「今、ここ」の神様の魔法と真の愛実践法
<神様のマジックに気付くことで世界が一変する>
人間は当たり前の日常で、景色を見たり、食事を味わったり、様々な音を聞いたり、香りをかいだり、物に触れるなどで感触を感じたりしています。
これらのことは普通の現象であり、魔法のような仕掛けがあるなどと言えば頭がおかしいと言われるかもしれません。
私達の意識に上ってくる質感、たとえば空が青く見える、イチゴが赤く見える、レモンをかじると酸っぱい、バラから甘い香りがした、肩がこるなどの感じは余りに日常的です。また、海の景色に感動した、営業成績が上がらず憂鬱になった、子供の成績が上がって嬉しい、明日からの旅行を思うとワクワクする、妻や夫が慕わしいなどの情感も普通にありふれています。
しかし、どういう仕組みで質感や情感が生ずるのかについては、哲学、脳科学、神経科学、認知科学など広い分野で研究されていますが、回答が見つかるかも分からないほどの解明困難な課題として「意識の難問題」と呼ばれています。
それらは人間の想像を遥かに超える大仕掛けのマジックによって出現しています。仕掛けているのは神様です。多くの科学者は、全能の神様を引っ張り出せば、科学が成り立たなくなるなどど言って神様を遠ざけています。神様以上の科学者はいないことを知りません。
目から鱗が落ちるという言葉がありますが、鱗が貼りついたままなのです。これ以上の大仕掛けの魔法はないのですが、余りに見事であるため誰も気が付かなかったのです。このため、この壮大な仕掛けに気付いて全貌を知ることは歴史的な事とならざるを得ません。
試しに、目をつぶって何秒かして目を開けてみてください。
目に映像が映ります。
これが当たり前だと思っているとすれば、それは魔術に気付いていない証拠です。
この映像が魔術なのです。
最高のマジックは仕掛けが分からないばかりでなく、それがマジックであることすら分からないのです。
この魔法が解けたら全く違う風景が見えてくるのです。
魔法から目覚めるには仕掛けを知る必要があります。
この部分をしっかり理解することがこの章のほとんどを占めます。
この魔術と言っても過言でない仕掛けは余りに良くできているので、魔術から目覚めることは思ったよりも簡単ではありません。
この内容をご覧になって知的に理解したとしても、魔法が完全に解けるのに少し時間がかかる人が多いと思います。
この仕掛けに気付くには次のみ言が重要です。
「一つになれば感じないというのは重大なのです。」
「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 一 愛の絶対価値 3.生殖器は根本問題解決の出発点と終着点
全貌を明らかにするためにかなり丁寧に説明していきますので、既に他の章で何回も見たことがある部分もあるかと思いますがご理解ください。
私自身もこの部分の重要さを「今、ここ」のメソッドを実践する中で、その意味の大きさを分かっていたようで理解が十分ではなかっと反省しています。
それでは、まず仕掛けの全体を簡略に描いた下記の図をご覧ください。
私たちは目で見た時に、目そのものが映像を捉えているように感じます。
また、食事をした時に感じる味は舌が捉えていると感じます。脳科学者が、見たり、味わったりしているのは脳だと言ってもピンといません。しかし、目から脳に行く視神経が切れれば、何も見えなくなります。
同様に、舌から脳に行く味覚神経が切れれば舌に何の障害がなくても味を感じられなくなります。
やっぱり脳なのかと考えても、心は胸のあたりに感じるし、どうもしっくりきません。
この世界は入り口から不思議な世界です。
先に行くともっと不思議です。
目で見た時、目から入ってきた電磁波は電気信号に変換されて電気信号として脳に行きます。当然のことですが、映像が脳に行くわけではありません。脳に届いているのは電気信号という物理現象です。
神経は映像そのものを脳に送っていると思っている方がいるかもしれませんが、それは根本的に間違いです。
また、傷ができた時、痛みを感じます。これは細かい神経が切れたためだと考えている人が多いのです。神経は電気信号を伝達しているだけで痛みを伝達しているわけではありません。生体電気信号そのものが痛いはずはありません。
そのような錯覚を起こさせるほどにこのマジックはすごいのです。
例えば、テレビカメラで風景を記録してテレビにつなげれば風景は再現されます。だから風景を記録することなど今の技術なら簡単にできると思っている人は案外多いのです。
しかし、テレビカメラが記録するのは外界からレンズを通して入ってくる電磁波です。映像ではありません。
同様にテレビが再生しているのは電磁波です。映像ではありません。そんなことはない。ちゃんと映像として見えるじゃないか、と言われる方もいるかと思います。
根本において、風景という色彩、輝度、遠近感、透明感、明暗を持ったものは外界には存在していないのです。
私達が外界を見た時、目に入ってくるものは電磁波(光も波長の短い電磁波)のみです。
外界に存在する電磁波という物理現象を色彩、輝度、遠近感、透明感、明暗などに変換する魔法がそこにあることになります。
視覚で捉える質感は電磁波とは余りに違うものなので、それは科学と呼ぶにはあまりに次元が違い過ぎます。魔法と呼ぶ方が相応しい現象なのです。
一瞬で東京からニューヨークにテレポートする魔法があれば人々は目を丸くすることは間違いありません。世界中がその話でもちきりになることでしょう。
しかし、この現象はそれよりももっとすごいことなのです。言うなれば、今の世界から天地創造前にタイムトラベルするほどの魔術なのです。この魔術の謎を解く旅に出てみましょう。
電磁波は波ですから波長があります。
テレビの電波も電磁波です。地上デジタルの電波の波長は50cmほどです。BSデジタルの電波の波長は7.5cmと2.5cmです。
電波で波長の長いものでは100kmを超えるものもあります。
人間が目で捉えているのは可視光と名前がついている電磁波です。
人間が目で捉える光は、波長が1万分の3.8mm~7.8mm(380nm~780nm)という余りに短い波長です。
下図のように可視光と名前がついていますが単なる電磁波で色は付いていません。プリズムを通すと色が分かれるのではありません。さまざまな波長の光(電磁波)が一つにまとまっていたのを波長別に分かれて出現しているだけです。それを人間が見ると虹色に見えるのです。
下記のような図が多いため、可視光線と呼ばれる電磁波に色がついて存在していると思っている人が案外多いのです。
テレビは電波を色彩に変える装置と考える人が多いのですが、テレビ電波という数センチから数十センチの電磁波を一万分の3.8mmから7.8mmの(380nm~780nm)電磁波に変換しているだけの装置です。
テレビ画面から出ているのは電磁波という物理的な波だけです。
同様に風景を見て目に入ってくるのも電磁波だけです。
それが人間や生物の中で色彩、輝度、明暗、遠近、透明感などを伴った風景に変換されるのです。
ここで生じている奇蹟的なマジックを除くと客観的な世界が残ります。
下記のような世界です。
図では真っ暗な世界ですが本当は明暗もありません。
大仕掛けを発動して質感を出現させている物の正体は何なのでしょうか。
一般的な学者は脳だと考えています。
脳に電気信号が集まるのは事実です。
見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、味わったもの、接触したものの情報は全て目、耳、鼻、舌、皮膚などの感覚器官で電気信号に変換され神経を通って脳に行きます。
脳の機能についての下記のような図をご覧になったことがあると思います。脳が精神的機能やクオリアを作り出しているという非真理を真理であるかの如く発信しています。高名な学者が発信している情報もこの程度のものです。学者の発言や書籍、論文を科学的なものだとして無条件に信じる人々が多いのです。
学者や知識人と言われる人々は、自分でもよく分かっていないのに真理であるかの如く情報発信して、人々を惑わしていることが多いことを知るべきです。よく分からないことは分からないと素直に認めるだけの真理に対する謙虚さが必要です。
この類の人々は、心が体を動かしているのか、体が心を動かしているのかも判断できないほどに霊的感覚が鈍っています。心が体を動かしていることが分かれば、脳が心の原因であるかのようなこんな愚かな図は出てこないのです。
脳は単なる高度な物質であり、肉心や生心の無形な情報を受信しているだけの受信機に過ぎないというのが真理です。
問題を簡単にすると電気信号という無味乾燥な現象が、どうして色彩、音、味、香り、感触などの目が覚めるような世界に変わるのかということです。
目が覚めるような景色を電気信号に変えたものが、もう一度、目が覚める景色に戻るのではありません。
電磁波以外何もない世界が鮮やかな色彩、輝度、明暗、遠近感、透明感の溢れる世界に忽然と変わるのです。
皆さま、これ以上の魔法があるでしょうか?
脳にそんな能力があると考えるのは、脳全能主義です。脳なら何でもできるという幻想以外の何物でもありません。
これは科学ではありません。脳が全能の神様だとする宗教と言っても良いと思います。
脳という高度な物質ができるなら、いずれ人間が作ったロボット、アンドロイドなどでも質感、情感の認識が可能になるという余りに短絡的で幼稚なことを考える人が出てきます。
AIやアンドロイドが人間を超える日が来ると考える学者や脳の全能性を賛美する知識人などが一流とされ、多くの人々にこの無神論を布教しています。この人々はエリヤに滅ぼされたバアル預言者、アシュラ預言者のようです。
私はそういう人々に色彩、音、味、香り、感触を感じるロボットを作れるものなら作ってみなさい言いたいです。
色彩、音、味、香り、感触などは物理化学世界とは余りに違う世界です。
それらは客観的に観察できません。他の人に生じているこういった質感を観察することはできません。解剖しようが、電極を付けようが人の意識の中で生じている質感そのものを観察したり再現したりはできません。
簡単に言えば他の人の意識世界そのものを観察することは如何なる科学的手段を使おうと不可能なのです。
つまり、科学的手法は一切通用しないのです。
科学的手法が通用しないのにどうやって質感ロボットを作るのでしょうか?
ましてや、情感を感じるロボットなどあり得ないのです。
私たちはこの人々をも救う使命を持っています。救うための救命具は真の愛ですが、真理も知っている必要があります。
さて、全知全能の神様にとってもクオリアを作り出すことは簡単なことだったでしょうか。たとえば視覚のクオリア一つとっても何もない所からどうやって作られたのか余りに不思議です。
神様も愛から生まれたというみ言があります。これは推測ですが、神様が自分で自分を見て好きだと感じられた自己愛が最初にあったと考えられます。この愛が元で様々なものが生まれてきました。
つまり、神様にとっても色彩が一切なかった時代があるのです。愛から色彩が出てきたことは想像できますが、愛の感触以外何もない所から具体的な色彩をどうやって作るのでしょうか?赤色、青色、黄色、緑色をどうやって考え付くのでしょうか?
私たちは色彩に慣れて当たり前だと思ってしまうのですが、何もない時に色彩を考えて創造するというのは余りに凄いことです。
輝度も不思議です。例えば太陽は色としては黄色、オレンジ色、白色でしょうが、輝きはまた別です。輝きのない世界は美しくありません。
何もない所から輝きをどうやって考え付くのでしょう?
透明感も不思議です。水は色はないと言えますが、透明感があります。
この透明感が水をどれほど素晴らしくしている事でしょう。
何もない所から透明感をどうやって考え付くのでしょう?
遠近感も同様です。遠近感のない世界はつまらない世界です。
神様が全能と言っても、その全能の度合いが余りにも凄すぎます。
視覚のクオリア一つ作り出すのにも、どれほどの精誠と時間が必要だったでしょうか。想像を絶します。あまりに驚異的です。
他のクオリアも同様です。
人間は1兆種類の匂いを嗅ぎ分けることができるそうです。香りだけでも少なくともそれだけの数のクオリアを創造されたということです。
私達はそのあまりに尊いクオリアを、無償で浴びるほど頂いているのです。感謝という言葉では全く足りません。
さて、もう一度、物理化学世界と質感の世界が余りに違う世界であることを実感していただくために下記の図をご覧ください。
それではいよいよ種明かしをする段階です。
このマジックが生まれる
第一の原因は他では見られない原理的現象にあります。
クオリアの出現はとても不思議です。
私達が世界を観察すると、性相と形状は初めから一体化した形で存在します。正分合という時間的過程がないのです。例えば、素粒子や原子、分子の性相である法則性と形状は初めから一つです。
しかし、クオリアは性相と形状の一体現象にもかかわらず正分合という過程があります。
神様の意識から来る性相的なクオリアを受信している肉心と、万有原力が人間の活動を通して形状化した電気信号の授受作用によってリアルタイムでクオリアが発生しているのです。
このクオリア出現現象における正分合は動物でも起こりますが、動物において現象化するのは神様の内的クオリアのほんの一部分です。
性相と形状の授受作用が正分合という過程を明確に伴うのは、他に、神様が心、人間が体で神人一体化していく時に現れます。
クオリアの出現は、象徴的な神人一体化現象です。そのため、クオリアの生成は天国的であり衝撃的刺激を伴います。
人間は堕落して感性が鈍り、クオリア出現の神秘性とその余りの素晴らしさが分からなくなってしまったのです。
(余談ですが、人間は誕生と同時に霊人体と肉身という性相と形状が結合するいう一回きりの現象があります。赤ん坊として生まれる時に、これが認識できるわけではありません。当然、本人は味わったり感動したりはできません。これは、人間が行くべき将来の神人一体を象徴している現象だと考えられます。)
第二の原因はクオリアの原因が人間の内部には存在せず、神様の内部に存在しているということです。
原理講論には書いてありませんが、統一思想には性相の原因について明確に記載されています。
統一思想要綱 第二部 第二章 第三節 統一認識論 (五) 2 原意識と原影像の根源と形成 P300にある内容を分かりやすくまとめると次のようになります。
神様は遍在されるお方なので、神様の意識は被造世界のどこにでも存在します。このため、宇宙を神様の意識の場と見ることができます。
統一思想では神様が細胞に意識を浸透させて出来上がる細胞意識の事を原意識と呼んでいます。これが細胞の性相です。神様が植物に意識を浸透させて出来上がる植物の性相が植物心、動物に意識を浸透させて出来上がる動物の性相が本能、人間の肉身に意識を浸透させて出来上がるのが肉身の性相である肉心です。また、神様が意識を霊人体に浸透されることで生ずる霊人体の性相が生心です。
これは、被造物の性相は被造物自体内にはないことを意味しています。動物の本能、植物の植物心、分子、原子、素粒子の持つ法則性といった性相部分はその物の中に植え付ける形ではなく、神様の意識が浸透することで出現しているのです。
下記の図をご覧ください。
ここで重要なことは、性相の根源は神様の中にあるということです。
質感、情感というクオリアの性相も元々神様の中にあって天地創造前からあったというのが正解です。
天地創造という外的創造だけが神様の創造活動の全てではありません。
天地創造前の創造があったことは下記のみ言を見れば明らかです。
神様においても全く同じです。神様も息子、娘を育ててこられたということを知らなければなりません。神様にも赤ん坊のような時があり、兄弟(妹)のような時があり、夫婦のような時があり、父母になった時に創造なさったということを知らなければなりません。無形なる神様もそのように大きくなってこられたということです。無形の神様にとって、実体のアダムとエバが成長する姿を見ることは実に刺激的なことです。アイゴー、私も兄弟(妹)げんかをしてこのように育ち、夫婦となり、父母となりました。ちょうどそれを再び眺めるようになるのです。ですから、神様が創造されたのと全く同じように、神様はアダムとエバが実体の神様として成長し、息子、娘を生んでいく姿を平面的に感じてこられたはずだったのです。
ファミリー94年4月 P33~34 真の父母と創造理想家庭 1994年1月15日世界宣教本部
神様が息子、娘を育てられたと記されています。その息子、娘が成長し兄弟となり、夫婦となり、父母となった時に創造なさったとあります。
赤ん坊の神様を育てた神様がいることが分かります。
その赤ん坊は兄妹という二人です。成長して夫婦となり、父母となって天地創造を成されたというみ言です。
このみ言は天地創造以前の神様の家庭の姿です。
育てた神様が夜の神様、育てられた神様が昼の神様です。
夜の神様が昼の神様を創造されたことが分かります。
この神様世界の存在物が私たちの世界の性相なのです。
神様世界の住人は夜の神様と昼の神様です。両方合わせると天の父母様です。霊界、地上界の住人は人間です。人間の性相は天の父母様なのです。
話を元に戻します。
情感、質感というクオリアにも性相と形状があります。
人間が感じる質感の形状は神経電気信号です。
性相は神様の中にある内的クオリアです。
私達が感じる質感は神様の内的クオリアが神経電気信号という衣を着たものということができます。
それを加味して次の図をご覧ください。
(内的クオリアは天地創造以前の被造物と考えるのが妥当です。
夜の神様が創造し昼の神様が味わっておられたものが原型と考えられます。
それに昼の神様の創造が加わっているのかもしれません。
愛においても、この神様世界の神様家庭に存在する父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛が私たちの世界に見られる父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の性相です。)
<「今、ここ」の真の愛と神様との生活>
神様のマジックに気付くことができると、クオリアの先にある神様がぐっと近くに感じられるようになります。そして、人間のために惜しみなくクオリアを与える神様の姿が見えてきます。
神様が遠くの玉座に座っておられる方ではなく、私に一生懸命与えながら私と生活しておられるのが感じられてきます。
神様の実像を知り、神様の真の愛をじっくり味わい、そして神様を真の愛で愛する生活を実践できます。
神様との生活が始まります。そのポイントは下記の三点です。
①私の感じるクオリアを通して、私が神様の体であることを知る
万物の霊長である人間が持っている様々な感性や機能は、神様が創造時に人間に与えたものだという理解では正解ではありません。
人間は堕落することで無知に陥ったのですが、最大の無知の一つが人間は神様の体として創造されているという事実です。
人間は神様の体なので、神様の感性や機能は神様と独立して人間が別に持つ必要はないのです。神様の感性や機能を人間は共有しているのです。
ミケランジェロのアダムの創造の絵は有名ですが、神様と人間の描き方は正しいとは言えません。
あの絵では神様と人間は独立的です。
しかし、人間は間接主管圏でも既に神様と大半は確実に融合しています。それで様々な感性や機能が生まれています。
つまり、人間の感性や機能は、神様の感性や機能が発動しているからなのです。
例えば、神様は食べることをされるでしょうか?
私達が食事する時の出現する、味、嚙み心地、喉越し、満腹感などすべてが神様の内的なクオリアに原因があります。これで神様も食事されることが分かります。
神様は、大小の用足しされるのでしょうか?
多くの信仰者は、そんなことはあり得ない、そんなことを考えるだけで不敬だというと思います。
しかし、私達がトイレで大小の用足しする時に生ずる余りに複雑な感触を再確認してみてください。これは神様由来の質感です。
これで神様も大小の用足しをされることが分かります。
同様に、神様はゲップをしたりおならをしたりもされます。
私達に生じるクオリアがそれを証明しています。
夫婦で愛する時には我を忘れるほどの興奮と愛の刺激が伴います。
普段の生活では見られない最強のクオリアが出現しています。
このクオリアも当然、根源は神様です。
神様は夫婦で愛し合う神様であることが分かります。
私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだという観が決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 一 神様に侍って生きるべし 2.一体となった生活をしなければならない
② 「今、ここ」に確実にある神様の真の愛をじっくり味わう
クオリアは神様の内的クオリアが根源なので、私達が味わうクオリアは神様から私達への相続行為なのです。
神様の中に質感、情感そしてその頂点に立つ愛があります。
神様は全知なので人間の活動のあらゆる場面を見ておられます。
そしてその場面、場面で必要なクオリアや愛をリアルタイムで与えておられるのです。
神様にとってこの作業は潜在意識的な作業だということができます。人間の場合、自転車に乗ったり、車を運転することは最初の内は苦労しますが、慣れてくれば無意識的、潜在意識的にできる様になります。しかし、神様の場合はどうでしょう。
人間においては潜在意識と顕在意識が分かれていますが、根源である神様においては正分合の正の位置にあるので、潜在意識と顕在意識が分化する以前の意識状態と言えます。このため、潜在意識的な作業も同時に顕在意識的なのです。
これは人間にクオリアを与える作業も相当の心のエネルギーを使う必要があるということです。人間への精誠が相当投入される作業なのです。
まるで人間に付きっきりで給仕しておられるようです。
人間が美味しい食事を味わっている時も、風呂に浸かっていい気分の時も神様の精誠は投入されています。
神様の愛は「今、ここ」に確実にあるのです。
例えば、目で見ることで、そこに色彩、輝度、透明感、明暗、遠近感、スピード感を感じられることは素晴らしいことであり、見えなければ大変なことになります。
目が見えるのは眼球や視神経や脳が正常に機能していることが中心ではありません。神様がリアルタイムでクオリアを与えて下さるからです。
時々刻々と意識に上ってくるクオリアは、神様の愛と精誠の賜物なのです。私達が同様のことをするなら気が遠くなるほどに面倒な作業を黙々としておられるのです。クオリアを人間に与える神様の姿は、赤ちゃんに母乳を与える母親のようです。子女を愛する父母だけができる作業です。
私たちの意識に上ってくる視界、味、香り、音、感触を感じるということは、生ける神様を肌で感じることです。神様の愛の役事を目の当たりにすることなのです。
試練の時、「神様は何もしてくれない」「でも間接主管圏だから仕方がない」と思ったりします。しかし、私の意識に上るクオリアが、神様は「今、ここ」で私と共におられるという証拠なのです。
これこそ神様の愛をじっくり味わう道です。
試練の時「今、ここ」に集中しクオリアを味わってください。
私が数年前、ある事で子供を助けてあげることが出来なくて苦悩し追い詰められていた時に「大丈夫だ、私がいるではないか」という神様の言葉を頂きました。それで元気になって試練を超えた経験があります。
神様を身近に感じることはとても大きな力になります。
クオリア現象は神様の私への臨在そのものです。
母乳を与える母親に抱かれているのと同じです。
それは「大丈夫だ。私が今、ここにお前と共にいるではないか」という啓示と同じなのです。
アダムとエバは、神様の二性性相がそのまま出てきたので、一つのふろしきから出てきたのと同じです。双子で生まれた兄と妹のようなものです。その兄妹の双子がおっぱいを片方ずつ分けて飲み、お互いに触って、母親のおっぱいを飲む愛を中心として考えるのです。すべて母の懐に抱かれて愛するのです。
「宇宙の根本」第二章 人間創造と愛の理想の完成 三 神人一体と愛の理想の完成 3.なぜ結婚が重要なのか(1)結婚の目的は神様に似ること
③ クオリアを堪能することは神様を真の愛で愛する実践
意識に上ってくるクオリアをしっかり味わい感動すれば、自然を見て神様の創造に驚嘆するのと同様に神様の心を揺さぶります。
神様に祈ることは相当の決意が必要ですが、食事をしっかり味わったり、自然の風景に見入ったり、その音に聞き入ったりすることはずっと簡単です。それが祈りとなる、あるいは祈り以上となるとすれば素晴らしくないですか?
下記のみ言、特に下線部をご覧ください。
神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王様、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神様より素晴らしいだろうか」といって、神様が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は祈祷が必要ありません。神様と共に暮らす人です。天は人間をそのような位置まで駆り立てるのです。
「真の愛」第二章 愛の実際 九 自然愛 2.自然は愛の理想を教えてくれる教材
み言にありますように、神様の被造物を何よりも貴いと感じるなら
間違いなく天の息子、娘だというのです。
祈祷が必要ないというのです。
神様と共に暮らす人だというのです。
これが被造物を何よりも尊く思うことの意味です。
それ以上に深い行為であるクオリア堪能ならば更に高貴な行為であり、その恩恵は驚くべきものです。
クオリアは被造物の性相にあたるもので被造物そのものよりも更に本質的な被造物です。
食べ物の性相をしっかり味わい神様の創造に思いを馳せれば、
食事の時間は祈りの時間に変わります。
神様との生活の場に変わります。
食事の時に食べ物の味、嚙み心地、喉越し、それに伴う音などのクオリアを、目をつぶるなどしてしっかり味わってください。一口食べて箸を置いて噛んで深く味わうと20回噛むあたりからその素晴らしさにお気づきになると思います。食べ物がこんなに美味しいのかという発見もあると思います。私が、クオリアの先に神様がおられると言ったことに納得して頂けると思います。クオリアをしっかり味わうとそのあまりの素晴らしさと創造された神様を感じ、泣きそうになります。こういう食事をすれば間違いなく健康で長生きします。
体内には神様がおられるます。体内を意識を持ってしっかり探ることは、神様が自らお造りになった至高の神殿を散歩することです。至聖所にも行ってみましょう。目をつぶって体内を探ると至聖所が特別な場所であることが感じられると思います。
それは神様の創造への賛美となります。
それは祈りに代わります。
生活すべてが祈りになるのです。
また、クオリアを味わっていると自動的に深い祈祷に移行できます。
使命達成を中心とする祈祷も必要ですが、生活が祈りとなっていることが基本です。
クオリアをしっかり味わうようになるとあらゆる感覚が鋭くなってきます。また、ちょっとしたことでも感動できるようになります。続けていくと質感、情感に対する感性がどんどん磨かれていきます。
平安感、平和感、幸福感もやってきます。
試しに3日間ほどやってみてください。
段々慣れてくると、間違いなく楽しくなり幸福が満ち溢れるように変わります。当然、運気も上昇します。
クオリアをしっかり味わうと、好きだ!という情感が生まれます。こうして生まれる情感こそ神様が人間を創造された目的なのです。
こうして人間の意識に生まれる「好きだ!」が神様の食べ物です。神様の大好物です。
(「真の愛論」の「驚異的な感化力と実践の奥義」の⑨真の愛を更に増幅する神様に対する自発的服従をご覧ください。)
自分が描いた作品を持って、夜も昼も酔い、眺めて涙を流し感嘆する人がいれば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し「どうしたのですか」と言いながら、その理由を話させるのではないですか。「ああ、とてもいい。ああ懐かしい。ああ、一緒にいたい」と言ったからといって、狂ったと言うでしょうか。皆さんは神様を知らなくても、神様が全宇宙にいっぱいに満ちている遍在性を知識的な主体としておられるよりも、愛としておられるので「私がどのように同感権を各分野で体恤することができるのか」という立場で神様を再認識し、再発見しなさいというのです。
「真の神様」第一章 神様の本体 六 愛によって遍在される1.愛だけが境界を出入りする
なお、より理解を深めたい方は「五感の役事」をご覧ください。