです。

このため精誠は天に対してだけでなくあらゆる人に対しても尽くすことが大事なのです。それは相手が好きでたまらなくなるまで尽くすのです。そうすれば精誠を尽くした自分はどんどん幸せになるのです。これが神様と真の父母様の伝統です。生きている間に必ず身につけなければならないのはこの絶対愛です。

これがなければ霊界で天国に行けたとしても虚しいのです。

精誠が何よりも大事であることを学び精誠の伝統を身につけるのが天心苑精誠祈祷会なのです。

9/11

皆様の精誠によってみ言を与えられましたので分かち合えたらと思います。

人類始祖は自己中心の愛に主管され死んでもいいと思って堕落しました。

これを復帰するためには私たちの責任分担や蕩減路程以前に必要なことがあります。それは死を超える父母の愛です。死んでも良いと思って子女を愛する愛です。

天の父母様と真の父母様はご自身が死んでも良いと思って人間を愛してこられました。これは全人類に対してという漠然としたものではなく、私たち一人一人に対してなされたものです。

お母様が、脚がむくみ、口がただれ立っていられないほどご苦労されたのは、死んでも良いと思って私たちを愛してくださったためです。お母様の笑顔の背後にあるその愛を感じてください。

死を超える愛でなければ私たちを産み変えることができないのです。サタンの痕跡を完全に無くして本然に至るためにはこの愛を発見し感じることが全てです。

私たちを産み変える愛は既にあります。天の父母様と真の父母様がずっとそのように愛してくださっていたのです。

私たちはそれを知りませんでした。

その愛を発見しその愛を感じることが何よりも大切なことだと思います。そのために天心苑は用意されたと思います。

神様と真の父母様がそのように愛してくださっていることが分かれば、そこから重生が始まります。

信仰の大転換はその愛に気づくことでなされると思います。

 

9/10

なぜ精誠を尽くすことが信仰生活の中心なのか、もう一度振り返ってみましょう。

あらゆることは神様にその原因があります。心情は神様の創造以前の世界にも飛んでいくことができます。

天地創造以前、神様のなされていたことは愛を絶対化することです。いくら光が溢れる最高の世界を創られたとしてもその世界に向かう神様の愛が絶対でなければ虚しいのです。

神様は愛を絶対化する道をご存知でした。それは心情を永遠、不変、絶対的に投入することでした。対象は人間です。私たち一人一人に対して永遠をかけて心情投入されました。これが神様の精誠の伝統です。精誠とは心情投入のことです。

天地創造以前の構想(ロゴス)の創造のためにかけられた時間が無限、永遠だったのです。これにより神様にとって一人一人の人間は永遠に離れることができない絶対的な愛の対象になったのです。この心情投入(精誠)が完全になされた時に愛は絶対となったのです。これは神様が愛に絶対服従されたということでもあります。

この愛の確立が先で天地創造は後です。

これにより、あれほどまでに神様を激しく裏切った堕落によっても神様の人間一人一人に対する愛は微動だにしなかったのです。

愛とは好きだということだという御言があります。神様は私たち人間一人一人を好きでたまらない方です。そしてその絶対愛を相続されたのが真の父母様です。ですから真の父母様にとって私たちはどんなことがあっても好きでたまらない子女です。

この心情が根底にある御父母様はいくら体がきつくても幸せなのです。

幸福とは好きでたまらない状態にあることです。三大祝福は、自分が、相対者が、家族が、氏族、民族、国家、世界、天宙がそして万物が好きでたまらないことです。

さて、私たちが精誠を尽くす対象は神様と真の父母様はもちろんのこと、全ての人を好きでたまらない愛を相続するためです。

このため精誠は天に対してだけでなくあらゆる人に対しても尽くすことが大事なのです。それは相手が好きでたまらなくなるまで尽くすのです。そうすれば精誠を尽くした自分はどんどん幸せになるのです。これが神様と真の父母様の伝統です。生きている間に必ず身につけなければならないのはこの絶対愛です。

これがなければ霊界で天国に行けたとしても虚しいのです。

精誠が何よりも大事であることを学び精誠の伝統を身につけるのが天心苑精誠祈祷会なのです。

9/12

さて、今日も恩恵をいただきましたので皆様と分かち合えたら嬉しいです。

今日はイエス様に慕って命を捧げたクリスチャンのことが偲ばれました。彼らには年老いた父母がいて、愛する配偶者がいて、幼い息子、娘がいたかも知れません。しかしイエス様を慕う心情がそれらより優ったのです。十字架の道を行かれたイエス様と同じ道を行きたいという気持ちが死を超えたのです。

イエス様の十字架は処刑ではなく人間を救いたいという愛のみ業そのものだったのです。その愛が殉教していったクリスチャンたちは分かったのです。

お母様が通過して来られた十字架の道はイエス様の十字架より容易い道でしょうか。

全人類を救いたい母の愛は凄まじいのです。毎日のように死を超える愛が私たちに注がれています。

その愛を少しでも分かればお母様のために命を捧げたくなるのではないでしょうか。

これ以上の精誠はありません。これ以上の蕩減条件はありません。

私たちは様々な問題を抱えています。愛する家族のことでの悩みも大きいと思います。病気や経済問題、国家的問題を抱えている方もいるかも知れません。

それらの個別の問題にとらわれるとかえって解決が遠のくことが起こります。全ての解決の鍵は真の父母様です。特に地上におられるお母様です。お母様に命を捧げようとすること以上の解決策はありません。しかしそのためにお母様を愛するのではありません。命をかけて愛してくださっているので私たちも命をかけてお母様を愛するのです。

この道はそういう意味で単純です。

お母様が命をかけて私を愛してくださっていることを感じることで、お母様を命をかけて愛することができます。

これで蕩減路程は一気に終わります。

天心苑に集う兄弟姉妹の皆様、入宮式までに勝利すべきことはこれです。

天心苑で祈れば全ての願いが叶うと言われたらみ言の本質はこれです。

入宮式まで時間がありません。今年中に死を超える愛でお母様を愛する境地に行くことが願われていると感じます。

お母様の見事な指示

2024.9.26 教会の失敗とそれに対するお母様の見事な指示

天心苑は私たちの再出発の場だと思います。草創期は幼い子供を親族に預けて開拓伝道に行く神霊と真理に燃える教会でしたが時と共にいつの間にかその精神が失われて行きました。特に様々な分野において活動するようになり信仰者ではなく活動家になっていく食口も多くなっていきました。

私自身も経済活動を通して天に貢献したいと思うようになりそこに集中しました。そして経済には経済のやり方があってそれを吸収しなければと思うようになりましたが、知らないうちに逆に吸収されていました。

御父母様は宗教活動のみならず、政治、経済、文化、学術、環境分野などにおいて基礎を作られました。しかしいつも祈祷が生活の中心でした。

今の教会は天心苑が中心であり主体です。様々な分野を担当する摂理機関は対象の位置にあります。これはお母様の大改革です。この意味を私たちはしっかり捉える必要があります。

初期のキリスト教が迫害されたのは、いわれなき迫害ではありませんでした。イエス様の十字架に対する蕩減だったのです。同じように今回の日本での迫害は何の蕩減だったのかを考える必要があります。

私の拙い経験からすると、例えば経済活動をする時、いつかしら経済的実績を上げれば全て良しとなっている自分がいました。

政治的、文化的、学術的、環境的分野などの各分野においても同じような落とし穴があると思います。知らないうちに神霊と真理を中心とする御父母様のやり方ではなくなってしまうのです。政治、経済など各分野の論理が主人の位置についていて、精誠を中心とする宗教論理はすみに追いやられてしまったのです。

御父母様は何かをなさる時にいかなる分野であろうとも必ず精誠を尽くされました。これが伝統です。いつも命をかけるような精誠が初めにありました。この部分が私たちはいつの間にか抜け落ちていたのです。

政治的、経済的、文化的、学術的活動が中心になり精誠を尽くすことがなされなければ主管性転倒となりサタンが侵入します。精誠なき各分野の活動は次第に害悪になっていきました。功績ではなく蕩減が増し加わっていきました。これが今回の迫害の原因だと思います。それで神様による外的粛正が起こったのです。

 

それまで不思議なほどにあまりにも守られてきたのです。御心にかなう精誠を尽くしていた食口もたくさんいたのですが、それ以上に天のやり方に反することが多くなっていきました。教会活動において与える愛ではなく奪う愛が中心になっていきました。神様もサタン勢力が私たちを打つことを許諾せざるを得なくなったのです。

これは苦痛ですがあのまま行っていれば心霊的には大変なことになっていたと思います。

 

苑長を中心として数名で始まった天心苑祈祷会の価値は苑長も参加者も初めは良くわからなかったと思います。しかし積み重なった精誠祈祷が教会を再創造していったのです。そして天心苑が教会の中心になり草創期の教会に戻っていったのです。お母様の指示はあまりに凄いと思います。私たちがこのように天心苑祈祷会に参加して新しい出発ができたのもお母様の恩恵です。

ビックバンと献命呼名祈祷

2024.10.23 ビックバンと献命呼名祈祷

 

統一思想によれば神様の創造は心情を中心として内的性相である知情意と内的形状である観念、概念、法則性、数理性の授受作用によって設計図というべきロゴスが形成され、そのロゴスと本形状が授受作用して被造物が生まれるとあります。この説明は論理中心なので人間の創作活動と似たものと感じさせます。しかし神様の創造は人間の創作活動とは全く別物だと言えます。

心情とは喜びを得ようとする情的衝動です。心情とは分かりやすく言えば情の根源すなわち情の性相です。真の愛のことです。これが創造の中心です。つまり創造は情の爆発なのです。

 

この観点で宇宙の始まりを見るとよくわかってきます。

高熱の大爆発であるビックバンの前にインフレーションという熱を伴わない静かな空間の拡大があります。この速度は凄まじく光速の300垓倍(30000000000兆倍)です。これは神様の心情の高まりを象徴しています。その高まりの後に宇宙は爆発して超高温の光球となります。これは神様の情の大爆発を象徴しています。

 

余談ですが、ビックバンの時の温度は余りに高温ではっきりわかっていません。ただビックバンの10兆分の1秒後の温度は1000兆度の10倍、すなわち1京度であったと考えられています。

凄まじい重力で原子核がつぶれ中性子だけになった中性子星という星があります。宇宙で金ができるためには中性子星同士が衝突する時に発生する温度が必要です。それは1兆度です。ピュアゴールドはその時の核融合で生まれます。ビックバンの温度はその1万倍である1京度を遥かに超えるのを見ると神様がいかに純金の純金のような方かが分かります。

 

さて、ビックバン後の宇宙を観測するとそこには知性や観念、概念、数理性、法則性含まれている事がわかりますがそれらは主役ではありません。

主役は心情と情の大爆発です。私たちが受け継ぐべきはこの心情と情の大爆発です。爆発ではなく大爆発です。

 

生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天

 

神様の創造は狂うように喜んで死んでもいいと踊りながらなされたのです。これが創造の心情です。命を超える情の爆発を受け継がれたのが真の父母様です。神様も真の父母様も冷静な面をお持ちですが、中心は死んでもいいと狂うように愛に燃える世界です。

私たちが完成する為には、命を超える情の大爆発を相続する必要があります。私たちは再創造の最前線に立っています。神様と真の父母様の真の愛に似て情が大爆発する姿になりたいものです。インフレーション、ビックバンのように命を超える基準で情を爆発させましょう!その情の爆発が世界を変えていきます。それ以外のものでは世界を変えることはできないのです。

心情の大爆発がこの世界を形成したので、再創造にはこれが絶対必要です。

 

天心苑祈祷会で気が狂ったように叫び祈る姿より更に凄まじい情の爆発です。そういう情に到達する事が願われています。格好をつけ体裁を整えるよりも情が爆発しているかどうかです。私たちは天心苑祈祷会で神様と父母様の狂ったように喜んで死んでもいいと踊りながら復帰を進められる情を相続する必要があります。入宮式までにそういう人になる事が願われています。

 

天国は、命を懸けなくては絶対に行く事が出来ないところです。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がその様になっているのです。(三七―二五〇) 「地上生活と霊界」 第四章 天国 二 天国に行くための準備 2 天国に行く基準

 

私たちはどの霊界と相対基準を結んでいるのか振り返る必要があります。自分がみ旨のために命を懸ける心情がなければ、霊界の高い基準の霊人の協助を受けることは困難です。たとえばローマ帝国でイエス様を愛して喜んで殉教していったクリスチャンの協助は受けられないと思います。相対基準が合わないからです。

 

まずは祈祷において死んでもいいという基準が願われています。冷静な感じではこの祈祷はできません。気持ちを無理やりにでも高める必要があります。気が狂った人のようになる必要があります。気が狂ったように喜ぶ世界です。神様と真の父母様の愛の世界です。

 

できる方はその世界に似るための祈祷をしてください。それが献命呼名祈祷です。

体の温度は42度程度までしか上がらずそれ以上になれば死んでしまいます。しかし心はどれだけでも高温にできます。一兆度を超えれば純金になります。

献命呼名祈祷はビックバン祈祷です。普通の呼名祈祷や祈祷の合間に入れるのも良いと感じます。命を捧げますと叫ぶときに億万歳のスタイルでするのが良いです。億万歳は心情のビックバンです。

 

献命呼名祈祷を狂うように喜んで行うのはとても恩恵が大きいです。邪悪な霊界は一瞬で消えていきます。そのようなものは焼き尽くしてしまいます。

何の材料もなく創造された天の父母様です。ご自身の血と肉を材料にするしか創造する道がなかったのです。きちがいのような世界です。それが私たちの父母です。

献命呼名祈祷をすると試練も増し加わります。死ぬような試練を受けるかもしれません。しかしそれだけ蕩減の道を高速で通過できます。

どうせこの道に来た私たちですから誇りある道を行きたいものです。特に入宮式までの期間は天の父母様と真の父母様に似て気が狂ったようになるべきではないでしょうか。

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