
天心苑―良心基準で天の父母様に祈る聖地
天心苑特別徹夜精誠で祈るようになって余りにも多くの内容が与えられているため、少しまとまりに欠けているかと思いますが、とても重要な内容が多いのでご容赦ください。
私が普段から考えている内容もありますが、私が初めて知ったかなりレベルの高い内容が含まれます。私がその高い基準にあるからではあ りません。天が私たちに伝えたいので私に教えてくださったのだと思います。
<サタンの愛によって生まれ、サタンの愛に生き、地獄に行く悲惨な人生>
人間は誰しもサタンの愛の血統を受け、サタンの愛によって生まれました。このため、私の愛、堕落世界の愛はサタンの愛になっています。堕落性本性はサタンの愛が現象化した時に表面化するサタンの性質です。
サタンの愛を一言で言えば、
条件付きの愛です。
そして自己中心の愛です。
それは人間にとって命の次に大事だとされている経済世界を見れば良く分かります。
何でもお金と交換です。お金があればほとんどの物が手に入りますが、お金がなければ何も手に入りません。そしていかにお金を稼いで自分の生活を豊かにするかに人生を費やしています。この世界ではそれは常識になっています。(詳しくは「歴史をひっくり返す経済の大変革を起こす時が来ました」をお読みください。)
お金と交換でなければ何も手に入らないということは、無償で与える人は誰もいないし、無償でもらえるものは何もないということを意味しています。経済社会はサタンの愛である条件付きの愛が現象化したものです。とても分かりやすい堕落世界の制度です。しかし、これが常識化しているので、おかしい、異常だと思う人はわずかです。
貨幣経済体制のように、私たちはその世界で生まれ育っているので、サタンの愛である条件付きの愛の世界の異常さに気付きません。
今年もノーベル経済学賞の受賞者が発表されました。男女の経済格差がテーマですが、論点が表面的であり、条件付きの愛の観点とは関係がありません。このような表面的な捉え方は経済のみならず、あらゆる分野に及びます。経済のみならず、あらゆるものが何かを差し出さなければ得られないので、すべては無償ではないということが何度も何度も刷り込まれ続けます。このため人類はいつまでたってもサタンの愛に生き、不幸な生活から抜け出せません。生きるために働く奴隷のような生活です。そして死んだら地獄にまっしぐらです。
人類は本当に無知に陥っているのです。これは正しい神観、とりわけ神様の愛が分からないからです。
<神様の本当のお姿と本音>
神様とは余りにも違うのです。神様の愛は条件が全く付きません。無条件の愛です。
この部分が私たちも分かっているようで良く分かっていませんでした。
条件付きの愛と自分中心の愛で思考し行動することが習慣化、本性化しています。この影響は私たち食口も我知らず受けています。原理を捉える時もこの観点が入り込んでしまっています。
私自身も原理における神様の愛を根本的に間違って捉えていたことに気付いたのは神様の指示でみ言の解明を始めてから10年たった今年、2023年でした。
私がどうしても統合できてないことがありました。
一方には、天聖経のみ言を中心として神様が恨に満ちた神様であること、サタンは神様の怨讐であり、その子孫である人間も神様の怨讐となったという記述が数多くあります。もう一方には神様の愛は真の愛であり絶対信仰、絶対愛、絶対服従であるという記述があります。この二つの記述は明らかに矛盾します。しかし、この二つが矛盾していることに気付いている人は多くないと思います。
神様が恨と怨恨の神様であるとするなら、愛を与えても期待したものが返ってこない時や裏切られた時は、恨みを持たれる神様だということになります。これは愛を与えて忘れない神様です。これでは無償の愛の神様とは到底言えません。真の愛の神様は愛を与えて忘れる神様です。
お父様が何度も、何度もそう述べておられるので、私はサタンと堕落人間が神様の怨讐であるというみ言を優先して考えていました。
過去の私のホームページの記述もその観点を中心に書いています。(その部分が余りに多いので文章の修正をできずにいることをご容赦ください。)
(その一方において物理現象と意識現象の統一を目指して作ったクオリア論の立場から見ると、神様の愛は人類始祖の堕落時も、罪悪歴史全体においても一貫して不変であり、絶対です。クオリア論はピンとくる人と、何を言っているのか分からないという人に大きく分かれます。理解できると神様の愛が生活の中で当たり前に実感できるのですが、分からなくても徐々に分かるようになりますので気にしないでください。)
このような神様の愛についての解釈の苦悩はキリスト教においても存在します。
聖書を見るとイエス様は放蕩息子の譬えを通して神様の愛が絶対であると示され、また十字架という死の苦しみの絶頂の中でも怨讐を愛しぬかれました。これにより神様の愛の絶対性、不変性を身をもって証されました。
その一方で最後の審判にあるように、不信仰な者は永遠の死の裁きを受けるという記述があります。この二つの内、どちらが正しいのかキリスト教徒で葛藤しない人はいないと思います。
私も神様が恨の神様、怨恨の神様だというみ言と真の愛のお方であるというみ言との間での葛藤がありました。その葛藤がある時ふっと解決しました。それは神様が恨と怨恨の神様だというみ言の深意が分かったからです。分ったと言っていますが、正確には分かるように導かれました。み言の解明においては自分の力ではないことを何度も感じています。
夜の神様、昼の神様のみ言については、2012年、2013年、2014年に神様との対話や指示を受けてからそんなに時間がかからず、すんなり解明できたと思います。
しかし、矛盾する神様の問題の解明には10年以上かかっています。もっと言えば解明できていないことも分かっていませんでした。
み言の解明を開始してしばらくした時だったと思いますが、真理の解明には人間の立場からの視点のみならず、神様の立場からの視点が必要だということに気付かされていました。
神様の立場からという観点でみ言を捉えてみると、この難問が解けだしました。
お父様のみ言には、神様が恨と怨恨の神様だという観点が色濃く出ています。ひたすらこれを強調される理由があるのです。それは人間が犯した罪がいかに酷いものであるかを魂の底に知らしめるためです。人類始祖と堕落人間は、愛の神様ですら怨恨を持たれるほどの罪を犯したことを強調される必要があったのです。これは人間にとって悔い改めが命だからです。深く悔い改めることなしに神様に近づく道がないからです。深い悔い改めを起点として蕩減復帰の道を真剣に歩むことが出来るようにするためなのです。
それでは神様ご自身は人類始祖や堕落人間をどう思っておられるのでしょうか?
堕落や復帰についての神様ご自身の本音についての記述はとても少ないのですが、決定的なみ言が一つ語られています。
愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。
「真の神様」第二章 神様と創造の役事 一 神様の創造の動機は愛 1創造の役事は完全投入
神様には怨讐がないというみ言は、神様が真の愛の父母だというみ言と完全に一致します。
これは人間が堕落してサタンの似姿になろうと、人間を平気で殺す殺人鬼や独裁者であろうと、神様を否定し神様を呪うような者であろうと、祝福を受けて堕落し教会を非難する者であろうと、教会から脱会させることを生業としている者であろうと、今回のように教会の法人格を消滅させようと躍起になっている者であろうと、子供として絶対、不変の愛で愛しておられるということです。このような罪を犯す人間に接しておられる神様は激しい心情蹂躙の苦痛を受けておられますが、罪を犯したとしても子女である人間に対する父母の愛の方が遥かに勝っておられます。これが真実の神様の姿です。これは絶対信仰、絶対愛、絶対服従の神様であり、真の父母様が心から愛し慕われる真の愛の神様です。
<蕩減復帰は何のために、誰のためにあるのか?>
そこでもう一つの疑問が生じます。神様は人間を怨讐だと一切思っておられないのに何故蕩減復帰が必要なのでしょうか?ここに原理の本質、み言の本質、真の愛の本質を知るためのカギが隠れています。
別の言い方をすれば、神様は怨讐ではない子女である人間に、なぜ耐えがたい蕩減の道を歩ませられるのかという問題です。ここに蕩減復帰の本当の意味があります。
蕩減復帰は神様の人間に対する怨恨を解くために行っているのではないということになります。父母なる神様にとって人間がどんなにひどい罪を犯し、神様の心情を蹂躙したとしても怨讐ではありません。人間が、神様の似姿とは全く違う怨讐サタンの似姿となったとしても怨讐ではなく神様の息子、娘です。天の父母様は、真の父母様を愛されるように罪を犯し続ける堕落人間も愛されます。その愛に変わりがないのです。
蕩減復帰の本当の意味は、人間の責任分担の本当の意味とも連動しています。
私たちは人間の完成には責任分担の完遂が必要であることを知っています。この例として講義などでライオンが子ライオンを崖から落とし、そこから這い上がってきたものを後継者とするという話をする場合があると思います。この話はもっともらしく聞こえますが、これは明らかに条件付きの愛をベースとしています。神様が責任分担を全うした者だけを子女と認める神様なら、真の愛の神様ではないからです。
これは愛が条件付きだという堕落世界のこびりついた思考、行動習慣あるいは堕落性本性から出てくる捉え方です。
創造主の子供は生まれながらに創造主の後継者です。
自分の持っているすべてを子女に上げたいのは父母の自然な心情です。ある条件を満たさなければ自分の内的、外的な財産を上げないと思っている父母はいません。そう思っている親がいるとすれば、それは偽物の父母です。子女にあげたくてたまらないのが父母です。
創造主である神様は絶対的な父母なので、人間は堕落したとしても創造主の後継者です。
それでは創造原理には、人間が責任分担を全うすることで創造主の権限を持つようにされたと書いてあるのは何故なのでしょうか?
夜の神様、昼の神様のみ言を解明して初めて分かったのですが、夜の神様は、ご自身の形状として昼の神様を創造し養育されました。そして昼の神様が責任分担を全うされた時に性相である夜の神様が形状である昼の神様と一つになり天の父母様となられました。
同様に天の父母様の形状として創造されたのが人間です。人間が責任分担を全うした暁には性相である天の父母様と一つになって神様になります。神人一体化したこの神様は天地人真の父母という名前です。
重要なことは、人間は単なる被造物として創造されたのではないということです。神様になるべく創造されたのが人間です。人間は完成して神様になるように運命づけられています。
神様として完成するために人間に与えられたのが良心です。人間の良心は被造物としての完成基準を示すのではなく、人間が神様として完成する基準を教えてくれます。
神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。「真の神様」第一章 神様の本体 四 神様は父であられる 1 神様と人間は父子の関係
良心は人間の中心にあってとても強い影響を与えています。神様が認められても、自分の良心がダメだと言えばダメなのです。ある意味、神様に認めていただく以上に難しいのが自分の中にある良心に認められることです。真の父母様がお前の罪を赦すと言われたとしても良心が自分の罪を赦さないなら心は解放されないのです。
もうお気づきの方もいると思います。責任分担の可否は、人間自身が神様の子供として相応しいと自分で自分を認めることができるかにかかっています。認めるのは良心です。つまり、良心が納得できる基準に達することができるかが重要なのです。
同様に罪の清算である蕩減復帰も神様と父母様が赦されても、良心が自分を赦さなければ蕩減復帰をなしたとは言えないのです。
人には良心があって、自分が過ったのかよくやったのか分かるのです。「真の父母」 第一章 「真の父母」とは 二 真の起源 1「真」とは(三九・三〇二)
<蕩減復帰は私が堂々たる神様の資格を備えるためある>
蕩減復帰は、もちろん神様の心情を蹂躙したことに対する償いです。また、天法に違反したことに対する償いです。
人類始祖と堕落人間が天法に違反して犯した罪である、原罪、遺伝罪、連帯罪、自犯罪は真の父母様がすべて清算してくださいました。また、神様に対する人間の心情蹂躙で血が流れて止まらない状態になっていた神様の心を完全に癒し、傷のない状態に戻されたのも真の父母様です。
私たち食口、祝福家庭は勝利された真の父母様の勝利圏を相続することがなすべきことです。それは真の父母様を心から愛し慕うことによる一体化によって実現します。
これで全てが終了するかのように見えますが、最後に一番難しい相手がいます。それが自分の良心です。
良心は自分が神様の子女として神様一族の隊列に加わる資格があるのかをチェックする一番厳しい審査官です。蕩減復帰の本質はこの良心の審査に合格するためにあるというのが正解だと思います。
一例をあげますと、私たちは真の父母様の指示で何度も過去の罪を清算する条件として告白文を提出しました。真の父母様は告白文の提出を条件としてすべての罪を赦してくださいました。これで清算されたことは確かなのですが、良心がすっきり納得していなければやはり完全清算とはなりません。神様や御父母様が責任を負って清算してくださっても、自分で自分を赦すことができなければそれは終わっていないことと同じです。
真のお父様の最晩年を死の道にしてしまった責任は私たちにあります。これに異論のある人はいないと思います。その子女の責任を引き受けて清算してくださったのがお母様の侍墓三年路程です。これによって私たちの罪は赦されました。しかし、皆さんの良心はご父母様を十字架に行かせた自分を赦していますか?
赦していないとすれば、自分の心においては終わったことではないのです。私たちは自分の良心が納得する悔い改めや清算条件を立てられていないので、また同じような罪を繰り返してしまうのです。罪の悔い改めの相手は神様だけではありません。自分の良心が納得するまで悔い改めないと清算したことにはならないのです。
<人間は神様として生まれたという真理から創造原理の真の姿が浮かび上がる>
私たちが一番分かっていないのは、人間の本然の姿は神様だということです。
神様は神様であり、人間も神様であるとすると、神様という言葉は消え親子関係だけが残ります。神様という絶対者に対する呼び名は必要なくなります。
神様という呼び方から天の父母様と呼ぶようになったのは、神様と人間は親子関係だという革命的な呼び方なのです。
神様は堕落前も堕落してからも人間を子供としてしか思っておられません。人間は堕落してゴミのような存在になり、父母を神様と呼ぶ存在に落ちたのです。
人間が自分自身を神様だと感じることができるようになるため蕩減復帰があるのであり、責任分担があるのです。
お父様もお母様も完全に本然の位置に立たれたので、ご自分を神様と感じておられます。しかし、私たちがお母様を独生女と思うのにも信仰が必要な段階なのでご自身を独生女と称しておられるのです。お母様は神様が体を着られた神様実体であると証しする時が早く来る必要があります。私たちも同様に神様に着られることで神様実体になるのです。
責任分担は人間が合格か不合格かを判断する関所としてあるわけではありません。
為せば合格、失敗すれば不合格と判定するためにあるのではありません。合格してもしなくても天の父母様の子供であることには変わりはないのです。
僕の僕、僕、養子、庶子という概念は神様の中にはありません。これらはサタンが堕落世界で作った区分けなのです。サタン屈服するにはサタンの作った区分けで順に勝利して上がっていかざるを得なくなったのです。神様の心の中にはどんな酷い悪人でも息子、娘としか見えません。
責任分担は人間が天の父母様の子供だと堂々と感じる事ができるようにするためにあります。神様という言葉はいずれなくなるのです。実の父母を神様と呼ぶのは不自然です。
また、人間同士は完全な兄弟姉妹です。お互いが神様である兄弟姉妹です。
お母様が鈴木エイト氏のことを1000回呼名するように言われるのは何故なのでしょうか?
彼が悔い改めるためでしょうか。悲惨な目に合うように役事が起こるようにするためでしょうか。
人間が堕落したところから元の戻してくれたのはサタンだったのです。サタンを愛で屈服することが神様の子供としての威信と自信を取り戻す道なのです。これを成し遂げられたのが真の父母様です。鈴木エイト氏はそういう意味でとてもありがたい存在なのです。反対弁護士や反対牧師も同様です。マスコミに踊らされて私たちを狂信集団だと思って非難している一般の人々も同じです。
お母様が、鈴木エイト氏のことを1000回呼名祈祷するように言われるのは、私たちがエイト氏のことを本当の兄弟だと思えるまで愛し祈りなさいという意味なのです。
天心苑でエイト氏や紀藤弁護士やマスコミ関係者などの反対勢力を兄弟として愛しぬくことを徹底的にすべきなのです。その後に抗議文や法廷闘争です。
これがお父様のやり方です。北にいかれて幹部に向かって神主義を堂々と述べられましたが、その前の準備が重要だったのです。金日成にお会いになる前にハワイで徹底的に金日成を愛する祈りを捧げられました。
お母様にとってエイト氏や紀藤弁護士や反対勢力も愛する子供です。それが真の父母様なのです。私たちもその姿に似ることを最優先すべきなのです。
私たちが反対勢力の人々のために徹底して愛の祈りを捧げ兄弟姉妹として感じることができる様になれば間違いなく神様の役事が起こるのです。また、そうすることで私たちも自分自身を神様の子供として感じるようになるのです。そう思われませんか?
それが、良心が望んでいることではありませんか?
それもできなくて人類一家族をどうやって実現するのでしょうか?
愛することをしないで、反対勢力をギャフンと言わせたり、自分たちの正しさを世間に訴えたり、法的闘争したりしても心は復活しないのです。
結局、蕩減復帰や責任分担の道は神様や父母様のために歩んでいるのではなく100%自分のためなのです。自分の良心が自分を神様の子として相応しいと認めてくれるためなのです。
そういった意味でも悔い改めは命です。
悔い改めないと神様の息子、娘だという思いが遠ざかります。
心情蹂躙、公金横領、淫乱、真の愛で愛さないこと
これらは自分が神様の息子、娘であるという思いを遠ざけしまう原因です。
良心基準に基づく心からの悔い改めは神様に近づく近道なのです。
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