玉座の神様と人間としての神様
第一部
間接主管圏に現れる神様の御業とは何でしょうか。
1つは法則や秩序の主人としての神様です。しかし、神様の御業はそれだけに止まりません。「神様の精誠」の章で取り上げた、力、生命、クオリア、知情意、愛のなど被造世界に現れるあらゆる現象の源泉者が神様です。
一方、間接主管圏に現れる愛が神様の愛の全てではありません。間接主管圏に現れる神様の愛はあくまでも間接愛であって直接愛ではないからです。
私たちは、知情意も愛も自分自体の中に神様が機能として植え付けて下さったもので、神様とは独立した機能と思ってきました。しかし、統一思想の認識論において開示されていますように、私たちの知情意や愛は、神様の知情意と愛を源泉として出現する形状的、結果的、下流的知情意であり間接愛なのです。(詳しくは「神様の精誠」の章をご覧ください。)
間接主管圏の神様は、原因としての神様です。すべての自然現象、生命現象、クオリア現象、知情意の発現、愛の発現の原因としてのみいましたもう神様の姿です。この神様は、現象を通して悟って初めて理解できる神様ですので、堕落人間にとって神様を知ることはとても困難なことになったわけです。このため宗教が必要となり、それもわからなければ無神論に陥ってしまうことが起こりました。
間接主管圏は、すべての被造物が神様から独立して自由性をもって存在するようにする事においてとても重要な意味があります。神様の意識が被造物の性相を出現させます。この性相は神様によって出現しますが、神様から独立した法則性、植物心、動物心、意識として現れ、自由性を持ちます。
神様の側から見ると、この間接主管圏が神様の主管の全てである場合には、一つ大きな問題があります。
創造原理第三節に出てくる創造目的の定義は、「神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。」です。
ここに出てくる神様は、全知全能者として全てを知り眺める神様です。創造原理のこの部分は天国実現の世界を述べていますが、原理講論創刊当時の摂理的進展と心霊的状況に合わせて述べられた内容です。
今の時代の恩恵圏の上でこのみ言を見ると、直接主管圏の神様の姿というより間接主管圏での神様の姿に近いように感じます。
皆様がこの神様の立場であるなら満足されますか?
眺めるだけの神様なら寂しい神様ではないでしょうか?
その後のお父様のみ言には神様の本当の願いについて述べておられる箇所があります。
神様がなぜアダムとエバを造ったのか分かりますか。神様も父母の立場で息子、娘を愛する愛を一度もってみたいというのです。その次はアダムとエバのように新郎新婦が愛する愛、その愛を一度体験してみたいというのです。おじいさんの愛、その次は国を一度愛してみたいし、世界を一度愛してみたいし、みなもちたいのです。「罪と蕩減復帰」第一章 蕩減・復帰原理の根拠 二 人間に責任分担がある 1.責任分担を下さった理由
このみ言は神様の直接主管圏での姿を述べた内容です。間接主管圏の神様は玉座におられてすべてを眺める神様ですが、間接愛の世界で生きる孤独な神様です。
直接主管圏の神様は眺める神様ではなく、ご自身の直接愛による愛の当事者の神様です。
アダムとしての人生を生きる神様であり、エバとしての人生を生きる神様であり、人間一人一人としての人生を生きる神様です。
神様にとって大きな問題は、対象が自体内にある場合は流れる愛は観念的傾向を持ち、強い愛にはなり得ないことです。大きな喜びを得るためには対象は自分とは完全に独立して外部にある必要があります。
しかし神様から見ると、被造物は神様に対して完全に独立的とは言えません。神様の意識が被造物に浸透することでその被造物の性相が出現しているためです。神様が全知である根拠はここにあります。このため、神様はその被造物とのつながりをはっきり感じておられます。自分とは独立的ではありますが明確に独立しているわけではなく神様の体内にあるというような感覚です。
私たち人間で言うならば、内臓などの器官や細胞に対する感覚に似ていると思います。内臓や細胞は自分の中にありますが意識とは独立的に動いています。しかし、人間と完全に独立しているわけではなく自体内にあります。意識とは独立していると言えますが潜在意識からは独立していません。
原理の神様は神様の潜在意識で被造世界を主管される神様と言っても良いと思います。
人間においては意識と潜在意識は分離して働きますが、神様においては二つの意識はより一体的となります。しかし、明確に区別はあります。
神様本体は、もちろん覚醒した意識をもって創造されました。しかし、被造世界そのものは、神様の意識に反応して静じまた動ずる姿ではありません。神様の潜在意識に反応して静じまた動ずる姿という表現に近いと思われます。
これは神様の意識は被造物とは直接連結していないことを意味します。
天地創造の長い道のりに加え、人間の間接主管圏が終わるまでの期間、神様はご自身の意識を被造世界と直接的には連結させないという極めて不自由で困難な道を選ばれました。
これはひとえに人間に神様が干渉されない責任分担を与えるためでした。
さて、間接主管圏における人間や天使はどうでしょうか。
人間や天使は神様とは独立しているという意識がはっきりあります。また、自分から見て親も兄弟も相対者も万物も世界もすべて独立して存在しています。
私たちは人と接したり万物と接する中で、自分とは独立した存在から得られる強い刺激を感じていますが、それは当たり前のようにあることなので特段すごいこととは思わないで生活しています。
しかし、神様から見れば、この感覚を求めて創造の御業を成してこられたと言っても過言ではありません。
神様が求めてやまなかった事は、自分とは独立した存在と、意識をもって授受する刺激的な喜びを味わうことです。この刺激的な愛の喜びをご自分が味わうより先に人間や万物に与えられたと言えます。
それでは神様はどのようにしてこの喜びを味わおうとされたのでしょうか。全知全能の神様からすると被造物のすべてがあからさまに全て分かります。これは素晴らしいことである一方、被造物は神様の中にあるため、神様から独立した神秘的な存在にはなり得ません。
この難問を解く方法は一つしかありません。
それは完成した人間と一体化、同化することです。全知全能ではなく限られた能力と力しか持たないけれども、神様の心情と完全に共鳴できる人間と一つになり、人間に成ることで成し遂げようとされたのです。
人間の意識は元来ぼんやりと対象を求めるのではなく、焦点という一点を求める性質があります。視界を見ても、その範囲は大きくても本当に見ているのはほんのわずかな狭い領域です。ほかの五感もみなそうです。
意識の持つこの性質は神様の本性から来ています。
神様の意識は人間という一点に集中して作用します。
しかも集中するだけではありません。神様の意識が人間の意識と同化して区別がなくなります。
神様の意識は完成した人間に直接宿り、人間を通して被造世界に連結されます。
アダムが完成して神様と一体となれば、完成したアダムの心は神様の心と融合して分離不可能になります。赤色と白色が混じってピンク色になれば、それぞれの要素は残っていますが元の色に戻ることはできないのと似ています。
アダムはアダムの人生を生きるわけですが、神様もアダムという個性真理体の人生を生きられます。アダムの人生は神様の人生でもあります。
神様はアダムという人間になることによって、対象を自分から完全に独立した存在として感じることができるようになります。神様にとっても直接主管圏は劇的であり、画期的であり、とても刺激的です。
神様はアダムという人間になることによって、エバという自分とは独立した存在から強い愛の刺激を受けることができます。同様に神様はエバという人間になることによって、アダムという自分とは独立した存在からから強い愛の刺激を受けることができます。
これは、神様自体内の陽性と陰性が授受するのとは全く違います。また、アダムとエバが愛し合うのを天上から眺めるのとは全く違う次元の刺激です。
神様の直接クオリアと直接知情意と直接愛が独立した対象に向かってほとばしります。
神様は全知全能で遍在されるお方なので欲しいものは無いかのように感じます。
一方、人間は全知全能ではなく、宇宙空間や霊界のある小さな領域を占有して存在します。神様から見れば不自由で何も憧れるものは無いように思われます。
しかし、全知全能であることは到達点なのでそれ以上刺激のない世界です。また、遍在されるという事はどこにでもいらっしゃるという事ですが、裏返せば固定した足掛りは無いことになります。
絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 3.神様も愛の前には絶対服従である
人間の知識と能力は限定的ですが、これがとても重要なことです。アダムが神様の全知全能の能力をそのまま受け継いだら、エバを見ても接しても受ける刺激は小さいものとなります。アダムから見てエバは、汲めども汲めども底が見えない永遠の神秘なのが良いのです。エバから見たアダムも同様です。他の人間や万物世界に対する場合も同様です。
人間が完成すれば神様のように全知全能になるとするならば、科学や数学、芸術などあらゆる分野を追求することには何の面白みもなくなることでしょう。全てを知っているし全てを成すことができるわけですから。
こうしてみるとキリスト教の教義となっている神様とイエス様は同一存在ととらえる考え方はまったくの間違いであることが分かります。神様と真の父母様が全く同一であるというのも違います。真の父母様と言えども全知全能ではありません。神様が全知全能の人間と一体となられても幸せにはなれません。
神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 3.神様も愛の前には絶対服従である
神様は全知全能の創造主としてすべてを投入して完全な被造世界を造られました。その世界は万物と人間が住む世界ですが、人間が完成した後は、被造世界内の一存在である人間に成ることで愛の世界に酔って生きようとされたのです。
人間が完成した後も全知全能にして遍在される神様はもちろん存在されますが、それは神様の中心的な姿ではありません。愛の神様は人間の姿をしておられます。一人一人の人間、一組一組の夫婦が愛の神様の姿なのです。
私たちの想像を遥かに遥かに超えて、人間としての人生を生きたいと思われ、人間に憧れる神様なのです。
アダムとしての人生、エバとしての人生、一人一人の個性真理体としての人間として生きる神様は、その愛の喜びに酔われて夢中になってしまわれ、全知全能であり遍在するご自身のことを忘れてしまわれるほどなのです。それほど人間としての人生を生きられる神様は刺激を感じられ、喜びに満ちる人生を生きることができるです。
そういった意味で、アダムの誕生は、神様の新しい人生の始まりなのです。エバの誕生は、神様の新しい人生の始まりなのです。人間一人一人の誕生は本来、新しい神様の誕生日になるようになっていたのです。
天地創造をなされ人間を創造されるまでの神様は、神様にとって胎中期間のようなものという事が出来ます。人間の誕生の時が、神様の本当の誕生の時なのです。
全知全能で遍在される神様が栄光の神様なのではありません。
人間という体を身にまとわれた神様こそが栄光の神様です。
神様において、新しい朝を迎える一番の栄光の時とは、肉体をまとうことができる時です。「天国を開く門 真の家庭」 P67、祝福家庭と理想天国Ⅰ P936 1978.1.22
こうして見ると、神様を栄光の神様にして差し上げ、本当に幸せにしてあげられるのは私たち人間しかいません。そして、神様にとって人間の価値はご自分の価値以上であり、それだけに私達一人一人の責任がとても重いことが再認識されます。
神様を幸せにして差し上げるためには、神様の心情を完全に体恤しなければなりません。そうしないと神様の心が私たちの心と融合できません。融合した心は私の心なのか神様の心なのか区別がつかない状態です。
神様であり私であるという状態、
神様が「私」になられるという状態です。
神様として存在されるより、それを捨てて「私」になりたい神様なのです。
全知全能で遍在される人生より、限定された知覚と能力であっても愛の世界に酔って生きる「私」になりたい神様だという事です。
人間生活は、今まで食べるため、住むため、着るために働くという姿でした。これは神様が生きたい姿ではないことは明らかです。神様が生きたい人間の姿は、家庭基盤の上での趣味生活です。
趣味生活が当たり前の世界を造るのも私たちの責任なのです。
そして、地上生活で趣味生活を十分に堪能してから霊界に行くことも、私たちの成すべき大きな責任なのです。(この下に第二部が続きます。)
第二部
神様は全知全能のすべてを投入して、被造世界されました。
とりわけ人間にはご自身のすべてを投入し尽くされました。
さて、毎年のようにノーベル賞が話題となり、自国の人が受賞すると大きなニュースになります。
物理学、化学、医学生理学などの自然科学のノーベル賞の授賞者ならだれでも良く知っていることがあります。それは研究してある頂に上ったとしても無限にその先があるという事です。今後の歴史において天才的な科学者が無数に現れたとしても、最終的にすべてを解明したと宣言する日は決して訪れません。神様が被造世界に埋められた宝は無限にあるのです。
人間一人一人のロゴスに埋められた宝は被造世界の比ではありません。与えては忘れ、与えては忘れしているうちに永遠の時間が経過しました。このため、夜の神様がお一人であった時代から天地創造までの時間は無限時間です。このため神様から見た完成した人間の姿は、永遠に眺めても愛がほとばしる対象です。
しかし、神様は永遠の精誠の結実である人間を眺めるために創造されたのではありません。神様が個性真理体としての一人一人の人間になるために創造されたのです。
成長期間を全うした人間、とりわけ霊界に行った人間は、神様の御側に侍るのではありません。神様が玉座から下りて、私に近づいてこられ、更に「私」に入ってこられ「私」になられるのです。
玉座より私の心の中心の座の方が良いという事です。
全知全能者が座る王座より、全知全能ではない私という限定存在の中心座が良いのです。
端的に言えば、神様は天の玉座より人間に同化する方が好きだという事です。
天の玉座におられる神様は対象で、人間に同化された神様が主体だという事です。
神様の本質は愛なので、神様にとって愛は全知全能や遍在よりも上位にあるからです。
霊界に行けば先生が全て統治しているのです。先生ではなく、神様です。神様の体なのです。皆様、体のある所に心があるでしょう。心と体が一つです。もう少し深い話をすれば良いのですが、ひっくり返る人々がいる為に話をしてあげる事ができません。ひっくり返るようになっています。「ああ! そんな事があるものか」と、このようになるのです。本当にそのような事がいくらでもあるというのです。神様は遠方にいるのではありません。そのような事がある、限りなく近い所にいらっしゃる方であるのを知らなかったのです。
「人間の生と霊魂の世界」第三章 真の御父母様と霊界 一 真の御父母様の権限と使命2.宇宙の中心軸、地上・天上の統治者
前述しましたように、愛は自分とは独立して外部にある存在に対して強く流れるので、愛のための独立した自分と、独立した他者が必要です。その独立存在が人間です。
独立存在としての人間は、神様のように汎意識ではなく制限された意識です。また、神様のように遍在できない制限された体です。これが愛の神様による人間創造の結論となります。
神様の意識から生ずる直接愛は、神様と一体となった人間を通して他の人間や万物に対して流れます。
この神様の愛は最強の愛で全てを酔わせます。
この愛が通過する人間本人も愛に酔い、受ける人間や万物も愛に酔います。
神様の愛の中心基地が真の父母様です。
神様は人類始祖の堕落の悲しみと復帰の苦痛があっても何故人間を滅ぼされなかったのか?という疑問に対する一つの答えがこの中にあります。
神様にとって人間が天上から眺めるだけの対象なら、すべてを滅ぼしてもう一度創造を始められたと思います。
完成した人間と世界を眺めることから得られる喜びと、堕落と復帰によってもたらされた悲しみと苦痛の度合いを比べてみた場合、どちらが大きいでしょうか?
答えは明らかです。
神様が堕落と復帰の苦しみを耐えて復帰摂理を成してこられたのは、それを忘れて余りある喜びがあることが分かっておられたからです。真の父母様が、イエス様が超えられなかった悲しみと苦難の峠を越えることが出来たのは、もちろん死の床にある神様をお救いしたいという思いが切実だったからですが、それと同時に、神様と一つになり同化する喜びがいかに大きいものであるか明確に確信しておられたからです。
真の父母様の御姿をご覧ください。
ここに写っているのは、
文鮮明という名前を持った神様の姿です。
韓鶴子という名前を持った神様の姿です。
神様は天の玉座を下りて文鮮明というお方と韓鶴子というお方と同化されたのです。
これこそが遂に栄光と幸福をつかまれた愛の神様の姿です。
そして私達の家庭も御父母様のように、神様と同化して神様を栄光と幸福の神様にして差し上げる責任があります。
それは私達が神様になることで成し遂げられます。
なお、更に深い内容は「潜在意識の謎の解明と神様の愛に関する潜在意識論」をご覧ください。