真の愛の驚異的な感化力と実践の奥義
この内容を皆様にお届けできることをとても嬉しく思っております。
2014年10月27日(天一国2年閏9月4日)に神様から「真の愛を伝えなさい」「悩める魂を救いなさい」と指示されたことの一部を遂に実現できる内容になるかもしれないと感じております。
共に恩恵を分かち合いましょう。
①真の父母様は知っていても世の中を変えられないでいる私達
真の愛は最強だというみ言があります。
自分よりも神様を、そして相手を、生命のように愛するという純粋で美しい愛、それが真の愛です。神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも強い力は創造されませんでした。真の愛は、神の愛です。「成約人への道」 第二章 家庭観 一 理想的な家庭とはどのような家庭か 1.なぜ家庭が良いのか
この世には真の愛をほとんど見出すことができません。唯一、健全な父母が子女を愛する愛の中に片鱗を見出すのみです。
既存の国家や会社や組織の中に真の愛を見出すのは困難と言わざるを得ません。
このような世界に真の愛を持ってこられたのが真の父母です。
人は愛がどんなに良いものか完全に知るよしはありません。ですから先生が愛をもって出てきたのです。
「真の神様と祖国光復」第五章 再出発のための私たちの決意 三 真の愛を植えよう
このみ言の中の愛とは言うまでもなく真の愛のことです。真の父母がいなければ、人は真の愛がどんなに良いものか完全に知るよしはないと言われるのです。
ところで、私達統一食口や祝福家庭は真の父母様は知っていても、真の愛の強さや素晴らしさを知っているのでしょうか?
そして真の愛を実践できているでしょうか?
一般的な成功論や自己啓発理論においては、自分は変えられても他人は変えることはできない、あるいは困難だという考えが根底にあります。しかし、これでは現代の諸問題を解決し天国を創建することはできません。
私たちは真の愛ならそれが可能だと知っていますが、具体的にはどうすれば良いのでしょうか。
②真の愛の本質は何でしょうか?
真の愛で愛するためには真の愛の正体について知る必要があります。
家庭盟誓の八をご覧ください。
天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、天一国時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏と釈放圏を完成することをお誓い致します。
地上天上天国実現の推進力は絶対信仰、絶対愛、絶対服従だとあります。
最初のみ言にある「神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも強い力は創造されませんでした。真の愛は、神の愛です。」という内容と共に総合的に考えて見ると、真の愛をより具体的に表現すると、絶対信仰、絶対愛、絶対服従だということが分かります。
真の愛 = 絶対信仰、絶対愛、絶対服従
真の愛の中心は絶対愛ですが、真の愛を更に具体的に説明するためには、そこに絶対信仰と絶対服従が加える必要があることになります。
つまり、真の愛には絶対信仰、絶対愛、絶対服従が含まれるということになります。
それでは絶対信仰と絶対服従とは何を意味するのでしょうか?
次のみ言をご覧ください。
皆さん自身が絶対信仰をすることができなければ、絶対愛が植えつけられないというのです。芽が出てくれば育てなければなりません。育てようとするなら、自らのすべての血肉を投入して、犠牲にならなければなりません。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ② 絶対信仰、絶対服従すれば、天国に直行
このみ言によれば絶対愛の種を植え付けるのが絶対信仰で、育てるのが血肉を投入した犠牲だというのです。血肉を投入した犠牲というのは絶対服従のことです。
愛を絶対化するための最初の種まきが絶対信仰です。相手を絶対的に信じることから始まります。これは多くの宗教において神様を信仰する時の姿勢に近いのですが、絶対信仰は人間に対しても当てはめるべき概念です。
相手が善人だろうが悪人だろうが絶対的に信じるということです。なぜそれが神様のみならず人間に対しても意味あるものとなるかと言えば、人間にはいかなる悪人であろうと良心があるからです。神様も人間の良心を取っ掛かりにして復帰摂理を成してこられました。
古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。創造原理 第二節 万有原力と授受作用および四位基台(二)授受作用
信じてくれた人を裏切れば必ず良心の呵責を感じます。良心の呵責はその人が善の道へ行くばねになります。ですから、たとえ信じて裏切られたとしても信じたことが無駄ではないのです。
このように絶対信仰とは、すべての人に対して先入観を持たず、とにかく頭から信じることを意味します。
また、絶対服従は絶対信仰によって芽が出た絶対愛を育てるために不可欠です。育てるためには長い時間と精誠が必要なので、絶対服従は絶対愛にとって決定的に重要な要素だということになります。
絶対服従とは自らのすべての血肉を投入して、犠牲になることです。
それは、自己の意識がなくならなければできません。これは自分という存在意識がなく対象意識しかない状態です。相手しか見えない状態です。
その次には、絶対服従です! 絶対服従とは、神様御自身までも存在意識がないというのです。・・・・・・・
絶対服従は、自分という意識がありません。相対としての存在意識だけなのです。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第八節の解説 2.絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従
相手に対する絶対信仰から始まり、相手に絶対服従することによって愛は絶対化していきます。このすべてが真の愛に含まれ、真の愛の中身です。
このため「真の愛 = 絶対信仰、絶対愛、絶対服従」なのです。
人に対する場合、絶対信仰だけでも影響を与えますが、強力に影響を与えるのは絶対服従です。人間は本来、真の愛の中で生きるようになっています。お互いに為に生きあうのが当たり前なのです。しかし、今の世界にはそれが家庭などの一部の狭い領域にしか見出せません。ですから人間は慢性的な愛の欠乏症に陥っています。人間の最大の病は愛欠乏症なのです。
もし、自分の願うことを無償で喜んでやってくれる人がいたとすれば、その人からどれほどの衝撃的喜びを感じることでしょうか。その人のもたらす感化力は絶大です。
このため真の愛=絶対服従の実践こそ天国実現のメインエンジンだと言っても過言ではありません。
絶対服従は最高の到達基準ですが、不十分であっても相手に服従するだけでも強い感化力が生じます。
③悪霊の再臨復活の原理には真の愛の仕組みが隠れています
第五章 復活論 第二節 復活摂理 (三)霊人に対する復活摂理(3)楽園以外の霊人たちの復活摂理、には悪霊はいかにして復活するのかが書いてあります。
図に表すと下記のようになります。
このみ言は真の愛について記述されたものではありませんが、結果として真の愛で愛したのと同じ結果になる現象が述べられています。
ここに出てくる地上人は自ら望んで悪霊や悪人の悪業による苦難を受けたわけではありません。他発的に犠牲と消耗と苦痛の世界に追いやられます。この時、地上人が甘受すると、この状況に翻弄されるという受け身ではなく、この状況の主体者として能動的な位置に立ちます。簡単に言えば、自分から進んで悪霊や悪人のなす悪行に身を任せたことになります。
悪霊や悪人は地上人をひどい目に遭わせたいのですから、その欲求に服従したことになるのです。これは真の愛で愛したのと同じ結果となります。
この時に驚くべきことが起こります。
先ず、地上人は真の愛を実践したことになるので、肉身から霊人体に生力要素が流れ、霊人体が善化し成長します。そしてこの生力要素は自分の恩恵として終わるだけでなく悪業を行った悪霊人にも流れます。そして悪霊人も地上人の生力要素を分けもらって復活します。また、復活論のこの部分に記述はありませんが、悪業を行った地上の悪人も生力要素をもらって復活することは明らかです。
この生力要素は真の愛の体化物というべきものなので、真の愛の性質がそうであるように自分だけが恵みを得られるという狭いものではありません。その恩恵は関係者にあまねく行き渡ります。これこそが真の愛が持つ強く広汎な感化力です。
真の愛は悪霊や悪人までも感化する強い力を持っていることが分かります。
④真の愛で愛することにより生ずる驚くべき現象
先ほどの例は悪霊や悪人によって他発的に与えられる強制的な苦難に服従し甘受することで生ずる恩恵でした。一方、誰に対しても自発的に喜んで服従(喜んで犠牲、喜んで消耗)の姿勢を取るなら、それによって生じる真の愛は自分と相手を更に強力に感化し再創造します。
真の愛は怨讐さえも復活させるものなので、真の愛を与えようとする本人は勿論のこと、愛を受ける対象者や協助する善霊も再創造し復活させる力を持っています。
下記の図をご覧ください。
私が自発的に相手の願いを叶えるために喜んで犠牲と消耗の道を行き、それを対象に無償で与え、与えたことも忘れるとすれば真の愛の力が生まれます。
自発的服従とは、別の表現をすれば、喜んで相手に利用されるということです。この世では、自分の目的を達成するために他の人や団体や国をいかに利用するかがポイントとされます。
ビジネスの世界でも、他国を相手にした外交でも、いかにこちらサイドの欲求を実現するかが手腕とされます。一見、相手の願いを優先しているように見えても、最後は自分の方に利がある決着を目指します。
しかし、自発的服従は全く逆です。自分がないのです。相手に徹底的に利用されることを目指します。すべて与えて何も残らないかのように思われますが、強力な真の愛がその姿を現します。
愛の道は、利用される道です。もっと大きな所に向かって利用される道なのです。個人は家庭に利用されようとし、家庭を引っ張って国のところに行って利用されようとする道です。また、国を引っ張っていって世界で利用されようとする道なのです。世界を引っ張っていって天地で利用されようとし、天地を引っ張っていって神様に利用されようとする道が真の愛の道です。第三篇 真の愛 第三章 真の愛の実践 第二節 真の愛の実践9 1990.10.7
真の愛が出現すると、この世のいかなる成功も霞んでしまいます。
相手をたまらなく好きになります。相手も自分をたまらなく好きになります。神様も相手と自分をたまらなく好きになられます。
神様も人間もこの最上の好きだ!を得る時が最上の幸せなのです。
真の愛が出現すると、相手も私も神様も至上の幸福を味わうことができるのです。
真の愛は喜んで相手に徹底的に利用される時に出現します。しかし、そんなことを一貫してやった人は今まで皆無だと言ってもよいので、誰も真の愛を味わったことがないのです。ですから真の幸福を知らないのです。
自発的服従は真の愛を生み出し、生力要素として形状化、現実化します。そして宇宙全体を満たしている神様の愛、すなわち生素と授受作用して霊人体を復活、成長させます。
生力要素の効果範囲はその人の愛の範囲となるのではないかと思います。
この世でも父母が子供を愛する愛は無償の愛であり与えて忘れる愛なので真の愛に近い愛となります。この時、不完全であっても善の生力要素が肉身から霊人体に流れ、それが子女にも流れて行って子女の霊人体の栄養となります。
家庭の父母の愛によって生じる生力要素の影響範囲は家庭圏内です。
義人の段階の愛によって生じる生力要素の影響範囲は国家圏内です。
聖人の段階の愛によって生じる生力要素の影響範囲は世界圏内です。
聖子の段階の愛によって生じる生力要素の影響範囲は天宙全体です。
これらは慕うことによる一体化よって、真の愛によって生じた生力要素を相続することができます。
真の父母様を慕うなら、真の父母様の真の愛によって生じている生力要素を思う存分受け取ることができるので、霊人体は急速に成長できるのです。真の父母様を慕うこと、できれば自分の命以上に慕うことができれば、驚異的な復活の恩恵に預かることができるのです。
今の時代は父母様の勝利圏が完全に確立したので、真の愛で愛するならば誰でも強力な感化力を顕著に感じることができます。
試しに誰か願いを叶えるために一生懸命為に生きてみてください。
誰かのために喜んで消耗と犠牲の道を行ってみてください。
誰かに喜んで利用されてみてください。
誰かのために自発的に服従してみてください。
今までやったことがない程に相手の願いに服従して生きてみてください。
その人の心となり体となるのです。
そしてその人の代わりに自分が動くのです。
その時は当然、私の心は相手の願いに占有されているので、自然に自分の為の意識が入り込む余地がなくなります。
祝福を受けた方は為に生きる相手として相対者や主体者を選ぶと良いです。
例えば普段は妻がやっている労働のほとんどを引き受けてやってみてください。一回だけではなく毎日継続してみてください。
相対者のために喜んで犠牲になり一切恩着せがましくしないで当たり前のように行うのです。
上から与えるというのではなく下から侍り、押し上げる気持ちで成していきます。
そうするとその愛は真の愛となって大きな恩恵を生み出します。
まず、自分の心に生力要素が流れ、心が明るくなり喜びに包まれます。心が復活するのをはっきり感じます。
自分自身は犠牲となり服従することで消耗するのですが、それを埋め合わせるに余りある充実感や幸福感がやってくるのです。これだけでも相対者の為に生き、願いに服従することが癖になってきます。相対者の為になることはないか、相対者の願いは何かと探すようになります。
更に相対者に対する慕わしさが明らかに増し加わります。相対者が今まで以上に好きになります。相対者は、初めは今まで見たことのない夫の姿をいぶかしく思っていても、続けていくとだんだんと感謝してくれるようになります。そして相対者の私に対する愛も増し加わっていきます。
そして相対者の笑顔が増えていきます。間違いなく家庭全体が明るくなります。
このように真の愛が生み出した生力要素の場は、私に関わったすべての人に恩恵として現れます。
私を協助した霊人は勿論のこと、為に生きた相手すなわち真の愛で愛した相対者にも復活を引き起こします。それは家庭全体にも波及します。万物も引き寄せられてきます。
家庭天国の始まりです。これが拡大すれば確実に世界が天国になります。
真の愛をもった人、真の愛をもった夫婦が愛し合いながら暮らす庭には、美しい花が咲こうとし、美しい鳥と、美しい動物が近くに来て棲みたいと思うのです。そのような本性の動きがあることを知らなければなりません。そのような人は、自然にすべての万物が慕ってついてくるので、豊かに暮らすなと言っても、豊かになるようになっているのです。
第六篇 真の万物 第三章 万物の嘆きと真の万物主管 第四節 万物に対する姿勢13 1986.6.7
真の父母様の真の愛は実体化して生力要素の場として全天宙に浸透しています。これは真の父母様から子女への母乳と同じです。
清平での霊人の復活の役事が、復活論にあるような霊人による地上人への協助なくして可能なのはこのためと考えられます。
私達祝福家庭、食口は真の父母様を思うだけで真の父母様の生力要素の場の恩恵を頂けるのです。真の父母様を思い浮かべるだけでも霊人体は真の父母様の母乳をもらい復活、成長します。その上に父母様を慕うなら霊人体は更に大きく復活、成長します。真の父母様を慕えば慕うほど真の父母様の母乳を吸収できるのです。霊人体全体が真の父母様の母乳の海に浸るかのようです。
自叙伝に綴られた真のお母様の足跡、いくら体調が悪くても公的場に出てこられるお母様の姿の本質は、死にそうな子女たちに必死に母乳を飲ませて生かそうとなさる母の姿なのです。ご存じのように母乳は血液から作られます。
私たちは自分のことをそれなりに立派の基準を立ててきた信仰者だと思いがちですが、実際は放っておけば死んでしまう未熟児と同じです。いくらご自身が高齢になられた上に満身創痍でも、真のお母様の真の母性愛がそれを見過ごすことができないのです。
そして、真の父母様を自分の命を超えて愛するなら、とてつもなく大きな恩恵が私の霊人体に流れ込みます。霊人体は一気に復活、成長します。イエス様の右側の強盗がイエス様に命を捧げることで一気に復活したように、私達も神様と真の父母様に命を捧げることで私たちの霊人体は一気に復活するのです。これは真の父母様に命を捧げるという心情と行動が真の父母様との完全一体化を実現するからです。一つになればすべてを相続できるのです。
初めて「真の父母」に侍り絶対愛する事によって、霊界と通じる道を築く事が出来るのです。メシヤの前に絶対服従する事によって、霊界のある霊人にも絶対服従したという条件を立て、神様の命令の前に絶対服従したという条件を立てる様になると言うのです。神様の代身である「真の父母」に絶対服従すべきだと言うのです。それは何故、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てる為です。
「地上生活と霊界」第五章 メシヤと霊界 三「真の父母」と霊界 1肉身の父母と「真の父母」の違い
⑤真の愛の方向にあるかどうかが分かる物差しは服従
完全に真の愛であると言えるのは自分の命よりも相手を愛している状態に達した時です。しかし、いきなり完全を目指さなくても効果を得ることができます。効果は、その愛が真の愛の方向に向いているかどうかによって決まります。
方向が合っていないと愛の創造力、感化力は出現しません。
完全な真の愛でなくても方向が合っていればその威力ははっきり現れます。方向が合っていれば愛はどんどん強くなりいずれ自分の命を超える愛になります。
真の愛の方向に向いているかどうかが明確に分かる基準があります。
それは相手への自発的服従です。この状態が完全になれば絶対服従です。
常に柔和、謙遜で、その人がしようと言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それは、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人の全体を占領するための作戦です。したがって信仰世界においては、自分を否定し、代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦を取らなければなりません。それは自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを生活において感知しなければなりません。第四編 真の人間 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活20 1971.2.7
上記のみ言では服従は相手を完全に占領するための作戦だとありますが、復帰のみならず本然においても同じことがあてはまります。
このみ言は真の愛の目的である相手の愛を完全に占領するための道筋を明確に教えて下さる秘伝書であり永遠に輝く宝石のような内容です。神様の愛を占領する道筋も人間の愛を占領する道筋も同じです。
愛を中心とする自発的な服従です。
旧約時代の行義のように主人に恐れを抱いて僕として服従するのとは全く違います。
自発的服従は喜んで相手中心になる状態です。
私が相手のもう一つの体となって、相手の願いを実現していくのです。
別の角度から見ると、
相手が前で私が後ろです。
相手が上で私が下です。
相手が中心、前、上です。
これをいつも意識していればすべてが上手くいきます。
(もちろん相手の非原理的な願いに沿おうというのは論外なことは言うまでもありません。)
図に表すと下記のようになります。
服従なき愛は真の愛ではありません。
相手への服従を中心としない愛は自分なりの愛です。神様の愛に似ていません。
自分の判断で為に生きていると思っていても、服従がなければ為に生きているとは言えません。つまり、相手に利用されることを当然のごとく喜んで行わなければ服従ではないのです。
組織の中で末端の会員でも責任者でも全く同じです。この原則は普遍的です。
そして、愛を中心とする服従がなければ真の一体化は実現しません。
夫婦においても夫が妻に服従し、妻が夫に服従することの両方がそろって初めて真の一体化が実現します。真の愛は強い感化力を持つため、夫が妻に愛を中心として服従することを続けていると、妻は自然に夫に愛を中心として服従するようになります。そして完全な一体化に向かいます。
妻を探し求めていく夫が、その愛の前に絶対服従するとすれば、妻は幸福でしょうか、不幸でしょうか。絶対的に幸福だというのです。夫を探し求めていく妻もそうであるならば、その夫も絶対的に幸福だというのです。父母の前に絶対服従することができる者を「孝子」といい、国の前にそのようにすることができる者を「忠臣」といい、世界の前にそのようにすることができる人を「聖人」といい、天地の前にそのようにすることができる人を「聖子」というのです! アーメン。
「真の家庭と家庭盟誓」第二章 家庭盟誓各節の解説 二 家庭盟誓第二節の解説 3.家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成 (1) 必然的に行かなければならない孝子、忠臣、聖人、聖子の道
愛の僕となり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だという事ができます。「真の家庭」 第四章 愛を中心とした人生行路 三 人間の永遠なる生命の要素は愛(祝福家庭と理想天国I-1066)
⑥ヤコブ路程に見る服従のもたらす真の愛の感化力
ヤコブ路程は服従がどういう影響を生み出すかを端的に教えてくれます。
ヤコブがカナンにいる時、パンとレンズ豆のあつものでエサウから長子権を復帰しようとしますが、却ってエサウから殺されそうになります。この時のヤコブの行動は戦略戦術的であり服従の姿勢とは程遠いものでした。
ヤコブは、ハランに行ってラバンに主人のように仕えることで、服従することによって生まれる愛の感化力を学びます。そしてカナンにもどってエサウに会う時に主人に仕えるように徹底して服従する姿勢を貫きます。これは真の愛を中心とする服従とまでは行かなかったとしても、強力な感化力を生み出しました。これによってエサウの心が揺さぶられたのです。
エサウは心から欲しかった父イサクと母リベカの愛をヤコブから感じて屈服したのです。
ヤコブ路程には更に教訓を見つけることができます。ヤコブがラバンの所からカナンに帰ろうとする時、ラバンは行かせまいとして追っかけてきたと記録されています。原理講論にはサタンの発悪の事例として記載されています。しかし、ご父母様のみ言に照らしてみると、ヤコブはラバンに服従する程度が不十分だったという結論に達します。さらに高い基準で服従を実現していたなら、ラバンはヤコブのカナン復帰を心から喜び、涙を流して別れを惜しんだことでしょう。
もしこの服従の基準を勝利していたなら、カナンのみならずハランもメシヤのための基台地域となり、ヤコブ家庭がエジプトに行く必要もなかったでしょう。その地には王国が築かれ王家の子女としてメシヤが誕生し十字架の道などあり得なかったことでしょう。
⑦相手への自発的服従は堕落性を脱がせてくれる
堕落性とは次の四つと記されています。
1. 神と同じ立場に立てない
2. 自己の位置を離れる
3. 主管性転倒
4. 犯罪行為の繁殖
相手に対する自発的服従の姿勢は、
1. 神様の立場そのものです。
2. 自発的服従こそが本然の位置です。
3. 相手の下に行こうとするので自発的に相手に主管される立場です。
4. 自発的服従の姿勢は相手に愛として伝わり、自然に相手の自発的服従を誘発します。自然に善が繁殖します。
このように誰に対しても手あたり次第服従しようという姿勢には堕落性が入り込む余地がありません。堕落性は人より上に行こうという気持ちがある時に出現するものです。人より下に行って相手を自分より上に押し上げようという姿勢を持つときは出現しようがありません。それどころか堕落性がだんだん消滅していくのです。
誰に対しても服従しようという自発的な姿勢、本心から私を遠慮なく利用して下さいという姿勢こそが、堕落性から解放されていく特効薬なのです。
人間は人よりも上に行けば幸せになれると思い上を目指しますが、上に行こうとすればするほど幸せから遠ざかります。逆に人の為に下に行って服従し、その人を押し上げようとする時に深い幸せが訪れます。神様が人間をそのように創造されたので、それが人間の本性なのです。本性に逆らえば幸せになれる訳がありません。
一度服従の深い味わいと復活の喜びを知れば人より上に行こうとは思わなくなります。自分から自発的に服従したくなります。
人を利用しようという気持ちは消え、利用される喜びに真の喜びを感じるようになります。
⑧私たち一人一人が真のリーダーになり天国を創りましょう!
これからは間違いなく多くの人が陸続と教会にやってくるようになります。そうすれば好むと好まざるにかかわらず皆様は一人残らずリーダーになる必要があります。
リーダーに最も必要な内容は真の愛であり、それはリーダーがリードされる側の人にいかに自発的に服従するかということに尽きます。一般的なリーダー論とは全く違います。
組織においてリーダーは様々な成果を上げる責任があります。一般社会では目に見えたり数字として表れたりする実績が重要であり、そういう実績を上げる人が重宝されます。
一方、私たちが天国を創建しようという過程においては外的な実績も重要ですが、それ以上に重要なのは、リーダーが自発的服従を中心とする真の愛の姿勢を貫き、メンバーを愛することで湧き出る生力要素でメンバーを潤し、メンバーの霊人体を成長させるという目に見えない実績です。これが分かり実践しているリーダーこそ本物のリーダーです。外的実績を上げることが得意でもこれが出来なければ残念なリーダーです。霊界に行くときに持っていくものが何もないことになります。
私たち祝福家庭、統一食口が愛を中心として服従することで真の愛の場、生力要素の場が出現します。
こうして出来上がる場はミツバチに対する蜜のように人々と万物を引き付けてやみません。
愛を中心とする自発的服従のもたらす驚異的な真の愛の威力を体感してくだされば、真の愛で愛する衝動が抑えられなくなってきます。
この愛が満ち溢れる家庭、教会、社会、国、世界は自動的に天国になります。
神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。
「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 二、宇宙は主体と対象でできている 1.ペア・システムが宇宙存在の原則
⑨真の愛を更に増幅する神様に対する自発的服従
自発的服従によって真の愛が大きくなっていきます。
ここにもう一つの要素を加えると真の愛がより大きくなり更に真の愛らしくなります。それは、神様に対する自発的服従です。
神様は愛をさらに愛らしくするためにご自身の血肉を削ってまで創造されました。私達が想像する以上に神様は愛が好きでたまらないお方です。
愛が死ぬほど好きなお方です。この観点は極めて重要です。
愛とは「好きだ」という情感のことです。ですから、神様はこの情感がある所が好きです。そしてその情感がある所に来られます。神様が見たいもの、食べたいもの、嗅ぎたいもの、聞きたいもの、触りたいものは「好きだ」という情感です。
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
「真の愛」 第一章 三 愛が介在する時、調和が成される
神様に「好きだ」という情感をもたらすべく創造されたのが人間です。
「好きだ」という愛の情感を増幅するのに必要なものが体です。神様はその体を直接ご自分で着るのではなく、体を人間に与えて人間と心情一体化することで人間という体を着る道を選ばれました。人間と喜びを分かち合った方が愛の刺激が圧倒的に強いからです。
このように、実体の体を持っている人間が感じる刺激的な質感、情感は元々神様が味わいたかったものなのです。
アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。
言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。 「真の神様」第一章 神様の本体 二 無形の神様は体が必要 1.体をもつためにアダムとエバを創造
愛で和合して喜ぶことができるものは、昔創世前の時代の神様の喜びと、創世以降の相対的実体たちが出会って同化して感じる刺激的な愛の衝撃とは、天地の間の差があるのです。踊りを千年、万年踊っても終わることがないというのです。「成約人への道」第四章 成約人への道 七 愛の皇族となれ 2.愛の人になれ
このため、私たち人間はどんな時でも「好きだ」という情感を神様に差し上げることは人間の使命であり必然的な義務です。
人間は誰でも「好きだ」という情感を求めて生きています。しかし、その「好きだ」という情感は最初に神様が味わい、その次に人間が味わうのが順序です。
人間が創造する最も価値あるものは外的な物ではありません。それは「好きだ」という情感なのです。それは神様への最大の精誠です。
それは自ら進んで自発的に行う神様への服従によって成し遂げられます。神様が最もほしい「好きだ」という情感を差し上げることが、私の生活の中心にあり、前にあり、上にあるということです。具体的に言えば、
人間は神様の体として刺激的な「好きだ」を作り出すために喜んで神様に利用されるということです。
そのためには、何をするにしても、どんな時でも自分の心に「好きだ」という情感があるかをいつも留意する必要があります。
食事をする度に、食べ物を口にして嚙み、味わい、飲み込むときに得られる「好きだ」という情感を意識して味わってください。この情感を神様は召し上がられます。
綺麗な景色を見る時、花の香りをかぐとき、音楽を聴くとき、趣味に浸る時、湧き上がってくる「好きだ」という情感をいつも意識して味わってください。この情感を神様は召し上がられます。
相対者を見つめ、子女を見つめ、ご父母様を思い、神様に祈る時に湧いてくる「好きだ」という情感をいつも意識して味わってください。この情感を神様は召し上がられます。
人に対したり、話したり、もてなしたり、何かをしてあげたりなどの自発的服従する時に、相手を「好きだ」という情感をいつも湧き立たせて味わってください。今の時代は真の愛があらゆるところに充満しているので相手を好きだと思おうとすると案外すんなりいけるようになっています。
相手が「好きだ」という情感を意識的に湧き立たせるのです。この情感を神様は召し上がられます。
み旨を行うにも、苦しみながら義務感、使命感で実績を出しても、神様にとっては美味しくないのです。不味い料理を差し出す結果になります。
み旨を「好きだ」という気持ちで為せば、神様にとっては五つ星レストランでの食事になります。神様の心に忘れることのできないものとして刻まれます。
私達人間は、神様にこの情感を美味しく食して頂けるように真心を尽くす名シェフであるべきです。
いくら外見が綺麗に見えても、食べたら美味しくない。これは余りに残念です。
皆さんは神様にとって星何個のシェフでしょうか?
神様は「好きだ」という情感を食べても食べてももっと食べたいお方ですので、私達のすべての生活が意識的に「好きだ」に浸る生活を目指すべきです。
何気なく過ごしてはいけないのです。
対象は状況や問題にも及びます。健康状態が思わしくない、経済的に上手くいかない、仕事が暗礁に乗り上げているなど、いわゆるマイナス思考に陥るような状況があるとします。この場合、たいてい暗くなって落ち込みます。その状況を「好きだ」と思えるように精神を注ぎます。
先生が今まで夜を徹しながら人に対しているのは、すべての人を好きになるためです。人を嫌っては復帰歴史に責任をもつことはできません。悪人も好きにならなければならないし、善人も好きにならなければなりません。すべての人を好きにならなければ神様を身代わりできないからです。第四編 第三章 真の人間に復帰する道 第三節 真の人間の生活24 1971.1.24
私たちの信仰生活においては精誠を尽くして一生懸命にやっても一回のみならず何回も何回も上手く成就しないことが起こります。信仰の初期のころはすべてが導かれ上手くいっていたのに、最近は上手くいきそうでも不思議なほどだめになる経験を多くされ方もいると思います。
これは信仰が深くなれば深くなるほど起こって来る現象です。
人事を尽くしても成らないのは、天がその実現を良しのされないというよりも精誠が不十分だと思っておられるからです。
神様はその状況が好転するように働きかけることはいくらでもできます。しかしそうならないのは神様がGOサインを出されないからです。
それはある蕩減を全うするには不十分である場合や神様の願われる基準に達していないからです。
一生懸命やったのにダメな場合は、いわゆる基準が下がります。
しかし、上手くいかないのは神様がNOという決定を出されたからです。神様のNOという決定は神様の真の愛に従ってなされたものです。
この時こそ神様の決定に絶対服従する絶好の機会なのです。人事を尽くしたのに神様が受け入れてくださらない場合、自分という意識をなくして神様の決定を喜んで受け入れたならその絶対服従は神様にとって大きな喜びとなります。神様にとっての最高の美となるのです。
この「いやだ」の状況を私の中で「好きだ」に換えるのです。
これは、甘受でもなく感謝でもありません。もっと強い情です。
消極的に甘受したり、感謝したりすることに止まらず、神様の深い意図と真の愛を感じ取って、「好きだ」という積極的絶対服従の情に変えるのです。
甘受や感謝という受動的時代から能動的な「好きだ」という愛の時代になったのです。
感謝、甘受<好きだという愛の情
厳しい「いやだ」の状況を私が料理し「好きだ」が溢れる一品に仕上げるのです。
これは神様にとって最上級の料理です。
そうすれば息が詰まるような状況でも必ず好転します。
堕落論の第五節にある自由の原理的意義の中に、実績のない自由はないと書かれています。これは見方を変えると、本質的で重要な実績であればあるほど、それによって生じる自由感も本質的で深いことを意味します。
好きでないものを「好きだ」に料理し、しっかり味わうなら、その効果は更に絶大です。
この生活は本質的なので、生ずる自由感、開放感もとても深いのです。
これは流れる生力要素の質が高く量も多いことを意味します。
更に、堕落性も発現し難くなるのを実感するようになります。
絶対信仰、絶対愛、絶対服従=真の愛であり
真の愛の中心である神様と人への自発的服従を背骨として生活すれば他の原理は忘れても良いとみ言にあります。
絶対信仰、絶対愛、絶対服従することのできる人になりさえすれば、統一教会の原理を知らなくてもいいのです。そうしてその上に絶対的な血統復帰、所有権復帰、心情復帰を地上で成して越えるようになると、その人は天の国の民になります。
「成約人への道」第四章 成約人への道 三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建1.第一宣言:新希望農場(New Hope Farm)宣言
天一国安着が宣布された現在、顔をしかめて耐える時代は終わろうとしています。甘受、感謝の時代から「好きだ」の時代になったのです。
「好きだ」という情が自分の心をいつも占領しているような生活が可能な時代です。
神様のためにいつも意識して、
「好きだ」が溢れる楽しい生活をしなさいということです。
そうしようとする人には神様が全力で応援してくださいます。
相手に対する自発的服従にこの神様に対する自発的服従が加われば愛は驚くほどに増幅します。それにより、私も相手も自然、万物も更に更に復活します。
愛の中心である神様が私に引き寄せられるからです。
神様は、何の味を最も好まれるでしょうか。神様が匂いを嗅ぐなら、どのような匂いを最も好まれるでしょうか。聞くなら、何を聞くのを好まれ、感じるなら何を感じるのを好まれるでしょうか。神様が好まれるものは愛しかありません。神様の五官を集中させることができ、喜びを充満させることができるものがあるなら、それは愛しかないのです。
第三篇 真の愛 第一章 真の愛の根源 第四節 真の愛の力23 1985.12.22