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天地創造以前の創造の傑作であるクオリア論

クオリア(質感、情感)については神様の精誠Ⅰの④神様のクオリア(質感・情感)の精誠、において取り上げましたが、これはとても深く重要な内容であり、神様を理解するのに不可欠な内容だと思います。そこでここでは改めてクオリアについてより深く探求してみたいと思います。

 

神様の天地創造は被造物の性相と形状のうち形状だけです。性相は神様がご自身の意識を被造物に浸透させることで存在させておられます。

私たちが被造物の素晴らしさに情的な感銘を受ける時、その感銘を与えているのは被造物そのものではなく、神様の意識が私自身に浸透して生じているクオリア(質感、情感)なのです。

 

天地創造以前の神様について解明するのが原理原相論です。

だから原理本体論というものがあって、その次に原相論があります。本体が体になる前の原相。神様が内的に育ってきていた、神様も幼児時代から少年時代,長生時代,老年時代に永生できる年齢までの原相論が出てこそ、共産主義理論が逃げてしまいます。

天正宮 訓読会 2009.01.09

神様においても全く同じです。神様も息子、娘を育ててこられたということを知らなければなりません神様にも赤ん坊のような時があり、兄弟(妹)のような時があり、夫婦のような時があり、父母になった時に創造なさったということを知らなければなりません。無形なる神様もそのように大きくなってこられたということです。

無形の神様にとって、実体のアダムとエバが成長する姿を見ることは実に刺激的なことです。アイゴー、私も兄弟(妹)げんかをしてこのように育ち、夫婦となり、父母となりました。ちょうどそれを再び眺めるようになるのです。ですから、神様が創造されたのと全く同じように、神様はアダムとエバが実体の神様として成長し、息子、娘を生んでいく姿を平面的に感じてこられたはずだったのです。
ファミリー94年4月 P33~34 真の父母と創造理想家庭 1994年1月15日世界宣教本部

天地創造以前には昼の神様の成長期間もありますが、その期間から昼の神様が感じられたに違いない質感や情感はどこから来たのかとても不思議です。例えば子供が花を見て綺麗だと感じるのは花そのものが存在しても感じることはできません。花が持つ色彩、輝きといった質感、美しいと感じる情感、これらはより無形なものです。この原型は夜の神様が子女である昼の神様の成長期間あるいはそれ以前に創造されたものと考えられます。更に昼の神様が完成されて夜の神様と一体となられ天の父母様となられた後には、将来創造される子女である人間のために、人間の意識に上るクオリアを創造されたと考えられます。これが天地創造による被造物の創造以上に傑作なのです。人間に創造できるとは到底思えないほどにずば抜けた傑作です。

 

例えば、五つ星のレストランのシェフは味を作り出す天才だと思われていますが、実は様々に食材や調味料や調理手法によって神様の味のクオリアの中でもより上位のクオリアが出現するよう調整しているだけです。味そのものを作っているわけではありません。

作曲家や演奏家もそうです。素晴らしい音やメロディを作っていると思われていますが、そうではありません。神様の音やメロディのクオリアの中でより素晴らしい音やメロディ感が出現するように調整しているだけです。音やメロディ感そのものを作り出しているわけではありません。

人間は、音の元となる空気の振動を作り出すことはできますが、音そのものやメロディ感、和音感といったものは無形なもので人間には作れません。

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美しさ、魅力の源泉は神様

重要なことはクオリアの源泉が神様であることに気付けるかどうかです。

例えば、ある女性を見て奇麗だ、魅力的だと感じたとします。しかし、その女性に色がついているわけではありません。電磁波を反射しているだけです。その電磁波には色は付いていません。その声が魅力的だとしても声帯が空気を振動させているだけで声ではありません。

その女性そのものが奇麗で魅力的なのではありません。何しろ、その女性そのものには色彩はありません。

上のグレースケールの写真には明暗がありますが、実際の女性そのものは明暗もありません。この写真は魅力的とは言い難いものです。

魅力的に聞こえる声も空気が振動しているという物理現象があるだけです。

客観的に眺めればその女性は奇麗であるはずがなく、魅力的であるはずがないのです。また、奇麗だ、魅力的だと感じる感覚も神様源泉のクオリアなのです。要するにその女性を奇麗な見せているのは神様です。

もちろんその女性はエステに行ってスキンケアを行い、スポーツジムでスタイル維持に努力し、食生活にも気を付けているかもしれません。また、メイクの研究にも余念がないかもしれません。しかしそれは奇麗そのものを作り出しているわけではありません。神様のクオリアの中で、より綺麗なクオリアを引き出すことができるよう調整しているだけです。

 

この部分の認識はとても重要です。

ある女性が奇麗で魅力的だとします。しかし実際は、その女性が奇麗で魅力的にしている要素はその女性自身にあるのではありません。その女性の側の要因は全体の5%に過ぎません。残りの95%は神様がその女性を奇麗にそして魅力的に仕上げておられるのです。

男性が女性を見て魅力的だと感じ、女性が男性を見て魅力的だと感じるのは、その相手そのものが魅力的だからなのではないのです。魅力的な質感も魅力的だと感じる情感をすべて神様の質感、情感のなせる業なのです。

女性は男性を虜にするだけの魅力にあふれています。(女性から見た男性も同様です。)いわゆるメロメロ状態にまで至ります。男性から見たらその魅力のすべては女性が持っていると思っています。事実は全く違います。客観的に存在する女性は、髪、肌、唇などあらゆるものに色はありません。明暗すらありません。肌の透明感などいう言葉を使いますが、客観的にはそんなものは存在しません。あくまでも肌に反射する電磁波の重なり具合があるだけです。肌に触れても柔らかいという感触はありません。皮膚組織の水分や弾力性のある脂肪やたんぱく質が多いだけです。

実際は物理現象しかない女性という存在を、男性が見ると色彩、輝き、柔らかさに満ちた質感を感じ、それが情感を刺激するのです。このような質感と情感を男性の意識に上らせているのは神様の性相的な質感、情感です。

夫婦が抱擁したりキスをしたり、生殖器を合わせた時に生ずるのは、客観的にみると感覚器を通して生ずる電気信号だけです。その電気信号に愛の情感は一切ありません。物理現象だけです。そこに質感、情感を生じさせているのは神様の性愛の質感、情感です。

​神様が取って食べるなと言われたのはこの質感、情感のことです。

 

このようにクオリアは神様由来です。物理現象そのものとは全く異なる存在です。これについて知ることは簡単なようで簡単ではないかもしれません。人間が普通にあると思っている質感や情感は神様の魔法と言えるかも知れません。

神様は余りにも原因であり、人間は余りにも結果的存在なのです。

以下の内容をお読みいただいたうえで、日常生活で意識して生活することで、徐々に神様由来のクオリアとその源である神様の存在がすぐそばに感じられるようになれると思います。

​クオリア論には次の内容があります。

五感の役事(クオリア論Ⅰ)

「今、ここ」のクオリア堪能法(クオリア論Ⅱ)

「今、ここ」の神様の魔法と真の愛実践法(クオリア論Ⅲ)

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