
神様の成功論
神様の成功論は、本来身をもって成し遂げた人が述べるべき内容です。私自身も成し遂げた上で記しているわけではありません。
これは全ての人間が行くべき責任分担に属する内容であり、私にとっても達成目標です。
Ⅰビジネスの成功論理、既存の成功の手引きなどは、人間を堕落性の泥沼に引きずり込み、不幸を生み出す
私達が生きている世界には、小さい時から知らず知らずのうちに深く影響を受けている考え方があります。
テスト、成績表、入学試験、就職試験、昇進基準などは当たり前のこととして存在します。
テストや成績表や試験の全てが悪いというわけではありません。これがないと頑張ろうという意欲が弱くなることは確かです。しかし、これらの内容は大きな副作用を持っています。それは他の人よりも自分が上位に立とうとする心構えです。
ビジネスや仕事の世界でも同様です。他の会社に負けないで自分の会社が上位になることが至上命令です。
個人においても同僚や知人よりも自分がいち早く成功者になろうとします。
他者と比較してより上に行こうとします。
これを理念的に支えているのがビジネスの成功論理や様々な成功理論、あるいは成功者の伝記などです。
ビジネスの成功者を表す立身出世、一旗上げる、故郷に錦を飾るなどの言葉はほとんどの人が馴染んでいて憧れている言葉です。
思考は現実化する、引き寄せの法則、七つの習慣など様々な成功の理論書、指南書、あるいは成功者の物語を読まれた方も多くおられると思います。
これらは大きな刺激になり役に立つ内容も多くあります。
仕事やビジネスで成功を目指す人、様々な成功の指南書を実践したり、成功者を模倣しようとする人は、例外なく自分の成功した姿をイメージします。
一般的に成功とは、経済的に豊かになる、その分野で抜きんでた実績を上げる、趣味や旅行などの自由な時間を謳歌する、それらによって精神的にも豊かになり、人々の尊敬を集め、成功して得たお金を慈善事業などによって社会に還元する人になるなどを意味しています。
この成功の世界にあこがれる人は数多くいます。
何の問題もなく素晴らしいことのように見えます。

しかし、この世界には大きな落とし穴があります。愛という観点で見つめると大きな問題点が見つかります。
次の図をご覧ください。

ビジネスや様々な分野で成功しようとする人の多くは、自分がいかに成功するかに焦点があります。これには膨大な愛のエネルギーが必要ですが、この愛は成功した時の自分のイメージに向かいます。この愛の本質は自己愛です。
成功を手に入れた後に他の人に少しおすそ分けをします。
自分が成功を手に入れて、その次に自分の持ち分のほんの一部を他の人に与えるという構図です。
自己愛は必ず必要なものですが、自己愛は対象格の愛であり中心愛にはなり得ません。
この自己愛を中心愛にしたのが堕落です。
ルーシェルはエバを愛しましたが、言うまでもなくこれはエバの愛を引き付けるための手段としての愛です。この愛は、自分が天使界において占めていた愛の位置と同一の位置を人間界においてもそのまま保ちたいという自己愛を充足させるための手段としての愛です。
親切にしたり、一生懸命話を聞いてあげたり、気持ちに寄り添ったり、仕え侍ったり、賛美したりといったすべての行為がエバの愛を得るための手段です。
エバの幸せを願って愛したのではありません。結局、ルーシェルが愛したのは自分だけなのです。
この愛で一時的に満たされても次の人には十分につながりません。つなげてもどんどん小さくなるだけです。このため、いつも愛に飢え乾く世界が出来上がります。ほとんどの人が幸せではない世界です。
愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。「真の愛」 第一章 真の愛というものは 二 愛は無限に与え、また与えること

この愛が堕落世界の根本愛となりました。特にビジネスにおいて成功を目指す人は誰よりもそこまでするかという位に相手中心に動いているように見えます。しかし、これは自己愛を得るための手段愛です。本当に相手を愛しているわけではないのでこの愛は不自然です。
仕事の世界には愛想笑いや心にもないお世辞や偽りの隷従が氾濫しているのはご存知の通りです。この愛は相手に向かっているようで結局は自分に向かう自己愛です。
ルーシェルの子孫であることを証明する愛の姿です。
圧倒的大多数の人間はこの愛に生きています。ルーシェルと同じ愛なので必ず堕落性が付いて回ります。妬み、嫉妬、優越感、劣等感、傲慢、自己卑下、不信、血気、怒気、自己中心、自己正当化、責任転嫁などの堕落性に振り回され苦痛の中に生きることになります。
競争社会で生きる人ほど、自分の堕落性と他の人の堕落性の嵐にさらされます。
ストレス社会の根本原因は人間の持つ堕落性です。
ストレスを解消しようとしてパワハラ、セクハラ、不正、犯罪が起こり、更に悲惨の度合いを増していきます。
今や、超一流企業と言われる会社でも不正が日常化しています。
堕落性まみれの世界にはいつも不安や心配が付きまといます。
そして時々来る恐怖におののくことになります。
一方、有り余るお金や自由な時間、美形で有能な配偶者、地位、名誉など手に入れるために骨身を削って努力しやっと手に入れたとしても、本当の幸せには到達しません。
人々がうらやむような成功者と言われる人でも相対的、優越的な幸福があるだけで本質は変わりません。お金も名声も地位など欲しいものを手に入れたとしても、その時は幸福の絶頂のように感じるかもしれませんが、一度得てしまえばそれが当たり前になり、慣れてしまって幸福感はどんどん薄れていきます。
出発が間違っているので行きつくところにも永遠性のある真の幸福はありません。
このようにビジネスの論理や成功への手引書は、第一に自分や自分の会社の成功を目指します。そして、人々を堕落性の泥沼に引き込み苦痛の海へと沈めます。
外的に見ても、ビジネスの成功論理や既存の様々な成功理論に従って生きることは不幸な人々を増殖させる結果になります。
貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム」は2017年1月15日、世界で最も裕福な8人が保有する資産は、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだったとする報告書を発表しました。世界におけるこの驚くべき格差がこれを証明しています。
真の愛は自分より豊かな人をどんどん作るように働きますが、自己愛ベースの偽りの愛は自分より貧しい人をどんどん生み出します。
格差社会の問題は経済や政治の専門家、プロフェッショナルの頭脳を結集しても決して解決できません。これは愛の問題だからです。
偽りの愛を駆逐する真の愛によってのみ解決できるのです。
ほとんどの人は人生の時間の大部分を仕事の時間に使います。仕事はこの世では最高位に位置し、親の死に目に会えなくても仕事を優先する人、家族を顧みず仕事に没頭する人もいます。しかし、一般的な仕事で成功しようとする道は、ほとんどの場合奈落につながります。
極端な結論だと思われる方もいらっしゃると思います。しかしそれは次の内容をご覧いただければ納得していただけると思います。
Ⅱ創造と再創造に見る神様の成功論(幸福論)
神様の天地創造とその中心である人間創造は余りにもスケールが大きいですが仕事と見ることもできると思います。言うまでもなく、この仕事を通して神様が得たかったものは富でも名誉でも権力でもありません。愛そのものです。
これは人間が仕事をする場合の動機とは大きく違います。

み言に出てくる愛という言葉には二つの意味が含まれます。
一つは相手のために自分が犠牲になることです。
為に生きる愛という場合に使う愛です。この概念は私達食口にとってとてもなじみ深いものです。
もう一つは「好きだ」という情感のことです。
特に、愛とは好きだという情感のことだという概念の方は注目すべき内容です。
「愛とは為に生きることだ」いう概念だけで愛を捉えると、信仰生活は修行のようになり我慢し耐えることを目指す生活になります。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
「真の愛」 第一章 三 愛が介在する時、調和が成される
神様は、創造において血肉の犠牲を伴う愛を投入しては忘れ、投入しては忘れを無限に繰り返されました。これだけ見れば消耗しかなく苦しみを我慢する行者のようです。
それでは神様が天地万物をなぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は力を投入したということです。力の投入です。力の投入というのは自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ消耗するのです。
「真の神様」 第二章 神様と創造の役事 一 神様の創造の動機は愛 1.創造の役事は完全投入
しかし、実際は創造による消耗を補って余りある喜びがありました。被造世界は神様の愛の実体対象ですから神様に似ています。エネルギー、素粒子、原子、分子、鉱物、植物、動物、人間と創造するに伴って甚だしい消耗がありましたが、神様にどんどん似ていく世界を眺めると「好きだ」という愛の情感がどんどん強くなっていきました。
この好きだという情感は創造の消耗を埋め合わせるのに十分でした。神様にとって好きだという情感は何物にも代えられない喜びなのです。神様の天地創造の歩みは消耗に次ぐ消耗でしたが、創造に伴って得られる好きだという情感故に創造前の神様よりもずっと幸せの日々を過ごされました。
創造における消耗による苦痛 < 被造物に対して流れる好きだという情感(愛)がもたらす幸福感
宇宙はどのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対を造って、何をしようというのでしょうか。
二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。
愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。
そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。「真の神様」 第二章 神様と創造の役事 一 神様の創造の動機は愛 1.創造の役事は完全投入
神様の創造の世界には真の成功とは何かということを教えてくれるすべてが詰まっています。ここに神様の成功論があります。
①神様の成功とは、愛を得ること
神様の成功の目指すところはお金や地位や名誉などという外的なものではなく、好きだという情感、すなわち愛そのものであることです。
②神様の成功とは、人間がご自分より素晴らしくなること
愛は対象の美によって誘発されるものなので、対象が素晴らしければ素晴らしいほどより強く愛が誘発されることになります。特に神様の子女として創造された人間は最高の愛を誘発させる究極の美の対象なので、神様ご自身よりも素晴らしい方が良いことになります。神様はこれ以上ない程の「好きだ!」という情感に酔いたくて人間を創造されたので、人間が神様より立派になることを願われます。
愛はどこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。「真の愛」第一章 真の愛というものは 二 愛は無限に与え、また与えること
③神様の成功とは、人間の幸福実現
神様は簡単に手に入る愛では満足されませんでした。自分で自分を見てご自身の全知全能性や遍在性を好きだという自己愛には限界があります。
対象は外部にあって神様から独立した意思を持つ存在の方がずっと愛が流れます。そして外部にある存在が素晴らしければ素晴らしいほど愛が強く流れます。このため人間をこれ以上ない程に素晴らしい存在として創造することが最重要でした。そこで、神様は人間を素晴らしくするためにご自身が犠牲になって投入する道を選択されました。人間の幸福実現が第一であり、それが自動的に神様の幸福という順番になります。これが神様にとっての成功の基本公式です。
*神様の成功の公式 人間の幸福 ⇒ 神様の幸福
*この世の成功の公式 自分の幸福 ⇒ 他者の幸福
全く逆です。
④神様の成功の原動力は愛を与えて忘れる真の愛
神様ご自身を超えるような存在を出現させる道は一つしかありません。ご自身の身を削り犠牲にして与え続けることです。そのためには愛を与えて忘れ、愛を与えて忘れという事を無限に繰り返すしかありません。
愛を与えて忘れるというのは自分より相手を立派にするための方法なのです。
愛の相手が自分より優れるのを願い、息子が自分より優れるのを願う、その原則を成すためには、神様もご自分以上投入されなければならないので、投入して忘れなくては、自分以上投入する道がないために、真の愛の道を、与えて忘れる道を行かなければなりません。「真の父母」第八章「三大主体思想」と「真の父母」宣布 三 「真の父母宣布」と王権 3 王権復帰
⑤神様の成功とは怨讐までも愛すること
再創造すなわち復帰においても神様は先頭に立たれました。復帰において最も苦労され苦痛と悲しみと嘆きを誰よりも背負われたのは神様です。怨讐を愛することを身をもって示されたのも神様です。堕落において神様には一切責任がないのに人間の罪を背負われました。
しかも、神様が全身全霊を込めて救おうとされたのは神様の子女である人間ではありません。サタンの血統に生まれた怨讐の子です。どれほど辛く切ないでしょうか。しかし、神様はこの愛の戦いに勝利されました。これこそ永遠にたたえられるべき神様の大成功の業績です。
⑥ 神様の成功とは人間の愛を占領すること
簡単にいえば、人間が神様を好きで好きでたまらなくすることです。
ご自分よりも優れているほどに立派になった人間が神様に惚れぬく姿がもたらす究極美に刺激されて、神様の愛は人間に対してこれ以上ない程に強く流れるからです。この神様は人間に流れる愛に酔いに酔われる幸福の絶頂の神様です。
Ⅲ 神様の成功の道を辿るのが人間の責任分担であり人間の成功の道
人間は神様の成功の道から学び同じ道を行かなければなりません。神様と同じ道を行くのが人間の責任分担です。人間の成功の道とは責任分担の完遂の道のことです。
具体的に見ていきましょう。
① 成功を目指す場合、目標を定める必要があります。この場合、富、地位、名誉、権力などの枝葉末節の事柄を目標にするのではなく、神様と同じにする必要があります。
真の愛そのもの得ることを目標にする必要があります。これは重要な価値観の問題です。
真の愛以外を目標にするとルーシェルの道を行くことになります。本当に得たいものは真の愛なのかそれ以外の何かなのか、本心からの答えを徹底して求める必要があります。
人間の成功は責任分担を完遂することという観点から見ると、富、地位、名誉、権力、自由な時間、人々からの尊敬や賛美等々を目標として設定することは完全な的外れであり、勘違いであり、それらを得ようと生きることは時間の浪費であることが分かります。
成功の目標を決める場合にもう一つの注意点があります。それは自分の中から湧き出る巧妙な自己正当化です。み旨に貢献するためには富、地位、名誉、権力があった方が良いことは事実です。これを根拠に、み旨のためという大義名分を立てて富、地位、名誉、権力を追及することを目標にする場合が起こってくるのです。これは巧妙な自己正当化です。こういった人が本当に欲しいのはみ旨の成就ではなく富、地位、名誉、権力を得ることなのですが、あくまでもみ旨成就のためだとして自分をもごまかすことが起こります。本人もみ旨成就に貢献するために富、地位、名誉、権力を追及しているので、信仰と原理に叶ったことをしていると思い込んでいます。しかし、この目標設定は既成の成功理論の基づくものと同じなので、結果的に何も得られないどころか今持っている富、地位、名誉、権力を失います。神様が良しとされないからです。更に、不幸な人を多く生み出す結果となります。
人間は堕落したので抱く欲望が我知らず自己中心に流れます。これは誰にでも起こりうることです。自分は真の愛を得ることを本当に目標にしたいと思っているのか神様と良心に深く尋ねることが必要です。
目標設定の仕方を間違えるとそれが毒薬になる可能性があるのです。

② 真の愛を得ようとするならばまず相手が自分より優れるように意識し願う必要があります。どんな相手でも好きになることです。
自分のことより相手が好きならば愛の合格者です。
これは意識次元での相手への投入です。
自分より相手がより立派に、より重荷や苦難が少なく、より幸せになって欲しいという思いでいつも心を満たす状態です。
自分よりも尊敬され、愛される立場に立ってほしい。
自分よりも高い地位、名誉を受けてほしい。
自分よりもより多くの万物、財産を持ってほしい。
それを実現すべく決意する。
こういう心の状態はそれだけで幸せです。相手より自分が上に行こうとするのではなく、全く逆で、与えた自分の精誠は忘れてしまい、相手を自分より上に押し上げようという気持ちです。ルーシェルが抱いた思いとは真逆です。こうすることで堕落性は発現できないうえに消えていきます。
神様や真の父母様が抱き続けてこられた心構えです。真の父母の心情ですが、私達はいきなり父母の心情には至らないので、先ず相手が内外共に自分より優れ、苦痛が少なく、立派で幸せであってほしいという思いから始めるのが適切です。
これはこの世のビジネス論理や成功の論理とは真逆です。そしてこの心構えは余りに素晴らしくありませんか。
この心構えをぜひ試してみてください。効果は絶大です。
日常生活の全ての場面で、食口、一般の人を問わず、出会う人すべてに対してその思いを抱けるかが精誠です。行動する前に思いの世界で勝利する必要があります。実体勝利に不可欠な霊的勝利です。
善悪の判断を超える必要があります。人に接する時の自分を詳しくチェックすると、知らず知らずのうちに自分の物差しで相手を判断し、気づかないうちに裁いていることが余りに多いことに気づかされます。
相手が原理的に見ておかしい、原理からひどく外れていると思った時、たいていの場合、愛せなくなります。避けたくなります。我知らず裁いています。しかし、その時こそ、真の愛のスイッチを入れる時です。原理の眼鏡をはずして、真の愛の眼鏡に着け替える時です。
問題の多い人、堕落性の多い人ほど自分にとっては良い訓練を与えてくれる人になります。そんな相手に出会っても自分の愛に燃えるならばどれほど素晴らしいでしょうか。
実際、この構えを持ちそのモードに入るだけで、多くの方が平安と安らぎが訪れてくるのを感じる経験をされると思います。この愛の構えは神様と同じなので、神様がそれをご覧になり触発されないはずはありません。神様の愛に包まれます。
相手が、堕落性が多い、このままでは低級霊界行きだな、食口なのに原理が全然わかってないだめな人だ、一度不幸になった方が良い、偉そうにしているけど中身は空っぽだ、責任者としては無能だ、話が幼稚だ、説教がくだらない、牧会ができない指導者だ、姿も醜い、人物が小さい、等々と結論付けて終わるとすれば、変わるべきは相手ではなく自分です。
原理的に判断することは必要です。しかし、それで終わりだと弊害だけが残ります。相手のことが嫌いだで終わります。
それは神様やご父母様とは全く違います。
原理で判断した後、愛の目で見ているかそうでないかです。
相手を真の愛の目で見えない時点で残念な自分です。
真の成功は、どんな相手でも好きだと思えるかどうかにかかっています。
先生が今まで夜を徹しながら人に対しているのは、すべての人を好きになるためです。人を嫌っては復帰歴史に責任をもつことはできません。悪人も好きにならなければならないし、善人も好きにならなければなりません。すべての人を好きにならなければ神様を身代わりできないからです。第四編 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活24 1971.1.24
③ 愛の心情がぶれないように朝からしっかり祈りを尽くし、一日の生活すべてが祈りの生活にする。
上記の愛の構えをぶれることなく維持し勝利するためには祈りによる神様との授受が不可欠です。特に朝の祈りで神様の愛を呼吸することは一日の大きな力になります。
その祈りの中で過去、現在において愛し難かった人、情が行かなかった人、情的に戦った人、心の負債のある人、怨讐となった人に対して、その人が自分以上に幸せになり、苦痛があれば自分が代わりに背負いたい気持ちをもち、自分よりも立派になれるように祈る必要があります。もちろんその人が本然の人間になることが最終目標ですが、まずは自分の幸せを分けてあげて、自分より幸せに立派になって欲しいという祈ることが重要です。この祈祷によってわだかまっていた心情が整理され心が明るくなります。
そして、その人が好きだ!という情が沸き上がってきます。
次には内的氏族圏である教会の食口、祝福家庭、責任者と外的氏族圏である神氏族メシヤ圏の人々が立派になり、幸福になり、自分よりも神様の祝福を受けられるように祈ります。
できれば40分祈祷くらいは習慣化したいものです。
天国に行く道は兄弟を神様のように愛することによって開かれます。皆さんは先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天国に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する者は、最高の愛の主体者として相手を選択するのです。「礼節と儀式」 第四章 祝福家庭の伝統と生活礼式 七 兄弟間の友愛
祈ることで神様の愛を受けることができます。祈りは神様の愛を呼吸することです。とくに至聖所の神様に向かって祈ることは大きな愛の恵みを受けます。
愛の呼吸が十分ならば自分よりも他の人が立派になって欲しいという思いを抱くことはすんなりできます。祈りが十分でないと思うようにはいきません。そのため、祈りの生活化によって神様の愛を絶えず呼吸することを習慣化する必要があります。
夜は、神様を愛し、人を愛することがどれだけできたかを、具体的に報告祈祷をする時です。
④ 絶えず祈るなどの精誠条件を蓄えて、いつでも内外の氏族メシヤ圏の人に与えることができる様に精誠の御膳を準備しておくことは素晴らしいことです。
ご飯を食べられない人がいれば自分の御膳をさっと持っていくというのが真のお父様の生家の伝統だという内容が自叙伝に出てきます。
ここには受け継ぐべき重要な内容がちりばめられています。
第一に食事を用意する段階からいつでも差し上げられるように準備するのが当たり前の生活だったという事です。
第二に、文家に財力があった時代も財力を失ってしまってからもその姿勢は一貫していたという事です。
成功したらそれを他の人に分け与えようと思っている人は案外たくさんいます。今は豊かではないのでしたくてもできないが、余裕が出来たら分け与えたいという考えです。
これは良い心がけのようにも見えますが文家の伝統とは違います。
自分の状況が豊かだろうが貧しかろうが変わらないのです。
「いつかそうしよう」ではなく、「今そうしよう」、「いつでもそうしよう」とい心構えです。
「あげるものは何もないけどそれでも何か上げられないだろうか」という思いで生活する姿です。
「豊かになったらそうしよう」は前述したこの世の人の成功論です。これは神様には似ていません。真の愛の世界ではありません。
普段から御膳を用意するのが当たり前の生活になるのが重要です。
御膳に載っているのは物質的なものがなくても一向にかまいません。精誠の御膳の方がもっと価値があります。
祈祷などの精誠条件を積む生活をすることで差し上げる無形の料理を御膳に載せていきます。そして出会った人に密かに精誠の御膳を差し出すのです。
それは精誠の基台の上で本然の兄弟として愛の心情に満ちて接することであり、自分の積んだ精誠がその人の霊人体の栄養となり、
「より幸せになられますように」
「より神様の愛を受けられますように」
「より豊かになられますように」
という心情で接することです。
このように、いつでも差し上げられるように精誠の御膳を用意したうえで内外の氏族メシヤ圏の人に会うことがとても重要です。
これは観念的な話ではありません。
真の愛で愛するならば相手は確実に復活します。この時、表に出ない密かな愛ほど神様の愛に近いのです。
愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。「真の愛」第二章 愛の実際 一 神様の愛 1.愛は神様から始まる
「真の愛の驚異的な感化力と実践の奥義」「潜在意識の神様の絶対信仰、絶対愛、絶対服従」をご覧になってみてください。
神様は、私が相手を好きだ!という情感、相手も私のことが好きだ!という情感を最高のお膳として召し上がられます。

母は八道の各地からやって来て家の前を通る人のために、いつでもご飯を作って食べさせました。乞食がご飯を恵んでくれと言ってきて、すぐにご飯を出さなければ、祖父がまず自分のお膳をさっと持って行きました..そのような家庭に生まれたせいか、私も生涯ご飯を食べさせる仕事に力を注いできました。私には、おなかを空かした人たちにご飯を食べさせる仕事が他のどんなことよりも貴く重要です。ご飯を食べる時、ご飯を食べられない人がそこにいれば、胸が痛く、喉が詰まって、スプーンを持つ手がそのまま止まってしまいます。
十歳の時でした。大みそかの日になって、村じゅう餅を作るのに大忙しだったのに、暮らし向きが困難で食べる物にも事欠く村民がいました。私はその人たちの顔が目に焼き付いて離れず、一日中、家の中をぐるぐる回ってどうしようかと悩んだあげく、米一斗(一斗は十升、約十八リットル)を担いで家を飛び出しました。家族に気づかれないように米袋を持ち出そうとして、袋に縄を一本結んでおく余裕もありませんでした。それでも、米袋を肩に担いだまま、つらさも忘れて、勾配が険しい崖道を二十里(約八キロメートル。)も跳ねるように駆けていきました。おなかを空かした人たちを腹いっぱい食べさせることができると思うと、気分が良くて、胸がわくわくしました。
「平和の愛する世界人として」 第一章 ご飯が愛である
⑤ 愛の心構えを抱いて実践する中心の場は氏族メシヤ圏
祈ったうえで内的氏族である食口、祝福家庭圏や外的氏族圏である神氏族メシヤ圏に接すると霊的投入の基台があるので慕わしさが自然にわいてきます。この慕わしさこそ対象から得られる美です。この基台の上で実際に内的外的氏族メシヤ圏の人々に精誠を込めて投入していきます。
氏族メシヤ圏は私の愛を完成させてくれる恵みの場であり、霊界に行っても永遠に離れることのできない心情の故郷です。
相手が自分より内的外的に立派に素晴らしくなって欲しい、幸せになって欲しいという思いで投入していくと相手への慕わしさがどんどん増し加わっていきます。神様の創造の世界を相続し真の愛が相続されていきます。
人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。「真の愛」第一章 真の愛というものは 二 愛は無限に与え、また与えること
真の父母様が神氏族メシヤ活動を勝利するように何度も何度もおっしゃるのは、人間が本然の人間に復帰するためのすべてがあるからです。神様の心情と神様の真の愛を相続するのに必要なすべてがあるからであり、責任分担を完遂できるように天が賜物として与えられた場であるからです。
⑥ 神様の復帰の伝統を受け継ぐ積極的甘受による成功の道
神様の復帰の道の要点の一つは、率先して蕩減を背負い誰よりも苦労し報われなくても感謝する道を行かれたことです。この世では自分に責任がないことは関係ないとスルーします。しかし、神様の道は違います。すべてを自分の責任と思って蕩減を背負い、苦痛、悲しみ、嘆き、屈辱の道を率先していかれました。我慢と忍耐の道です。
成功と言えば華々しくかっこいいイメージがありますが、本当の成功者の道は、自分に直接関係のないことまでも含めすべてを自分の責任を思い、率先して蕩減を背負い、苦痛、悲しみ、嘆き、屈辱の道を感謝する道です。
悲惨で惨めで辛いことが連続する道を行かれている食口、祝福家庭の皆様。
この世的価値観で見れば成功から一番遠い所にいる人です。
しかし、こういった食口、祝福家庭は神様に近い方々です。イエス様や真の父母様に悲惨の絶頂の道を行かせたのは神様です。全人類を救うためには誰かを犠牲にして蕩減を背負わせなくてはなりません。
悲惨で惨めで屈辱的な道を行っている食口、祝福家庭の方は自分の蕩減が重いのではありません。卑屈になるのは間違いです。代表して蕩減を背負っているのです。食口、祝福家庭は自分の蕩減のためにこの道に導かれたのではありません。この道に来た食口、祝福家庭は多かれ少なかれ代表して蕩減を背負っています。
神様は、心情的に近く苦痛を甘受できる器のある人に背負わせるしかないのです。
今の状況を甘受し更にもっと苦痛と不幸を背負わせてくださいという気持ちに至ることができるかどうか、ここにかかっています。
今の状況が苦しく息ができないような状況ならば、更に苦痛と不幸を背負おうとすることは相当の勇気と覚悟が必要です。腹をくくって命を懸ける覚悟が必要です。
甘受より更に高い世界があります。甘受とはやむを得ないものとして甘んじて受けることです。これは素晴らしい心情姿勢ですがまだ受動的です。厳しく辛い状況を「好きだ!」と思う気違いのような世界があります。
お父様が興南に行かれた時に、これからどんな人に会うだろうか、これを勝利したらどんな素晴らしいことが待っているだろうと楽しみな気持ちで行かれたと言われています。それで悲惨極まりない興南に天国の花が咲いたのです。
いかなる苦痛、悲惨でも好きだ!という愛の心情は、地獄をも天国に一変させる力があります。
今の厳しい状況を好きだと思えて初めてより厳しい状況を背負うことができます。
「誰かが蕩減を背負わなければならないなら、私と私の家庭が背負います。どうぞ遠慮なく背負わせてください。」と神様に談判しそういった道が好きだ!と喜びながら進む人がいるとすれば、間違いなく神様と霊界を感動させる人です。
本当に神様の息子らしい息子、本当に神様の娘らしい娘です。
神様が求める成功者とはそういう人です。この世の成功者とはあまりに次元が違います。
真の父母様はそういう真の成功者です。
私達も真の父母様に似て真の成功者を目指す必要があります。
それは努力目標ではなく、必ず達成しなくてはならない責任分担目標なのです。
この世がうらやむような大成功者が、聖日に教会に通い多額の献金をしたしとしても神様とは何の関係ありません。神様から見れば成功者でも何でもありません。
食口、祝福家庭の皆様
聖子を目指し、永遠に誇れる愛の正道、犠牲の正道を堂々と行こうではありませんか。そして、一人残らず聖子になり聖子の家庭を実現しようではありませんか。

⑦ 災害級の苦難を引き受ける覚悟
2027に勝利し地上に天国を創るためには膨大な精誠と愛が必要となります。特に基元節以後の時代は真の父母様の伝統を相続して私達が先頭に立つ必要があります。
神様と御父母様が悲惨の限りの道を行かれて勝利されたので、私達の道にも予想もしないような悲惨な事件、事故、災害、病魔などに襲われることが十分あり得ると思っている必要があります。
悲惨な事件、事故、災害、病魔などに襲われることを望む人は誰もいません。しかし、精誠だけでは補えないような摂理の頂点ではどうしても犠牲が必要な場合があります。
私も、それが摂理にプラスとなったかどうかは別として、数回そのレベルの経験がありますが、残念ながら一度も十分な覚悟のうえで起こったことではありませんでした。
その時は、まさか、どうして自分が、どうして自分の家族が、という気持ちになりました。
しかし、これではいけないのです。勝利者とは到底言えません。普段からそうなる覚悟ができていなかったという事です。
天に近くなればなるほど災害級の苦難がやってきます。これは私達を真の息子、娘にするための真の愛です。この神様の真の愛には、そのような状況が好きだ!という真の愛でお返しすることが重要です。
一歩進んで「天のみ旨成就のために災害級の苦難を受ける者が必要ならば、その災難を自分と自分の家族に下してください。」という心情に到達する必要があります。これは御父母様がいつも覚悟しておられた世界です。
潔く覚悟を決めて喜びながら進む者が必要です。
⑧ 真の成功者とは神様の愛を占領した者
神氏族メシヤ活動においては数の達成ももちろん重要な要素です。しかし、これは通過点であり最終目標ではありません。
神様と同様に与えては忘れ与えては忘れを繰り返し、完全投入していくことで、氏族メシヤ圏の人々が自分より素晴らしくなることです。
そのためには氏族メシヤ圏の人々に起こるすべてのことに責任を持ち、命と引き換えの心情で蕩減を背負う覚悟をして実践することです。
そうすることで、氏族メシヤ圏の人々を見て愛が流れて止まらない状態、慕わしい思いが溢れてやまない状態に至ることです。
これこそが神様が創造と再創造である復帰において来られた道と同じなのです。
こうなった時に、神様は私から強烈な美の刺激を受け、神様の愛が怒涛の如く流れてきます。神様が私のことを好きでたまらなくなられるのです。これが神様の愛を占領した時の状況です。
そして夫婦で神様の愛を占領すれば本当に意味での真の成功者です。
Ⅳ 神様の創造目的は愛を愛らしくすること、人間の存在目的は美を美らしくすること
創造原理において創造目的は次のように記してあります。
神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。
また、責任分担については、
人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった。とあります。
これらのみ言の深淵に神様の創造の御業の真の目的が垣間見えます。それは、愛を愛らしくするためです。すなわち神様の愛が最大最強に流れるためです。
平たく言えば、神様が人間を見て「好きだ!」という情感が最大最強になるためです。
愛を引き出すのは美ですから、人間が神様にとってこれ以上ない程に美しい存在になることと同義です。
三大祝福を全うした人間は神様の似姿なので神様の美の対象です。しかし、神様がすべて仕上げてしまう場合よりも、神様が一切干渉されず、人間が自由意志と自由行動で責任分担を全うして立派な神様の息子、娘になる方が神様にとって数万倍も強い美の刺激を生み出します。
この強烈な美の刺激に対して神様の中に強烈な「好きだ!!!」という情感が生じます。
このためには神様が絶対に手を出してはならない人間の責任分担が必須です。一切の妥協なく100%成し遂げなければ完遂できない人間の責任分担は、神様が干渉できない上に、その困難さ故に神様にとって最強の美の刺激となるのです。
このあまりに素晴らしい美に触発されて、神様の心に人間が好きだという強烈な情感が生まれ、人間もその愛に共鳴し神様と同じ幸せに酔いしれることができるのです。
三大祝福や責任分担は神様と人間が共同で最大最強の愛を生み出し、その愛の中で永遠の幸せに浸るための道筋です。これは神様と人間が共同で創造する愛の天国です。
人間の存在目的は神様にとって最高の美の刺激体になることです。すなわち、神様の愛をどれほどまでに引き出す存在となれるかが最も重要なことです。
天国は特定の場所というよりも、責任分担と三大祝福を全うし神様の心情を体恤した人間の夫婦の最高の美に刺激されて、神様の最高の愛が一体となった夫婦の心に向かってとめどなく流れる状態によって生まれるのです。
要するに人間としての成功とは、神様から見て私と私達夫婦がいかに美人になるかにかかっています。
全ての個人、すべての夫婦体が、神様から見て絶世の美人になることが人間の成功の最高到達点です。
皆さんの心が神様の愛を占領する日には、千年、万年歌を歌い、踊りを踊ることができます。その時は、すべてを成し遂げた時なので、ほかに何も必要ではありません。世の中で、それよりも貴いものはありません。神様の愛を占領する日には、金銀財宝もすべて必要ないのです。第三篇 真の愛 第一章 真の愛の根源 第四節 真の愛の力26 1971.1.10
愛は、最高に不可思議なものです。人間は、神様を占領しても安息しません。神様を占領したといって、喜んで満足するようになっていないのです。人の欲心は、神様の心のふろしき、心臓の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願うのです。永遠のこの愛を完全に占領すれば、人の欲心も、そのときには鎮まるのです。人間は、神様の愛を占領するための競技に出場した勇士たちなのです。第三篇 真の愛 第三章 真の愛の実践 第一節 真の人生の道13 1967.5.14
人間が行かなければならない最後の道は、神様の愛を占領できる場所を探す道です。心の欲望は、世界を占領しても、それよりもさらに高い神様がいるなら、その神様までも占領したいのです。その神様を占領したとしても、神様の愛を占領できないときには、神様を失ってしまうかもしれません。
ですから、人間の最高の欲望は、世界を征服することでもなく、神様を征服することでもなく、神様を征服して神様の愛まで征服することです。優れている人も劣った人も、誰彼の区別なく、誰でも伝統の道に従っていくようになると、神様を占領することができます。誰でも神様の愛を占領できる息子となり、娘になることができるのです。結局、人間が行く最高の道は、神様の息子となり、娘となる道です。第三篇 真の愛 第三章 真の愛の実践 第一節 真の人生の道11 1971.1.8
Ⅴ 責任分担の本質
創造と愛という観点から見ると、創造力が現象化する時は、自分の命を超えて愛のために死んでもいいという基準に至った時です。
堕落論の堕落の動機と経路には次のような記述があります。
神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。
エバの堕落の動機については、時ならぬ時に神のように目が開けることを望んだとありますが、「取って食べたらきっと死ぬ」という神様の戒めを破って堕落したわけですから、エバは「愛を得られるなら死んでもいい」と思ったことは明らかです。
命を捨ててでも愛を得たいという基準に達した時、創造力が出現します。堕落の場合も自己愛においてこの基準に達したので創造力が出現しました。こうして、人間はサタンの愛によってサタンの被造物として再創造されてしまいました。これが堕落です。堕落とは単に壊れてしまったことではなく、死を超えたルーシェルとエバの愛によってサタンの似姿に再創造されたことなのです。
死を超えて愛を求めた時に創造力が発現するという観点で見ると、神様の天地創造の姿がより鮮明に見えてきます。
神様は天地創造の時に、ご自身の血肉を材料とされました。人間世界における創造活動と違って、他に材料などないのです。
つまり、芸術家、建築家、技術者などの創造活動とはかなり違います。
神様は、被造世界を造られる時に、「愛を得られるなら死んでもいい」と思われたことは明らかです。その基準がなければ自分の血肉を材料にして創造することなどできるはずがないからです。
創造の為なら命を捨てても構わないという観点で創造原理第五節の責任分担のみ言を見ると、今まで見えなかったことが見えて来ます。
このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
神様の創造性に似るとは、神様の創造性が出現した基準、すなわち対象を愛することにおいて自分の命を顧みないという事です。死を超える基準の愛に到達することを意味しています。
結局、責任分担とは対象のために死を厭わない神様の愛の基準を相続することです。対象のために死を厭わない愛とは真の愛のことです。
神様の創造性に似るとは、真の愛を相続することと同じ意味です。
神様と言えども、真の愛を伴わないで創造された場合は、出来上がったものは不合格品です。反対に、真の愛を中心に創造された被造物は神様がうっとりとされる傑作となります。
神様の創造性とはそういう創造性のことを指しています。
神様のために、他の人のために喜んで命を捨てる愛の基準を相続する事、これが責任分担です。
地上生活の中心軸は責任分担の完遂です。他の事で一生懸命やったとしてもほとんど意味がありません。空しいだけです。
生活の全てにおいて、神様と人のために死を恐れず喜んで命を捨てる基準に到達できるか、この軸からずれることなく生活する人生に集中すべきです。その中心舞台が内外の氏族メシヤ圏です。
朝の最初の祈りから神様と人のために命を捧げて愛することができるかを課題とする真剣な祈りから始めます。
前述した災害級の苦難を引き受ける決意も毎朝すべきです。
そして、今日それがやってきてもかまわないです、という覚悟を固めるべきです。
決意すればその災害級の苦難はいつかは必ずやってきます。
災害級の苦難を恐れて避ける道を行きますか?
それを堂々と引き受ける道を突き進みますか?
それが起こった時に、ついに来たかと喜び、感謝したいものです。
これは
「死なんとする者は生きる」において、生きることを期待して死んではいけません。
「死なんとする者は死ぬ」です。
「死なんとする者は喜んで死ぬ」です。
これは御父母様が来られた心情の足跡です。
この道を辿る者こそ真の成功者と呼ぶに相応しい人です。
責任分担は愛のために命を捧げる基準に到達することです。
これこそが神様の創造性に似たものとなり神様の創造の偉業に加担することです。
神様の創造性や創造の偉業の根本にあるのは、「愛のために死ぬ」という事だからです。
愛を中心として絶対信仰です。愛を完成する為には絶対服従しなければならないのです。死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。それ故、霊界に行くという事は死ぬ事ではなく、神様の愛を求めて行く道だという事です。
神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。
「真の神様の祖国光復」 第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって
これは、死を恐れていては絶対に達成できません。
今避けたとしてもいつかは必ず突破しなくてはならない宿命の道です。
責任分担は宿命なのです。
全ての人にとって最優先課題です。
いつかいつかと思っているうちに年を取ってしまいます。
責任分担を成せずに霊界に行ったとすれば後悔は計り知れません。
何故なら今は地上にいるうちに責任分担を達成できる時代になっているからです。
なるべく若い内に、達者な内に死を超える愛に到達したいものです。
元来堕落は死の境地に落ちたことなので、救援するために死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、男らしく喜びの心で臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意をもってみ旨の道を歩む食口が多くなれば、世界は新しい方向に進むのです。私たちはその母体を成す心情に燃えています。皆さんの心の中には、生死の境界を超越できる信念がありますか。
「罪と蕩減復帰」第四章 五 蕩減法なしにはサタン分立はできない 2.サタン圏(堕落圏)を脱するには
心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出せという言葉です。思いを尽くせというのも、精誠を尽くせというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1.至誠感天
生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1.至誠感天
皆さんが創造の偉業を相続すれば、真の愛の権限をもつのです。創造の偉業を相続することによって、すべてのものよりも強い真の愛を相続できるのです。真の愛を持てば、できないことがなく、成就されないことがありません。真の愛の力は闘いや強制ではなく、自然屈服されるのです。ですから、これ以上に強い力はないというのです。第三篇 真の愛 第一章 真の愛の根源 第四節 真の愛の力 16 1983.1.30
