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蕩減復帰の真実と完成への集大成

2024.8.14

今回の内容は長編です。天心苑祈祷会で与えられた内容の集大成です。次々に与えられる内容を集めてさらに求めた結果長くなってしまいました。

神様と真の親子になるために必要な核心をお知らせできると思います。

長いので最初の<神霊と真理による人間の復帰>は飛ばしても大丈夫です。

御父母様のみ言にある怨恨の神観と真の愛の神観の決着>からお読みいただいても良いです。

神霊と真理.jpg

<神霊と真理による人間の復帰>

・イエス様を中心とする旧約時代と新約時代

イエス様が旧約聖書のみ言を述べた上で、新約のみ言を語られた部分があります。この時、イエス様の新約のみ言に相対できた人は当時どれほどいたでしょうか。人々を指導する立場にあった祭司、律法学者、パリサイ人、サドカイ人のほとんどは分かりませんでした。これは旧約聖書のみ言が先入観となっていただけでなく心霊的に新約のみ言に相対できなかったのです。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向てむかうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打うつなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。マタイ5:38-39

『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。マタイ5:43-44

 

イエス様から2000年たった今でもイエス様のみ言を心霊的に腑に落ちて実践しているキリスト教徒がどれほどいるでしょうか。キリスト教においては新約聖書だけでなく旧約聖書も経典です。キリスト教の歴史を見るとイエス様の敵を愛せというみ言ではなく、旧約の敵を憎めという方を選択した事例が余りに多く見られます。

 

大航海時代、キリスト教会は、異教徒によって占拠された土地を奪い返し、神の教えに背く異教徒を焼き殺す事は「正しい戦争」であると承認し、神への信仰の証しとして、侵略戦争を「聖戦」として奨励した時期がありました。これにより中南米にいたインディオは侵略者によって持ち込まれた伝染病による死も含めると約1億人が殺されました。生き残ったのは1千万人しかいなかったという悲惨さです。当時の世界人口は4億3000万人とされているので世界人口の約4分の一が殺害されたことになります。

 

中南米大陸の現地人であるインディオに対するキリスト教会の見解は後には変化しますが、当初は「インディオには魂がなく人間ではない」という見解でした。これが殺害に伴う良心の呵責を弱めました。大量虐殺という言葉を遥かに超えています。

これはキリスト教を非難するために言っていることではなく、選民がみ言を正しく理解できない時には、とんでもない結果になることを認識していただくためです。

 

・原理時代から天一国時代へ

アブラハムから4000年、イエス様から2000年の復帰摂理の結果、人間の心霊は間違いなく復帰されてきました。しかし全体をみると復帰の度合いには大きな幅があります。ノアの洪水審判当時の人々の心霊状態の人もいます。私たちは原理のみ言に相対基準が合ったので相当高い心霊基準を持っている集団と思いたいのですが、李基誠苑長のみ言にあるように実際は、旧約時代に生きる食口、新約時代に生きる食口、成約時代に生きる食口、そして天一国時代に生きる食口に分かれています。

 

このような現象が起きる原因は、原理講論には旧約聖書、新約聖書からの引用が多くあるからです。このため旧約的価値観、新約的価値観が入ってきます。特に復帰歴史の内容に多く出てきます。

御父母様のみ言はその基台の上に立っています。しかし極めて高い次元でのみ言です。このため原理講論は理解できても御父母様のみ言は良く分からないということが起きます。

 

皆さんが分かる原理を教える程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません

祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 「祝福の意義と価値」第四節 祝福を受けるための蕩減条件

 

わたしは63年も説教して来ているが、誰も私の語る言葉を理解することができない。2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会

 

御父母様のみ言は原理講論の上の次元の位置にあるので、原理講論と御父母様のみ言が違う時には御父母様のみ言が優先ということになります。

原理講論の理解に基づいて御父母様のみ言を理解しようとする人もいますが、これは旧約聖書のみ言からイエス様のみ言を理解しようとするのに似ています。御父母様のみ言を中心に原理講論を理解するのが正しいやり方です。

 

ところで御父母様のみ言はすべてが最終的な真理なのかという問題があります。この問題に踏み込むことはとても危険です。原理講論は御父母様が逐一指示されたとはいえ劉孝元先生が執筆されたものです。しかし御父母様のみ言は直接ですので、そこには更に大きな抵抗が起こる可能性を秘めています。

 

しかし、御父母様のみ言が最終真理ではない場合がはっきりと存在します。

これは正確に言えば記録として残っていないので記録されたみ言と同列とは言えませんが、ご聖婚されて間もない頃の話です。

お父様は食事の席ではいつも教会の幹部と一緒でした。そこには必ずお母様もおられました。その席でお父様は最初の妻であった崔先吉女史がいかに素晴らしかったかを何度もしつこく繰り返し話されたというのです。

これはお母様がエバの蕩減を成し遂げるため絶対に必要な舞台の始まりでした。この場合、お父様にわざとらしさがあってはならないのです。どんな俳優にも勝る演技が必要でした。お母様に本当の意図を悟られては蕩減の舞台になりません。冷静に考えれば北に行かれたお父様の事情も分からずお父様の道を妨害し、最後は一族を動員して離婚を迫った崔先吉女史が素晴らしいはずがないのです。それをいかに素晴らしかったかを迫真の演技で話されたのです。

 

アダムを裏切って天使長に走ったエバの蕩減は聖婚式が終わるや否や始まったのです。元老食口でこの深刻さが分かった人はいなかったと思います。

お父様のこの演技に幹部も騙されたのです。そしてお父様の発せられた言葉の表面だけをとらえたのです。そしてお母様を崔先吉女史よりも遥かに下で基準のない人と捉えたのです。

この場合のお父様の話は、摂理を進めるために致し方なく話された内容であり真理ではないのです。それはそうだろうと納得される方が多いと思います。

 

(この時代に聖進様の母である崔先吉女史を第一のお母様、喜進様の母である金明熙女史を第二のお母様、真のお母様を第三のお母様ととらえる見解が元老食口の間に出来上がりました。お母様が本当に用意された主の花嫁ならば、それ以前にお父様が別の女性と結婚されるはずがないという思いがそれを後押しいたと思います。

そして、最近まで修練会の主の路程でもこの観点で講義されました。基元節以前に御父母様に従った食口(私も含めて)の愚かしさに対して悔しさと怒りがこみ上げます。真の父母論が発表される前にこの間違った見方を正式に訂正すべきだったと思います。少なくとも古い食口はこの時代にお母様の価値が分からず、お母様を崔先吉女史や金明熙女史と同列ないしその以下の存在と考えていた愚かさに対する徹底した悔い改めが必要だと思います。

 

お母様が食口に対して何回もご自分が独生女だと言われるのを聞くのはとても苦しいです。私たちは当たり前のことが分かっていなかったのです。お母様にそう言わせてはいけないのです。食口全員で悔い改めるべきことです。

追伸:私はアダムとエバの蕩減に道を歩まれた熾烈で悲惨な御父母様の路程の真実の一部を解明させていただきましたが、本当に分かる食口が少ないと感じました。そのため時が満ちるまでサイトではこの部分を封印しました。ご理解ください。)

 

さて、ここからが重要なのですが、摂理のために仕方がなく語られた内容のみならず、御父母様が真剣に話されたと思われる内容にも矛盾するものがあるのです。これは神観に関するものなので必ず解決されなければならないものです。

本当はこの問題に手を付けたくないです。原理を廃する者どころか真の父母を否定する者というそしりを受ける可能性を含んでいます。それでも覚悟を決めてアップしたのは、私たちが真の愛の神様について深く知る必要があるためです。ここに信仰生活が懸かっているといっても過言ではないと考えます。

アンカー 1

<御父母様のみ言にある怨恨の神観と真の愛の神観の決着>

 

真の父母様のみ言には真の愛の神様の記述とともに怨恨の神様の記述があります。この二つの神観は矛盾するように見えます。

まず、神観が二つ存在することにお気づきでしょうか?

どちらが正しいのでしょうか?

この二つの神観のうち皆様の神観はどちらですか?

 

(真の愛の神観についてのみ言)

神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。​ 「宇宙の根本」第一章 宇宙の根本秩序 二 宇宙は主体と対象でできている

 

真の父母は神様の前に絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統を受け継いできたので、それを伝授してもらわなければなりません

「成約人への道」第四章 成約人への道 二 摂理的総決算と真の御父母様の大宣布 3.蕩減解消宣布式(一九九六年十一月一日、ウルグアイ)

 

神様が人間と万物を創造されるとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をもって造られました。神様の対象体である私たちも神様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません「成約人への道」第四章 成約人への道 三 ジャルジン七大宣言と新エデン創建 1.第一宣言:新希望農場(New Hope Farm)宣言(九五年四月三日、ジャルジン、新希望農場)

 

(怨恨の神という神観)

その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが、御自身の目的があり、御自身の願いと希望がこの地上にあるので、それを見つめて耐えに耐え、さらに耐えてこられたことを知らなければなりません。第一篇 神様 第二章 心情と真の愛の神様 第一節 心情の神様20  1960.4.10

 

神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 六 神様の解怨と孝子の道1.真のお父様が歩み来られた復帰の道

 

天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 六 神様の解怨と孝子の道1.真のお父様が歩み来られた復帰の道

 

二つの相反する神観があることを認識してくださいましたか?

両方の神観があるのはなぜなのでしょうか?

怨恨の神様は真の愛の神様ではありません。

何故でしょうか?

次のみ言をご覧ください。

 

神様が宇宙を創造される時、絶対信仰の上でされました。神様が語ったことは絶対に成るというのです。できないことがないというのです。また創造は、愛の対象をつくるためです。絶対愛です。疑心がありません。二つの心はないというのです。その次には、絶対服従です! 絶対服従とは、神様御自身までも存在意識がないというのです。「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 

絶対服従は、自らの意識構造まですべてなくなるのです。私のすべてを投入して忘れてしまうのです。「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 

絶対服従は、自分という意識がありません。相対としての存在意識だけなのです。「真の家庭と家庭盟誓 」第二章 家庭盟誓の各節の解説 八 家庭盟誓第八節の解説 2 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって ① 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 

真の愛を表す絶対信仰、絶対愛、絶対服従のうち絶対服従は自分という意識がありません。相対としての存在意識しかないです。

これは簡単に言えば、子女を思う父母の心情しかないということです。

しかし、怨恨の神には自己意識があります。これは真なる父母ではありません。

 

「その神様は、すべての世の中を一度に審判してしまいたいという切実な気持ちがありましたが」 審判したい神様は自己意識の塊です。父母の位置は失われます。本当に審判してしまいたいと一瞬でも思われたのなら、真の愛の絶対性はその瞬間に崩れ去ります。

 

「血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。」

「天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。」

怨恨とは辞書によれば、きっと報復してやると思う深い恨みを持つことです。怨恨を持つ神様は相手に対する愛はありません。自分の恨みが心を占領しています。審判によって恨みを晴らす神様です。

 

私はこの怨恨の神様のみ言にかなり長い期間影響されてきました。

実際、怨恨の神様だと思うしかないようなみ言がたくさんあるのです。

御父母様のみ言には真理しかないと思っていたことも大きな要因です。そのため私の過去の文章においても、神様が怨恨の神様であり復帰摂理はご自身の怨恨の解放であるという内容をアップしてきました。

私の無知をお許しください。

心よりお詫びいたします。

そういった主張のものはサイトからかなり削除しましたが、全部はできていません。み言の解明を始めてから10年以上に渡って私の神観は怨恨の神様でした。これは私の心霊が成長できていなかったことが原因です。

 

私は今この十年間の懺悔も含めて怨恨の神様のみ言に向き合っています。何故このみ言を御父母様が語られたのか?

 

最大の理由は、恨と悲しみは同じ状況で起こるからだと思います。

人類始祖に裏切られた神様の立場に自分を置いた時に、私たちが人類始祖に感じる一番わかりやすい気持ちは裏切りです。そして恨みです。

しかし、後から説明いたしますが、神様には裏切られたとか恨みの心情は全くありません。人間が絶対愛の神様を理解するのはとても難しものがあります。

人間だったら当然感じるであろう裏切られた!という恨みがないのです。神様には恨が全くない分、想像を絶する悲しみがあります。

この強い情は人間にはなかなか分からないので、理解しやすい恨や怨恨という言葉を使われたのではないかということです。

そして恨や怨恨を解怨するのと悲しみから解放するのとは同じ道だという事実があります。つまり強い悲しみを消し去る道と強い恨みを消し去る道が同じなのです。

私たちは神様の感じられた強い悲しみが分からないので、分かりやすい怨恨という言葉を使われたのだと思います。

前出の「血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。」

「天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。」

このみ言に中の怨恨を強い悲しみと置き換えると真実が見えてきます。この強い悲しみの神様を解放するのが本当の蕩減の道です。

私たちは蕩減復帰の道は、神様と人の恨みを解く道だと思ってきましたが、本当の蕩減の道は神様を悲しみから解放する道なのです。

恨みも悲しみも独自的には生じません。必ず相手がいて起こってきます。このため怨恨と悲しみは関係性から生じているので解決するには怨恨を与えた当事者、あるいは悲しみを与えた当事者しかできません。

蕩減の道は神様の恨みを解怨する道ではなく神様の悲しみを解放することだということです。

 

簡単に言えば、相手から苦痛を与えられた場合、人間が感じるのは相手に対する不信、恨み、怨恨、同じ苦痛を与えたい、あるいは相手を滅ぼしたいという復讐の思いです。しかし神様は絶対的な父母なので、人間に対する不信、恨み、復讐の思いは全くありません。これらの情念は自己意識から生じます。神様は自己意識のない完全な父母です。そこに生じる情は悲しみしかありません。

神様と堕落人間では同じ状況でも生じる情が全く違うのです。

同じ原因から全く違う情が生じているのです。

 

怨恨を解放するのと悲しみを解放するのは、原因を除去するという点では同じです。原因を除去して元の状態に戻るという点では同じです。私たちは怨恨から解放されるというのは分かりやすいのですが、悲しみから解放されるというのは情的に深く理解するのは簡単ではないのです。それに対する理解は観念では分かっても実感が持ちにくいのです。

それで怨恨からの解放が蕩減の道だと取れるような表現をして蕩減の道を行く必要を示されたのだと思います。これはこの時代の食口の心霊に響くように語られたのだと思います。しかし、天一国時代である今は、神様の悲しみ、父母様の悲しみを解放することが蕩減の道であるという本当の理解が必要です。

万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。・・・堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 三 拘束された神様、囹圄(れいご)の神様1.神様が立つ瀬を失った

先生は何でもありません。人類歴史は百五十万年だと言われていますが、永い歴史過程において自分の威信と権威とすべてを忘れて、失った子を探し求めて身もだえするかわいそうな父母の身の上を誰に訴えるのでしょうか

「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 五 神様を解放して差し上げよう 2.神様の解放は人間がしなければならない

「私の悲しみを解いてほしい」というのが神様の第一の願いです。そして、二番目は「私の苦痛を解いてほしい」ということです。それでは、誰がその願いをかなえてあげるのでしょうか。神様御自身には解くことができません。それは、相対的に食い違ったことなので、神様御自身が解こうとしても解くことができません。私たちが解いてさしあげなければなりません第八篇 信仰生活と修練 第四章 真の父母の人生から見た信仰者の道 第四節 相続の人生 9 P936 1973.3.11

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(その他にも最重要ではありませんが理由はあると思います。

それは真の愛の観点にあまり相対できず、敵味方の観点から抜け出せず、敵に対して敵愾心を燃やす食口がいた場合、その人の救いの道を残すためということがあると思います。

御父母様の悪との戦いには二つの時代がありました。前半は共産主義との戦いやフレーザー委員会との戦いなどです。それらを敵とみなし敵愾心を燃やして戦うやり方です。これはどちらが正しいのかどちらの信念が強いのかという戦いです。

 

これがその後の時代では一変します。御父母様が金日成やゴルバチョフに対されたように真の愛で怨讐を愛して一体化する道です。この時代に摂理の大転換が行われたのです。

これは愛の戦いであり、情の戦いです。相手を憎んで滅ぼそうとする情と、相手を愛して、それでもあなたが好きだ、永遠に一緒にいたいという愛の情の戦いです。この戦いのどちらが勝つかは明白です。

しかし、これが理解できた食口は少なかったと思います。いまだに敵愾心、闘争の中にいる食口もいます。今回の教会への迫害、非難、中傷に対する反応に如実に表れています。

 

共産主義者やフレーザー委員会との戦いは基本的には理論闘争であり信仰の戦いです。そこには真の愛の入り込む余地がありません。私も学生時代に大学のキャンパスで共産主義者と何回か理論闘争をしましたが、敵と戦う敵愾心はありましたが、怨讐を愛そうという愛の心情は皆無でした。今になってみれば怨讐を愛する絶好の機会を失ったと思います。この時代に必要だったのは原理講論であり、勝共理論でした。この時代において大きな功績を立てられた方々がおられます。その方々が霊界に行ったときに救いの道を用意されるためもあったと思います。そのほかにも理由があると思いますが、まだ解明できていません。)

 

今や原理講論、勝共理論の時代は終わりを告げました。真の父母論の時代になったのです。真の父母論の時代とは真の愛の時代です。

今こそ真の愛の神様の本当に姿を知るべき時が来ました。そのお姿はキリスト教の神観と違うだけでなく、私たちが信じていた神観とも違います。

それについて最近になってアップしています。

今回はそれをもう一度概観しながらより詳しく見ていきたいと思います。

怨恨の神様

<復帰歴史を通して感じてこられた神様の苦痛の正体>

 

神様は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を完成へと導くために怨讐を用意されました。神様は怨讐がそれらを打って苦痛を与えることを裁可されました。

神様が怨讐を用意される目的は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の蕩減復帰を完了させるためです。怨讐となるのは悪人、悪の一族、悪の民族、悪の国家、悪の世界です。そして悪霊、恨霊、中心霊です。神様はこれらの悪が善の側を打つことを裁可されます。

それは善の側のみならず、悪の側も救うためです。

 

悪の勢力は自分の力では神様に帰るための善なる条件を立てることができません。そこで善の側を打つように導かれます。打たれた善の側が甘受、感謝するならば善の側も蕩減条件を立てることができるし、悪の側もそれに協助したことになるので復活できるのです。この方式は父母の心情から出てきたものです。

 

この場合、善の側の個人、家庭、氏族、民族、国家、世界がどのような蕩減条件を立てれば良いのかを知っているのは神様だけです。神様はその条件に適合した悪の勢力を選んでマッチングされます。この時に善の側が悪の勢力の与える苦痛、苦難にどう対処するかによって蕩減条件を立てるスピードが違ってきます。恨んではすべてが無駄になります。ただ我慢する段階、自分の運命だとして甘んじて受ける段階、その状況を愛してその苦難を与えられた神様に感謝する段階と心霊基準に応じて対応の段階が異なります。

苦難、苦痛に対する対応の仕方によって蕩減条件を立てるスピードが違ってきます。

この天地の大主宰者であられる神様をサタンも無視することができません。自分の業を実行するためには、必ず善の神様の決裁を受けたのちに行動をするのです。その悪なることで神様の理想世界を破綻させるのです。 「宇宙の根本」 第二章 人間創造と愛の理想の完成 五、生殖器を通して天国と地獄が分かれる

 

さて、このみ言を解釈すると次のようになります。

試練に耐えてその状況を愛することができる心霊基準が十分であるならば、神様はより強く、休むことなく苦難に追い込まれます。苦難の種類、苦難の強度、苦難の期間を調整されます。こう見ると、最も辛い道を来た悲惨な人が神様が最も強い役事をされた方です。

神様は悪の勢力が善の人間を打つことを裁可されますが、悪の勢力がどのような苦痛を与え、どのような強度で、どれくらいの期間かについてコントロールされます。これは神様が直接に苦難を与えておられるということを意味します。

神様は善の側のみならず悪の側までも救うために悪の側に善の側を打つことを裁可されますが、これは神様が直接打っておられるのとまったく同じことです。

これこそが神様の苦痛の正体です。愛する者を救うためには怨讐のように扱うしかなかったのです。この苦痛は想像を絶します。不幸の中に生きる人間を眺める神様は悲しみに満ちています。歴史を通して悲しみしかない神様はそれだけでも辛いのに、人間を救うために愛する子女を打つしか救う道がないのです。泣きながら人間を打ってこられた神様です。

神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです

「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様  2 神様の歴史的に悲惨な姿

この観点は世界観、人間観、人生観の革命です。

サタンも、悪霊、悪人も神様の裁可がなければ人に苦痛を与えることはできないのです。苦痛や苦難、悲しみはすべて神様が与えておられるということです。病気と薬の話がありますが、病気の後に薬があるのではなく、病気、事故、事件、ケガ、災害、戦争、経済的困難、人間から受ける苦痛、家族の不和など、すべての苦難は神様が個人、家族、氏族、民族、国家、世界の成した結果に対して与えられた薬なのです。簡単に言えば、殺人や事故、戦争など神様が裁可されなければ起きないのです。しかしそれらはいきなり起きるのではなく、それを回避するための環境を用意されたにもかかわらず人間が責任を果たせなかったことで起こっているのです。これは原理講論では内的刷新と外的粛清として説明されています。

ただここでは深い理解が必要です。自分が受けている苦難が個人が原因で起きているとは限らないのです。家庭、氏族、民族、国家、世界の蕩減として起こっている場合が多いのです。特に食口の場合はその可能性が大きいのです。

例をあげると世界大戦、韓国動乱などで多くの命が失われました。しかし、この方々は個人の蕩減で命を失ったわけではありません。国家、世界の蕩減を背負われたのです。

<残った二つの謎>

 

愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです

「真の神様」第二章 神様と創造の役事  一 神様の創造の動機は愛 1創造の役事は完全投入

 

神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか

「真の神様」第一章 神様の本体 五 法度の中での全知全能である 2.愛のみが絶対基準である

 

ここで二つの課題についてもう更に明確にしたいと思います。

  •  一つは、あれだけ人間とサタンからひどい仕打ちを受けながら、なぜ恨みの心情を全く持たれなかったのかということです。

  •  もう一つは、人間に対して全く恨のない神様がなぜ人間を打たれるのかということです。

 

① について:

これは天地創造前の創造に秘密があります。


神様は人間を創造される前から愛を与えては忘れ、与えては忘れしてより良い人間の姿を求めて構想的創造を為していかれました。グラフにするとこんな感じです。

創造における完全な心情投入.jpg

最初のうちはどんどん良くなっていきますが、心情を投入していけばいくほどよくなる度合いは小さくなります。神様は絶対なる対象を創造するには構想の次元から絶対である必要があると考えられました。なぜなら対象が絶対であればそこに流れる愛も絶対となるからです。

作品に心情を投入すればするほど愛が大きく流れます。レオナルド・ダ・ヴィンチがモナ・リザを描く時にとても長い時間をかけて心血を注ぎました。このため死ぬまで肌身離さず持っていたといわれています。

 

上のグラフで分かるように、投入して投入して完全にしようとしても良くなる度合いはどんどん小さくなります。簡単には完全には到達できません。それで神様は無限の時間を使って無限の心情投入をされたのです。それを創造しようとする人間一人一人に対してなされました。全能の神様でも愛だけは自由に操れないのです。好きになれと思えば好きになれるわけではないのです。

そこで神様は無限の時間、無限の心情投入されることで、私たち一人一人の人間に対して流れる愛が絶対になるようにもっていかれたのです。こうして神様の人間一人一人に対する絶対信仰、絶対愛、絶対服従が定着したのです。私たちが天心苑で精誠を学んでいるのは神様と父母様が「私」に注がれた精誠を知るためでもあります。

 

天地創造前にこのような絶対、不変、永遠の愛が完全に確立していました。それで人間が堕落してもその愛が少しでも揺らぐことがないです。神様でも愛(情)は思い通りにならないのです。初めから神様の愛が絶対だったわけではありません。愛を絶対に持っていくのが神様の最大の課題だったと思います。これができなければ天国は実現しません。このため天地創造以上に重要なのは、この愛を確立することだったといえます。

このように永遠をかけて愛された基準の上の誕生したアダムとエバが堕落した時の衝撃の大きさは私たちには想像できません。しかし、堕落の子孫となった私たち人間に対して愛が流れなくなるということは一切ありませんでした。神様が私たち人間に対して確立された愛の基準は絶対なのです。それで、人間を滅ぼそうというような思いは一切なかったのです。絶対に復帰するという思いは人間に対する絶対愛から生じました。

 

② について:

神様には人間に対する恨の気持ちは全くありません。絶対なる父母の心情しかないのです。それではなぜ人間を蕩減の道に追い込まれるのでしょうか?

それは神様と人間の関係を本然に戻すためです。

神様は人間を裁かれたり恨んだりすることは一切ありません。

それによって親子の関係が壊れることはありません。神様が悲しみを抱えながらでも親子の関係を続けることができるかもしれません。

しかし、人間は自分の心をごまかすことができないように創造されています。神様が完全に善なる存在として創造されたからです。人間から見ても神様が悲しく苦しいままでは幸せに離れないのです。

 

神様は人間からいかなる仕打ちを受けても人間に対する愛は永遠、不変、絶対です。恨は皆無です。人間が本然の神様の子だという心情を復帰するためには神様を悲しみのどん底に落としたことを蕩減する必要があります。原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は神様にとって恨ではなく悲しみの原因です。悲惨な姿を見なければならなくなった神様の悲しみであり苦しみです。

私たちが蕩減すべきは神様の恨ではなく、父母なる神様を悲しみのどん底に陥れたことです。それでも神様はすべてを赦されています。人間一人一人の真の父母である神様に赦せないことなどないのです。しかし人間の本心は神様を悲しみの神から解放しなければ堂々と神様の子女だとは思えないのです。それをよくご存じの神様は、父母としての苦痛に耐えながら私たちを蕩減の道に追い立てられるのです。

<舌が戻らなくなるほど泣かれる神様>

 

御父母様の路程は拷問、迫害、中傷罵倒、霊肉の十字架に埋め尽くされています。御父母様がそのような道を行くようにされたのは神様です。御父母様を苦難の環境に追いやったのは神様です。すべては神様の通過されたのと同じ道の再現なのです。これは御父母様が神様の悲しみを解放できるか否かの絶頂なのです。神様の悲しみの痕跡が少しでも残れば本然の親子関係にはなれません。

 

ですから御父母様は「私は死にそうです、神様、助けてください」と言うことはできなかったのです。神様と同じ道を行って神様の悲しみの心情に共鳴することができなければ真の親子にはなれません。もし、神様助けてくださいと祈祷をすれば神様の悲しみは完全には消えないのです。

​神様の悲しみの深さをよく知っておられた御父母様は、苦痛の絶頂で神様を慰められました。

 

先生がどんな方かと、神様に祈祷してみてください。痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。そのような事情をもって暮らす先生だということを知らなければなりません。 「真の神様」第四章 真のお父様の見た神様 六 神様の解怨と孝子の道2.神様の解放のための生涯

 

神様は愛してやまない子女である人間を本然の姿に戻すために苦痛の世界に追い込まなければなりませんでした。それは苦痛の愛です。

このために神様は涙を隠して真の父母様を悲惨の地獄に落とされました。真の父母様は、それを神様がなされたことだとよくご存じでした。それが極上の愛の御業だと知っておられました。しかしその環境は御父母様でも極限状態でした。その状況で神様が通過してこられた心情を感じられました。そして神様を慰めていかれたのです。

 

御父母様は、愛する者を打つという最もしたくないことをされた神様の心情が分かったのです。そのうえで神様を慰められたのです。

それを見た神様はどう思われるでしょうか。

痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。

御父母様を打ったのは神様だからです。神様に恨があるとするなら愛する者を打つという道を行かざるを得なかったことです。

神様の隠しておられた苦痛の理由を知ったうえで、父母様を打たれる神様を慰められたのです。神様は痛哭されるしかないのです。

打った神様の苦痛を知ったうえで打った神様を慰めた人は誰もいませんでした。それで舌が戻らないほど痛哭されるのです。こうして神様の苦痛と悲しみが解放されたのです。

 

これこそ私たちが蕩減路程の最後に行くべき道です。

私たちが病気、事故、災害、迫害、中傷罵倒、殉教などの悲惨な道に行く時、それをなしておられるのは神様です。その時にそうせざるを得ない苦痛の愛の神様の姿を感じ、それを極上の愛と感じて神様を慰めるなら、神様は痛哭されるのです。舌が戻らないほど痛哭されるのです。

その時が本然の親子関係になる瞬間です。

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