人間を死ぬほど好きでたまらない神様と父母様
この章の核心は最後の方に出てきます。
2014年10月27日(天一国2年閏9月4日)に神様から「真の愛を伝えなさい。悩める魂を救いなさい。」と指示されてから現在に至るまで、その意味を十分につかみかねていました。今回ようやくその意味が分かったように思います。それは信仰生活の根本的な大転換をもたらすような内容でした。その大きな恩恵を皆様と分かち合いたいと思います。
このところ天の深刻な心情が迫って来ているのを感じて押しつぶされそうになっていました。この章の前半部分は、自分の命を捧げるとすれば今しかないという思いが高まって書いたので、とても深刻なものとなっています。昨日大きな恩恵を頂いて解放されたので、この部分は消してしまおうとも思いましたが、私達の置かれている深刻な現状をお伝えするためには必要だと思い残しました。
そのため、この章の主題は最後の方の「私達はこの危機を越えることができるようになっています」にあります。
さて、上記はウクライナ兵の写真です。
ウクライナの兵力は2022年3月において後方支援を含めて数十万人で、5万人以上の女性が従軍しています。ウクライナ国防省によると、そのうち5000人以上は兵士として前線に立っています。軍での女性比率は約2割に達しています。男性に総動員令が敷かれてもなお兵力が不足しており、女性も従軍せざるを得ない状況です。
米政策研究機関「戦略国際問題研究所」(CSIS)はウクライナに侵略しているロシアの正規軍兵士や戦闘員らの死者数が2023年2月27日の時点で最大約7万人、ウクライナ側の戦死者は1万5500人から1万7500人、負傷者は約11万人と推定しています。
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の2023年2月21日の発表では、ウクライナでは民間人の死者8006人が確認されました。負傷者は1万3287人。ロシアが占領した地域では市民多数が虐殺されたとされ、実際の死者数はさらに多い恐れがあります。人口約4000万人のウクライナから800万人以上が国外に逃れ、国内の別の地域に逃れた避難民も500万人以上にのぼっています。
この戦争にウクライナの多くの兵士が参加しており、彼らは毎日生死の境にいます。民間人で死んだり拷問を受けたりした人も多数います。住む家を失った人は数えきれません。
私達にとってこれは他人事ではありません。後ほど述べますがこの戦争の根本原因は宗教的、政治的、あるいはプーチン氏の個人的堕落性ではありません。一般社会の研究機関やマスコミが推測している戦争原因は表面に過ぎません。
後程述べますが、真の原因は私達祝福家庭、食口の不信仰です。原因を間違うと根本的な解決はできません。
ウクライナの人々が死んだり、生死の境で苦しんだりしている状況は、本当は私たちが受けるべき仕打ちなのです。
人間の責任分担と死ぬ覚悟
初めに人間の責任分担の核心についてお話しします。
私達は復帰摂理を通して人間の責任分担の重要性について知りました。
しかし、復帰摂理に出てくる中心人物、中心民族についての記述は遥か昔のことに感じてしまう傾向があります。今の私たちの責任分担と結びつけて考えるのは簡単ではありません。
そこでここでは人間の責任分担について現在の私達にも通じる普遍的な法則を探ってみようと思います。
責任分担の手本は神様にあります。神様の責任分担95%です。
神様の責任分担95%というと復帰摂理における神様の責任分担を思い浮かべますが、神様の責任分担95%の原型は天地創造です。その上で人間の責任分担5%があります。
人間の責任分担は神様が先駆け示してくださった道を同じように歩むことでなされます。
神様の責任分担95%、すなわち天地創造について見てみるとその驚くべき姿を知ることができます。神様の天地創造は真の愛の行為そのものです。
愛を中心として絶対信仰です。愛を完成する為には絶対服従しなければならないのです。死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。それ故、霊界に行くという事は死ぬ事ではなく、神様の愛を求めて行く道だという事です。神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。
「真の神様の祖国光復」第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって
「神様が愛の為に死ぬという道を作ったのです。」とあります。これは天地創造の御業のことを指しています。天地創造は神様の血と肉、命までも絞り出して投入された御業です。つまり、死を覚悟してなされたことなのです。
天地創造の時の心情を表現していると見なしても良いと思われるみ言があります。
生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天
「喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出す」とあるのは神様が歩まれた道です。神様は、ご自分が経験したことのないことを人間に要求されることはありません。
以上まとめますと、神様の95%である天地創造は死を覚悟してなされた御業であり、その心情世界は死を恐れる気持ちは微塵もなく、喜んで狂うほど死んでもいいと踊りながらなされたということです。これが責任分担の原型なので、人間にもその道を行くことを願われます。
「喜んで狂うほど死んでもいいと踊りながら」という心情世界は、いきなりできるものではありませんが、死を覚悟することは絶対必要条件になります。
人間の責任分担の可否は死を覚悟していけば合格、死を覚悟できなければ不合格です。
死を覚悟して善の道を行くことができなければ、強制的な死の道が待っています。
成功する場合も失敗する場合も必ず死が付いてまわります。
行儀は死を覚悟して行えば合格です。
死を覚悟できなければ失敗となり死をもって蕩減します。
信義は死を覚悟して行えば合格です。
死を覚悟できなければ失敗となり死をもって蕩減します。
復帰摂理でその例を見てみましょう。
アベルは死を覚悟して責任分担に臨めなかったので、命を失いました。
ハムは死を覚悟して責任分担に臨めなかったので、ハムの子孫は洪水で死んでいった人々よりも悲惨な道を行きました。
イサクはイサク献祭において死を覚悟して責任分担に臨んだので信仰基台を復帰できました。
カナンにおいて、ヤコブはエサウに対してパンとレンズ豆のあつもので長子権を復帰しようとしましたが、死を覚悟して責任分担に臨めなかったのでエサウに殺されそうになりました。この時、ヤコブは神様の摂理に合格できなければ死が待っていることを知ったのです。ハランから帰ってきてエサウに再び会うことになった時、死を覚悟したので越えられたのです。
出エジプトしたイスラエル民族はエジプトへの未練にとらわれ死を覚悟できなかったので荒野で死滅しました。死を覚悟した内的イスラエルのみがカナンに入れました。
洗礼ヨハネは、自身の名声と立場に執着し、死を覚悟してイエス様に従えなかったので、つまらない理由で斬首されました。
12弟子や使徒たちも死を覚悟してイエス様に従えなかったので非業の最後を遂げました。
韓民族は、死を覚悟して真の父母様を受け入れなかったことで韓国動乱が起こり、何百万人が死にました。
侍義時代も同様だと考えるのが妥当です。
つまり、侍義は死を覚悟して行えば合格です。
死を覚悟できなければ失敗となり死をもって蕩減します。
しかし今まではそうはなっていませんでした。
どうしてなのでしょうか?
これは私たちが死を持って蕩減すべき所を真の父母様とご家庭が背負われたからです。
これがいつかしら当たり前になっていました。
不信仰しても守られると思ってきたのです。
ある意味、ぬるま湯に浸かっているような状態が続いてきました。
私達の不信仰を私たちに代わって蕩減された典型が、お父様の聖和前の死の路程であり、お母様の侍墓路程でした。
しかし、その後の路程を見ると様相が変わってきているのを感じている方もおられると思います。
基元節において真の父母様が完全に勝利され、お母様が侍墓三年路程で私たち食口の不信仰を奇麗に処理してくださったので、神様と真の父母様の責任が中心だった時代から、子女の責任に重心が移行しました。
これは別の見方をすると、真の父母様が子女の不信仰を代わりに背負う時代から子女の責任時代になったことを意味しています。父母が先頭に立たれることには変更はないのですが子女の責任が大きな部分を占めるようになったのです。良く言えば独り立ちしていく時を迎えていると言うことができます。
これは喜ばしいことである一方、失敗すれば責任は子女が背負うことを意味します。
私はそれを強く感じています。ぬるま湯は終わろうとしています。
その事例ははっきりあります。
一つはご父母様が私たち子女を助けるやり方に変化が起こっていることがあげられます。
今までは子女の責任を真の父母様が何も言わず背負ってこられました。あるいは興進様の聖和のようにご子女様が背負われることもありました。
しかし、基元節以降はそうではありません。お母様は、お父様はお母様と聖婚なさることで原罪が清算されたとか、お父様はお母様と聖婚される前に家庭を持つべきではなかったと言われました。お父様がメシヤとしての道を外れたと断言されたのです。過去においてお母様がそのようなことを言われたことはありません。これは大きな変化です。
お母様の話しをそのまま鵜呑みにしてつまずく人も出てくるようなことを言われたのです。
これは私たちがそれでも真の父母様を信じることで不信仰を蕩減復帰するために言われたことです。これはあくまでも私達の不信仰を、信じがたい事を信じるというわずかな条件で蕩減するためだったのです。お母様の深い愛から生じたものでした。以前なら何も言わずご自身で背負われましたが、今は子女が背負うようにされるという変化が起こっています。
もう一つは、以前にも増して子女が死をもって蕩減する事例が明確に出てきたことです。
子女が蕩減を引き受けるには順序があります。復帰摂理を見ると罪を背負ってきたのは次子です。祝福の中心は長子なので、長子が初めに祝福を受けます。次子は長子から祝福を分けてもらいます。また長子を守るのは次子の責任です。次子が長子のために犠牲になるのが原理です。下記のみ言にあるように長子が次子よりも尊いからです。
皆さん、原理でカイン、アベルを考えたとき、カインが貴いでしょうか、アベルが貴いでしょうか。どちらが貴いですか。アベルが貴いとみな思っているのですが、それは間違っています。アベルは弟の立場であり、カインは長子の立場です。正しく知らなければなりません。アベルよりも、次子よりも長子の立場が貴いのです。長子は一人ですが、次子はそうではありません。長子が何人もいるということがありますか。長子というのは一人しかいないものです。長子がなぜ貴いかというと、一人しかいないからです。次子は何人にもなり得るのです。それを知らなければなりません。
「罪と蕩減復帰」第三章 蕩減と復帰の公式 四 長子権勝利と父母権、王権復帰 1長子権復帰
それでは現代の摂理において長子とは誰なのでしょうか?
この世が長子権を持っていると思っている方も多いのではないかと思います。
勝利された天地人真の父母様と呼ぶのは単なる枕詞ではありません。長子権、父母権、王権、万物主管権を完全に復帰されたのは真の父母様です。神様と真の父母様は万王の王です。神様と真の父母様から祝福を受けていないこの世やこの世の人々が長子であるはずがありません。これははっきりさせないといけないことです。
長子は真の父母様から祝福を受けた私達です。私たちが長子でこの世の人々が次子です。
こういう観点で見ると最近起こった世界的な事件の本当の原因が分かります。
世界的な事件とは、コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻、元首相の暗殺です。
長子の立場にある私たちが責任を果たせていないので、次子圏が代わりに死の道を行ったのです。
一般社会でコロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻、元首相の暗殺を一連の流れとして捉える人は誰もいないと思います。しかし、復帰原理から見れば明らかに一つにつながっているのです。
特に元首相の暗殺によって教会もかつてないほどに打たれました。これは、次は長子である私達が打たれる番だという天からの警告です。しかし現時点ではこれによって教会員に死者が出たわけではありません。本格的に打たれるとすればこれからです。
繰り返しますが、今まで余りに守られてきたのです。今回打たれたのは、問題になるならとっくの昔に問題になっていたことばかりです。今まで神様と霊界によって奇跡的に守られてきたのです。
本来、侍義は死を覚悟して行えば合格です。
死を覚悟できなければ失敗となり死をもって蕩減します。これが原則です。
天が奇跡的に守ってくださっていたので、原則通りにならなかっただけなのです。
しかし、真の父母様がすべての責任を全うされたので、子女が責任を負う時代になっているのです。今までとは違うのです。
お母様が最近更に厳しいことを激しく言われるようになっているのは、このことと深く関係しているように思えてなりません。神様は創造理想世界を復帰するためにはどんな犠牲を払っても成されることは復帰歴史が証明しています。
神韓国、神日本、神世界を必ず復帰するのが神様のみ旨です。お母様は私達の不信仰を神様にどれほど許してくださいと祈られ懇願されたことでしょうか。そのためにどれほどの精誠を尽くされたことでしょうか。
しかし、神様はいつまでも待てないのです。コロナ禍が起こった時、お母様は神様がもう待てないので起こったと言われました。そして神様がいつまでの悔い改めて変わろうとしない私達に対して「もう待てない」と思われる時がすぐそこに来ているのを感じます。
私達祝福家庭、食口はなぜ召命されたのでしょうか?
それは、私たちが先駆け救われるためではありません。先駆け幸せになるためでもありません。人類の長男、長女の立場で、弟妹たちを救い出し幸せにしてあげるためです。その後に自分たちの救いや幸せがあるのです。
これが侍義の時代を担当する私たちがなすべきことです。しかし、実際は弟たち、妹たちを救うどころか犠牲にしているのです。
私達は行義、信義を担当してきた信徒以上の信仰基準を達成すべく召命されています。
侍義は死を覚悟して行えば合格です。
死を覚悟できなければ失敗となり死をもって蕩減します。
この原則は普遍的です。
簡単に言えば私達は神様と真の父母様と人類のために死を覚悟できていないのです。前章でも述べましたが死線を越えなければ何も貢献していないのと同じなのです。
私達が死線を越える基準を立てられていない明確な証拠があります。
それはこの世の主権がいまだに私達の手にないことです。
死を超える基準が立っていないので、私たちが神様と真の父母様と一体となれていません。真の一体化は生死の境で起こります。この基準に達していないので、長子権、父母権、王権、万物主管権を相続できていないのです。
死線を越えて天地人真の父母様と一体化して勝利圏を相続することが優先順位の一番になっていないのです。これなしに政治家や経済人や有力者に働きかけても虚しい結果しか得られません。勝利したユダヤ民族や勝利したキリスト教徒ができたことが私達はできていないのです。
勝利圏の相続についての分かりやすい例としてイエス様と最後を共にした右側の強盗があげられます。彼は強盗だったので当時のユダヤの法にも天法にも違反する犯罪者でした。しかし人生の最後においてイエス様を慕いつつ死線を超えたのです。この右側の強盗によって死の道を行くイエス様やそれを見ながら助けることができなかった神様はどれほど慰められたことでしょうか。右側の強盗は死を越えてイエス様を慕い従ったことで、イエス様の勝利圏を相続できたのです。それで地獄の地獄に行くべき立場から一気に楽園に行ったのです。
私達がこの世を変えられず主権を復帰できないのは、右側の強盗ができたことができていないことが原因です。私たちは、死線を超えるどころか弟妹である次子圏を死に追いやっているのです。
この深刻な状況を理解される方は、わずかだと思います。しかし、理解できる方は真の父母様のために死ぬ覚悟ができる人だと思います。
このままでは、ご子女様のどなたかが犠牲となられる可能性を感じます。あるいは、ある数の食口が事故、病気、事件などによって命を失う可能性を感じます。
私はこれが杞憂に終わることを願っています。
死ぬ覚悟ができなければ強制的に死をもって償うのが復帰摂理の普遍的原則です。
それを避ける道について神様とアブラハムの問答が創世記18章にあります。
アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
これは旧約時代の話ではありますが、復帰摂理の原則は同じです。
お母様のために死線を超える覚悟をする食口がある数必要です。
実際は食口全員にその基準が求められていますが、できる人は限られていると感じます。
死線を超える心情に至るには真剣な祈りと神様の導きがなければできません。
私も毎日そのことを祈っています。
今の状況の深刻さを感じている方にお願いいたします。
そのような祈りにチャレンジしてくださることを懇願いたします。
心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出せという言葉です。思いを尽くせというのも、精誠を尽くせというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天
私達はこの危機を越えることができるようになっています
私は2012年9月2日に命を捧げる祈りをしましたが、それは永続的に続く基準ではありませんでした。一方、あの時感じた幸福感が忘れられませんでした。
神様と真の父母様に喜んで命を捧げる者となりたいと思う一方で、この10年以上に渡ってその基準に到達できない自分に焦りを感じていました。
上記の文章にはその焦りが滲んでいます。
特に最近は神様と真の父母様に命を捧げる基準に到達するにはどうすればいいのかと身悶えていました。
その解決の糸口を与えられていましたがそれに気付いていませんでした。
糸口として与えられていた内容とは、神様が私達人間を意識の中にいれてくださっているといことです。これは「衝撃の神観 衝撃の人間観」「神様の意識の中で生活する人間Ⅰ」「神様の意識の中で生活する人間Ⅱ」「人間の能力は自分の中にあるのか?神様からの即時の賜物か?」に書いています。これらはすべて神様の導きで与えられた内容です。
その基台の上で今日(2023.7.7)忽然と重要な内容が与えられました。
それは、神様は人間を死ぬほど愛しておられるということです。神様が人間を愛しておられることに皆さんも異論はないと思います。しかしそのレベルは人間を全員、神様の心に入れておられるというレベルです。これは人間を死ぬほど愛していないとできないことです。神様は、本然の人間に対しても堕落性に満ちた悪人に対しても死ぬほど好きなのです。だから神様は真の愛の方なのです。
そしてこの愛の基準を完全に相続されたのが真の父母様です。
真の父母様の路程は人類の罪を蕩減して神様を解放する道ですが、同時に神様が死ぬほど人間を愛しておられる愛を体恤する道でもありました。そしてその神様の愛を相続することを完全に成し遂げられました。
真のお父様も真のお母様も私達をいつでも死ぬほど愛しておられます。その愛の基準があるので真の父母なのです。
人間は堕落して愛の不信に陥りました。最初に陥ったのはルーシェルです。サタンとなってますます愛を不信する者となりました。
そのサタンに対して死ぬほどの愛する愛を貫かれたのが神様です。そしてサタンも堕落人間も死ぬほど愛する愛を相続されたのが真の父母様です。サタンは神様の愛を不信して堕落しましたが、神様と真の父母様を苦しめぬいて初めて、神様と真の父母様が自分を死ぬほど愛してくださっていることに気付いたのです。それで屈服したのです。サタンが屈服した理由はそれ以外にありません。皆様もそう思われませんか?
堕落の血統を受けた私達の最大の堕落性はサタンと同じように愛に対する不信感です。そして自分が気に入った者は愛せても、気に入らない者は愛せないという条件付きの愛です。
簡単に言えば神様と真の父母様が私を無条件で死ぬほど愛してくれているとは思えないのです。無条件の愛があるとは到底信じられないのです。自分とはあまりに違うからです。
神様と真の父母様が復帰において最も苦労された内容が、愛に対して人間がいだく不信感を取り除くことです。
ルーシェルは死んでもいいと思ってエバを愛し、エバも死んでもいいと思ってルーシェルを愛して堕落しました。ルーシェルの行動は神様の愛に対する不信が動機で始まった条件付きの愛だったので、堕落人間はその愛を受け継ぎました。愛を不信し条件付きでしか愛せない愛です。
この愛が堕落世界を作っています。社会を見れば身内以外はみな他人です。他人とは身内とは違い信じることができない人を指して使う言葉です。また、たとえ身内でも気に入らないことがあれば愛せないのです。無条件の愛などどこにも見つけられません。
しかしこのような不毛の愛から抜け出す道が既にあるのです。それは神様と真の父母様が私を無条件で死ぬほど愛しておられるという事実です。
私たちが第一にすべきことは、それが本当なのかを確認することです。信仰生活においてそれ以上に重要なことはないと思います。
神様と真の父母様が私を愛していることを確認するのではなく、私を無条件で死ぬほど愛しておられるかを確認するのです。無条件で死ぬほど愛するのが真の愛です。それ以下では真の愛とは呼ばないのです。
それを確認し、確信し、体感したら、次は神様と真の父母様を死ぬほど愛する段階です。
既に述べましたように今はそれが緊急的に願われています。
そのため急いですべきことは、神様と真の父母様が私を無条件で死ぬほど愛しておられるかを確認することです。み言を握りながら真剣に祈れば確認することはそんなに難しくありません。
神様と父母様が私を無条件で死ぬほど愛しておられることが分かれば、神様と父母様がご自身の命よりも私の方が大事だと思っておられることが分かります。
それが分かれば、神様と父母様に命を捧げたいという思いが自然と湧いてくるのです。
喜んで狂うほど死んでもいいと踊りながら死を越えて私を愛したい神様と父母様を確認すること、それが孝子の第一歩です。その一歩を踏み出せば、喜んで狂うほど死んでもいいと踊りながら死を越えて神様と父母様を愛したいという思いが自然と湧き出るのです。
『神様と真の父母様が人間を死ぬほど好きだ!』と『人間が神様と真の父母様を死ぬほど好きだ!』という授受の回路ができることで、人間が神様と真の父母様の勝利圏を完全に相続できるのです。真の愛、長子権、父母権、王権、万物主管権の相続です。
今までこれができていなかったので何事も上手くいかないことが多かったのです。死線を喜んで超えれば、神様が喜んで恵みを与えることができるのです。主権復帰へのあらゆる障害はなくなります。万物の恩恵が溢れるほど与えられます。人々の幸せが溢れ、戦争はなくなり、万民が豊かな社会が始動します。不信と条件付きの愛が作った堕落世界は終わり、無条件で死ぬほど好きだ!という真の愛が世界を再創造します。
真の父母様の勝利圏が想像を超えて大きいことを私達も知らなかったし、信じ切れていなかったのです。
天国は遥か彼方だと思ってきたのですが、地獄の隣が天国なのです。天国と地獄は死という境界線で隣り合わせになっています。
死を恐れ、死に主管される者が集まる所が地獄です。死を恐れず喜んで死なんとする者が集まる所が天国です。喜んで死線を越えた先に天国があるのです。
神様と真の父母様は無条件で私を死ぬほど好きだということ確認し、確信し、体感したら、死線を超えることは自然にできるのです。そうしたくてたまらなくてそうするのです。
神様が死を創造されたのは、相続すべき愛の基準を教えるためです。死を超える愛を相続するのが責任分担の本質です。そういう意味で死があることは有難いことなのです。
死線を喜んで超えることを意識して生きることは本然では常識です。そういう意味で堕落人間は本然世界の常識の範囲外にいます。死を覚悟して生きることは異常なことではありません。この世界の価値観と生活が異常なのです。本然では死線を超えることは普通のことなのです。
自分が死の境地に行っても、生命が途絶えても、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準に立たなければなりません。それでこそ、絶対信仰の上で絶対愛を取り戻すために、絶対投入しながら投入して忘れてしまう歴史を経てこられたお父様の息子として、その姿に似ることができるのです。それで、イエス様がこの地に来られて、天国に行くための宣言の標語として、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言われたのです。「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従
死を飲み込むか、死に飲み込まれるか、伸るか反るか勝負の時を迎えています。
神様と真の父母様が死ぬほど私を愛しておられる事実を体感し、死なんとするものは生きるという最前線に立ってくださるようお願いいたします。
共に喜んで死線を越えようではありませんか。
これ以上わくわくすることはありません。
本然的な喜びがそこにはあるのです。
求めてきた愛がそこにはあるのです。