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神観、罪観の最重要ポイント

神観、罪観において最も重要と思われるポイントがあります。

それは原罪に対して神様がどのように感じておられるかということです。

つまりは堕落人間に対してどのように感じておられるかということです。

罪といった場合、原罪、遺伝的な罪、連帯罪、自犯罪があります。

これらは、罪の根、罪の幹、罪の枝、罪の葉に該当すると講論には書いてあります。この説明を間違えて捉えると四種類の罪は程度の差のように感じてしまうことが起こります。原罪以上に遺伝的な罪、連帯罪、自犯罪を深刻に悩む食口もいます。

特に、原罪と遺伝的な罪はほどんど似ているかのように感じてしまいます。不倫の罪を犯した先祖がいる場合は余計に原罪と同じような罪と考えてしまいがちです。

人間の観点から見るとあまり違わないように感じてしまいますが、神様の視点から見ると天地の差があります。

遺伝的な罪は天使長の血統である先祖の罪が天使長として生まれた私に受け継がれた罪です。堕落人間から堕落人間に伝わった血統罪です。しかし原罪は神様の血統からサタンの血統に転換してしまった罪です。

神様から見た場合、深刻さは天地の差があります。

原罪は神様の子女であった「私」が天使長の血統を受け継ぎ神様の子女から天使長に逆重生したという根源的な罪です。遺伝的な罪、連帯罪、自犯罪は神様の子女である私が犯した罪ではありません。天使長の子女である私が犯した罪なのです。

堕落人間は神様の血統ではないという事実が余りに深刻な事実です。血統が違うというのは関係のない他人ということです。他人ならまだいいのですが、神様の妻を強姦してできた子供が人類だということなのです。ですから他人どころか憎んでも余りある怨讐なのです。

ここで問題となるのは私達の中に、神様は愛のお方だから堕落した人間でもわが子として許し愛されるお方だという間違った認識があることです。神様の愛は怨讐をも愛して余りある人間の想像を超えるとても大きな愛だと考えたい気持ちが私達の中にあります。

もしそうなら神様の復帰の道はもっと楽な道だったことになります。怨讐でも心から受け入れ家族同然の情が自然に出てくるなら苦痛はありません。そこに深刻さはありません。

完全復帰の道を行こうとすれば、汚された血統を清めなければなりません。皆さんの体は、サタンの血を受けました。原理を聞いて観念的に知っているのであって、この体が神様の怨讐であり、人類の怨讐であり、歴史の怨讐であり、天理の逆賊となる、その逆賊の血が入ってきて渦巻いていることを本当に感じているかというのです。

この目は、サタンの目です。口も、手も、足も、体すべてがサタンのものです。それで、キリスト教では、罪を拭いなさいというのです。清めなさいというのです。第二編 真の父母 第三章 真の父母と重生 第一節 重生と復帰の道 8 1974.6.2

事実は、神様は人間に対して愛の情ではなく憎しみの情が湧く対象になってしまったということです。神様の堕落人間に対する自然な情は憎しみ、苦痛、裁きそして憐みの情です。しかし、表に現れる情は愛です。つまり人間を愛しているという姿が神様の表の姿です。この表の姿が人間は好きなのです。

「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」マタイ5:45

こういう神様だからどんな悪人でも神様が好きなのです。神様はこういう愛の神様としての姿を貫き通すことで人間が神様に帰る道を作られたのです。この愛の神を紹介してきたのが宗教です。宗教の天に対する貢献度は計り知れません。

しかし、いかなる宗教も本当の神様の姿を捉えることは出来ませんでした。今までの宗教は神様の言うに言えない苦労が全く分からない幼い心霊基準だったのです。幼子といえば良いイメージですが、事実は無知です。神様の真の姿が見えないので堕落と復帰の心情も分かりませんでした。原罪の深刻さも分かりませんでした。

氷山の上しか見てないようなものです。下に潜んでいる本体が分からなかったのです。その本体が歴史上初めて真の父母様によって明かされたのです。

神様は公平な方です。それで互いに「あなたのもの」、「私のもの」と言ってけんかをするといけないので、男性のものは女性に植え付けて、女性のものは男性に植え付けておいたのです。それで愛は陰険なようで、本当に凄まじいものです。「真の愛」 第二章 五 性愛 1.性は愛の本宮、天の至聖所

アカシアの花に蜂が留まって頭を押し込み、お尻を上に持ち上げて吸っているとき、ピンセットでお尻を引っ張ると、お尻がとれても口を放さないというのです。そのようなことを見れば、どれほどすさまじいでしょうか。体がとれるほど引っ張るほうもひどいですが、その味を知って放すことができないというのは、もっとすさまじいのです。先生はそれを見て、「いやあ!これは私が教えられた。私もこのようにしなければ」と思ったのです。天聖経 第六篇 真の万物 第一章 万物創造とその意味第三節 自然探求と自然の教訓

み言によれば愛というものは本来凄まじいものだというのです。凄まじい分、これが逆になれば恨になるのです。凄まじい恨です。

凄まじい愛が凄まじい恨に転化したのです。愛と怨恨は表裏なのです。

凄まじい愛を裏切ったら凄まじい怨恨を生むのです。平たく言えば、「ものすごく好き」を裏切ったら「ものすごく嫌い」になるのです。神様も同じなのです。

神様に対する裏切りの中で最大のものが、神様の愛と血統を否定してサタンと血縁関係を結んでサタンの愛と血統を選ぶという行為なのです。創造以前から人間に注いでこられた無限の愛と精誠を踏みにじったのです。神様を全否定して怨讐の血統に落ちたのです。

可愛くてたまらない、ずっと抱いていたい、正に目に入れたも痛くない赤ちゃんが毒蛇に変わったのです。蛇、蝮とは見事な比喩です。神様の心情を人間が分かるように表現した比喩です。見たくない、近寄りたくない、気持ち悪い、身の毛がよだつ、石を投げつけたい、抹殺したい対象に変わったのです。

神様のこの切実な心情を私達はもっと赤裸々に分かる必要があります。

神様がこの世を見る時の心情は、蛇が大嫌いの人が蛇を見る時の気持ちと全く同じです。

堕落人間が作り上げた世界は蛇の世界です。神様が堕落人間の作り上げた世界を、見たくない、近寄りたくない、気持ち悪い、身の毛がよだつ、石を投げつけたい、抹殺したい心情を抑えて愛を注いでおられる姿を正視する必要があります。如何に苦痛が多いかを身にしみて分かる必要があります。(「キリスト教の神観と真の父母様により明かされた真の神観」も参考になさってください。)

もし皆さんの心の中にこの世に惹かれる気持ちがあるなら如何に天から遠い自分であるかを認める必要があります。神様と同じ立場には立っていません。この世に惹かれること自体が堕落性の発現です。

蛇の要素を全否定すべきです。

心霊が高くなって来れば来るほどこの世が気持ち悪く感じます。

この世の栄華

この世に惹かれてこの世を愛するのは神様の愛とは関係ありません。この世が神様の怨讐であることを身にしみて感じてからこの世を愛するのが神様の愛の姿です。

真の父母という言葉は、堕落したあとに連結されたものではありません。神様の創造理想は、真の父母を中心として始まりました。ところが、堕落したので血統が変わりました。完全に反対になりました。国も、堕落していない本然の国とは違います。本来は、宗教がありません。宗教であれ国であれ、堕落したあとの堕落の血統を中心とする因縁的関係は、すべて先生と関係ありません。

そのような意味で、神様が、創造前に真の父母という概念を中心として考えたその考えだけが絶対的であり、その考えだけが神様の愛と生命と血統に連結されるようになっているのであって、堕落したあとの皆さんが考える概念や観念、因縁的関係は、堕落する前の真の父母の理想とは何の関係もありません。したがって、きれいに絶ち切ってしまわなければなりません。

第二篇 真の父母 第四章 真の父母と真の子女 第三節 真の父母の真の愛・真の生命・真の血統 1  2005.3.18

神様の心情を体恤する為には重生することが不可欠です。神様の血統を命懸けで求める必要があります。神様の血統は命を懸けるのに余りある価値が有ります。

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