top of page

お母様のために命を捧げる人を求めます

死を超える愛

 

復帰摂理を原理的にとらえたのが原理講論の後編になります。

それでは復帰摂理を、愛を中心にとらえるとどうなるでしょうか?

原理的に見るとかなり複雑ですが、愛の観点で見るととてもシンプルになります。

 

人類始祖がサタンの愛に主管されるまでは、神様の愛が世界を覆っていました。

しかし、人類始祖は神様の真の愛の価値が十分に分からず、刹那的なサタンの愛の魅力に主管されてしまいました。ここで重要なことはサタンの愛が死を超える基準を持っていたことです。取って食べるときっと死ぬと言われていたのに、死んでもその愛がほしいと思ったのです。

 

神様の創造に伴う愛は死を超える愛でした。創造においては材料がどこかにあったわけではありません。神様はご自身の血と肉を材料にして世界を創造されました。神様が愛の為に死ぬという道をつくられたのです。神様はご自分の命を捧げても愛を求める方です。

 

愛を中心として絶対信仰です。愛を完成する為には絶対服従しなければならないのです。死んで、百回死んでも愛を必要とするが故に、その道をよく求めていかなければならないのです。それ故、霊界に行くという事は死ぬ事ではなく、神様の愛を求めて行く道だという事です。神様が愛の為に死ぬという道をつくったのです。それ以上の心をもっていなければ、愛を復帰する事は出来ません。「真の神様の祖国光復」第一章 真の神様の祖国光復 五 祖国光復は真の愛によって

 

人類始祖は神様が作られた真の愛の為に死ぬという道を歩むべきでした。しかし、サタンは自己愛を満たせるなら死んでもいいと思って相手を奪うという道を作ったのでした。非原理であっても死を超えたサタンの自己愛は創造力を持ちました。それによって人間はサタンに似たものとして造り変えられました

神様の愛は性相的、原因的な愛です。人間の愛は、神様の愛を原因として現象化する愛です。

入り口である神様の愛(性相愛)は、出口では人間の自己中心愛(形状愛)という全く真逆の愛として出てくるようになったのです。

サタンの愛の血統を受けた人間は、神様の真の愛を自己中心愛としてねじ曲げて出力する装置になってしまいました。神様の愛は自分の命を削って与えるという真の愛ですが、堕落人間を通して現象化する時に自己中心愛、刹那愛、奪う愛という醜い愛となって現れるようになったのです。

 

神様の愛は人間が堕落する前でも堕落した後でも不変の愛です。ご自身の血肉を削って人間に与え続けてこられましたが、それが醜く汚れた愛に変わっていき、堕落人間が繁殖しサタン世界を形成していくのをずっと見なければならない神様でした。

どれほど大きな苦痛でしょうか?

どれほど虚しいでしょうか?

 

サタンの死を超える愛による邪悪な創造力が、神様の世界を邪悪な世界に造り変えてしまいました。このため堕落人間と堕落世界を根本から造り変えるには、神様の創造時の愛、すなわち死を超える真の愛を相続した人間が現れなければ永遠に不可能なのです。

その愛を持ってこられたのが真の父母様です。

 

人は愛がどんなに良いものか完全に知るよしはありません。ですから先生が愛をもって出てきたのです。「真の神様と祖国光復」第五章 再出発のための私たちの決意 三 真の愛を植えよう

 

真の父母様が持ってこられたのはみ言や祝福の恩恵ばかりではありません。最も重要なのは死を超える真の愛です。私たちはこの愛を相続できていません。私達が証し会などの行う信仰の証の中に、命を捧げる愛で勝利したという内容を見つけることができません。私たちが死を超える真の愛を相続できるかに、お母様に本当に貢献できるかがかかっています。

再創造は死を越えて与える愛によって

 

神様の真の愛 

→ 堕落人間​を通過すると 

→ サタンの愛として現象化 

→ サタン世界を造る

 

これがサタン世界に現象化しているサタンの愛の創造力です。

それではサタン世界を神様の世界に変えるにはどうすれば良いのでしょうか?

それは政治家や経済人や有力者を外的に動かすことでは達成できません。この世的な方法でやろうとしても上手くいきません。それは表面的な変化をもたらすことはできたとしても堕落世界を根本から変える力にはなりません。

 

私達がこの世界を根本的に変えられないのはどうしてなのでしょうか?

原理を伝えきれていないことが原因の一つですが、それが根本原因ではありません。

絶対信仰、絶対愛、絶対服従することのできる人になりさえすれば、統一教会の原理を知らなくてもいいのです。そうしてその上に絶対的な血統復帰、所有権復帰、心情復帰を地上で成して越えるようになると、その人は天の国の民になります

「成約人への道」第四章 成約人への道 三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建 1 第一宣言:新希望農場(New Hope Farm)宣言

そのことは堕落の時の状況を見ると分かります。

神様の真理:主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」

 

サタンの偽真理:へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」

へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」

 

サタンの偽の真理の影響でエバが知的に惑わされ情的に混とんとなったのは事実ですが、堕落に至ったのはサタンの偽の真理が決定的な原因ではありません。

 

女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

 

エバがサタンに抱かれたのはサタンの言葉ではなく、死んでもいいという死を超える愛だったのです。

 

復帰はこれと真逆です。真理では一部の人は復帰されますが、世の中を変えるまではいきません。これは今回の教会に対する予想を超える強い風当たりを見れば分かります。私たちは理念の戦いで敗れたのではありません。サタン世界の愛を凌駕できないので負けたのです。原理を伝えなくても真の愛を実践できていたなら、人々は来るなと言っても押し寄せるのです。

それどころか​私達はこの世界から嫌われているのです。

サタンはもういないのにサタンのせいにして、サタン世界が総力を挙げて打ってきたので仕方がなかったという結論に持っていくのは余りに情けない話です。この世界との愛の戦いで負けたことを素直に認めるべきです。簡単に言えば私達にはこの世の人々を引き付けるような愛がないということです。私たちが最高の価値と思っている愛の戦いで負けたのです。あまりに屈辱的なことなのです。

 

このような私達の姿を見てお母様はどれほど落胆されたでしょうか。それでも尚お母様に慰めの言葉を頂きたいと思う私たちは余りに情けない存在です。親不孝者の典型です。

サタンの愛は死を越えた愛です。私たちは真の父母様の死を超える愛を知っていながらそれを相続できていないのでこの世界に敗れたのです。それを認めないとまた失敗を繰り返すことになります。

 

死を超える愛がなければ根本的な変革は起きないことが今回のことでも実証されました。死線以下の愛には創造力がないからです。たとえ天の理念でも世界を変える創造力を持ちません。

私達は死を超える愛で愛することに合格していないのです。死線以下ではいくら頑張っても負けるのです。不合格なのです。

 

一生懸命頑張りましたでは合格できません。聖書を見ると死ぬか生きるかの話がたくさん出てきます。死を超えた者のみが勝利しています。世界大戦にもキリスト教徒が多く参加し、命を懸けて戦いました。戦死したクリスチャンも数多くいます。

私達はその覚悟ができているのでしょうか?

私達食口は、イスラエル民族やキリスト教徒に勝っていると真の父母様が誇りに思うことができる存在でしょうか?

私達は自分の命と人生を犠牲にし、家族の命と人生を犠牲にしても絶対に勝利するという覚悟はできているのでしょうか?

 

信仰生活の真剣さ、捧げる精誠の程度、信仰生活の長さなどによって心霊状態に差が生じます。今からお願いすることは心霊基準が十分ではない人に向かって述べていることではありません。天から見て基準に達していると思われる人に向かって述べます。誰でもできることではないからです。

 

こう申し上げる理由は、現在の状況が、お父様の聖和の時と同じようになってきているからです。

お父様が聖和前に死に急ぐような道を行かれたのは、命を捧げるのは今しかないと強く思っておられたからです。私たちはお父様が勝利する途上で聖和されるとは全く思っていませんでした。振り返れば私達の状況判断が余りに甘かったのです

今回の天苑宮入宮式の2年間の延長を甘く見てはならないのです。これはお母様が生きて勝利する道を遮るものです。

お母様がお父様と同じように死をもって勝利の供え物となる道が現実となる可能性が生れています。

最後の祈り.jpg
聖和式.jpg
お母様の献花.jpg

お母様はご自身の命を天の父母様とお父様に捧げることに全く躊躇のない方です。残りの寿命を捧げてみ旨を成し遂げると決められたら、神様とお父様が引き止められても突き進まれ方です。

 

私はお父様が聖和前の生死の境にあった時に命を捧げるという決死の祈りを捧げました。「お父様が生きて基元節を迎えることができるようにしてください。そのために私の命を捧げます。」涙が溢れて止まらない祈りでした。

その後、神様との一問一答の恩恵を頂きましたが、命を捧げますという私の決意は遅かったのです。お父様は聖和してしまわれました。

 

現在のお母様の状況はお父様の聖和前の状況に似ています。お母様が使命を完遂する途上で聖和されるとは誰も思っていないことも同様です。しかし、聖和されてからでは遅いのです。

 

今この時ほど命を捧げて神様と真の父母様を愛する者が必要とされる時はないのです。

お母様は言いたくても言えないことがたくさんあります。その中の最たるものは、

神様と真の父母を死んでも愛する者はいないか?

喜んで命を捧げる者はいないか?

ということです。

それを公言されれば幼い食口は押しつぶされてしまうかもしれません。しかし、ある程度心霊的に高い食口は、お母様の声なき声を聴く必要があります。私の話はお母様の心情を代弁する内容であると同時に、私も一会員としてしっかり受け止めるためにこれを記しています。

 

日課として仕事のように勤勉にみ旨に励んでも、一生懸命やっているという満足感はありますが、世界を変えられません。命を超える愛だけが創造力を持つのです。いくら真面目に長い期間信仰生活をしてきたとしても、死線を越えない愛では天の願いに答えられません。ただ、注意すべきことは無理やり命を捧げても意味がないということです。

生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天

 

喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら命を差し出せ

これは私達の本心が叫んでいることです。そのうち、そのうちと思っているのはまだマシかもしれません。お母様が家庭での幸福を強調されるので、それに甘えて命を捧げる世界を忘れてしまっている食口も少なくないのです。これは異民族との命がけの戦いが終わってカナン定着したイスラエル民族が俗化したのと同じようになっているのかもしれません。

しかし、天の本心はどうでしょうか?

 

絶対愛するのです。他の何もありません。自分の世界を捨てて、家庭を捨てて、妻を捨てて、子女を捨てても、それ以上に絶対愛するのです。絶対服従するのです。自らの一生、生命もすべて投入するのです。投入して忘れてしまうのです。今まで皆さんは、観念的に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を考えていたかもしれませんが、それは観念ではありません。実際に皆さんが、すべて行わなければなりません

「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

これは真の父母様が歩んでこられた道です。お母様は離れたご子女様のことを心配している時間がないのです。そんなお母様のことを心配して、ご子女様を救うのは食口の役目だと思っている人がいますが、お母様はそんなことを願ってはおられません。優先順位を間違っています。何より先にすべきことは、すべてを捨てて絶対信仰、絶対愛、絶対服従されるお母様の伝統を相続して実践することです。自分の人生も家族も自分の命も全て捧げて神様と真の父母様を愛せるかが天の願われることなのです。

 

天国を本気で作ろうとする食口がどれだけいるかが問われています。死を越えて神様と真の父母様を愛し、死を越えて人々を愛することが解決策のすべてです。天国を実現するのはこの方法しかありません。

 

すべての盟誓文において、最初の文句は真の愛です。真の愛とは何ですか。

自らの心と体を祭物として神様の前に捧げれば、神様まで一つになって私たちに返してくれるのです。

自らの心と体を捧げなくては、神様と一つになり、返してもらうことができないのです

絶対信仰、絶対愛、絶対服従する立場で神様の前に捧げるようになれば、神様と一つになり、神様が私たちの前に立たれるのです。

そのようにして、万事が天の指示どおりに動くならば、地上と天上天国のすべてのものが成されるのです

「真の家庭と家庭盟誓」第一章 家庭盟誓宣布と前提条件 二 家庭盟誓の意味と特徴 1家庭盟誓の重要性

お母様のみ旨を成就する唯一の方法は、神様を動員することです。

再創造は神様しかできません。神様を動員する方法は、血肉を削って命を超える愛で愛するという神様の伝統を実践することです。それ以下では神様を動かすことができないのです。

人間的に天国を造ろうとしてもできるはずがありません。神世界実現、天国実現は神様を動員できるか否かにかかっているのです。

私達の縦的父母は全知全能なのです。

 

神様を動員してお母様を本当に支えたいと思う方は、どうぞ喜んで命を捧げる決意してください。これは、やれる人がやるしかありません。喜んで狂うほど死んでもいいと踊りながら第一歩を踏み出しましょう!

お母様が残りの寿命を捧げて天国を実現するという決意されるのを避ける道は、お母様が命を捧げる代わりに私が命を捧げますという食口が現れることです。この祈りを毎日のように真剣に捧げる食口が必要です。3人、12人、21人、40人と天に対する献命の輪が広がることが急務です。日常の繰り返しでは何も変えることはできません。皆様も何時かそれをやらなければと思ってこられたと思います。それが今なのか是非祈って神様にお聞きになってみてください。

親愛なる食口の皆様、この献命の輪に是非ご参加ください。私は今がその時だと確信しています。

命を捧げて天に召されれば、慕わしい相対者や子女や孫ともお別れになります。その時がいつ来ても良いように内外共に準備なさってください

神様と真の父母様に喜んで命を捧げる決意ができれば必ず恩恵が現れ、証しが出てきます。

その証しで多くの食口を感化してください。

一粒の麦になるのは今です。

心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出せという言葉です。思いを尽くせというのも、精誠を尽くせというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです

「礼節と儀式」第一章 神様に対して侍る礼法 三 真の御父母様が神様に仕える法 1至誠感天

お母様を本当に支えたい食口の輪が広がれば、神様が世界を再創造して天国に造り変える全知全能の手腕を振るうことができるのです。真のお母様を支えるために神様を動員するという歴史的聖業に共に参加しようではありませんか!

真の父母様.jpg
bottom of page